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脱北者たちの韓方医

Tales of Two Koreas 2021 SUMMER 116

脱北者たちの韓方医 脱北者たちの韓方医 脱北者初の韓方医師、ソク・ヨンファン(石英煥)院長の「永登浦100年韓医院」は、北朝鮮の伝統鍼術を用いた治療法で知られている。脱北者と中国朝鮮族が彼の北朝鮮式治療の恩恵を受けている。 「 永登浦100年韓医院」の ソㇰ・ヨンファン(石英煥)院長は、脱北から4 年でソウルに韓方医院を開いた。以降20年間、北朝鮮と韓国の韓方医学を融合した方法て患者を治療し、一方で経済的に困難な脱北者の支援もしている。 「永登浦100年韓医院」の雰囲気は他の韓方医院とはちょっと違う。室内の配置は似ているが、患者たちが打たれている鍼が実に太い。細くて長い鍼だけ見てきた人なら怖気づいてしまいそうなほどだ。ここは鍼治療が独特で、北朝鮮の伝統的な鍼術である「テチム(大鍼)」「プルチム(火鍼)」で有名だ。直径0.5㎝ほどの黄金の鍼もある。平壌の高位幹部たちがよく 打っている治療法だという。ソウル文來洞(ムンレドン)にあるこの韓方医院のソク・ヨンファン(55歳)院長は、韓国と北朝鮮両方の韓方医師免許を所持している医師第1号だ。診療室の机の上に並ぶ北朝鮮の医学書『高麗医学』が物語っているようにソク院長の治療は高麗医学、つまり北朝鮮式の韓方療法に基づいている。患者の大部分はソウル市民だが、噂を聞いて尋ねてくる脱北者や中国系朝鮮族も多い。朝鮮族の人々は食事や生活習慣が北朝鮮の人々と似ている部分が多いので、ここの薬と治療法が体質によく合うという。 100年韓方医院が光化門付近にあった当時は、韓国政府の高位官僚などもよく訪れていた。しかし、天井知らずに高騰する賃貸料に耐え切れず、2017年に「光化門100年韓医院」を文來洞に移転し「永登浦100年韓医院」に名前を変えた。院内の広さは以前よりも2倍近く広くなり661㎡(200坪)になった。 もう一つのチャレンジ ソク院長の故郷は北朝鮮の内陸部に位置する両江道甲山だ。彼は199 8 年10月に現在の妻である恋人と一緒に休戦ラインを越えて韓国にやって来た。その後結婚して、現在は大学でコンピュータ工学を専攻する長男、高校生の次男、中学の長女の3人の子供たちがいる。北朝鮮に残してきた両親と兄弟3人をはじめとする家族の消息はつかめなくなってだいぶ経つ。「煙のように消え去りました。忽然と蒸発してしまったそうです」。彼は言葉少なめににそう語った。 脱北当時、ソク院長は現役の軍医官の身分だった。韓国の大尉クラスにあたる北朝鮮軍88号病院の応急室診療部長の職責を負っていた。金日成総合大学所属の平壌医学大学東医学部を卒業し「高麗医師」の資格をもつ彼は、北朝鮮基礎医学研究所で研究員として働いたこともあった。基礎医学研究所はいわゆる「万寿無窮研究所」と呼ばれている。父が護衛司令部(韓国では大統領府警護室に該当)高級軍官だったのでその恩恵を受けたと言う。 彼が北朝鮮の現実に絶望を感じるようになったのは、1994年金日成主席死亡後に地方の軍部隊病院に出張した際、栄養失調で苦しむ軍人たちを見てからのことだった。さらに、外国での派遣勤務を終えて帰国した同僚の医師たちの話を聞きながら、韓国に行かなくてはという思いが頭から離れなくなった。そんなところに今の妻と出会い、一緒に脱北を決心した。第3国を経由せずに、脱北経路に休戦ラインを選択したのは軍将校の身分を活用するためだった。そうだとしても一人ではなく、恋人と一緒の脱北だったので大きな冒険だった。汽車に乗れば検問を受けなくてはならなかったので、通り過ぎるトラックに乗せてもらうなど、数々の手段を講じて平壌からソウルまで2泊3日かかった。 彼は韓国に定着して3年で韓方医師国家資格試験に合格し医師免許を得た。南北両方で韓方医師の資格を得た最初の医師という記録を持ち立てるのは、簡単なことではなかった。当時、脱北者には医師資格基準がなかった。1999年大韓韓医師学会の専門家たちのテストと意見の収斂過程を経て、教育部と保健福祉部から国家試験の受験資格を得た。教会で出会った教授たちから推薦された大学教材と、韓医師国家試験の受験テキストを買って、近くの図書館で深夜まで勉強を続けた。難しい漢字でいっぱいの韓国の韓医師教材を読むのは大変だった。北朝鮮では基礎漢字程度を習っただけだったからだ。1カ月ほど図書館で玉篇(漢字辞典)を相手に奮闘し、ようやく漢字が少しずつ目に入って来るようになった。韓医師資格を取った後、慶熙大学校韓医大学院で修士の学位を得た。 2002年にようやく「光化門100年韓医院」を開き、新たな人生を歩み出した。その後19年間、彼は経済的に苦しい脱北者の患者からは診療費を受け取らずにいる。「具合が悪いと話しても、北朝鮮とは言葉が違うので病院でよく分かってもらえないことが多いと聞きます。私は通じるので患者さんも心配せずに話を聞いてもらえる、と言ってやってきます。私は彼等よりも先にソウルに来て、彼らと同じ問題をすでに経験していますからね。彼らの気持ちは誰よりもよく分かっているので、知らないふりをすることはできません」。 100年韓医院は脱北者の間では「脱北者病院」で通っている。具合が悪くなってたずねて行けば財布を心配せずに診療を受けることができ、また何か問題を抱えていればソク院長からアドバイスを得られるからだ。「南北の韓方医学の最も大きな違いは鍼療法です。北朝鮮の鍼は非常に大きいものです。それでも打った後はすっきりするので、脱北者が乞い願うものの一つでもありますね」 ソㇰ院長は苦労してソウルに定着し、苦学の末に資格証を取り韓方医院を開業した。その過程で韓国社会から受けた支援に報いるために、無料診療などのボランティアを続けている。2004年から毎週続けているボランティア活動は、新型コロナの感染拡大により、いましばらく休止している。 彼が創立し理事長を務める『ハナサラン協会』は現在、韓国と北朝鮮出身の医師・看護師など医療ボランティア40人余りが参加している。 北朝鮮の韓医学に対するプライド ソク院長は平壌基礎医学研究所で心臓・血管系研究員として勤務した経験を生かし、金日成・金正日父子が服用したとして知られている柔心丸、太古丸を直接作ったこともある。この二つの薬はそれぞれストレス疾患と老化防止に効能があるという。 彼は高麗医学に対するプライドも高い。「高麗医師は韓方医学と西洋医学を両方勉強します。西洋医学の外科手術の執刀まで習います。北朝鮮では通常、韓方と西洋医学の両方の検査を一緒に行い、診断を下します。診脈と西洋医学の基本検査をすべて行い、その検査結果をもとに診断を下して、治療は主に韓方で行います。私が高麗医学部を卒業した当時、30人の私の学年の中から一人二人ほどが西洋医学の病院で医師として働いています。教育期間は6年6 カ月で、6カ月間は臨床実習です。韓国でいうインターン過程だと言えます」。韓国のように西洋医学と韓方医学を厳格に分離はしていないということだ。 彼はまたもう一つの違いにも注目する。「北朝鮮ではハングルで高麗医学を勉強します。韓国の韓方医学の教材はほとんど漢文でできており難しかったです。北朝鮮では客観式問題を解くこともありません。北朝鮮の試験はすべて主観式で、答案紙を作成した後には言葉で説明しなくてはなりません」。 그しかし、南北の韓方医学は朝鮮時代の医官ホ・ジュン(許浚、1539~1615)が編纂した『東醫寶鑑』(1610)にルーツがあるという点では同じだ。南北が分断されて以降、発展様相が違っていただけだ。北朝鮮は治療医学が発達した。朝鮮末期の韓方医イ・ジェマ(李済馬、1837~1900)の四象医学をもとに体質を分類し治療する。慢性疾患は韓方治療の対象とする。体質を改善することで免疫が形成され、病と闘うことができるからだ。「北朝鮮は韓方薬の処方がよくできていると思います。治療中心の薬の処方が具体的な体質に合わせて配分がうまくいっています。臨床試験を通じて客観化・規格化ができており、効能も比較的良いほうです。また鍼術も優れています。韓国では刺激を少なくするために細くて小さい鍼を使いますが、北朝鮮の鍼は非常に太いものです。太い鍼がもっと痛いように思いますがそうではありません」。 彼はまた「患者の治療に重要なのはまず第一に本人の精神力で、その次はどんな医師からどんな薬と治療法を処方されたかによって違ってきます」と付け加えた。 さらに「南北双方の韓方医学が同じルーツから出てきており、北朝鮮に優秀な薬材が多く南北で協力研究することが望ましいが、現在はあらゆる環境が整っておらず、希望的ではないので残念だ」とソク院長は語った。 北朝鮮の伝統韓方医学書『高麗医学』。その情報が網羅された『生命を生かす北朝鮮の民間療法』 ソク院長は北朝鮮の韓方医学をきちんと伝えるために、数冊もの本を執筆した。金日成主席が普段行っていた自然療法を具体的に紹介した『金日成長寿健康法』もその中の一冊だ。 ボランティアで恩返し ソク院長は仕事の合間に『生命を生かす北朝鮮の民間療法』(2003)、『登山もし、山参も摘み』(2003)、『金日成の長寿健康法』(2004)、『北朝鮮の医療実態』(2006) など4冊の本も出版した。『金日成の長寿健康法』は日本語にも翻訳され、日本で出版された。今後は遅ればせながら博士号までとる計画だ。 彼が外部の医療奉仕を続けて、もう17年になる。韓方医院を開いて2年目の2004年に、もう一人の脱北者の韓方医師と共に、高齢者を無料診療するボランティアを始めた。「韓国に定着する過程で韓国民の税金をもらい、韓国社会から多くの配慮を受けました。恩返しをするのは当然のことです。それに奉仕活動をしながら私自身にも慰めになります。この上なく気分が良くなるのです」。 「脱北医療人連合会」という名前でスタートしたボランティア組織は、2015年に『社団法人ハナサラン協会』に拡大改編されたが、ソク院長はその間ずっと理事長を務めている。その間にも脱北医療従事者数が増え、主旨に共感する人々も参加したことでボランティアもスポンサーも増えた。韓方医師、理学療法士など医療関係者30人を含めて合計130余人の会員がボランティアに参加している。 どんなことでも1号の重みは特別だ。ソク院長もまた1号の重責を生涯背負い続けなければならないようだ。 キム・ハクスン金学淳、ジャーナリスト、高麗大学校メディア学部招聘教授 ハン・サンム 韓尙武、写真

