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2022 WINTER

印章に彫られた名前の重さ

印章とは、木、骨、角、水晶、石、金などに文字や文様を彫って文書に押印するために作られた「はんこ(判子)」のことで、朱肉やインクをつけて捺印し、個人や団体を証明する用途で使われる。韓国で印章は誰でも一つくらいは持っている重要な品物だ。印章についてよく知っているという意味の屋号『博印堂』の主人パク・ホヨンさんは、70年余りの間、世界にただ一つの印章を作り続けてきた。

パク・ホヨン(朴浩栄)さんは今朝も、彼の店「博印堂」に出勤する。捺印の代わりにサインが一般化した昨今ではあるが、彼は依然として世の中に一つだけの印章作りに精魂を傾けている。

パク・ホヨン(朴浩栄)さんは毎朝、店に出勤する。84歳になったが、一年365日、休みの日はない。お客との約束を守らなければならないからだ。自宅から店まで地下鉄で1時間以上かかる。ソウル特別市鐘路区清渓川路にある古いビルの
3階に、広さ8坪ほどの『博印堂』はある。店内の入り口と壁面には、彼がこれまでの人生で受賞した数々の表彰状で埋め尽くされている。営業時間は午前10時から午後8時までだが、留守にする場合もしばしばある。
「年をとって病院に行く時間が増えました。午後3時ごろに昼ごはんを食べに出ることもあります」。
ビルの外に看板はかかっておらず、運が悪ければ主人に会えないこともある。それでも店が続いているのは、ここを訪れる客の大部分が古くからの馴染み客か、あるいは古くからの顧客の紹介で来る人々だからだ。


印章の存在理由
印章の歴史は人類の歴史とともに歩んできた。古い記録は紀元前5000年ごろ、メソポタミアで使われていたと推定される印章は、石材で作られ粘土板に捺印されていたとある。韓国の檀君神話(最初の国家である古朝鮮の建国神話)には「天符印」というものが登場する。「天帝桓印は息子の桓雄に、天下を収め人間の世の中を救済させようともくろみ、天符印三個を授けて降臨させた」という記録が高麗時代の高僧一然が書いた『三国遺事』に出てくる。「天符印」が何かについては諸説あるが、印章の印の字があることからして、桓雄が桓印天帝(天の神)の息子だということを証明する印でありシンボルだと推測される。印章の存在理由も同様だ。
かつて印章は韓国人にとって必要不可欠な品物だった。印章なしには各種契約書、文書を作成することができず、銀行の取引もできなかった。71年前、1.4後退(朝鮮戦争が起き、1951年1月4日に中共軍の攻撃により韓国政府が首都ソウルから撤退した事件)により故郷を離れて南に下った避難民たちにとっても印章は必需品だった。

避難後、生きていくために習った仕事
当時、パクさんは咸鏡南道興南市(北朝鮮)に住んでいた。咸鏡南道新興郡で生まれて父が亡くなった後、興南市にいた従兄の家に家族と共に引越した。1.4後退のときには興南埠頭から船で南に避難し、定着したのが巨済島(韓国の南海にある島で今は陸地と橋でつながっている)だった。パクさんはノコギリを研いで道具を作り、切った木に印章を彫って人々に売った。お金のない人からは代価として穀物を受け取った。
「そこで3年暮らしました。最初は一人当たり3合ずつ配給されていた食料がだんだんと減っていき、結局は途切れてしまいました。食べるものがないので仕方なく都市へと出て行きました」。
釜山のバラック集落に住居地を移して6カ月が過ぎたころ、興南市で一緒に暮らしていた従兄から連絡が来た。「俺の後輩がソウルの新堂洞で印章業をしているから、そこで働いてみてはどうだろう」という話だった。それを契機に16歳のパクさんは荷物をまとめてソウルにやってきた。
「その店で10年間働きました。秋史体研究会の会員だったキム・トゥチル(金斗七)先生に教えてもらいました。先生が書いた文字を彫る作業をしたのですが、昼間に仕事をもらってくるので主に夜作業をしていました。そうしながら夜間高校に通いました。忙しいときには2時間しか眠れない日もありました。給金は彫る文字数に合わせてもらっていました。24時間の間に1000文字を彫ったこともありました」

印章を彫っているときは集中しすぎて、お客が来ても気づかないほどだ。小さな印面に文字を彫るせいで視力が低下するという職業病を患っているが、彼はこの仕事を辞めたらむしろ大病にかかるかもしれないと屈託のない笑顔を見せた。

