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懐古に明かりを灯す片田舎の無人駅

Image of Korea 2021 SPRING 56

懐古に明かりを灯す片田舎の無人駅

最近、高速鉄道KTXのソウル~安東区間が開通したというニュースがあった。これで安東(アンドン)の北に隣接する故郷、栄州(ヨンジュ)まで1時間40分で行けるようになった。60余年前の寒い冬の日、1955年当時13歳の貧しい田舎の少年だった私は、栄州駅から生まれて初めて一人で汽車に乗った。朝早く乗り込んだ鈍行列車は、見知らぬ数多くの駅を通り過ぎ、あたりが暗くなる頃にようやく終着駅のソウルに到着した。

今やその遥かなる道のりをわずか1時間ちょっとで行けるようになった、何と大きな変化であり発展だろうか。しかし、この新しい交通手段の利便さと安楽さと速度に対する驚きと嬉しさの片隅には、過ぎ去った歳月のスローな人間臭い風景への懐かしさが沈殿している。

© Ahn Hong-beom

少年の最初の汽車旅行は恐ろしさと同時に、物珍しさで胸が躍った。隣の席に座ったおじさんからは「何をしに?  どこへ行くのか?」とたずねられ、中学の入学試験を受けにソウルに行くんだと胸を張って答えたものだ。客車の中は座席も通路も人でいっぱいだった。汽車がトンネル内に入ると客室の中が真っ暗になり、すぐにまた明るくなった。そして機関車が吐き出す黒い煙とその響きが開いた窓から飛び込んできた。

小さな田舎の駅に汽車が停車する。私に茹で卵をくれた前の座席のおばさんは、よだれを垂らして寝込んでいたのにパッと飛び起き、そそくさと荷物をまとめた。汽車から降りたおばさんと一緒に制服姿の幼い少年の後ろ姿が遠くに消えていった無人駅……。風に揺れるコスモスの花がどこまでも続いていた花壇……。そんな片田舎の駅の風景は、私の汽車の旅に欠かせないものだった。

今や高速鉄道KTXは、そんな小さな駅には見向きもせず無心に通り過ぎていくだろう。いや多くの田舎の駅はすでにその機能を失い、だいぶ前に廃駅となって撤去されてしまった。あるいは廃駅となった駅舎をカフェ、スナック、ミニ博物館に改造して、人々が思い出に浸る観光商品になっているかだ。

真夜中に目を覚ました私は、時に幼い少年の自分をそのうら寂しい無人駅の闇の中に座らせてみる。そして過ぎ去った人生を追憶し、無人駅の待合室に明かりを灯して、小説家グァク・ジェグ(郭在九)の詩集『沙平駅で』を口ずさむ。

「……楓のような数枚の車窓をつけて/ 車はま た何処へ流れていくのか / 懐かしい瞬間に呼び覚まされた私は / 頬をつたう一筋の涙を明かりの中に投げ捨てた」

春の食卓の王様 タラの芽

Essential Ingredients 2021 SPRING 58

春の食卓の王様 タラの芽

ほのかな苦みともっちりとした食感が魅力的な「タラの芽」は、 短い春の旬に芽を出し、すぐに姿を消してしまう春の山菜だ。最近では韓国料理と西洋料理の境界がなくなり様々な方法で調理され、 季節の香りを伝えてくれる。

野菜をよく食べる韓国人にとって、春は特別な季節だ。OECD国家の中で一人当たりの1日の野菜摂取量が常に上位にランキングされる韓国、その理由は二つある。一つは野菜を発酵させたキムチ、もう一つは新鮮なナムルだ。多くのナムルが春の山菜だ。植物は成長し大きくなるほど組織はどんどん硬くなり、場合によっは毒素が生じたりする。

タラの芽をナムルとして食べられる時間も決して長くはない。タラの芽は桜が咲く時期に合わせて収穫する。畑で栽培する場合、南部地方では4月初旬、中部・北部地方では4月の中下旬に収穫する。すべての芽が一斉に芽吹くわけではないので3~4回にわけて収穫される。しかし最近では、温室栽培で早春や夏、時には冬でもタラの芽が出荷されることがある。