文化芸術が息づく西村の時間の中へ

On the Road 2021 SUMMER 98

文化芸術が息づく西村の時間の中へ 文化芸術が息づく西村の時間の中へ 昔、王が散策した山水画の中の町、日本統治の暗黒時代に、ほっそりとしたある詩人が身をすくめて抵抗詩をしたためていた町、古都ソウルのビルの林と韓屋が美しく調和をなす町、西村へと向かった。 「西村」は、景福宮(キョンボックン)の西側にあり、ソウルの旧都の境界だった仁王山の麓にある村々を指す別称である。仁王山の北西の方へ少し目を向けると、北岳山の前には景福宮と青瓦台が位置している。ひっそりとした韓屋と調和を成し、それぞれ趣のあるこぢんまりとしたビルが立ち並ぶ西村は、過去と現在が共存する興味深い町である。 西村では古い韓屋がエキゾチックなデザートカフェとして生まれ変わり、朝鮮時代(1392~1910)の水墨画が、21世紀の画家の描くキャンバスへと広がっている。人の温もりに満ちたチェブ市場と通仁市場から水声渓谷へとつながる狭い路地はまるで、実存主義文学の作家、フランツ・カフカの仕事場(No.22)があったチェコの黄金小路の路地のようにこぢんまりとしている。時には、パリのモンマルトル丘の裏通りを歩いているような気分になる。 最近、北村に続いて西村がソウルの名所として浮かび上がっている。ちまちまとした路地に食欲をそそる飲食店、時代を先取りしたカフェ、そして何よりも文化芸術を気楽に体験できるからである。仁王山にはコロナ禍の中で一人登山に興味を持った人々が訪れ、眼前に広がるソウルの景観に夢中になったりする。 西村を一望する最も良い方法は、昔のソウルの鎮山(国・首都・各町村の背後に位置する大きな山)の一つである仁王山(インワンサン)に登ることである。仁王山の東の麓から景福宮の西の塀までの区間を通称する西村は、朝鮮時代から近現代に至るまでの歴史をそのまま秘めた町である。 玉仁洞に位置する水声渓谷は、木陰と爽やかなせせらぎで、昔から多くの文人や芸術家から愛されてきた場所である。 漢陽都城は14世紀朝鮮建国直後に王都の境界を示し、外敵の侵入を防御するために築造された城である。平均高さ約5~8 m、全長約18.6kmに達し、西側の壁が仁王山を横切り、西村を囲んでいる。 昔の人々の足跡 2013年9月に設立された「パク・ノス美術館」には、ここで40年間余り居住していたパク・ノス画伯の寄贈作品やコレクションなど、1000点余りの芸術品が所蔵・展示されている。 1941年当時、延禧専門学校の学生だった尹東柱(ユン・ドンジュ)は、自分が尊敬していた小説家 ・金松(キム・ソン、1909~1988)の家で下宿生活をしながら詩を書いた。ここで『星を数える夜』をはじめとする代表作が誕生したのだが、現在、当時の家は残っていない。 高所から西村の町並みや路地の風景をペンで描く画家、キム・ミギョン。彼女は20年間の記者生活後、2005年にニューヨークへ渡ったが、2012年に西村に戻り、居場所を見つけ、「屋上画家」として知られている。 朝鮮王朝の王宮・景福宮と隣接する西村は、太宗の三男である忠寧大君、つまり世宗大王(1397~1450)をはじめとする多くの王子たちが生まれ育った町でもあった。言い換えれば、ここは数多くのエピソードを作り出した「王室の群落」だったのである。西村を背景に描かれた山水画『夢遊桃源圖』(1447)は、世宗大王の三男である安平大君(1418~1453)が見た桃源郷の夢を、画家・安堅が描き上げたとされる作品である。この絵の中の玉仁洞水声渓谷は、安平大君だけでなく、世宗の次兄、孝寧大君(1396~1486)も居住していた所である。学問に優れているだけでなく、徳性も備えていた彼は、弟の世宗が王位に就いた後、権力争いから降り、仏教の中興に尽力した人物として崇められている。 またここは朝鮮時代の画家、謙齋 鄭敾(チョン・ソン、1676~1759)が、朝鮮文化の絶頂期にあった真景時代の傑作『仁王霽色圖(1751)』を描いた町でもある。国宝第216号のこの有名な絵は、サムスングループ故李健熙(イ・ゴンヒ、1942~2020)会長の所蔵品だったが、最近国に寄贈され、再び世間の耳目を集めた。 朝鮮中期から、西村には王室の家族よりは「両班」と「常民」の中間の身分に当たる「中人」、すなわち訳官と議官、宦官などの宮殿管理人が多く集まってここに定住していた。現在の社稷洞、玉仁洞、孝子洞など複数の町が位置するこの地域は、士大夫が居住していた北村とは異なり、宮殿の運営になくてはならない技能者たちの居住地だったのだ。そのせいか、北村の伝統家屋は比較的規模が大きく雄大なのに比べ、西村の韓屋はこぢんまりとして素朴である。西村に毛細血管のような細い路地が多いのもそのためである。 朝鮮の没落に続き、日本の朝鮮統治(1910~1945)に至ると、この町には若い芸術家が集まってきた。その代表的な人物が詩人のユン・ドンジュ(尹東柱、1917~ 1945)、イ・サン(李箱、1910~1937)、盧天命(ノ・チョンミョン、1911~1957)と小説家のヨム・サンソプ (廉想涉、1897~1963)である。また、画家のク・ボンウン(具本雄、1906~1953)、イ・ジュンソプ(李仲燮、1916~1956)、チョン・ギョンジャ(千鏡子、1924 ~2015)もこの町に住んでいた。当時、皮肉にも西村はイ・ワンヨン(李完用、1858~1926)とユン・トクヨン(尹徳栄、1873~1940)のような大物の親日派人物が所有する豪華な西洋式の屋敷が建てられたところでもある。 時代を超えて人々の共感を呼び、享受される文化芸術は、闇の中で殻を割って生まれ、新たな世界を誕生させる鳥の孵化とも似ている。固い殻に囲まれたまま、生きるためにつつかなければならない雛のように、当時の芸術家たちは熾烈な創作活動を通じて貧しさと絶望の時期から脱するために努力した。彼らの痕跡を探るのが、今回の西村紀行の密かなテーマでもある。 1941年当時、孝子洞近くに住んでいた日本人のために設けられた公設市場が母体となっている通仁市場は、朝鮮戦争後、西村の人口が急激に増加し、現在の市場の形を整えるようになった。 香りを追って 私はまず、青雲洞に位置する「青雲文学図書館」と「尹東柱文学館」のある「詩人の丘」へと向かった。丘の向こうにソウルの都心が扇状に広がり、遠くに南山タワー、漢江の向こう側にはロッテタワーも見える。山の斜面に佇む、精巧に復元された伝統家屋スタイルの青雲文学図書館に比べ、鉄の扉付きのコンクリートの建物である尹東柱文学館は、索漠とした刑務所を連想させる。屋外にカフェガーデンとベンチのあるこの建物は、2013 年、東亜日報と建築専門雑誌『SPACE』が共同で実施した「韓国最高の現代建築」の調査で上位にランク入りしている。 尹東柱文学館の映像室のコンクリート壁には、統治時代に西村に住みながら抵抗詩を書き、日本留学中に抗日運動に参加した罪で収監され、福岡刑務所で獄死した詩人の一代記が繰り広げられている。「武器を手に直接戦うことができず、小部屋に隠れてせいぜい詩なんか書いていて恥ずかしいばかりか、ましてや、詩がこれほどうまく書けるのは恥ずかしいことだ」としたためられている彼の日記が浮かんで、心悲しくなる。 迷路のような路地から抜け出て、夭折した天才詩人「李箱の家」へと足を運んだ。ここは西村文化芸術探訪者たちのコースの出発点としてよく知られている。しかし、李箱が3歳で養子に入って20数年間暮らした家はすでになく家跡だけが残っていて、現在の李箱の家は彼の死後に新しく建てられたものである。ここには彼の自筆の原稿など、主に文学関連資料が展示されている。ここからもう少し水声洞渓谷方向へ上ると、清雅な山水画を好んで描いた韓国画のパク・ノス(朴魯壽、1927~2013)画伯の作品が多数展示されている「朴魯壽美術館」があり、もう少し上がって行くと詩人・尹東柱が大学生の頃に下宿していた家もある。 ようやく西村の終点、水声洞渓谷に辿りついた。そこで一人の女性がマスク姿で絵を描いていた。数年前から「西村の屋上画家」として名の知られている新人画家キム・ミギョン氏だった。新聞記者として20年のキャリアを持つ彼女は、8年前に社を辞め、製図用ペンでキャンバスを刳るかのように西村の家々の屋上の風景を描いている。仁王山をはじめ、韓屋、和風の敵産家屋、共同住宅の屋上へ上がってソウルの歴史が圧縮されている西村の風景をキャンバスに描きとめる。最初は彼女が画家だということを知らなかった住民らが「地図を描いているスパイ」だと通報するハプニングもあったそうだが、今では彼女の絵が西村のいろんな店にかかっている。ふと、彼女がこれから描いていく西村の未来の姿が気になった。 保安旅館で開かれた森と分かち合い・コロナ19写真展示会『街の技術』(2021年4月30 日~5月16日)では、19人の写真作家がパンデミック以降の社会を撮った作品80余点を出展し、観覧客の目を引いた。 1940年代に建てられた保安旅館には、多くの画家や文人が泊まった。2004年までは旅館として運営されていたが、現在は展示や公演などのための複合文化空間へと生まれ変わった。 ユン・ドンジュ(尹東柱)文学館 イ・サンの家 社稷公園 景福宮 迷路の中で過去を振り返る 最後に通義洞ポアン(保安)旅館に立ち寄った。画家・李仲燮や詩人・徐廷柱(1915~2000)などの芸術家が泊まっていたと知られるこ・旅館は、1942年に建てられた建物の原型がそのまま保存されていて、今は美術館として使われている。1936年、詩人の徐廷柱が同僚詩人と共同で創刊した同人雑誌『詩人部落』が誕生したのもここである。古い建物の中に入ると、歴史の足跡があちこちに残っていることが分かった。きしむ木の階段と所狭い展示室が古風な魅力をそのまま秘めていて嬉しかった。 ポアン旅館のチェ・ソンウ代表は画家の夢を抱いてフランスへ留学し、美術経営学を勉強した。帰国後、この旅館を西村の象徴ともいえる複合文化センターへと変貌させた。現在はポアン旅館のすぐ隣に4階建ての建物を建てて、文化ビジネスをさらに拡大しているのだが、チャレンジ精神旺盛な若手の国内芸術家の作品の展示だけでなく、海外プロジェクトも活発に展開している。これからは、毎年開かれるポアン旅館企画展に外国作家も多く招待する計画だという。4階建てのビルの3、4階はゲストハウスであり、レジデンス作家たちの作業スペースでもある。 西村にはそれぞれの時代に応じて様々な階級の人々が住んでいたが、文化芸術だけは時代を超えている。ここには、過去と現在、未来への多種多様な文化芸術が集結し、迷路のような路地を埋め尽くしている。 路地散策の長所は、迷路の中で頻繁に道に迷うことで、見知らぬ道に目覚めるということである。また、思わず行き止まりの道に遭遇し、そこから抜け出ようと自分の足跡を振り返ることもある。私は今回の紀行で幾度となく目を見開き、振り返ることができた。 テオ書店が開店した1950年代当時は、近くの小・中・高校生たちが本を買ったり、売りに来たりで賑わっていた。韓屋の倉庫を改造して始めた本屋が徐々に玄関へと、さらには家の中へと拡大していった。現在は規模を縮小し、店の裏側のスペースでブックカフェを運営している。 「グルメ横丁」で有名な西村のチェブ洞は、昼夜を問わず美食を楽しみに訪れる多様な世代の人々で賑わう。こぢんまりとした店が軒を連ねて、迷路のような路地が続いている。 イ・サンハ 李山河、詩人 アン・ホンボム 安洪範、写真

山が若返る

Image of Korea 2021 SUMMER 98

山が若返る 山が若返る 時に、真夜中に目が覚めた私は暗闇の中に横たわったまま、心の中の山道を登る。家並みが遠くになり、やがて森へとつづく坂道へ。森の中の道で息を整える。左足、右足、光と影が交差する。高まる心拍数、額と背中に汗が流れる。頂上には大きな岩。サーッと吹き抜ける清風に吹かれる解放感と、眼前に広がる眺望を想像する。 © ヤン・スヨル、梁洙烈 およそ4000峰の山々がそびえるこの国では、どこに行っても背後あるいは前方に山が望める。特に、1000万の人口を擁する首都ソウルは南山を抱き、安山、仁旺山、冠岳山、佛嚴山、道峰山、北漢山に屏風のように囲まれている。都心から一時間以内で行ける都会の大自然に、特別な装備もなしに軽装でも日帰りで訪れることができる。山道は安全だ。犯罪や野生の動物の攻撃に遭うこともほとんどない。よく整備され、親切な案内板もある登山路には待避所も整っており、気軽に自然の景観と街の全景を同時に楽しむことができる。 時代の変化とともに登山の風景も変わった。40~60代の中高年層の趣味だった登山にオンラインコミュニティ、趣味のプラットフォームを媒介とした20~30代の若者の登山愛好家が増えている。若者らは登山ファッションでも彼ら特有の強烈な個性を放っている。原色で似通った以前のアウトドアファッションではなく、スタイリッシュなレギンス、山岳ランニングシューズを愛用している。インスタグラムに自分なりの登山スタイルをアップする。中には趣味を共有するプラットフォームを作り、新しい人間関係を築く人もおり、山のゴミ拾いのような「クリーンハイキング」にも積極的に参加している。 特にコロナ禍で海外に出かけられず、閉じこもった生活が続く閉鎖的な環境から抜け出し、暗鬱な青年期の大きな節目を越えようとするミレニアム世代は、その突破口として山や森に出かけていく。今年3月の北漢山国立公園登山客数は67万人、前年同月に比べて41%増加したという。 非対面登山の趣味により、山の風景が若返っている。暗闇の中に横たわる私は、軽装で一人山頂まで登り広大な世界と向き合っている若者らをうらやましく思いながら、若返った山にあいさつを投げかける。そして私も歩く。左足、右足……。 キム・ファヨン 金華榮、文学評論家、大韓民国芸術院会員

芹の普遍性

Essential Ingredients 2021 SUMMER 116

芹の普遍性 芹の普遍性 ミナリ(せり、芹)は独特な香りとシャキシャキとした食感が魅力的な食材だ。最近、韓国系アメリカ人リー・アイザック・チョン監督の自叙伝的映画、『ミナリ』が国際的関心を巻き起こした。タイトルの「ミナリ」は単なる食材としてだけでなく、韓国人の強靭な適応力と生命力の象徴となった。 野山のほとんどの野草は毒性物質を含んでおり、口に含むと苦いものだ。子供が本能的に苦い味を拒むのもそのような毒性の植物から自分の身を守るための本能だ。人類の食文化は食べられる植物と食べられない植物を区分する知識の基盤の上に成長してきた。 芹と毒芹は同じ科の植物だが、ちょっと見た目にはほとんど区別がつかない。茎の中は空洞で、葉の縁にはギザギザがある。しかし、よく見ると芹の葉は、卵を縦に切ったような形であるのに対し、毒芹は細長く先端が尖ったやすりの形をしている。芹は食用だが、毒芹は食べることができない。芹には毒性の物質が含まれていないので生で食べることもできる。独特な香りのある芹は昔から韓国で人気のあった食材だ。実際に1920年代の新聞に芹の市場価格が掲載されているほど、一般的によく食べられていたことがわかる。芹がこのように昔から人気があったのは、他の山菜に比べて香りが強く、それでいて爽やかな味が独特だったこともある。それに空心菜のように茎の中が空洞の根菜なので、さっと湯がいて食べるとシャキシャキとした食感が実に心地よい。 甘味とほどよい苦味があり、春の七草に数えられる優れた食材であるミナリ(せり、芹)は、ビタミンや無機質、繊維質などが豊富だ。17世紀朝鮮時代の医書『東医寶鑑』によれば、せりは喉の渇きを癒し、頭をすっきりさせてくれ、頭痛や吐き気にも効果的だ。 せりの葉の縁には粗い鋸歯があるが、よく見ると葉の形は卵を縦に切ったような姿をしている。 水分を含んだせりの茎は、噛むとサクッとした食感が爽やかだ。せりは大きく畑ミナリと田ミナリに分けられるが、水辺で育つ畑ミナリは茎の中が空洞で田ミナリは比較的詰まっている。 特別な食感 19世紀末、朝鮮時代の調理書『是議全集』に紹介された芹のなます調理法を見てみよう。芹を根と葉に分けて整え、沸騰したお湯にさっと通す。薄焼き卵の千切り、岩茸、赤唐辛子、茹でた牛肉を細く切った具材などの真ん中に松の実を置いて、茹でた芹で巻いていく。これを皿にきれいに盛り付け、チョコチュジャン(唐辛子の酢味噌)を添えて食べる。この料理のポイントとなるのが、他の食材と一体化した芹のシャキシャキとした食感だ。 私たちはなぜシャキシャキとした食感を好むのか。神経文化人類学者のジョン・アレン(John S. Allen)は、著書『味覚の支配』(2012)で三つの理由を挙げている。人間が昔から昆虫をよく食べていた霊長類だというのが最初の理由だ。二つ目は火を使って調理することで食材をよりサクッとした状態にして食べたので、サクッとした食感に対する好感度が高いということ。最後の理由は新鮮な植物はシャキシャキとした食感がするということだ。水分に満ちた細胞壁が膨れあがった野菜は噛むと「サクッ」とした音とともにはじけて汁を出す。反対に長い間保管して水分が抜けてしまった野菜はしなびて、歯ごたえはあるが、張りがない。 水分を含んだ芹は軽く茹でたり、炒めてもシャキシャキ感はそのまま残る。キムチや醤油漬けにしてもその食感は維持される。甘酸っぱい味の有機酸が細胞壁を固くしてくれるからだ。しかし、芹のシャキッとした味をより確実に楽しむ方法は、産地に行き、収穫したばかりの芹を生のままで味わうことだ。 慶尚北道清道郡清道邑ハンチェ村で採れるハンチェセリは全国的に有名だ。この一帯はハンチェリと呼ばれているが、水はけが良い火山灰の土壌だという特色があり芹の栽培に適している。芹は大きく二つに分けられる。ずっと水の中で育ったものは前述したように茎の中が空洞になっている。一方、畑で育ったものは茎の中が比較的詰まっている。ハンチェセリはこの二つを併せ持った方法で栽培されているので茎の中が詰まっている。シャキッとして香りも良い。春に収穫された芹で、焼いた三枚肉を巻いて食べる。サムチュの代わりに芹を使うのだが、生のままの芹に三枚肉、ニンニク、味噌をのせて食べると、芹の爽やかな香りが豚肉の脂っこさを抑えてくれる。鉄板に肉を乗せて焼いた後に、芹を乗せてさっと火を通して食べたりもする。 魅力的な香り 芹の香りはテルペンと呼ばれる揮発性の物質のせいだ。芹を一口含んで噛んだ時に松、樅ノ木、ヒマラヤ杉が鬱蒼と茂る針葉樹の森に足を踏み入れたような感じがするのは、ピネンやミルセンのようなテルペン物質が口の中で振動するからだ。柑橘類の果物、ライムの皮、生姜、ガランガルのような感じを与える香りの成分も含まれている。そのため芹を入れると料理の中の生臭さが消える。芹をメウンタンのような辛い鍋料理に多く使うのもこのような科学的な理由があるのだ。 芹の香りは香ばしい味噌ともよく合う。味噌チゲに芹を入れて食べる人はもともと多いが、1939年4月2日の朝鮮日報には味噌に漬けた芹の料理法が紹介されている。「芹をきれいに洗って一時間ほど熱い湯に浸しておいた後、器に味噌を均等に敷きその上に一列に芹をのせる。その上にまた味噌を敷き芹をのせた後に蓋をする。二日ほど過ぎてから取り出して食べると味が染み込みちょうど食べ頃になっている。味噌が美味しければ美味しいほど、芹も美味しく出来上がる」 植物の中にあるこのような香り成分は、基本的に細菌や昆虫のような外部からの侵入者に対抗するための武器だ。それで芹の香りは水の中よりも畑で育ったものの方がより強い。山で育った芹は野生という意味の接頭語をつけてトㇽミナリ(野芹)と呼ばれたりもする。野芹は畑で栽培する芹よりもさらに香りが強い。厳しい環境の中で生き抜くために抵抗性の香り成分が多く作られるからだ。 芹には香り成分以外にも様々な抗酸化物質が含まれており、抗炎症、抗酸化、肝臓保護効果などについても活発に研究されている。ふぐ料理に芹を入れるのも芹の解毒効果で、ふぐに毒が残っている事態に備えているのだと言われている。しかし実際には芹を入れてもフグ毒を解毒できるわけではない。それよりはよりおいしく食べるためだと理解すべきだ。 薄焼き卵の千切り、炒めた牛肉や岩茸などの細切り、その他いろいろな材料を茹でたセリで巻いていく。これをチョコチュジャン(唐辛子の酢味噌)をつけて食べる「ミナリカンヒ」は、朝鮮時代の宮中料理として王の膳に上がったり、宴会で供された高級料理だ。 肉汁が豊富な豚肉の三枚肉と新鮮で冷たいせりはとてもよくあう食材だ。きれいに洗ったせりを焼いた三枚肉と一緒に食べたり、最初から三枚肉と一緒に焼いて食べたりもする。 香りの強いせりは『東洋のパセリ』と呼ばれ、最近ではパスタの材料としてよく使われている。 みじん切りにしたせりをオリーブ油に浸しておいたせりペーストは、パスタの食材としてはもちろんバジルペーストやほうれん草ペーストのようにパンに付けて食べても美味しい。 強靭な生命力 「ミナリはどこでもよく育つ」リー・アイザック・チョン監督の映画『ミナリ』(2020)で、おばあさんが孫にいうセリフだ。異国の地アーカンソー州に到着した韓国人家族にとって定着は簡単なことではない。新しい土地に根を下ろせるか不安と希望が交差する移民者の人生は芹に似ている。芹はどこにでも生えている強靭な生命力を備えた食材に見える。しかし実は、芹は周辺の脅威に立ち向かい孤軍奮闘して生き抜いている。 芹を食べたことのない人には、芹とそれを食べる人が珍しく見えるだろう。しかし、芹は実に誰にでも親しみやすい野菜だ。ミルポア(仏の料理用語で香味野菜などの意味)やソフリット(伊料理の香味ベース)で使われるニンジンやセロリなども芹の親戚だ。セロリのシャキッとした食感が好きな人なら芹にもすぐに慣れるだろう。バジルの代わりに芹を入れてペーストを作ったり、オイルパスタに芹を刻んで入れて一緒に炒めても非常によく合う。世界各地の食文化を比較してみると、違いよりも共通点が多いことがわかる。映画『ミナリ』の中の移民家族の人生を通して誰もが共感するのも、人が感動を共有したいという普遍性のためだ。 チョン・ジェフン 鄭載勳、薬剤師、フードライター シン・ヘウ申恵雨、イラストレーター