集中力と努力の時間
左書(右と左が入れ替わった文字)、篆書(てんしょ:古代の漢字の書体で、中国の周の時代の大篆書と秦の時代の小篆書の二種類がある)、隷書(れいしょ:秦の時代に作られ漢の時代に完成した書体)、草書(中国の漢の時代に実用を目的に作られた書体)など、漢字の書体と書道もその頃に勉強した。幼いころ千字文(漢文学習の入門書として広く使われている中国の本)を学んでいたのが役に立った。独立したのは26歳、ソウルの乙支路5街にある印刷所の片隅に机一つを置いて客の注文を受けた。その後、あちこちを転々とし、今の場所に店を構えたのは11年前だった。
印章を彫るのに必要なものは集中力と努力だとパクさんは言う。
「今では手彫りで一つ一つ作っているはんこ屋はほとんどありません。大変な仕事のわりには儲けが少ないからです。習おうという人もいません。書体を知らなければならず、書道も身につけなければならないので、若い時分から勉強しないとできない仕事です」。
コインよりも小さい印面(文字を彫る部分)に、最大24字まで彫ることもある。それで「黄斑変性」という職業病も患っている。黄斑というのは網膜の中心部にある神経組織で、視細胞の大部分がここにあり物体の像が結ばれるところだ。黄斑変性は黄斑部の後天的な退行により変性が起き視力障害を引き起こす疾患で失明を招くこともある病気だ。文字や直線が歪んで見え、文字を読むときにある部分が見えない場合もある。
「左目は大丈夫ですが、右目が問題です。もう20年ほどになります。手術でも治療方がありません。ですから作業の最中にたびたび手を休めなくてはなりません。今は一日に一個ほど作っています」

70年間印章を作ってきたが、一つも同じものはない。2001年の水害の際に彼が作った印鑑を押した顧客名簿をすべて無くしてしまったが、その後再び整理をはじめすでに4700個に達する。

世界に一つだけのもの
印章が必需品という時代ではない。1990年代にコンピュータープログラムと機械が普及してから急速に安価で作れる三文判が普及しただけでなく、サインでの取引が一般化し、印章がなくても不便なことはなくなった。しかし、パクさんは「世界にただ一つの印章」を作ることを辞める気はない。
「一度彫ったら一生使うのが印章です。私が作る印章は偽造が不可能です」。
顧客との打ち合わせの時間は重要だ。まず印章の材料を決める。固い木製から高価な春川玉(江原道春川でとれる玉石)に至るまで多種多様な材料の中から選んだあと、名前の画数を計算して何文字彫るかを決める。韓国人の名前は姓を含めてだいたい三文字だが、漢字名の総画数によって吉凶が変わるという姓名学の数理論を適用して、名前の後に幸運や良運をもたらす文字を付け加える場合もある。続いて名前に合った書体を決め、まず筆で印面に書く。その後、高度の集中力を必要とする篆刻作業を始める。
「少しでもずれたら最初からやり直しです。集中しているとあっという間に時間が過ぎていきます。目のためには、こまめに休むべきですが」。
パクさんは4700人の名前と連絡先、印影(紙に残る朱肉の跡)などが記録された顧客名簿を持っている。2001年に清渓川が氾濫し、当時半地下にあった店が浸水し被害にあったのをきっかけに、その後コンピュータで名簿を整理しはじめた。60歳をとうに超えてはいたが、コンピュータを購入して独学で学び、今では名簿の整理はもちろんフォトショップまでできるようになった。
「いつも印章を持ち歩いていますか」とたずねると、彼はポケットから二つの印章を取り出して見せた。手作りの印章袋は、若いころに妻が作ってくれたものだ。
「妻からは、もうやるだけやったんだから休んだらと言われます。でも私は嫌ですね。この年で働いている人は私の周りには一人もいません。仕事がないと食べて寝る以外やることもありません。頭も体も衰えてしまいます。私はそうならないように、仕事を辞められないんです」。
今後の望みをたずねるとパクさんはかすかに笑うとかぶりを振った。
「望み? ありませんよ。人生の晩年に何の望みがあるんですか。死ぬときまで健康で生きていたいだけです」。
「人は死んで名を残す」という言葉がある。一人の人間の名前の中にはその人の行ってきたこと、その人が歩んできた道、その人がまいた種と刈り取ったすべてのものが詰っている。パク・ホヨンさんがこれまで刻んだ名前、この先刻まれる名前の重さは決して軽いものではない。長い歳月が流れた後にも彼が作った印章は「世界に一つだけの」一人の人生を証明してくれることだろう。

コンピュータプログラムを使えば数分で印章が作れる時代だが、彼は依然として顧客の幸福を願いながら文字を一つ一つ、彼の汗の染み込んだ彫刻刀で彫っていく。そんな仕事はどんな機械にも取って代わることはできない。

ファン・ギョンシン黄景信、作家
ハン・ジョンヒョン 韓鼎鉉、写真家

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