一年にわずかひと月の、4月に収穫して食べるタラの芽は、深い印象を残して、短い春のように瞬く間に去っていく貴重な春の山菜だ。

魅力的な食感
タラの芽はそのほろ苦い味から、木のようでもあり草のようでもあり、その香りも独特だ。しかし何と言ってもタラの芽の魅力は、その食感にある。沸騰させたお湯でさっと湯がいたタラの芽を口に入れると、柔らかくも歯ごたえがある。

タラの芽には、他の春の山菜から感じるような歯ごたえ感はない。表面には小さなトゲがあり、最初は少し粗い感じがするが、噛むほどにほどよい弾力性があり、極細の糸の束を噛み切るような感じがする。その独特な食感のせいでタラの芽を初めて食べる人は、よく咀嚼することになる。そのためかタラの芽の食べ方は、チョコチュジャン(酢コチュジャン)を付けて食べる魚の刺身の食べ方によく似ている。また、イカを湯がいて一緒に食べ合わせたりたりもする。イカとタラの芽の全く異なる食感が、独特な調和を成すのだ。イカの代わりに豚肉を茹でて薄切りにしたポッサムと一緒に食べてもよい。

1924年に出版された韓国最初のカラー印刷の料理本『朝鮮無雙新式料理製法』に紹介された調理法も単純なものだ。

「生のタラの芽を柔らかくなり過ぎないようにさっと湯がいて、漢方薬の甘草をあつかうように、斜め切りにして塩とゴマ塩をふり、油をたっぷりかけて和えれば、春ナムルの中でも極上となり、まず嫌いな人はいないだろう」。

タラの芽をゆで過ぎると繊維組織が破壊されてしまい、べたっとした物足りない食感になってしまう。茹でる時間を最小限にすることで、風味と食感が残る。独活(ウド)や朝鮮ハリブキなどもすべて湯がいてチョコチュジャンをつけて食べる。1959年4月30日の東亜日報にはこのように、ゴマ塩と油でタラの芽を和えて食べる調理方法に加えて、みじん切りにし味付けした牛肉と一緒に炒めて食べる方法も紹介されている。

チョコチュジャンをつけて食べる方法が最も一般的だが、その場合、チョコチュジャンの味がタラの芽の香りの邪魔をするという短所がある。その一方、醤油漬けにして食べると自然そのままのタラの芽の香りが残り、より風味を楽しむことができる。タラの芽をきれいに洗って水気を切り、貯蔵容器に重ねて詰めた後、醤油1、酢1、砂糖1、水1.5の割合で混ぜて沸騰させた漬けだれをかける。室温か冷蔵庫で2~3日熟成させて食べると、苦味は減り、木と薬草を混ぜ合わせたような香りがさらに濃くなる。食べた後、何だか健康になったような気がする味だ。

芽の部分を切り取り、さっと湯がくとタラの芽の刺身を味わうことができる。太めのタラの芽は縦に半分に切るか、茎の部分に十字型に包丁を入れて中まで火が通るようにして茹でる。

酢、砂糖、塩を混ぜさっと煮立てたもので味つけた酢飯に、茹でたタラの芽をのせ海苔で巻いて食べると春の香りが爽やかな「タラの芽寿司」ができる。

各種ナムル(山菜)と茹でたタラの芽をご飯にのせると、独特な強い風味が味わえるピビンパブとなる。

さまざまな活用
忠清北道堤川でタラの芽農家を営むチャン・ヨンホさんは、タラの芽を利用した醤油漬けとキムチで特許をとった。醤油漬けに使われる醤油、水、砂糖、酢の混合割合と熟成方法が一般家庭で用いる作り方とは違う。3回じっくり熟成させたタラの芽の醤油漬けは真空パックで包装され、冷蔵庫で3年以上保管できるようになる。キムチは一般のキムチと同じ方法で漬けるが、タラの芽をさっと湯通しして水気を切った後で使うという点に違いがある。また、タラの芽を塩漬けにして貯蔵し、必要な時に取り出して塩気をとって食べたりもする。