懐古に明かりを灯す片田舎の無人駅

Image of Korea 2021 SPRING 209

懐古に明かりを灯す片田舎の無人駅 Literature 韓国のイメージ 懐古に明かりを灯す片田舎の無人駅 最近、高速鉄道KTXのソウル~安東区間が開通したというニュースがあった。これで安東(アンドン)の北に隣接する故郷、栄州(ヨンジュ)まで1時間40分で行けるようになった。60余年前の寒い冬の日、1955年当時13歳の貧しい田舎の少年だった私は、栄州駅から生まれて初めて一人で汽車に乗った。朝早く乗り込んだ鈍行列車は、見知らぬ数多くの駅を通り過ぎ、あたりが暗くなる頃にようやく終着駅のソウルに到着した。 今やその遥かなる道のりをわずか1時間ちょっとで行けるようになった、何と大きな変化であり発展だろうか。しかし、この新しい交通手段の利便さと安楽さと速度に対する驚きと嬉しさの片隅には、過ぎ去った歳月のスローな人間臭い風景への懐かしさが沈殿している。 © Ahn Hong-beom 少年の最初の汽車旅行は恐ろしさと同時に、物珍しさで胸が躍った。隣の席に座ったおじさんからは「何をしに?  どこへ行くのか?」とたずねられ、中学の入学試験を受けにソウルに行くんだと胸を張って答えたものだ。客車の中は座席も通路も人でいっぱいだった。汽車がトンネル内に入ると客室の中が真っ暗になり、すぐにまた明るくなった。そして機関車が吐き出す黒い煙とその響きが開いた窓から飛び込んできた。 小さな田舎の駅に汽車が停車する。私に茹で卵をくれた前の座席のおばさんは、よだれを垂らして寝込んでいたのにパッと飛び起き、そそくさと荷物をまとめた。汽車から降りたおばさんと一緒に制服姿の幼い少年の後ろ姿が遠くに消えていった無人駅……。風に揺れるコスモスの花がどこまでも続いていた花壇……。そんな片田舎の駅の風景は、私の汽車の旅に欠かせないものだった。 今や高速鉄道KTXは、そんな小さな駅には見向きもせず無心に通り過ぎていくだろう。いや多くの田舎の駅はすでにその機能を失い、だいぶ前に廃駅となって撤去されてしまった。あるいは廃駅となった駅舎をカフェ、スナック、ミニ博物館に改造して、人々が思い出に浸る観光商品になっているかだ。 真夜中に目を覚ました私は、時に幼い少年の自分をそのうら寂しい無人駅の闇の中に座らせてみる。そして過ぎ去った人生を追憶し、無人駅の待合室に明かりを灯して、小説家グァク・ジェグ(郭在九)の詩集『沙平駅で』を口ずさむ。 「……楓のような数枚の車窓をつけて/ 車はま た何処へ流れていくのか / 懐かしい瞬間に呼び覚まされた私は / 頬をつたう一筋の涙を明かりの中に投げ捨てた」 キム・ファヨン 金華栄、文学評論家、大韓民国芸術院会員

People

株式投資に没頭する2030世代

Lifestyle 2021 SUMMER 101

株式投資に没頭する2030世代 CULTURE & ART--> 株式投資に没頭する2030世代 新型コロナウイルスの感染拡大による憂慮と混沌とした時間が、 金融投資をあおる熱風となった。パンデミックの初期段階で証券市場は 軒並み急落し、普段は株式に無関心だった人々までが 大挙して投資に飛びついた。その中心に「2030世代」がいた。 今年大学を卒業する29歳のイム・スビン(林秀賓)さんは、最近アルバイトで稼いだ30万ウォンで株式投資を始めた。アルバイトで小遣いを稼ぎながら職探しをしているが、インターンの求人はあるものの正規職への就職はほとんど不可能に見える。切迫した状況の中で、まずはお金でも稼ごうと株式に目を向けるようになった。昨年12月に予定していた結婚式を今年の9月に延期した33歳のフリーランサー翻訳者キム・アラム(金娥濫)さんも、しばらく前に株式投資に入門した。ソーシャルディスタンスが続き、結婚式に招待する出席者の数が50人以下に制限されたため、家族や友達のことを考慮して、仕方がなく式を延期することになった。新婚旅行に使おうと貯金していた資金を短期間だけ株式に投資することにしたのだ。彼女は「株式市場が好況なので、数十万ウォンでも稼いで新婚生活にあてよう」と期待している。株式投資に手を出す2030世代が急速に増えており、そのような現象を表現する新造語も相次いで生まれている。最も代表的なものが「東学ケミ運動」だ。若い個人投資家たちがこぞって機関投資家や外国人投資家に立ち向かい、急落した韓国の株式を大挙して買いまくっている状況を表しているのだが、1894年に外国勢力に対抗して立ち上がった東学農民運動にひっかけているのだ。ここで言う「ケミ(アリ)」とは、月給をもらって毎日一生懸命に働いている若い会社員を意味している。また「チュリニ」というのも最近新たに登場した言葉だ。「チュシク(株式)」と「オリニ(子供)」の合成語で、株式についてよく分からずに取引を始めた初心者のことを指している。このような現象は数字にもはっきりと表れている。韓国預託決済院が4月1日に発表した「12月決算上場法人の所有者現況」の分析結果によると、2020年末の個人の株式保有額は計662兆ウォンで2019年末の419兆ウォンから243兆ウォン増加した。全体の時価総額に占める個人の比重も前年に比べて3.6%ポイント増加の28%だった。新しく株式投資を始めた個人はおよそ300万人で、全個人投資家914万人の32.8%に達した。 特に昨年株式投資に初めて手を出した300万人のうち53.5%の160万人が30代以下だった。性別では男性の保有金額が489兆ウォンで女性の173兆ウォンよりも多かった。しかし、増加率でみると女性の保有額が前年比77%(97兆ウォン→173兆ウォン)も増えており、男性の増加率52%(321兆ウォン→489兆ウォン) より高かった。若い女性たちも株式投資に目を向け始めていることが分かる。 最近、株式投資に飛び込む2030世代が急激に増えており、様々なモバイル株式アプリケーションが登場している。証券会社は彼ら「ケミ(蟻) 軍団」をターゲットにした顧客確保のために、各種イベントを開いている。 若い個人投資家たち昨年9月、アメリカの経済専門誌ブルームバーグは「韓国のミレニアム世代のデイトレードへの投資現象」というタイトルの記事で、韓国の若者世代の切迫した投資現象を深層分析した。すなわち、前年対比48%増加した個人投資家の取引が、コスピー韓国総合株式指数の時価総額の65%を占めており、その中の過半数が20代から30代の初心者投資家であり、その中の大多数は株式投資のために借金をしているという話だ。それでは韓国の2030世代はなぜ株式市場にオールインしているのか。第一の理由に新型コロナの感染長期化により経済的に苦しい時期が続き、それなら株式市場で収益を得ようという切迫した心情がある。低金利体制が長期化し、若い投資家たちの資金が行き場を失っていた。それがコロナ禍で落ち込んでいた株式市場に資金が集まりはじめると、株価が大幅に値上がりした。これに投資先を見つけられずに困っていた若者層が飛びついたのだ。実際に2020年1月2日、コスピー指数は2175.17を記録した後、同年の3月まで下落を続けていた。ほどなく各国政府が緊急災難支援のための資金を市場に投入し、ワクチン開発のニュースが相次ぎ、経済回復の兆しに対する期待感が膨らんだことで、株式市場は驚くほど活気づいだ。今年1月4日にはコスピー指数が3000ポイントの大台を超え、現在も高止まりを続けている。それとともに「水が上がって来た時に櫓をこぐ(好機逸すべからず)」という心理が若者世代の投資の原動力となっている。このような現象の背景には、低下している青年層の就業率が大きな要因として働いている。コロナ禍でより一層凍り付いてしまった2020年の韓国の雇用市場は、特に若年世代に過酷だった。統計庁の雇用動向資料によれば、2020年12月現在、20代の就業者は351万人で、これは2019年同期に比べ3.9%pも下落している。コロナ禍によりすべての年齢層の雇用率が減少したとはいえ、10代が1.5%p、30代が1.9%p、40代が1.6%p、60代以上が0.1%p減少したのに比べると、20代の減少率は最も高くなっている。雇用率の低下に従い失業率も上昇し、2020年12月の20代の失業率は前年度の同期に比較し0.9%増えている。 必死の努力就職難に追い込まれた若者世代をさらに絶望させたのが急騰する住宅価格だった。政府の相次ぐ住宅対策にも関わらず韓国の人口のほぼ半数が暮らしているソウル圏のアパート価格は、この数年の間に2倍近く急騰した。マイホームの夢が遠のいた若者世代は、自然と結婚にも消極的となった。実際に2020年全国の結婚件数は、関連統計が始まった1970年以来の最低値を記録した。統計庁の「2020年婚姻、離婚統計」によれば、昨年の婚姻件数は21万4000件で2019年よりも10.7%も減少した。 オンライン書店インターパーク によると、今年1月から3月まで 株式投資・ファンド分野の書籍の 販売数と売上額が前年同期と比較 してそれぞれ5倍増加した。 熱風の波及効果テレビに株式をテーマにしたバラエティ番組が登場してきたのも最近の新しいトレンドだ。以前は、主に経済専門チャンネルでだけ見られた株式関連番組が、今では芸能専門チャンネルでも株取引を話題にした場面に接することが多い。その代表的な例が、昨年9月からカカオテレビが放送を開始した番組『ケミは今日もトゥントゥン』だ。人気芸能人のノ・ホンチョルとディンディンが出演するこの番組は、出演者が実際にそれぞれ開設した証券会社の口座に、受け取った出演料を株に投資する過程を見せるというものだ。視聴者の反応はおおむね好意的だ。特に株式を始めたばかりの若者層の共感を呼び、カカオテレビだけではなくネットフリックスを通じても放映を開始しており、毎回平均アクセス数が200万回に達している。地上波放送局のMBCでも今年3月パイロット番組の形で、株式バラエティトークショーの『ケミの夢』を放送した。2部作で編成されたこの番組では経済専門家と芸能人のパネラーが登場し、株式投資の基本知識を詳しく説明した。一方、やはり地上波SBSの長寿番組・人気バラエティ『ランニングマン』でも、今年2月に特集として模擬株式投資大会編を放送した。 「 チュリニ」(チュシキ:株式) +(オリニ:子供)の合成語で「株 式投資素人」の意味)に対し株の情 報を提供する、ユーモアあふれるバ ラエティ番組『ケミは今日もトゥン トゥン』がシーズン4になるほどの 人気を得ている。 「 就業プラットフォームジャブコリア」の調査によると、 大学生10人中3人が株式投資をしているという。彼らの半分は株式投資を始めて1年未満だと答えた。 ラ・イェジン羅禮眞、中央日報Sエコノミスト記者

マイカーで楽しむ旅

Lifestyle 2020 WINTER 173

マイカーで楽しむ旅 高価なキャンピングカーを購入したりレンタカーを借りなくても、マイカーでキャンプを楽しむ「チャバㇰ(車中泊)」が新たなレジャー文化として浮上している。新型コロナウイルスの感染拡大によりその人気が急増している、非対面型の野外活動だ。 忠州湖の湖畔でチャバク(車中泊)をする愛好家ら。チャバクはキャンピングカーではなく乗用車で夜をすごす旅行のことで、最近の新しいレジャー文化として定着している。 © イ・ジョンヒョク(李正赫) 「最初に1列目の椅子をできるだけ前方に押し出してください。その次に2列目の椅子も同じ方向に倒してください」。 あるユーチューバーが自分のSUV車の内部を指しながら話している。30秒もかからずに内部空間を広くした彼は「これで床にマットを敷きます」と言い、「その前に自分が横になれるのか、椅子を倒した後の空間の縦、横の長さを測ってみます」と付け加えた。続いて車の内部の横幅がおよそ1m、縦の長さは1m95㎝だと測定された。 彼は「この程度なら一般の成人男性も楽に横たわることができます」と言い「皆さんがカップルならば仲良く二人でキャンプを楽しむことができます」とほほ笑んだ。去年7月にユーチューブにアップロードされた車中泊の準備過程を扱ったこの動画は、今年10月基準で再生回数が10万回を超えた。 「車中泊」とは、車と宿泊を合わせた新造語で「車に泊まる」という意味だ。旅に出て車で宿泊するなら、厨房施設にベッドもついているキャンピングカーを連想するものだが、車中泊は必須装備だけを整え、普段使っているマイカーで寝るというものだ。よってほとんどが車内空間の広いSUV車を利用しているが、運転席の後ろの椅子を倒して空間を最大限に広げれば、それなりに一晩眠れる空間を得ることができる。最小限の荷物だけで、キャンプのような感覚を楽しむことのできる新しい旅行形態だ。 トランクをフラットにした後、装飾した車中泊用の車両。若者世代の間では車中泊に必要なマットと装飾用の小物を直接作るのが一種のトレンドとなっている。ⓒ パク・ナムジュン 車中泊には、主に車内空間の広いSUV車両が使われるが、一人旅なら折り畳み式シートの一般の乗用車でも可能だ。ⓒ gettyimages 車中泊の最も大きな長所は、やはり場所を選ばずに宿泊できることだ。わざわざキャンプ場や自然休養林にまで出かけなくても、気が向けばどこにでも停めることができるのだ。 新しいレジャー文化 韓国自動車産業協会の報告書によれば、トラックと乗用車の長所を持ち合わせたピックアップトラックの販売台数が、2017年は2万2000台だったのが翌年には4万2000台の90%以上増加した。またキャンピングアウトドア振興院は、同じ期間に国内のアウトドア産業規模が2兆ウォンから2兆6000億ウォンを記録し、30%以上成長したと発表した。 キャンプ用品市場も今年、爆発的な成長を遂げた。オンラインショッピングモールのSSGドットコムは、6~7月の売上高を分析した結果、車のトランクと連結して使うドッキングテント(カーサイドテント)とテントの中に敷くエアーマットの売上げが直前の2か月よりもそれぞれ664%、90%増えた。キャンプの必須アイテムのアイスボックスの売上げは10倍以上増加した。大手スーパーのロッテマートも同じ期間のキャンプ用品の売上げを前年比で分析した結果「椅子やテーブルなどを含めたキャンプ用品は103.7%、寝袋、マットレスなど寝具類は37.6%、テントは55.4%、キャンプ用の炊事用品は75.5%それぞれ増えた」ということだ。 2018年頃から世間で話題になり注目されていた「車中泊」は、テレビ番組で紹介されて人気に火が付いた。今年3月MBCテレビの代表的な芸能番組の『私は一人で暮らす』は、ある人気俳優が自家用車で海辺に行き、アイドル歌手と一緒にキャンプを楽しむ姿を放送した。彼は車の後部座席を全面的に改造し、車の中に電球もつけて夜も温かな雰囲気を演出していた。この放送が流れた後、ポータルサイトのリアルタイム検索に「車中泊」が登場し、SNSでは「車中泊をしてみたい」という反応が爆発的に増加した。インスタグラムのハッシュタグで「車中泊」を検索すると数十万件の記事がヒットした。 新しい魅力 この新しいレジャー文化が急激に成長したのにはいくつかの理由がある。まず面倒な準備なしに出かけたい時にさっと旅に出られるという点だ。金曜日のアフターファイブに出発し、海辺で過ごすこともでき、山林で翌朝にさわやかな空気を吸うこともできる。映像一つで40万件以上のアクセス数の記録をもつ女性ユーチューバーは、一人で余裕を楽しむには「車中泊」が一番だという。特別な装備なしにキャンプを楽しめる点も人気の要因だ。食事を解決するいくつかの冷凍食品と1本のお酒があれば、一晩のキャンプが完成する。 キャンプ場を予約する必要もない。キャンプ人口が増えたことで、有名なキャンプ場の場合、予約しても数か月も待たなければならない。しかし車中泊ならキャンプ場でなくても、車を駐車できるところならばどこでも一晩を過ごせる。新型コロナウイルスの感染拡大の影響だという側面もある。社会的距離を保つために対面接触が制限されているので、一人あるいは家族で、自然の中でコロナブルーから脱却する役割をしているからだ。ポータルサイトネイバーに基盤をおいている国内最大の車中泊コミュニティー「車中泊キャンピングクラブ」だけでも、今年2月末に8万人だった会員数が9月初めには17万人に急増している。 しかし長所だけではない。車内に敷くマットは多少不便だ。車中泊用のマットを使うにしても枕が変わると眠れないような人は、その不便さで不眠の夜になってしまうかもしれない。今年2月28日自動車管理法が改正され、乗用車もキャンピングカーに改造できるようになったが、床を平らにする作業は簡単ではない。また必ず洗顔やシャワーをしなければらならないような人にとっては、爽快な旅とはならないだろう。 健全な文化 車中泊は、夏は暑く冬は寒いという欠点もつきまとう。車内で長時間、エアコンやヒーターをつけておくと危険だからだ。よって電気を作り出すパワーバンク(モバイルバッテリー)とパーキングヒーターなどの装備を揃えないと、暑さや寒さをしのぐことはできない。また車内に入ってくる虫も問題で、その解決のためには車中泊用の蚊帳を準備しなくてはならない。 必要な装備を一つずつ揃えていけばいくほど、さらに高価な品物を求めるようになる。安楽な車中泊を求めて行けば自ずと生じることだ。ある男性ユーチューバーは、彼が車中泊を辞めた理由としてこのような「装備病」のせいだったとしている。車中泊の最も大きな長所は、何といっても場所を選ばずに宿泊できることだ。わざわざキャンプ場や自然休養林にまで行かなくても、気が向けばどこにでも停めることができる。もちろん大多数の車中泊族はトイレのある公園や海辺、川辺を好む。このような勢いにのり「車中泊聖地」として浮上しているところも多いが、野営と炊事から起きる問題点のせいで入場を制限するところも増えている。一度に多くの人々が押し寄せ、自然を破壊し、ゴミを無断投棄するからだ。健全な文化を定着させることができれば、車中泊は新型コロナの時代に合理的で快適な旅をする手段の一つとなるだろう。

瞑想の道、悟りの道

In Love with Korea 2020 WINTER 216

瞑想の道、悟りの道 韓国の仏教が善を重視するという意味で、「曹渓山は」歴史的に大きな意義を持つ。朝鮮半島南西の端、全羅南道順天にあるこの山の東と西に位置する松廣寺(ソングァンサ)と仙巖寺(ソンアムサ)は、比丘僧(男性の出家修行者)と火宅僧(妻帯僧)それぞれの教団を代表する叢林(禅宗寺院)である。この二つの寺院をつなぐ山道には、信者と登山客の足が絶えない。 曹渓山の東側の山裾にある仙巖寺と西の麓に位置する松廣寺をつなぐクルモクジェという峠は、約6.5キロに及ぶ山道で、かつて、二つの寺院の僧侶たちが往来しながら自然に作られたものである。最近は、毎年数十万人の観光客がこの道を訪れている。 クルモクジェの峠道に立っている将軍標。村の守護神としての役割を果たす将軍標は、ほとんどの場合、町の入口に建てられるが、たまに道端に建てられ道しるべの役割をすることもある。 インターネットで「松廣寺」を検索すると、「松廣寺と仙巖寺をつなぐ道」というサジェストキーワードが真っ先に検索候補として表示される。逆に「仙巖寺」を検索すると、「仙巖寺と松廣寺をつなぐ道」という関連キーワードが表示される。インターネットユーザーの入力回数をもとに自動的に表示される「サジェストキーワード」は、あたかもあなたが探そうとしているのは、たった今入力した目的地ではなく、そこへと向かう道筋にあるのだと適切に伝えようとしているかのようだ。季節は秋の真っ盛りの中にある。カーナビをつける。さてどこから行ってみようかな。 慰安 曹渓山の頂上から南の方角を見下ろすと、順天市が誇る順天湾湿地が広がっている。曹渓山が多様な樹種で構成された広葉樹林に覆われるようになったのは、この南海の海辺から吹いてくる高温多湿な風の影響が大きい。この鬱そうとした山中にある二つの寺を東西に結んでいる約6.5㎞に及ぶこの山道が、われわれの今回の目的地である。 大きな山を間に挟んで両側の山裾にほぼ同じ大きさの寺が建てられるのは珍しいことではないが、二つの木造の寺が歴史の波風を耐え抜き、完璧に保存されているケースはかなり珍しい。地図では、東の斜面にある仙巖寺の方が曹渓山の頂上から近く、二つの寺は山腹の道を共有しているように見える。だが実は、この山道を切実に必要としていたのは松廣寺の方だった。南東側の順天市内に行政や交通、市場などの生活圏が形成されている松廣寺入口に住んでいる外松村の住民にとっては、仙巖寺の前を通過するこの山道が順天への近道だからである。もちろん、松廣寺から曹渓山を迂回して順天を往復するバスの便が乏しかった頃の話である。今では、順天駅前と松廣寺をつなぐ111番の市内バスが30分おきに運行している。 曹渓山は、1980年代に道立公園に指定されて以来、せいぜい薬草を採る人か火田民(焼畑農業を行う農民)、あるいは先を急ぐ近隣の山里人が往来していたこの山道が、日帰り登山コースとして口コミで広まり、年に40万人もの人々が訪れるようになった。仙巖寺と松廣寺は、山中でよく見かけるような普通のお寺ではない。いずれも千年に及ぶ長い歴史を有する古刹であるだけでなく、講院と禅院をすべて備えている名の知れた有数の叢林である。松廣寺は韓国を代表する三宝寺院のうち最も高僧を多く輩出した僧宝寺刹で知られている。一方の仙巖寺は韓国の仏教文化を継承して保存してきた文化的価値が認められ、2018年にユネスコ世界文化遺産として登録されている。 それ故か。高僧大徳でなくとも、世俗での縁と煩悩みを振り払い、新たな悟りを求めてこの山道を行き来したであろう修行者たちの足跡を辿る――と考えただけでも登山客のテンションは高まる。いつもながら、足取りが遅くなる登り坂で、影さえ脱ぎ捨てたい衝動に駆られ荒い息をたてる病弱な旅人であれ、道をたずねる人に知ったかぶりをしながら、まるで用事を果たすかのように急ぎ足で進む熟練の山岳会メンバーであれ、山道でしばし道連れになった彼らはそれぞれの事情はさておいて、申し合わせたかのようにこの林道が与える慰安と癒し、そして興奮を伝えあう。道の上に転がる小石一つ、名も知らぬ野の花一輪も、彼らにとっては軽んじることができないものばかりである。しかし、慰安はいつも暫定的だ。 花崗岩で造られた半円形の橋「昇仙橋」を渡ると仙巖寺の境内である。橋の下から見上げると、精巧につながっている丸い天井の真ん中に刻まれた龍頭のレリーフが目を引く。仙巖寺は「韓国の山寺」7カ所のうちの1つで、2018年にユネスコ世界文化遺産として登録されている。 松廣寺にある三淸橋は、仙巖寺の昇仙橋より規模は小さいが、それなりに美しい趣のある橋である。その上に建てられた羽化閣を通り過ぎると寺の中庭に出る。 仙巖寺と松廣寺 は、山中でよく見かけるような普通の山寺ではない。いずれも千年にも及ぶ長い歴史を有する古刹であり、講院(経典教育機関)と禅院(禅修行の専門道場)がすべて備わっている名の知れた有数の叢林である。 仙巖寺の大雄殿の前庭には統一新羅時代に建てられた石塔2基が左右に配置されている。2段重ねの基壇の上に3重の塔身を積み上げた石塔は宝物第395号に指定されている。 松廣寺は、海印寺や通度寺とともに韓国の三寶寺刹の一つであり、16国師を輩出した僧宝寺刹で知られている。 羽化閣の左側に連なる臨景堂は、松廣寺内でも優れた景観を誇る場所の一つで、大きな窓があるため室内でも外の景色が楽しむことができる。 平和 順天駅を起点に、松廣寺を出発して仙巖寺の方に下りていくと帰り道が短縮し、逆に仙巖寺から松廣寺の方へと下りていくと、行きが短縮する代わりに帰り道が遠くなる。効率性だけでは簡単にコースが決められないあなたに、耳寄りな情報を贈ろう。 前日、例えあなたにどんなことがあったにせよ、仙巖寺の方の道を選ぶと、勢いよく流れる渓谷の流れに逆らってまっすぐ伸びた道と、その両側に力強くそびえ立つ檜の森が放つ新鮮な雰囲気に圧倒されるだろう。そしてその後、渓谷を横切る虹模様の石橋「昇仙橋」に目が止まった瞬間、あなたはすでに浄土に立ち入っているのである。春なら、大雄殿の裏の石垣に沿って咲き乱れている色鮮やかな梅の花を見ることもできる。そのほとんどが樹齢400年を超える在来種の梅の木で「仙巖寺古梅」と呼ばれている。季節的に少し手後れだとしても躊躇せずそこへ向かってみよう。梅の代わりに華やかな桜があなたを歓迎してくれるだろう。 寺の一柱門で私たちを迎えてくれたのは、千里まで届くといわれる銀木犀(ギンモクセイ)の花のかぐわしい香りだった。餅をつくうさぎと共に月に住むという、あの伝説に出てくる月の桂がこの木である。庭は小さな白い花びらでいっぱいだった。仙巖寺の秋の挨拶である。私にはやや高くみえる門と池、そして大きくも小さくもない建物が花の木々を避けてびっしり立ち並んでいるのが仙巖寺である 。 松廣寺の三淸橋は、仙巖寺の昇仙橋と肩を並べると知られているが、それでは何か物足りないとでも思ったのか、橋の上に羽化閣という家を建てた。松廣寺の渓谷でしか見られない独特な見どころであると同時に憩いの場でもある。誰一人見てくれる人もいない深い山奥で孤独に育ち、バラバラになって渓谷に沿って流れてきた色とりどりの落ち葉が、羽化閣の下に重なって沈んでいる。水の色が冷たい。松廣寺の中心となるのは大雄殿の前に広がる広い庭である。仙巖寺を出発し夕焼け時に松廣寺に着いたなら、できるだけ高いところに登って松廣寺を見下ろしてみよう。山裾の間でかすかな残光が薄暗い寺の屋根瓦を照らす時のその静けさは、長く心に残るだろう。松廣寺のこの節度ある構成は、朝鮮戦争で廃墟と化した後に復元された風景である。いずれの寺を出発点とするにせよ、少しでも長く留まってほしい。平和とは常に暫定的なものだ。 クルモクジェを越えて下り坂に差し掛かると、開業40年の老舗である麦飯屋が現れる。いろんな種類のナムルにコチュジャンとごま油を入れてごしごしと混ぜて食べる麦ご飯は、この道を訪れる人々に大きな楽しみを与えてくれる。 松廣寺の裏山には「仏日庵」と呼ばれる小さな庵がある。仏日庵は、実直な修行者として崇められた法頂和尚(1932~2010)が1970年代半ばから1990年代初めまで過ごした場所である。ここで彼の代表的な随筆集である「無所有」が執筆された。 クルモク峠の麦飯屋 仙巖寺を出発してヒノキの森を通過し、虎が岩の上で頬杖をついてそこを通る人たちを善人か悪人か見張っていたと伝わる岩を過ぎると、最初に見える峠が「クルモクジェ」である。曹渓山の頂上が北に見えるこの区間はかなり急な傾斜面となっているが、この峠道を越えるとすぐ緩やかな道が広がる。逆に、松廣寺の方から出発すると、しばらく渓谷に沿って登り、途中で丈夫な木の橋をまるで石橋を叩くかのように渡り、――道を塞ごうと転がり落ちる岩を、ある僧侶が道力で止めた――といわれる伝説の岩を通り過ぎると、クルモクジェと記された表示石に出くわす。仙巖寺の方から登る峠は「大きなクルモクジェ」、松廣寺の方から登る峠は「小さなクルモクジェ」と呼ばれているが、この峠が湖南正脈の曹渓山噴水嶺である。東の斜面に流れる水は順天湾へ、西の斜面に流れる水は筏橋の沖合へとつながる。 この峠を過ぎて下り坂に入ると、思いも寄らない麦飯屋が出現する。欧州の黒いライ麦パンと韓国の麦飯は、同じ社会的カテゴリーに該当する。白い小麦のパンと米飯が少数の「ある程度経済的に余裕のある」人たちの食糧だったとすれば、ライ麦パンと麦飯は長い間、多くの貧しい人々が飢えをしのぐための食糧だった。もちろん、今では郷愁を誘う味、健康のためのウェルネスフードとして楽しむ人も多くなっている。 かつてここは、渓谷の下方にある壯安村の火田民の住居址を補修し、避難所としての機能を兼ねていた場所だったが、今では曹渓山登山コースのお食事付きパッケージのように思われるほど、麦飯屋をそのまま通り過ぎる人はほとんどいないという。釜で炊いた麦ご飯に、その辺りの山で採れた山菜、家庭菜園で育てた青菜のおかず、干した菜っ葉の味噌汁など素朴な飯ではあるが、海抜600mの峠道を2、3時間も歩いてきた人たちには最高の料理である。壯安村の方から登ってきて、麦飯を食べて、再び三々五々に山道を歩いて帰っていく人たちもたまに目につく。壯安村の頂上まで路地をくねくねと車で上り、その後20分ほど山道を歩いて登る道がクルモクジェの麦ご飯が味わえる最短距離である。 取り立てて言うほどの味ではないが、誰だってあっという間に料理を平らげてしまうという点で「一番おいしい麦飯屋」という賞賛も受けている。昔も今も、麦ご飯の満腹感はあまり愉快なものではない。普段よりたくさんの量を食べたり、すぐに消化されて腹持ちがよくないからではなく、飢えという自然の本性からやっと抜け出すためのこの行為に、何となく慣らされているのではないかという自己反省をしてしまうためである。 楽安邑城 ドラマ撮影ロケ地 順天湾国家庭園 順天湾湿地 歴史 すべての道は暫定的だ。慰安と平和、満腹感のようなものだと考えてもいい。通り過ぎる人々を見張りながら座っていたという虎の岩の話や、道を塞ごうとする岩を僧侶の道力で止めたという伝説は、単なる物語ではない。その話の中には、千年以上の歳月の間に何度も途絶えたり再現したであろうこのクルモクジェを越える道の歴史が込められているのである。 韓国現代史において「パルチザン」という用語は、主に韓国で自生的に組織され活動していた社会主義武装遊撃隊を意味するのだが、曹渓山は彼らの根拠地の一つである智異山とつながる主要通路であり、活動拠点でもあった。松廣寺からあまり遠くないところにある「ホンゴル」という渓谷は、朝鮮戦争当時、パルチザンの隠れ家として、彼らが最後まで猛烈に掃討作戦を繰り広げた場所である。この作戦で、当時松廣寺で暮らしていた高齢者が多数殺害される事件も発生した。その時代を生きた人たちが、各自の信念と生存のために必死に追いかけ、追われた道が、今ここで紹介した道の一部なのだろう。 さらに根本的・持続的な葛藤を巻き起こす事件は、その後発生した。朝鮮戦争直後の1954年、当時の大統領・李承晩(イ・スンマン)は、何故か「火宅僧は日本帝国の残滓であり、退出しなければならない」と主張した。韓国仏教には、妻のいる僧侶である火宅僧を容認する伝統がなかったが、朝鮮時代後期、抑仏政策のもとで経済的に厳しくなった寺院を管理する者を僧侶として扱う風習があった。そして日帝強占期には、明治維新以来キリスト教牧師のケースに倣って火宅僧を認許するようになった日本仏教の影響を受け、解放される頃には既婚の僧侶の数が比丘僧の数をはるかに上回っていた。 僧侶の身分であり詩人でもある韓龍雲(ハン・ヨンウン、1879~1944)は、『朝鮮仏教維新論』(1913)で「肉体を持って生まれながら、食欲や色欲がないというのは虚言にすぎない」と記し、僧侶自ら欲望を計り、結婚について自由に決定するべきだと主張した。仏教界で自主的に解決すべきだったことに国家の権力が乗り出して干渉したのは、朝鮮戦争による寺院の物的被害よりさらに大きな不運となった。結局、この紛糾は1969年、大法院(日本の最高裁)がすべての宗権は比丘僧にあると判決することで終わり、これに反発した僧侶たちは新たに韓国仏教太古宗を創宗した。仙巖寺がこの太古宗の総本山であり太古叢林と呼ばれ、一方の松廣寺は、比丘僧で構成されている曹渓宗の叢林なのである。これにより、松廣寺と仙巖寺の僧侶たちが互いに師匠と道伴(信仰の友)を訪ねて行き来しながら、教えを授け受けし交流した時代は、幕を閉じた。寺院をめぐる財産権紛争は今も進行中である。 縁 松廣寺の早朝の礼仏は敬虔で荘厳である。その音の荘厳さと音楽性を瞑想音楽に発展させたのは、国楽芸術家の金永東(キム・ヨンドン、1951~)氏である。彼は松廣寺の四物(法鼓、木魚、雲版、大鐘)と礼仏文、発願文、般若心経に大芩と小芩を調和させ、シンセサイザーを適切に取り入れ『The Buddhist Meditation Music of Korea 禅』(1988)という一編の日常系の音楽を完成させた。グレゴリオ聖歌のような教会音楽を普段楽しんでいる人なら,このアルバムの最後のトラックに収録されている「般若心経」を聴いてみよう。ニューエイジ・ミュージック(癒しの音楽)の影響を受けた一般的な瞑想音楽とはまた違った新鮮な感動を覚えるだろう。2010年レコーディング・エンジニア専門家、ファン・ビョンジュンによって録音されたアルバムは、礼仏の中の水や風の音といった自然の音を完全に排除し、長い歴史的木造建物の中の響きを生かしたという。ファン氏の音楽は、跡形もなく消えていく時間の中に徹底的に私たちを封じ込める。 一方、キム・ヨンドンの作品は、潜んでいる自然の音を引き出すという点で異なり、私たちを新しい空間に留まらせるのがキム・ヨンドン氏の魅力といえる。キム・ヨンドン氏は、自分がこのアルバムを制作するきっかけになったのは、松廣寺内にある佛日庵に住まわれた法頂和尚(1932~2010)との出会いの縁があったためだと話している。法頂は「無所有」という思想とそれに相応しい生涯を過ごし、宗教を越えて多くの人々から尊敬された。「無所有」という漢語で本質的な意味素(sème)は「有」である。「有」は「手で肉を握っている」形の甲骨文字が進化した文字だ。今年は法頂和尚の入寂から10周忌となる年である。今も佛日庵の前に静かに置かれているクヌギの薪で作ったといわれる椅子には、持ち主だった和尚の代わりに枯れた木蓮の葉が腰を下ろしている。おそらく彼がこれを見たなら葉っぱにこう話しかけたかもしれない。「今までご苦労さん」