タラの芽はアスパラガスと似たところがある。両方とも春に芽が出る。さっと湯がいたタラの芽の食感は、茹でたアスパラガスの食感と全く同じというわけではないが、似ている。パスタを茹でて残った茹で汁でタラの芽を湯がいてアンチョビオイルパスタに入れると、東洋と西洋が一つになったような味の料理となる。

細長く切った牛肉をタラの芽と一緒に竹串に刺して焼いて食べていた1970年代の料理法が、最近ハムやカニカマと一緒にアスパラガスを刺して串焼きにするようになったのも、たぶんタラの芽とアスパラガスが似ている点に目を付けた誰かのアイデアではないだろうか。タラの芽を天ぷらにして食べている日本では、アスパラガスも天ぷらにして食べている。

2018年3月17日の中央日報にタラの芽のグラタンのレシピが載っている。茹でたタラの芽にゆで卵をみじん切りして混ぜた後、ホワイトソースをかけてオーブンで焼いた料理だ。春先のタラの芽は、ソウルのパインダイニングレストランのメニューにもたびたび登場する。地元の食材を使った韓国料理のレシピと他国のレシピのフュージョン料理は、春の香りを満喫したいグルメにとって大きな楽しみとなっている。

さっと湯がいたタラの芽の食感と茹でたアスパラガスの食感は、全く同じではないが似ている。パスタの麺を茹でた残り汁で、タラの芽をさっと湯通ししてから、アンチョビオイルパスタに入れると、東洋と西洋が出会ったような味の料理になる。

食材のアイデンティティー
もしタラの芽が話すことができたら何と言うだろうか。自分を韓国料理ではなく、なぜイタリア式にあるいはフランス式に料理するのか、などとはたずねたりはしないだろう。むしろ「あなたの食卓に上らなければ、自分がどんな姿になったか知っているか」とは尋ねるかもしれない。

私たちは時に、食べ物が一つの生命体であるという事実を忘れてしまう。食材としてのタラの芽は見たことがあるが、その芽をそのままにしておけばどんな木に育つのかを考える人は少ない。ステーキに添えられるアスパラガスは何度も食べているものの、アスパラガスの芽が育つとどんな姿になるのかを見た人がいないのも同様だ。

幸い、タラの木からタラの芽をとったり、アスパラガスを採取したとしてもその植物は死なない。収穫した後に枝を切り取り適当な数の枝だけ残せば、夏にはまた大きく育ってくれる。そのまま放置するとタラの木は高さが3~4mにはなろうという大きさになる。しかしそうなると、農家の人々の立場からは木を管理し、タラの芽を収穫するのが難しくなる。枝を切り、芽を間引きし、茎の数を調節すると木の大きさが調節されタラの芽の収穫量を増やすことができる。温室で栽培する場合には、温度が高くなりすぎると芽が大きくなりすぎて繊維質が硬くなり、味と香りも落ちるので農夫は昼も夜も温度と湿度を調節しなければならない。

スーパーマーケットでは、タラの木ではなく芽しか見かけないので、ほとんどの消費者はそれ以上知ることは難しい。今度食卓に上ったタラの芽を見たら、一度自分に問いかけてみたい。タラの芽についてどれだけのことを知っているのかを

高敞 偉大な種子が芽ぶく土地

On the Road 2021 SPRING 43

高敞 偉大な種子が芽ぶく土地

全羅北道の高敞(コチャン)一帯には、美しい自然景観と悲しい歴史が秘められている。 赤い椿の花の咲く早春のある日、韓国農民運動の足跡が生々しく残っている地に、 詩人イ・サンハが駆けつけた。

数千年も受け継がれてきた人類の文明と文化が、新型コロナの波で大きく揺さぶられている。目にも見えず音も立てない敵が、最先端ミサイルに劣らないほど恐ろしいということを痛感している。

今日この瞬間にも我々はなす術もなく、この前代未聞の状況に耐えている。家族や友人が亡くなっても、そばに近付くことはおろか、顔を見ながら花を捧げることもできない。新型コロナは、ささやかな自由も悲しみも容認しない。もしかすると、これまで自由をむさぼり自己欺瞞な我々の生き方に対する強烈な警告かも知れない。同様にこれまで他人の悲しみに付け入って、あるいは自分の悲しみを利用して利益を得たことはなかったのか、一度振り返ってみてはどうだろう。「死を忘るなかれ」という意味の警句「メメント・モリ(memento mori)」-この無力な瞬間に、胸に刻んでおきたい句である。

全羅北道高敞 (コチャン)郡にある禪雲寺 (ソヌンサ)の庵、兜率庵へ向かう道沿いにある「磨崖如來坐像」は、韓国の磨崖仏像の中でも最大規模であり、高麗時代に彫刻されたものと推定される。身の高さ15.7m、膝の幅8.5mで、岩壁の表面6mの高さに座禅を組む姿である。1890年代の東学農民革命当時、農民軍がこの仏像の前で革命の成功を祈ったという話が伝わる。

革命の種
高敞に発つ数日前から寝そびれてしまった。アメリカのテレビドラマ『スパルタカス』(全13話)にはまっていたせいだ。新型コロナによるソーシャルディスタンス(社会的距離)対策のおかげだった。さもなくば、一人でネットフリックスの世界に耽ることもなかっただろう。

ソウル龍山(ヨンサン)駅を出発したKTX高速鉄道が、1 時間40分で光州(クァンジュ)の松亭(ソンジョン)駅に到着した。コロナ禍で乗客が急減し、目的地の近くの井邑(チョンウプ)駅には停車しなかった。出迎えに来た後輩の車に乗り、逆方向に高敞を経由して古阜(コブ)に向かって走った。高敞町内に入るロータリーに設置されている電光掲示板が「朝鮮半島初の首都、高敞へようこそ。四季折々の美しい自然にあふれる禪雲山、東学農民革命(甲午農民戦争、1894)の聖地」というフレーズで歓迎してくれる。ここは朝鮮後期19世紀末、東学農民革命の旗が初めてはためいたところである。そして、その戦士たちの血と骨が埋められている墓でもある。電光掲示板の横には「覆盆子、うなぎ特産品の産地」、「チョン・ボンジュン(鄭鳳俊、1855~1895)将軍の銅像建立に向けた募金へのご協力をお願いします」という垂れ幕もある。もちろん、政府機関が公式に建立した「鄭鳳俊銅像」はいくつかある。しかし今回は、地元民間人の自発的な参加によって建てるという意味らしい。

車が広い野原を通り過ぎて、ある小さな瓦屋根の家の前に止まった。全羅北道井邑市古阜面新中里竹山(ジュクサン) 村にあるソン・ドゥホウ(宋斗浩、1829~1895)の生家である。表門はなく、右側のコンクリートの柱に「東学農民革命謀議の場所」と大きく書かれている。この家が、まさに朝鮮を大きく搖るがした農民革命の種が初めてまかれた所である。上の方向に伸びるものの中で、最も偉大なものは種子だ。かつて、その種をまきながら新しい世界を夢見る人たちがいた。彼らは、互いの目を見つめ合いながら決死の抗戦を誓い合った。その決意の結晶が、チョン・ボンジュン、ソン・ファジュン(孫華仲、1861~1895)、キム・ゲナム(金開男、1853~1895)など、22人の名前が書かれた一枚の「沙鉢通文」である。 沙鉢通文は、主謀者が分からないよう、沙鉢(どんぶり)を俯せて描いた円を中心に参加者の名前を放射状に書いて支持者に知らせるための文書だ。円型に座れば地位の上下関係が判断しにくい。中世ヨーロッパの円卓会議とも似ている。