パックご飯から有名シェフの料理まで

Lifestyle 2020 AUTUMN 156

パックご飯から有名シェフの料理まで 初期の頃には、一人暮らしや共働きの主婦が主な顧客だった家庭簡便食の消費層が拡大している。最近では、家庭でも高級料理を手軽に食べたいと思う美食家たちと、新型コロナウイルスの感染拡大により外食を避ける人々まで加わり、加工・食品産業が急速に進化している。 インスタント食品市場の始まりは、1996年に発売されたパックご飯だ。初期には消費者にそっぽを向かれていたが、現在は様々な種類のパックご飯がコンスタントに売れており、海外への輸出量も増えている。 © CJ第一製糖 ある日、会社から帰ると家のドアにチラシが一枚貼ってあった。そのままゴミ箱に捨てようとしたが、「お惣菜を配達します」という文句に目が行く。チラシには多彩な惣菜で構成された一か月分のメニューが小さな写真付きで紹介されており、その中のいくつかを選んで申し込めば自宅まで配達してくれるという。 「一度、注文してみようか」 気持ちが動いた。子供のいない共働きの夫婦が食卓に座って一緒に夕食を食べるのは、週末を除けば週に2、3回、それも二人のうちの一人の帰宅が遅くなる日には外で食べたり、チキンやピザのデリバリーに依存していた。最近では新型コロナウイルスの感染拡大のせいで外食を控えるようになり、仕方なく家庭で食事をしなくてはならないが、毎回デリバリーメニューにするというわけにはいかないので、インスタント食品もよく利用していた。二人で食べる量もさほど多くないので、食材を大量に買って冷蔵庫の中で腐らせてしまうよりは遥かに合理的だと感じる。また、家事労働の時間を減らしてくれるので、私のような働く女性にとっては非常に合理的なアイデアだ。 多種多様なインスタント食品が並んでいる陳列台の前で、消費者が商品を選んでいる。韓国人の食生活でチゲと汁物、タン(湯)は欠かすことのできない食べ物だが、材料の準備が面倒で手間がかかるとして、主婦には大きな負担となっていた。最近では、簡単に温めるだけというレトルト食品が多数販売されており、主婦の家事労働時間を画期的に減らしている。© ニュースバンク 電子レンジで温めるだけでよいRTH(Ready to Eat)商品 © マムスタッチ 最近、インスタント市場で最も人気のある商品は、レストランメニューだ。有名レストラン食べ歩きで美食を楽しんでいた人々が、新型コロナウイルスの拡大によって外出が制限されるようになり、人気店のメニューを家で簡単に楽しめる方法を求めるようになったのだ。 パックご飯の登場 家庭簡便食を一度も購入したことのない家庭はほとんどないだろう。家庭簡便食はインスタント食品の一種で、加工・包装された食物を簡単な調理をするだけで、すぐに食べられるので便利だ。その種類もかなり豊富で、レシピは4種類に分けられる。調理なしにそのまま食べるRTE(ready to eat)、加熱後に食べるRTH(ready to heat)、簡単な調理後に食べるRTC(ready to cook)、加工された食材で簡単に料理してから食べるRTP(ready to prepare)などだ。最近ではRTC, RTPタイプのミールキット(料理セット)に人気が集まっているが、何か料理をしたという気分にさせてくれるからだろう。 ニルスンコリアとWhat’s nextグループが2018年に発表した『韓国人の食生活調査』によると、一人暮らしは週3回、二人以上の世帯は2回インスタント食品を購入するという。また市場調査会社のユーロ―モニターによると、国内のインスタント市場規模は、2014年の1兆210億ウォンから昨年は1兆9500億ウォンに成長し、2024年には2兆9150億ウォンに達するものと推定される。 この市場を最初に開拓した商品はパックご飯だった。1996年にパックご飯が初めて発売された時には「ご飯を買って食べる人間などいるか」という反応がほとんどだった。ご飯は家で炊いて食べるものという固定観念が強かったのだ。有名モデルがCMに登場して、その便利さをいくら強調しても「パックご飯は健康に良くない」という考えをくつがえすことはできなかった。今日のようにパックご飯が食生活に根付くまでにはかなりの時間が必要だった。加工食品に対する抵抗感がだんだんと減少し、最近スーパーでは多種多様なパックご飯が売られている。それだけではなく各種、汁もの、チゲ、惣菜類など様々なメニューが開発され、インスタント食品だけで食卓を埋め尽くすことができるほどだ。 下ごしらえされている食材を簡単に調理して食べるRTP(Ready to Prepare)商品は、料理をしたような気分が味わえる。特に、一流シェフたちの参加による高級ミールキット商品は、グルメにも人気だ。 © CJ第一製糖 ソウルの大型スーパーで男性消費者が、陳列されているインスタント食品を見ている。初期の頃には、一人暮らしや若い共働きの主婦をターゲットにしていたインスタント食品市場だが、今では、調理済みのものを買って食べることに否定的な見方をしていたシニア層にまで、消費が広がっている。 © 聯合ニュース 有名レストランの料理 初期のインスタント食品は韓国料理が主流をなしていたが、最近では「プレミアム」商品に進む傾向にある。CJ第一製糖のインスタントブランドは、一流ホテルの厨房で10年以上働いた経歴をもつ13人のシェフが、メニューを研究開発している。最近の若者が好きなスペイン料理、エビのアヒージョをはじめパッタイ(ライスヌードルを炒めたタイ料理)、親子丼などグローバルメニューまで多種多様な構成となっている。ミールキット市場に比較的早く参入した韓国ヤクルトもまた、シェフの料理を家庭で楽しめる点を売りにしている。このブランドは、数年前から国内のスターシェフのシグネチャー(特性・看板)メニューで構成された商品を出しており、最近では家庭で料理するのが難しい羊肉料理まで発売し、食マニアのあいだで好評を得た。 最近のインスタント市場で最も人気のある商品はレストランメニューだ。有名なグルメな店を訪れ美食を楽しんでいた人々が、新型コロナウイルスの感染拡大により外出がままならず、有名レストランの人気メニューを家庭で簡単に楽しめる方法を求めているからだ。有名レストランの代表メニューであるだけに味は保証され、衛生面での信頼性も高く利用者が急増している。食材だけでなくインスタント食品の配送にも強い通販サイト「マーケットカーリー」の分析によると、2020年上半期のレストラン加工食品の販売量は、前年同期より175%増加したという。「マーケットカーリー」にはカルビタン、マクチャン(牛の胃袋)、冷麺、ベトナム料理のフォー麺など全国の有名専門レストランが多数入店している。 ミレニアル世代のライフスタイル インスタント市場がこのように拡大している理由として、一人暮らしと共働き家庭の急増とともにミレニアル世代のライフスタイルにも言及する必要がある。ミレニアル世代とは、だいたい1980年代から2000年代に生まれた人々のことを言い、彼らが結婚適齢期になって誕生した「ミレニアル家族」に注目する必要がある。彼らのライフスタイルを説明する重要なキーワードの一つが「効率性」だ。ミレニアルたちは自分で美味し料理を作りたいが、材料の下ごしらえや買い物など時間のかかる面倒な手順は省きたい。このような要求が半調理済み食品や時短食材を選択させている。特に、材料がすべてパックされて宅配されるミールキットは、不便さをあまり感じることなく、料理の楽しみも適当に味わえる。 一方、家の重要性がだんだんと高まっている点も、インスタント食品市場の成長を牽引する要因だ。新型コロナウイルスの感染拡大の長期化により、家が仕事をする空間、学習の空間、趣味生活の空間など、すべての生活のプラットホームとなっている。家の中にホームシアターを設置し、映画館に負けない映像とサウンドを楽しんだり、ホームトレーニングのための空間を別途に作ったりする。家で食事をするほかない状況で、インスタント食品は外食の気分を出すための代案となっている。すき焼き、鮭やまぐろの醤油漬け、中華のヤンジャンピ(洋張皮の雑菜)のような材料の準備に手間のかかる面倒なメニューも、同封されているレシピカードに書かれた順序どおりにすれば、下ごしらえされた適量の食材で、簡単に調理を楽しむことができる。 初期のインスタント食品は手軽さと価格競争力が強調されたが、最近では消費の主体が一人暮らしから二人以上の家庭に拡大しており、さらにはシニア層まで広がる勢いで、価格もやや高めの高級メニューもよく売れている。今後は乳児のための離乳食や病人のための流動食など、多様な領域に拡大する可能性もある。インスタント食品が簡単な一食の次元を越えてどこまで進化するか注目される。