この沙鉢通文は、東学農民革命が偶発的な出来事ではなく、長らく続いた暴政に抵抗するための草の根・民衆による計画的な事件だったことを証明する。同文書に書かれた4つの行動指針も、「全州監営(全羅道の行政府)を陥落し、ソウルへ直ちに向かう」という一種の戦争宣言文だった。ところで、この革命軍の極秘文書が今まで保存されているというのは奇跡的である。この村に住む宋俊燮氏の家の床下に埋められていた文書が偶然発見されたのは53年前。当時、革命が失敗すると、政府の鎮圧軍が「逆賊の村」という理由でこの村の住民を無差別に虐殺し、家を焼き払ってしまった。沙鉢通文は、誰かが密かに埋めたからこそ現在に甦ったのである。

この家と向かい合っている家が、私を案内してくれた後輩の祖父の住んでいた家だ。この2軒の家を交互に見つめている後輩の目が涙ぐんでいるように見えた。心が波立った。私が敢えてここを先に訪れた理由は、126年前に斬首されたある革命家の息吹を感じ、黙祷を捧げたかったからである。ここからあまり遠くない場所に「東学革命謀議塔」が見えた。沙鉢通文の署名者たちの子孫が建立したものである。すぐ近くには「東学農民軍慰霊塔」もある。命を落とした数十万人の名もなき勇士達を称えるための塔である。古阜での1次蜂起(反政府闘争)は成功を収めたが、公州における牛禁峙の2次蜂起(抗日独立闘争)は惨敗に終わった。朝鮮軍と日本軍の銃に農民軍は全滅した。竹槍などが銃に敵うはずがなっかったのだ。

慰霊塔の前に白いご飯一膳が置かれている。このご飯のために飢えた農民たちがつるはしと鎌を高く掲げたのだ。マスクを分かち合うように、ご飯も分かち合わなければならない。広大な野原を眺めると、ソウルへ進軍する東学農民軍とローマに向かって進軍する指導者スパルタクスの率いる戦士達の姿が重なって見える。二つの革命はいずれも斬首された。「手ぶらでも握れば拳になる」と叫びながら戦ったスパルタクスの奴隷たち。あれ程切望していた奴隷解放を成し遂げ、自由を得たにもかかわらず、彼らが自嘲的に吐き出すあの絶叫が私の胸を引き裂いた。「金がなければ自由もない」。まさにそうである。腹を満たす飯のない自由など死にほかならないのだ。食事にも事欠く自由しか持っていない弱者なんて、ただの奴隷に過ぎない。数千年が経った今も、状況は当時とさほど変わっていない。ただ、現代版の奴隷は足についていた「足かせ」が心の足かせに変わっているだけである。

毎年3月下旬になると、国内最大の椿の群落地である禪雲寺周辺の椿のつぼみが開き始める。深紅の花びらと光沢ある緑の葉が千年の古刹を背景に、一幅の絵のような美しい景色を作り出す。

禪雲寺の大雄殿の向かい側に開放型様式で造られている萬歳楼は、説法のための講堂として建てられた。この寺の記録によると、1620年に建てられた当時は大陽楼と呼ばれたが、火災で焼失し1752年に再建されて以来、萬歳楼と呼ばれるようになった。天井の大梁や垂木、柱を保存してそのまま使っているのが特徴である。

海からの贈り物
そんなことを考えていると、胸が苦しくなってきた。トンネルの中に閉じ込められたように息苦しかった。高敞の支石墓遺跡に向かう途中で、あの重い石に私の胸を押さえつけられそうな気がして、禪雲寺の方へと方向を変えた。森閑とした寺へ行って、気持ちを落ち着かせて心の中の埃も洗い流したかった。しかし、いざ到着すると、お寺は椿を見に来た人々で溢れていた。椿の花は、兜率庵(トソルアム)の岩の絶壁に刻まれた磨崖仏と並んで禪雲寺を代表する象徴のひとつである。

禪雲寺(ソンウンサ)は、577年、百済の黔丹僧侶と新羅の義雲僧侶が創建した寺院である。当時、両国は戦争中で多くの避難民が発生した。敵国の国民ではあったものの、二人の僧侶は避難民たちを救済するために力を合わせて寺を建て、そこに生活共同体を築いた。飢えている人たちの生計を助け、孤児たちの養育と教育にも努めた。この寺はもともと難民救済所だったのである。それから約1300年後、農民軍が兜率庵の磨崖仏の前で革命の成功を祈ったのもそのような背景があったからだった。このような思いに耽ながら、大雄殿の裏手にある鬱蒼とした赤い椿林の間を行き交う僧侶たちをじっと眺めた。

寺を出て海辺に走った。扶安(プアン)の邊山半島にある格浦港と向かい合っているドンホ海水浴場とクシポ海水浴場が位置する明沙十里である。一直線に1km以上も続く美しい砂浜に沿って、樹齢数百年の松の木が鬱蒼と茂っている。若芽のような春風が吹くたびに、松の香りに耳を洗う。松林の風の音は茶の沸く音に似ている。

白い砂浜の向こうに干潟が果てしなく広がっている。韓国の西海は、世界でも干満差が大きいことでよく知られている。海が陸地になり陸地が海になるここでは、日々それが繰り返される。今私が立っている地はやがて海になる。広々と広がる干潟を見ていると、海をひときれ取って塩田を作ったという人物が思い浮かんだ。文禄・慶長の役(1592~1598) 当時、李舜臣(イ・スンシン、1545~1598)将軍は軍需品が底をつくと、海辺の一部に大きな釜を作って海水を注ぎ、それを蒸発させた。こうして大量生産された塩を売って数千トンの兵糧を手に入れたのだ。彼は優秀な戦闘指揮官であり、明敏な経営者でもあった。

ここの海水は塩度が高く、皮膚病や神経痛患者が利用する海水浴や砂風呂としても有名だ。周辺に大規模な塩田が多いのもそのためである。松林の上の丘から海を眺めていると、思わず裸足で長い砂浜を歩きたい衝動に駆られた。靴と靴下を脱いで砂浜を歩いた。裸足が冷たい砂に触れるたびに新しい感覚器官が作られるような驚きを感じた。白い砂浜を散歩しているうちに日が暮れ始めた。夕焼けが椿の花が落ちる直前のように官能的で荘厳だった。

高敞を訪れた以上、夕食のメニューは定番の風川長魚(うなぎ)焼きと覆盆子(ボクブンジャ、ブラック・ラズベリー)の酒 。この地域の名物である「風川長魚」は海と淡水が混じりあう場所で獲れる。健康食としてよく知られている。「馴染みの客だけが訪れる」といわれる、繁華街から外れた野原の片隅にある食堂へ向かった。庭も室内も広々としている「兄弟水産 風川長魚」という名前の食堂である。主人が直接焼いてくれる堅炭焼きうなぎのタレが一味違う。タレには、漢方薬草、穀物酵素、薬草酒などおよそ200種類以上の材料が入っているという。旬のおかずも食材も、すべて有機栽培だという。自家製の覆盆子酒も実に素晴らしかった。うなぎと酒が調和を成し、すでに停止した成長細胞が再開するかような味だった。

芽高敞郡の孔音面にある鶴園農場一帯の青麦畑は、毎年春になると50万人が訪れる観光名所である。ここで開催される青麦畑祭りは地域最大のイベントだが、昨年から新型コロナで行事開催が暫定的保留となっている。

青麦畑一帯の位置を示す小さな将軍標(魔除けのための境界標)。案内板を兼ねた様々な将軍標が、約30万坪規模の広い青麦畑周辺のあちこちに立っている。

花は咲いてこそ実を結ぶように、美しさを捨ててこそ、新しい生命が誕生する。今さらながら、春の雨に濡れゆく野原の新芽に驚かされる。今回の紀行は、新しい風景を見つけるのではなく「新しい目」をもつ旅だった。

高敞郡には約1,600基の先史時代の支石墓(ドルメン)が分布し、韓国最大の支石墓群を形成している。 高敞の支石墓遺跡は和順、江華遺跡と共に2000 年にユネスコに世界遺産として登録された。