西村の福徳房 人情あふれる不動産屋

An Ordinary Day 2020 AUTUMN 162

西村の福徳房 人情あふれる不動産屋 最近の若者は家を探すのにもスマートフォンのアプリケーションを利用している。売りに出す物件を動画撮影し、ネット上にアップロードする不動産屋もいる。このように目まぐるしく変化する中で、大都市ソウルに未だに「町の寄り合い所」の役割を果たし、商才よりも正直さをモットーとして、誰かの住まいを探す手伝いをしている人がいる。 15年間経営している公認仲介士事務所の前で、西村について説明するチョ・ガンヒさん。 「ハラボジ(おじいさん)は白い髭をなでながら、近所の福徳房(ポクトクバン)に賭け将棋をうちに出かける。賭けに勝った日には、鼻歌を歌いながら両手に大きなスイカを抱えて帰ってくる」。フォークロック歌手のカン・サネが1993年に発表した『ハラボジとスイカ』に出てくる光景だ。 「福徳房」と呼ばれたその店は、土地・家屋などの不動産の売買や、賃貸契約を斡旋・仲介するという本来の目的に加えて「町の寄り合い所」という別な任務も担っていた。世間に向けて大きく扉が開かれ、誰でも気安く立ち寄れるそこには人々が集まり、世間話を交わし、人情が行きかった。町中の噂話がそこから始まり、さらに膨らんであふれていった。 誰かが困っていれば、その人を助けるために力を合わせた。嬉しいことがあれば熱々のチヂミにマッコリを傾け共に祝い、悲しいことがあれば肩を抱いて慰め合った。低い屋根が続き、人と人との距離も今より近かった時代の話だ。 低かった屋根が高くなり、天に届きそうな高層アパートが登場すると、町はもはや人情にあふれた場所ではなくなった。「公認仲介士事務所」という堅苦しい名前の看板に変わった福徳房も、それ以降は町の寄り合い所の役割はしなくなった。それでも世の中のどこかには、まだ昔のようにその扉を開いているところがある。人情にあふれた町の温かさと人の匂いを求めて、ソウル西村に足を向けた。 チョ・ガンヒさんがその日の取引内容を手書きで整理している。彼の店舗には一日平均3人くらいの客が来るが、10人中、1~2人の契約が成立するという。 こぢんまりとした古い韓屋 景福宮はソウルの五大王宮の中でも最も大きく壮大だ。この古宮の中心より北に位置する町を通称「北村」と呼び、西にある町を「西村」と呼ぶ。朝鮮時代(1392~1910)北村には、政治の実権を握っていた士大夫階級の両班たちが住み、西村には、訳官や医官のような専門職の中人階級が暮らしていた。有名な画家や詩人など、芸術家も西村の住民だった。現在、北村と同様に西村の韓屋も政府の支援で保存されているが、北村の堂々とした韓屋に比べて西村の韓屋はほとんどがこぢんまりしている。肩を寄せ合う韓屋の間を蜘蛛の巣のような路地が広がっている。その路地の一角に、15年にわたってチョ・ガンヒ(趙康熙)さんが経営する「中央公認仲介士事務所」がある。 「西村は都心に隣接していますが、後ろには山もあり、大きな公園もあります。家を売り買いして金儲けの投資をする人ではなく、この町が好きでここで暮らしたくてやって来る人がたくさんいます。一度暮らし始めると、他に移ることはあまりありませんね」。 この町の家はだいたいが65~100平方メートルほどの小さな韓屋なので、不便な点も多い。だがアパートでは体験できない長所もある。チョさんは韓屋の長所と短所をリストにしてお客に詳しく説明している。 「木、石、土のような自然素材で作られた家なので健康には良いです。家は落ち着いて安定感もおり、お隣さんともすぐに仲良くなれるでしょう。住居スペースが狭いものの、細々と調和よく味わいがあります。好みによっては庭をつくる楽しみもあるでしょうし、風通しもよく、季節の変化を感じることができるので退屈する暇がありません。その反面、環境に優しい素材なので虫がつきやすく、断熱、防音には向いていません。火と水に弱いという短所もありますが、修理をすればある程度は改善することができます。屋根、壁材、床などは周期的な補修が必要ですが、政府が無償で支援してくれるので、経済的な負担はありません」。 西村は大統領府の近くに位置し、1968年には北朝鮮の武装スパイが潜入した事件もあったので、1980年代までは厳しい警備がしかれ、一般人が住むには不便な町だった。町の入り口での身元の照会確認は基本で、住民以外の人間が泊まる場合は必ず申告しなければならなかった。 「戦闘警察が常駐して警備しており、開発も禁止され、制約も多かったので不便な点もたくさんありました。1990年代末に建築規制が緩和され再開発するという噂が流れ、人々が集まり始めました。それでも建てられるのはヴィラ程度でした。道路に面していれば7階建て、中の方は5階以上の建築許可は下りませんでした。2010年に韓屋保存地域に指定された時にはがっかりした人もたくさんいました。古い家を壊しても韓屋しか建てられなくなったからですね」。 したがってここは、高層ビルの林の中を人々が忙しく往来するソウル市内のど真ん中にありながら、「静かな島」のような存在となった。西村の時計はゆっくりと進む。今では、ゆっくりと歩くために、ビルの谷間に見え隠れする空ではない空を見上げるために、人々はこの町を訪れる。そういう「スロー」な町を真っ先に謳歌したのは北村だった。昔の姿を残す北村の韓屋の間に素朴で、可愛いらしい店が立ち並びはじめ、好奇心旺盛な若者たちがやって来るようになった。商売になるようになると建物のオーナーたちはテナント料を値上げした。高いテナント料に耐え切れなくなった店が一つ、二つと西村に移転を始めた。韓屋を改造して作ったゲストハウスも生まれ、外国人の姿も自然に目につくようになった。 彼の店には一日平均3人程度のお客が来て、10件のうち1~2件ほどの契約が成立する。気難しいお客もいるし、腹が立つこともあるが、この仕事で暮らしているので、その程度は我慢できる。 切羽詰まって選んだ職業 チョ・ガンヒさんはソウル生まれだ。学校を卒業し建設会社に就職した。その後大企業の下請け工場を12年間ほど経営した。しかし2005年、それまで彼の工場で生産していた電子製品の部品が中国で作られることになり、ある日の朝、工場は閉鎖せざるを得なくなった。社員の給料と退職金を用意するのに、多額の借金を抱えた。 「子供二人が大学に入学したばかりでした。お金を稼がなけなければならないのに、すでに50歳を超えていたので、転職先もありませんでした。そんな中、公認仲介士をしている従兄弟に出会ったんです。彼の話を聞き、自分もこの仕事をしてみようと決心し、専門学校に通い始めました」。 彼が52歳の時だった。 「当時、家内が食堂をしていましたので、朝食材を仕入れて食堂に運び、それから学校に行きました。一日4時間しか眠りませんでした。中学高校時代にそんなに勉強していたら、一流大学に行けたでしょうに。2006年3月に勉強を始めて、翌年の2月に試験に合格しました。必死でした。この試験に落ちたら子供たちを、大学を卒業させてやれないと考え、必死にならざるを得なかったんです」。 崖っぷちにしがみついているような心境で勉強をして一発で合格し、知り合いの不動産屋で見習い生活を終えた後、専門学校の校長のアドバイスにより西村に店を持った。そしてもう15年が過ぎ、彼は今も毎朝午前10時に事務所の扉を開ける。 「この仕事をする前には不動産に関心はありませんでした。一生懸命に働き、努力した分だけ金を稼いで生活するのであり、不動産投資をして金を儲けるという考えはありませんでした。それでここに店を出すときにも、専門学校の校長が推薦してくれたところだから大丈夫だろうと、迷うことなく決めて、今まで居続いけています。どこどこの地域がもっと良いとか、金になるなどという考え自体がありませんでした。しかし、この仕事をしてみて少し欲が出て、他のところに移ろうかと考えたこともありましたが、うまくいきませんでした」。 移ろうかと考えた所は、アパート団地がたくさん集まっている京畿道地域だった。アパートは世帯数も多く、お客の所望も明確だった。内部の構造も同じなので、あちこち何軒もの家を見て回る必要もなかった。直接見なくても図面だけで、どんな構造の家か分かるからだ。家の広さと階数、内部の状態だけ簡単に確認すればそれだけで良かった。一方、西村にある物件は一軒一軒歩き回り、直接目で隅々まで見るまではその事情はよく分からない。ところで、アパート団地内にある公認仲介士事務所の敷居は高かった。仲介者たちはグループを作って物件を共有するのだが、そのグループに加入するためには高い加入費を支払わなければならなかった。彼はその金額を準備できず、結局、西村に居続けることになった。 「顧客は当然、清潔で日当たりの良い家を望んで来ますが、ここら辺の家はどんどん古くなっていくのが問題なんです。それでも情が移って今はもう出て行く気になりません」 チョ・ガンヒさんはお客と家を見に行くたびに、韓屋の長所と短所を詳しく説明する。彼は西村の韓屋は規模は小さくても、素朴な味わいがあり、隣人と疎通しながら暮らす楽しみがあると強調する。 倫理意識 チョさんの一日は午前7時半に始まる。食事をして出勤の準備を終えて、8時半に家を出発し電車に乗る。彼はソウルの外郭にある平村新都市のアパートに暮らしているが、自宅から店までは1時間半ほどかかる。夕方7時半に店を閉めて家に帰ると夜の9時。土曜日にも、公休日にも同じ日常が繰り返される。 「最初は日曜日にも店を開けていたんです。年とともにだんだんきつくなりました。家族と過ごす時間も必要だと考え日曜日だけは休んでいます。日曜日には仕事をせずに家の掃除をしたり、登山をしたりゆっくり休みます。特別な趣味はありません。酒も飲みません。私の日常はこんな風です」。 彼の店には一日平均3人ほどのお客が来て、10件のうち、1~2件の契約が決まる。気難しいお客もいるし、腹の立つこともあるが、この仕事で暮らしていけるのでその程度は我慢しなくてはと思う。「良い家を見つけてくれてありがとう」と、手土産の飲料水をもって挨拶にくる客に対しては「お客さんの運が良かったんですよ」と誉める。「福徳房」は「公認仲介士事務所」になってしまったが、西村の人々は今も通りすがりに立ち寄ってお茶を飲みながら、世間話に花を咲かせる。ファックスを送ってあげたり、コピーをしてあげたり、登記簿の謄本をとってきてあげるなど、簡単なサービスも無料でしてあげる。インタビューの最中にも「トイレの便器が揺れ動くので大家さんに修理を頼んで欲しい」と訪ねてきた人がいた。 「仲介士は倫理意識をもっていなければなりませんね。投機を煽ることのできる職業だからです。皆がそうだと言うわけではありませんが、欲を出し過ぎると問題が起きます。私はほらを吹くこともできず、口も達者ではありません。公務員か先生のスタイルなんです。それでもこの職業が好きなのは、体を動かすことができ、頭さえしっかりしていれば仕事を続けることができるからです。定年はありませんから」。 スローな町西村でスローな人生を夢見る、幸運なお客がまた一人、この正直な仲介士のいる店舗の扉を開けて入ってきた。

Review

暗闇の中で輝き合う 綺羅星たち

Art Review 2021 SUMMER 102

暗闇の中で輝き合う 綺羅星たち 国立現代美術館徳寿宮の今年初の企画展『美術が文学と出会った時』は、1930-50年代に活躍した芸術家たちにスポットを当てている。特にこの展示は、日本植民地時代と朝鮮戦争という不幸な時代に、画家と文化人の交流がどのような芸術的成果を生んだのかに焦点を当てており、大きな関心を集めた。s 『 人形のある静物』 ク・ボヌン(具本雄1906~1953)71.4×89.4㎝ キャンバスに油彩1937年 三星美術館リウム所蔵 ク・ボヌンは印象派中心のアカデミズムが流行していた時期に、フォーヴィスムの影響を受けて新たな分野にチャレンジした。画面に描かれたフランス美術雑誌『Cahiers d’Art』 からも分かるように、ク・ボヌンと彼の友人たちは西欧の新しい文化芸術の傾向を同時代に享有していた。 1930年代は日本統治がより一層厳しくなった暗黒期であったが、一方では近代化が進み、韓国社会にとてつもなく大きな変化が巻き起こった時期でもあった。特に京城(1946年ソウル特別市に変更)は新文物が他の地域よりも先に流入し、目まぐるしく変化していった。舗装された道路には電車と自動車が走り、華やかな高級百貨店が開業した。そして街には流行の先端を行くハイヒールを履いたモダンガールと背広姿のモダンボーイがあふれた。 現実に対する絶望と近代のロマンが混在した京城は、芸術家たちの都市でもあった。当時の京城の芸術家たちは誰もがタバン(茶房)に足を向けた。中心街の路地に立ち並んだタバンは単純にコーヒーを売るだけの店ではなかった。異国情緒あふれる室内装飾とコーヒーの香りの中に流れるエンリコ・カルーソーの歌を聞きながら、芸術家たちはアバンギャルド(前衛芸術)について討論を繰り広げていた。 カルーソーとアバンギャルド植民地の国民という貧困と絶望も芸術への魂までうち砕くことはできなかった。そして苦難の中で咲いた創作の情熱の陰には、時代の痛みを共有し共に生き抜く道を探し求めていた芸術家たちの友情とコラボレーションがあった。この「逆説的ロマン」の時代を振り返る国立現代美術館徳寿宮での『美術が文学と出会った時』展は、連日多くの観覧客がつめかけている。近代を代表する50 人の芸術家を紹介するこの展示は、タイトルが物語っているように画家や詩人、小説家がジャンルの壁を越えてお互いどのように交流をし、影響を与え合っていたか。そしてどのように芸術的理想を追求していったかを振り返るものだ。 展示は四つの題目に要約できる。「前衛と融合」を題目にした第1展示室は、詩人であり小説家、そしてエッセイストでもあったイ・サン(李箱、1910~ 1937)が運営していたタバン「チェビ(燕)」と、そのタバンを愛した芸術家たちとの関係にスポットを当てている。建築を専攻したイ・サンは、学校を卒業後しばらくの間、朝鮮総督府で建築技師として働いていたが、肺結核を患い仕事を辞めてタバンを開いた。短編小説『翼』と実験主義的な詩『オガムド(烏瞰図)』など、強烈なシュールレアリズムな作品で広く知られるイ・サンは、1930年代の韓国モダニズム文学を開拓した代表的な作家だと評されている。タバン「チェビ」の白い壁には、イ・サンの自画像と幼い頃からの友人ク・ボヌン(具本雄、1906~ 1953)の絵が数点、飾られていたという。特別な室内装飾もない殺風景な空間だったが、そこは貧しい芸術家たちのサロンの役割をしっかりと果たしていた。ク・ボヌンをはじめとして、イ・サンと深い付き合いのあった小説家パク・テウォン(朴泰遠、1910~ 1986)、詩人で文学評論家のキム・キリム(金起林、1908~?)などがその主なメンバーだった。彼らはこのタバンに集まり、文学と美術だけでなく映画や音楽など様々なジャンルの最新の傾向と作品について意見を交わし、そこからインスピレーションを得ていた。彼らにとってタバン「チェビ」は単なる社交の場ではなく最先端の思潮を吸収し、芸術的な滋養を得る創作の産室だった。特にジャン・コクトーの詩とルネ・クレールのアバンギャルドな映画は、彼らの大きな関心事だった。イ・サンはジャン・コクトーの警句を書いたものを壁にかけ、パク・テウォンはファシズムを風刺するルネ・クレールの映画『最後の億万長者』(1934)をパロディ化した作品『映画から得たコント;最後の億万長者』を書き、植民地の現実をウイットに富んだタッチで描いている。彼等の作品に現れている互いの痕跡と親密な関係が非常に興味深い。ク・ボヌンが描いた『友人の肖像』(1935)のモデルは、屈折した印象のイ・サンだ。二人は4歳の年の差はあったものの、学生時代からいつも一緒にいて仲が良かった。キム・キリムはク・ボヌンの破格なフォーヴィスムの画風に誰よりも賛辞を送った人物だった。また彼はイ・サンが27歳の短い生涯を閉じるとそれを悲しみ、彼の作品を集めた『李箱選集』(1949)を出し、これがイ・サンの処女作品集となった。イ・サンもまたキム・キリムの最初の詩集『気象図』(1936)の装丁をしている。さらにイ・サンはパク・テウォンの中編小説『小説家クボ氏の一日』(1934)が朝鮮中央日報に連載された際には、挿絵も描いている。パク・テウォンの独特な文体とイ・サンのシュールな挿絵は、独創的な紙面を作り上げ大きな人気を得た。 『 自画像』 ファン・スルジョ(黄述祚1904~1939) 31.5×23㎝ キャンバスに油彩 1939年個人所蔵 ク・ボヌンと共に同じ美術団体で活動していたファン・スルジョは、静物画、風景画、人物画など多様なジャンルを席巻し独特な画風を築いた。この作品は35歳という若さで夭折した年に描いた作品だ 1920~40年代の印刷美術の成果が展示されている第2展示室。この時期に刊行された表紙が美しい本をはじめとして、新聞社が発行していた各種雑誌と挿絵画家たちの作品が展示された。 『 青色紙』第5集 1939年5月発行 ( 左)『青色紙』第8集 1940年2月発行1938年6月に創刊され1940年2月に、通巻8集を最後に廃刊となった『青色紙』は、グ・ボヌンが編集・発行をしていた芸術総合雑誌だ。文学を中心に演劇、映画、音楽、美術分野を網羅し、当代の有名執筆陣による水準の高い記事を掲載していた。 詩と絵画の出会い小説などの文章に添えられる挿絵の需要は、芸術家たちに一時的ではあったが一定の収入をもたらした。同時に新聞が大衆的でありながらも芸術的な感覚を持った媒体であることを、人々に認識させるのにも一役買ったといえる。洗練された図書館を思わせる第2展示室では、1920 ~40年代に発行された新聞や雑誌、本を中心に当時の印刷媒体が作り出した成果を集大成し展示している。「紙上の美術館」を題目にしたこの展示は、アン・ソクチュ(安碩柱、1901~1950)を筆頭に、代表的な挿絵画家12人の作品が添えられた新聞連載小説を一枚一枚ページをめくって読めるようになっており、一味違った展示構成になっている。当時の新聞社は雑誌も発刊しており、それらを通じて詩に挿絵を添えた「画文」というジャンルが本格的に登場した。「貧しい僕が/美しいナターシャを愛して/今夜は雪がさらさらと舞い上がる」ではじまるペク・ソク(白石、1912~1996)の詩『僕とナターシャと白いロバ』に、チョン・ヒョヌン(鄭玄雄、1911~1976)が絵を描いた1938年度の作品がその代表的な例だ。朱黄色と白の余白が印象的なこの絵は、ペク・ソクの詩にふさわしくおぼろげな情感の中に絶妙な空虚感を醸している。この作品は二人が一緒に制作して、朝鮮日報の文芸雑誌『女性』に掲載された。洗練された言語感覚をもとに郷土色の濃い抒情詩を発表したペク・ソクと、挿絵画家として有名だった画家チョン・ヒョヌンは、新聞社の同僚として出会い、その後も格別な友情を育んだとして知られている。チョン・ヒョヌンは隣の席で仕事をするパク・ソクの横顔を感嘆の声を上げて見つめていたという。真剣に仕事に打ち込む彼の姿を描き、その顔が「彫像のように美しい」という賛辞を短文『ミスター白石』(1939) に書いて、雑誌『文章』に発表した。彼らの友情は新聞社を辞めた後も続いた。1940年、突然満州に旅立ったペク・ソクは『北方から-チョン・ヒョヌンに』という詩を書いて送り、南北分断以降1950年に北朝鮮に亡命したチョン・ヒョヌンは、北朝鮮でペク・ソクと再会し、彼の詩を入れた詩集を出した。その詩集の裏表紙には『ミスター白石』の頃よりも年を重ねた重厚な姿のペク・ソクが描かれている。 植民地の国民という貧困と絶望も芸術家の魂までうち砕くことはできなかった。そして苦難の中で花開いた創作への情熱の陰には、時代の痛みを共有し、共に生き抜く道を探し求めていた芸術家たちの友情と共同作業があった。 『 僕とナターシャと白いロバ』 詩文ペク・ソク(白石、1912~1996) 絵画チョン・ヒョヌン(鄭玄雄、1911~1976) 雅丹文庫提供詩人ペク・ソクが朝鮮日報社から1938年3月発行された雑誌『女性』(第3巻第3号) に発表した詩に、画家チョン・ヒョヌンが絵を付けた「画文」。当時は文章と絵が調和を成した画文というジャンルを通じて作家と画家の交流する機会が多かった。 『 詩人具常の家族』 イ・ジュンソプ(李仲燮1916~1956) 32×49.5㎝ 紙に鉛筆、油彩 1955年 個人所蔵朝鮮戦争直後に詩人・具常の家に居候していたイ・ジュンソプが日本にいる自分の家族を恋しがりながら、友人家族の団らんの様子を描いたものだ。 現代文学社が1955年1月に創刊した文学雑誌『現代文学』の表紙。チャン・ユクジン(張旭鎭、1918~1990)、チョン・ギョンジャ( 千鏡子、1924~2015)、キム・ファンギ(金煥基、1913~1974)な ど。 第一級の画家たちの絵が表紙を飾っている。 画家の文章と絵「二人行脚」を題目にした第3展示室では、1930から1950年代までの時代的背景を広げて、芸術家たちの個人的な関係により焦点を当てている。同時代の作家や画家はもちろん次世代の芸術家たちとの人的交流においても、その人間関係の中心に立っていた人物がキム・キリムだった。彼は新聞記者という職業を十分に活かし多くの芸術家たちを発掘する先頭に立って、評論を通じて優れた作品を紹介した。次にそのような役割を受け継いだのがキム・グァンギュン(金光均、1914~1993)だった。詩人であると同時に実業家でもあった彼は、優れた芸術家たちを経済的に支援した。この展示室の作品のほとんどが彼のコレクションであったという事実は、別に驚きに値しない。 この展示室で多くの観客が足を止めるのは、断然イ・ジュンソプ(李仲燮、1916~1956)の『詩人具常の家族』(1955)だろう。絵の中のイ・ジュンソプは、グ・サン(具常、1919~2004)の家族を羨ましそうに眺めている。朝鮮戦争中に生活苦から家族を妻の実家のある日本に送り出し、一人で過ごしていた彼は作品を売って、そのお金で家族と再会することを乞い願った。しかし、ようやく開催した個展は思い通りにいかず、金を稼ぐことに失敗すると自暴自棄となっていった。当時のそんな心境がこの絵によく表れている。彼の日本人の妻が夫の安否を気遣い、友人のグ・サンに送った手紙も展示されており、戦争のもたらした貧困と病苦の中で、若くして世を去った天才画家とその家族の物語が人々の胸を打つ。「画家の文と絵」を展示している最後の展示室では、一般的には画家として知られているが、文章にも人並外れた境地に達していた6人の芸術家が紹介されている。シンプルで純粋な「もの」の美しさを賛美したチャン・ウクジン(張旭鎭、1918~1990)、生涯にわたり山を愛したパク・コソク(朴古石、1917~ 2002)、独特な画風だけでなく、内面に率直な文章で大衆から愛されたチョン・ギョンジャ(千鏡子、1924 ~2015)などが含まれている。中でも今回の展示の最後に目を惹くのが、キム・ファンギ(金煥基、1913~ 1974)の『全面点画』4点の作品だ。無数の小さな点がぎっしりと散りばめられた小宇宙を間近に眺めていると、逝き去りし作家や画家たちの名前が一人一人思い浮かんでくる。暗闇の時代に綺羅星のごとく輝いていた彼らを、今ようやく一堂に招集したような気がする。 『 18-11-72 #221』 キム・ファンギ(金煥基) 48 × 145㎝ コットンに油彩 1972年文学に造詣が深かった画家キム・ファンギはいろいろな雑誌に挿絵を添えた随筆を発表し、詩人たちとも交流していた。晩年のキム・ファンギの代表作で抒情的な抽象画『全面点画』は、彼がニューヨークに滞在していた1960年代中頃から描き始めたものだが、その時期に詩人のキム・グァンソプ(金珖燮、1906~1977)に送った手紙からもその事が垣間見える。