毎年春から秋にかけて週末には、高敞邑城前の庭で高敞農楽公演が繰り広げられてきた。 邑城の前には、朝鮮後期のパンソリの大家、申在孝(1812~1884)の生家があり、ここでも伝統音楽の公演が開催されたが、新型コロナのため昨年からすべての公演と行事が中止されている。

支石墓群
翌朝早く、町内の支石墓展示場を見て回って大山面(テサンミョン)へ向かった。天然の歴史が息づく原型そのままの支石墓と対面したかった。村の入口から大山の中腹へ向かう細道は支石墓(ドルメン、新石器時代-初期金属器時代の巨石墓)だらけだった。大きな山がまるで屋外の先史博物館そのもののようだった。支石墓にはそれぞれ番号が付けられていて、上の方に向かうにつれて数字が低くなっている。山の頂上にある1号を直接見たかったが、疲れすぎて仕方なく諦めた。

朝鮮半島は世界の支石墓の6割を占めるといわれ、中でも高敞遺跡は1600基余りで世界最大の支石墓群を成している。その形式も独特かつ様々で、支石墓の築造過程の変遷を明かす重要な資料として2000年、ユネスコに世界遺産として登録された。高敞は群全体が文化遺産だと言っても過言ではない。2013年には美しい自然環境と生物資源の多様性が認められ、郡全体が「ユネスコ指定生物圏保全地域」にも指定されている。

午後には疲れた足を引きずって鶴園農場の青麦畑を訪れた。時期的にはまだ少し早いが、毎年4月になると周辺の菜の花も咲き乱れ、年間数十万人が訪れる観光名所である。青青と若芽が出る畑の堤の間を歩きながら、もう高敞旅行はここまでにしようと考えていると、急に雨が降り出した。花は咲いてこそ実を結ぶように、美しさを捨ててこそ、新しい生命が誕生する。今さらながら、春の雨に濡れゆく野原の新芽に驚かされる。今回の紀行は、新しい風景を見つけるのではなく「新しい目」をもつ旅だった。

高田里塩田村

雲谷ラムサール湿地

高敞支石墓博物館

高敞パンソリ博物館

一つのコリアに 向けた 共同作業

Tales of Two Koreas 2021 SPRING 62

一つのコリアに 向けた 共同作業

北朝鮮出身の作家、コイと彼女のメンターでありアートセラピスト兼作家のシン・ヒョンミの展覧会『再び、南向きの家』が、2020年11月25日から30 日まで、ソウル仁寺洞トポハウスで開かれた。この展覧会は二人の作家の共同作業を通じて、脱北者の韓国定着過程と南北の相互理解、そして統一に向けた願いを、生き生きと表現したもので多くの関心を集めた。

脱北者の作家コイは自らのことを、より大きな大河で思いっきり泳ぎまわりたくて水槽から飛び出した魚に例える。「錦鯉」とよばれる鯉は小さな水槽に入れておくと5~8㎝くらいにしか育たない。しかし、池では15~25㎝、大河では90 ~120㎝まで大きくなるという。コイというニックネームは「広く自由な」韓国の地で彼女が育んでいる大きな夢を物語っている。

コイは18歳だった2008年12月に、一人で咸鏡北道清津の家を出て国境を越え、中国に到着した。彼女が危険な旅路を決心したのは、家族と共に北を脱出し韓国で暮らしていた親友の強力な勧めによるものだった。両親も彼女の意志を曲げることはできなかった。そして紆余曲折の末にタイを経て2009年3月に夢に見た韓国の地を踏むことができた。彼女は「生まれたばかりの子犬はトラの恐ろしさを知らず」ということわざのように、何も恐れずに国境を越えてきたと当時を振り返る。そして、もしもあの当時に戻ったのなら到底踏み出せないだろうと言う。

北朝鮮で高校を卒業したコイは、ソウルで美術大学に進学する夢を抱いた。アルバイトで生活費を稼ぎ、代案学校(フリースクール)の「空夢中高等学校」に通いながら大学入試の準備をした。そして2012年に弘益大学校繊維美術ファッションデザイン科に入学した。この学科の最初の脱北者入学生となった。