抽象化される日常

Art Review 2021 SPRING 179

抽象化される日常 ドイツを中心に国際的に活動しているインスタレーション・アーティストのヤン・ヘギュ(梁慧圭)は、日常の中の身近な素材を活用して、さまざまな解釈が可能な作品を発表してきた。最近、国立現代美術館で行われていた展示会では、新たな試みに果敢に挑戦し、さらに表現の領域を広げた。 ヤン・ヘギュは、折りたたみ式ランドリーラックやブラインド、電球などのような身近な素材を活用した作品を発表している。代表的なものとしては、2009年のヴェネツィア・ビエンナーレ韓国館に作家として参加した時の鉄製フレームや扇風機、毛糸などで台所を形象化した作品『サㇽリム(暮らし)』だ。その後もカッセルの現代美術展ドクメンタや、パリのポンピドゥーセンターなどで彼女の作品を目の当たりにできた。 彼女は身近な素材を利用して様々な形態に変化させたインスタレーション作品と、さらにグラフィックデザインを施した壁面をコラボレーションしている。最近の作品には、互いに関連性のないイメージを複雑に組み合わせたものが多く、多少難解にも感じられるが、そのせいで時には「イメージの密度が過度で目に入ってこない」という評価を受けたりしている。これに対して彼女は「難解さ」こそ、自分の作品の特徴だと説明している。 2019年1月、台湾南港展示センターで開かれた「第1回台湾當代アートフェア」に参加したヤン・ヘギュ(梁慧圭)は、特定の歴史的な人物や日常の事物を設置、彫刻、映像、写真、サウンドなど、様々な媒体を通じて抽象的な造形言語で表現した。 『 沈黙の貯蔵庫―クリックされた芯(Silo of Silence-Clicked Core)』 2017、アルミニウム・ベネシャン・ブラインド、パウダー塗装アルミニウム及び鋼鉄天井構造物、スチールワイヤーロープ、回転舞台、LEDなど、電線、1105×780×780㎝ ベルリンのKINDL現代美術センターは毎年一人の作家を選定して、高さ21mのボイラーハウスに単独作品を発表する展示を企画している。2017年9月から2018年5月までヤン・ヘギュの作品がそこに展示された。 同一な対象、様々な解釈 国立現代美術館の展示『MMCAシリーズ2020: ヤン・ヘギュ―O2 & H2O』(2020.9.29-2021.2.28)も例外ではない。展示場に入ると真っ先に目にする、大型設置作品『沈黙の貯蔵庫―クリックされた芯(Silo of Silence- Clicked Core)』だ。題目からして難解なこの作品は、横型のベネシャンブラインドと照明器具を使った高さ11mの大型モビール(動く彫刻)形態をしている。観客はマリンブルーとブラックのベネシャンブラインドとが独自に動く作品の内側と外側を自由に行き来しながら鑑賞し、壮観な規模と色彩が演出する多彩な空間を体験する。 この作品に使われたベネシャンブラインドは、彼女の代表作『ソル・ルウィット反転(S o l L e W i t t U p s i d e Down)』のシンボルと同一な素材だ。展示場内部に移動すると、白いブラインドを使った『ソル・ルウィット反転 』の連作を見ることができるが、題目にあるアメリカのコンセプチュアル・アートのアーティスト、ソル・ルウ ィットの名前から推測できるように、ミニマリズム的な要素が強い。観客は21世紀に過去のミニマリズム様式を繰り返すことに果たしてどんな意味があるのか疑問が生じるかもしれない。 ヤン・ヘギュは作品の素材としているブラインドについて「誰かは西洋的、他の誰かは東洋的だという」と説明している。彼女の話のように西欧的なオフィス空間を連想する人もいれば、あるいは東洋的な竹林を思い浮かべる人もいるだろう。このように同一な対象が、見る人によって観方が変わる現象を表現しようという意図は、他の作品においても容易に見い出すことができる。 2017年メキシコシティのアートギャラリー<kurimanzutto>で開かれた『装飾と抽象』展の全景。 この展示はラテンアメリカで開かれたヤン・ヘギュの 最初の個展だ。 『中間タイプ―拡張 されたW形態のウフフ生命体』 2017  人造藁、パウダー塗装ステンレス鋼天井構造物、パウダー塗装ステンレス鋼フレーム、鋼線、装飾用の布切れ、装飾用の羽 580×750×60cm 『太陽と月の下、言葉を失った大きな目の 山-信用良好者#315』 2017  保安模様の封筒、方眼紙、色紙、サンドペーパー、額縁、接着ビニールフィルム11本  86.2×86.2cm; 57.2×57.2cm; 29.2× 29.2cm 『ソル・ルウィット反転-1078倍に拡張、複製し再び組み合わせたK123456』 2017 アルミニウムベネシャンブラインド、パウダー塗装アルミニウム天井構造物、鋼線、蛍光灯、電線 878×563×1088cm 混ざりあった境界 本格的な展示が広がる第5展示室に入ると、最も良く観える位置に『音のする家の物』の連作が設置されている。これらの作品は人造の藁とプラスチックの紐、真鍮の鈴が主な素材で構成され、金属の鈴が無数にぶら下がっている形態のせいで、一見奇怪な生物体のように見える。徐々に目が慣れてくると、これらの形態がアイロン、マウス、ヘアードライヤー、鍋であることが分かる。 ブラインドを使った作品で東洋と西洋の境界を狙ったとしたら、この作品では無生物と生物の境界を探索している。ヘアードライヤーをカニに、二つのマウスを組み合わせて昆虫の形態にしている。またアイロンを合わせるとハサミの形になる。これらの作品の下に車輪がついており、動かすと鈴の音がする。 作品の右側の壁面には4つの類型のドアの取っ手がついているが、九画形の幾何学的な形態に配置されている。ここで求めている効果も同様だ。取っ手はドアを開くために作られたものだが、それが壁に付くことでその機能が失われている。このような脈絡によって変わってしまった事物の意味を通じて作家は、観客の興味を誘発しようとしているのだ。ただこのような表現方法はすでに100年前のダダイズムの作家たちも使っていた。ヤン・ヘギュがアイロンを交差しハサミの形態を作る遥か昔に、視覚美術家マン・レイはアイロンに画鋲を打ち、その機能と意味を形骸化させている。1921年の作品『贈り物』がそうだ。さらにさかのぼるなら、マルセル・デュシャンが便器を美術館に持ってきて『泉』(1917)と名付けたのもその延長線上にある。 もちろん最近では美術史に現れた特徴的な要素を、時代に関係なくアーティストが好きなように借用する傾向が国際美術界では目立っている。19世紀以前の絵画を借用して抽象化する英国作家セシリー・ブラウンはもちろん、デイヴィッド・ホックニーも自身の偶像であるピカソの作品を堂々と作品に取り入れている。そうだとすれば、コンセプチュアル・アートを借用したヤン・ヘギュの狙いは果たして何なのだろうか。 東洋と西洋、生物と無生物の境界を問う作家が、 今度は現実と仮想、本物と偽物の境界にも疑問を提起し、明らかにしようとしている。 ( 左側) 『真実の複製』 2020、AI(タイプカーストゥ)、ヤン・ヘギュの声、スピーカー、可変サイズ、技術提供ネオサピエンス (右側) 『五行非行』 2020、ポリエステルの垂れ幕に水性インクジェット印刷、アドバルーン、アイレット、スチールワイヤーロープ、韓紙、可変サイズ、グラフィック支援、ユ・イエナ 国立現代美術館の『MMCA ヒョンデ車シリーズ2020: ヤン・ヘギュ-O2 & H2O』 (2020. 9. 29.~2021. 2. 28.)展では、AIで複製した自分の声を使ったり、垂れ幕にデジタルイメージを合成するなど、新たな形態の作品を発表した。 『 音のする家の物』 2020、パウダー塗装ステンレス鋼フレーム、パウダー塗装格子網、パウダー塗装取っ手、車輪、黒色真鍮メッキの鈴、真鍮メッキの鈴、赤色ステンレス鋼の鈴、ステンレス鋼の鈴、金属ロープ、プラスチック紐 (左側) 『音のする家の物―アイロンハサミ』 208×151×86 cm (左から2番目) 『音のする家物―カニ足模様ドライヤー』155×227×115 cm (左から3番目) 『音のする家物―貝ニッパー』 291×111×97 cm (右側) 『音のする家物―鍋重なる鍋』224×176×122 cm 作家は日常的に使われているアイロン、ヘアードライヤー、マウス、鍋の形をもとに素材を互いに組み合わせたり交差結合させて混種器物を誕生させた。 現実と抽象 今回の展示でヤン・ヘギュは、既存の展示では見られなかった新たな形態の作品を発表した。デジタルイメージを合成した垂れ幕作品『五行非行』と人工知能の声が飛び出す『真実の複製』がそれだ。 『五行非行』について作家は「政治的な宣伝物に似た強烈なグラフィックと誇張されたタイポグラフィが特徴」だと説明している。5つの垂れ幕には、韓国伝統カラーの五方色(青、赤、黄、白、黒)が象徴する5つの要素(木、火、土、金、水)の名前が書かれている。垂れ幕の下の方には漢紙で作られた文具がぶら下がっている。この作品は今回の展示タイトル『O2 & H2O』と大きな関係があるようだ。作家は日常空間に存在する空気と水が「O2」と「H2O」で記号化されている点に注目したと言う。現実を5つの要素に抽象化し、彼女なりの方式で表現したということだろう。 一方『真実の複製』は、垂れ幕の間にスピーカーを設置した作品だ。スピーカーからは人工知能技術で複製された作家の声が流れてくる。東洋と西洋、生物と無生物の境界を問う作家が、今回は現実と仮想、本物と偽物の境界にも疑問を提議しようとしている。 ベルリンとソウルの間 1971年ソウル生まれのヤン・ヘギュは、1994年ドイツのフランクフルトに移住してシュテーデル美術大学(Städelschule)を卒業した。2005年からはベルリンに定着して活動しており、2014年にはソウルにもスタジオを開き、ソウルとベルリンを行き来しながら作家活動をしている。2018年にはアジアの女性美術家としては初めてドイツのウォルフガング・ヘッセン美術賞を受賞し話題になった。 コロナウイルス禍の2020年にも世界各地で彼女の作品を見ることができた。ニューヨーク近代美術館のリニューアルオープンを記念した展示の『ハンドル』(2019.10.-2021.2.28)や、そしてイギリスのコーンウォールのテート・セント・アイヴスでは、大規模展示『Strange Attractors』(2020.10.24-2021.5.3)に出品された。 2014年のイ・ブル(李昢)から始まったMMCAヒョンデ車シリーズは、国立現代美術館が中堅作家を支援するために企画した連作展だ。特に今回の展示は、当美術館が企画したヤン・ヘギュの最初の個展であり、40点余りの作品が展示された。

見えないものとの接続

Art Review 2020 SUMMER 183

見えないものとの接続 国立現代美術館果川館が主催した「韓国ビデオアート7090:時間イメージ装置」は、1970年代から1990年代までの韓国ビデオアートの歴史を振り返る意義深い展示であった。ただし、2019年 11月28日から2020年5月31日までの開催期間中に、新型コロナウイルスの集団感染により、長期にわたって観覧が中止になったことは非常に残念であった。 韓国のビデオアートは、西欧と同じ時代に発展してきたが、そのような事実を知っている人々はさほど多くはない。また一般大衆にとってビデオアートといえば、世界的アーティストのナム・ジュン・パイク(白南準、1932~2006)のことしか知らない。「韓国ビデオアート7090」展では、ビデオアートの胎動期である1970年代からはじまり、このジャンルが本格的に熟成する1990年代までの韓国のアーティスト60人の作品130点が紹介された。観覧客にとっては、国内にビデオアートが定着していく全過程を理解する滅多にない機会として、今では国際的に有名になったアーティストたちの初期の作品を見ることができる興味深い機会となった。 『無題』パク・ヒョンギ(朴炫基)、1979 石14個、テレビモニター1台、260×120×260㎝(WDH)国立現代美術館所蔵 『テレビ仏陀』ナム・ジュン・パイク(白南準)、974/2002 仏像、CRTテレビ、閉鎖回路カメラ、カラー 無声、サイズ可変 白南準アートセンター所蔵 実験的美術 1970年代は、韓国現代美術の実験的かつ前衛的な運動が活発に展開されていた時期だった。軍部独裁という暗黒な政治的状況が逆説的に、芸術の前衛運動を触発した点は、非常にアイロニーといえる。ハプニング、設置、写真と映像を持ち込んだ一連の実験的な作業が旺盛に行われていた時代に、最初のビデオアート作業が何人かのアーティストにより先駆的に行われていた。 当時のアーティストたちは、ビデオを新たな独自の映像美学の表現媒体とするよりは、ほとんど前衛・概念芸術のための手段として受容した。代表的な事例がキム・グリム(金丘林)、イ・ガンソ(李康昭)、パク・ヒョンギ(朴炫基)などだったが、これらのアーティストたちは、ビデオという新たな手段を通して時間性、過程と行為、感覚と存在、概念と言語などに関連した事由を視覚化しようとした。例えば、国内の実験美術の先駆者キム・グリムの初期の作品『雑巾』(1974/2001)は、机を雑巾で拭く行為を見せるものだが、雑巾がけが繰り返されるほど、雑巾はどんどん汚くなり、ついには真っ黒になりぼろぼろになっていく過程が圧縮されて展開していく。 韓国での本格的なビデオ操作の先駆者としては断然、パク・ヒョンギをあげることができる。記録によれば、彼は1973年からビデオ作業に取り組んだという。一名『テレビ石塔』と呼ばれる『無題』連作は、実際に石を撮影した映像を一緒に配置することで自然と技術、実在と幻影、オリジナルとイミテーションの問題を探求している。彼は朝鮮戦争の避難の際に、人々が石を拾っては小さな石塔を積み上げて祈る様子を見て強烈な印象を受けたという。彼等にとって石は、物質でありながら同時に念願を投射する文化人類学的な事物でもあった。パク・ヒョンギの作品は、石に対する韓国人の巫俗信仰の片りんだと言える。観覧客は彼の作品を通じて、韓国の伝統美術に内蔵されている呪術性と巫俗性が先端テクノロジーの中で生まれ変わる様子を体験できた。 芸術的な転用 『グッドモーニング・ミスター・オーウェル』は、1984年1月1日に全世界に生中継されたナム・ジュン・パイクの衛星テレビショーを映像で編集した作品で、ビデオアートが韓国に本格的に知られる契機となった。ナム・ジュン・パイクは、自ら光を出すブラウン管が、ただの影に過ぎなかった写真や映画とは違う美学的な性質を備えていることに早くから注目していた。彼は若い頃は音楽を専攻し、実験的な現代音楽家として日本とドイツで活動し、1960年代初めにテレビを任意に操作することで、商業テレビ放送の一方的な情報支配構造を変化させる作業を展開した。1965年以降には、新しく開発されたビデオを初めて美術分野に活用することで、メディアアートの大きな流れを開いた。 テレビジョンに芸術的な可能性を見出したナム・ジュン・パイクは、その装置とイメージを変形させることで、もともとの設計目的とは違う用途に転用したが、彼のこのような想像力を「事物に与えられた機能や固定観念にとらわれずに、すべてを多機能的に解釈し活用してきた韓国人の柔軟で包容的な思考方式に起因したもの」とみる人々もいる。しかし、マルセル・デュシャンが便器を『泉』に変えたように、これは20世紀の現代美術の主な特徴の一つでもあった。 ナム・ジュン・パイクは、テレビという固定されたメディアを使い、造形的な実験だけではなく、哲学的な思惟を可能にし生命力を与えた。今回の展示では見ることができなかったが、単一の走査線で作られた『テレビ仏陀』(1974)は、瞑想的で祭儀的な初期の作品の特徴を示している代表作だ。長い台座の上にモニターが置かれており、その前に青銅の仏像がモニターに向かって座っている。モニターの後ろのカメラが仏陀を正面から撮影し画面に映し出す。仏陀は画面の中の自分を静かに見つめている。この設置作品は、東洋の宗教と西洋のテクノロジーを結合させたものだとして注目された。釈迦が瞑想を通じて修行した目的は、時間と空間を超越した絶対的な概念である「空」であったが、モニター上のカメラの映像は、抜け出ることのできない自分の肉体を反射している。ナム・ジュン・パイクの芸術的な貢献は、まさに東洋哲学や韓国の伝統思想を西洋のアバンギャルド精神に結合させ、現代アートの言語で造形化させた点だ。 『天地人』オ・ギョンファ(吳景和)、1990 テレビ16台、ビデオ&コンピュータグラフィック カラー、サウンド、27分4秒 作家所蔵 ビデオ彫刻 1980年代後半以降、ビデオ彫刻が新たな形式として浮上した。脱平面、脱ジャンル、混合媒体、テクノロジーなどに対する関心の中で本格的に展開されたビデオ彫刻は、1990年代後半まで続いた。最初は何個ものテレビジョンモニターを積み上げたり、重畳させる作品が主流をなし、1990年代中ごろ以降には、物理的な動きと映像の中の動くイメージを結合させたキネティック・アートのビデオ彫刻が現れた。その中でもキム・ヘミン(金海敏)、ユク・テジン(陸泰鎭)などのアーティストは、観念的で実存的な主題を扱っているという点でパク・ヒョンギやナム・ジュン・パイクと同一の脈絡に位置している。 キム・ヘミンは、メディアに対する深い洞察力をもとに仮想と実際、過去と現在、現存と不在の絶妙な境界を演出してきたアーティストだ。その初期の代表作である『テレビハンマー』(1992/2002)は、ハンマーが画面に振り下ろされるたびにグァーンという音とともに揺れ動くテレビモニターを通じて、実際と仮想の境界を行き来する独特な経験を与えてくれる。ユク・テジンは、古家具のようなオブジェと反復的な行為を撮った映像を結合させ、ビデオ彫刻の独創的な領域を開拓してきた。『幽霊タンス』(1995)は、二つの引き出しがモーターで自動的に閉じたり、開いたりの動作を繰り返すのだが、引き出しの中に設置されたビデオ映像には、背中を見せて階段を上り続けている一人の男の姿が映っている。これはギリシャ神話のシーシュポスのように永遠にどこかに上り続けなければならない人間、そしていくらジタバタしても不条理から抜け出すことのできない宿命を感じさせる。 韓国の巫俗がもつエクスタシーと超自然的疎通が、先端メディアであるビデオとつながっているという事実は非常に興味深い。 2. 『幽霊タンス』ユク・テジン(陸泰鎭)、1995 モニター2台、VCR、古家具、85×61×66cm(WDH) シャーマニズム的芸術 アーティストという存在は錬金術師だ。何でもない材料を使い、互いに組み合わせて新しい存在に生まれ変わらせる。彼らは物質の魂を詳しく読み取ることのできるシャーマンでもある。そうして石や木を人間に変形させたり、ありきたりの物質に魂を吹き込み生命が宿った存在にしてしまう。これは人間中心的な思考ではない、すべての物質を人間と対等な存在として見ているから可能なのだ。シャーマニズムはアニミズム的な世界観に基づいている。アニミズムは宇宙を構成するすべての生命体は生きているとみなす。そしてその存在を生かす力を神だとする。シャーマニズムとアニミズムは死と生、闇と光に分かれる二元性の分離と境界をなくしてしまう。シャーマニズムは死の世界と疎通し対話ができるようにする。芸術もまたシャーマニズムのように死と疎通するために、見えない世界を示すために、行けない世界に触れるために始まったものだ。それで私たちは芸術を通じて目に見えるものが支配する世界から抜け出すことができるのだ。 韓国の巫俗がもつエクスタシーと超自然的な疎通のイメージが、先端メディアであるビデオとつながっているという事実は、非常に興味深かった。それは韓国ビデオアートの魅力的な部分だと言える。その事実を今回の展示が気づかせてくれた。

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