『シグマが抱いた朝鮮半島の地図』 2020、木製、アクリルペイント、160×100 cm 仁寺洞トポハウスで2020年11月25日から30日まで開かれた、北朝鮮出身の作家コイ氏と彼女のメンターでありアートセラビスト兼、作家シン・ヒョンミ氏の展示会『再び、南向きの家』に展示された共同作品、数列のシグマ記号からインスピレーションを得て朝鮮半島を表現した。

『ユニットハーモニ (Unit Harmony)』 2020 特殊ファブリック (繊維) 100×100cm 統一を願う人々の祈りが多くなれば、一つになった朝鮮半島を作ることができるという作家コイ氏の考えがこめられた作品だ。

偶然、または必然
入学後コイは、脱北青年クリスチャン連合会でアートセラピストをしていた作家シン・ヒョンミ(辛亨美)と出会った。シンはコイと初めて会った日のことをはっきりと覚えている。「2013年に初めて会った時、コイが非常に明るく前向きな性格であることが一目で分かりました。当時私は、キリスト教大学校監理会が脱北青少年のために支援していたグループセラピーのカウンセリングを担当していましたが、そこでコイが私の個人的な指導を強く望んでいることを知りました。その時からずっとメンターの役割をしています。コイは私が与えるすべてのことに感謝し、素直に受け入れてくれ、絶えず成長しています」。

韓国と北朝鮮出身の二人の作家が「統一」を主題に九つの作品を発表した『再び、南向きの家』は、メンターとメンティーとして続いてきた特別なつながりの結果であり、作家としてコイが世に出る初の個展でもある。統一部の南北統合文化コンテンツ創作支援事業の一環として企画されたこの個展には、二人の作家の共同作品3点と各自の作品が3点ずつが出品されている。絵画、繊維テキスタイル、設置、絵具プロジェクトなど多彩なジャンルを組み合わせた作品には、脱北者が自由と平和の中でより良い暮らしをするために、韓国にやって来る姿が描かれている。『南向きの家』は、心の中の日当たりのよい暖かな家を象徴している。

共同作業の一つである『シグマが抱いた朝鮮半島の地図』は、数列のシグマ記号Σにヒ 長い間立ち止まっていました。運動靴の中の手紙を一つ残らず読んで涙を流している方もおり、中には大きな感銘を受けたという感想を書いていかれた方もいました。私にとっても一番大切な作品です」。

彼女のもう一つの作品『ユニットハーモニー(Unit Harmony)』は、願いを書いて飛ばせばその願いが叶うという紙飛行機にヒントを得た。一つ一つのユニットは、それぞれ異なる個人の夢を象徴している。そのすべての夢が一つに合わさり、さらに大きな夢が叶うように、南北統一への祈願が高まれば一つになった半島を作ることができることを表現した。

「北にいる友人50人に安否を伝えるために、靴の中敷きに一人一人へ送る自筆の手紙をしたためました。北においてきた家族と友人に対する恋しさと統一の願いを込めました。多くの観覧客の皆さんがこの作品の前で長い間立ち止まっていました。運動靴の中の手紙を一つ残らず読んで涙を流している方もおり、中には大きな感銘を受けたという感想を書いていかれた方もいました。私にとっても一番大切な作品です」。

彼女のもう一つの作品『ユニットハーモニー(Unit Harmony)』は、願いを書いて飛ばせばその願いが叶うという紙飛行機にヒントを得た。一つ一つのユニットは、それぞれ異なる個人の夢を象徴している。そのすべての夢が一つに合わさり、さらに大きな夢が叶うように、南北統一への祈願が高まれば一つになった半島を作ることができることを表現した。

疎通と忍耐
シン・ヒョンミの作品『長距離走のトラック』は、アートセラピストとして働きながら、彼女が出会った多くの脱北者の中から記憶に残っている46人の長く辛い旅路を具現したものだ。 「私にとって長距離走は幼い頃から辛いものでした。脱北者たちが韓国に到着するまで危険な瞬間も、安堵の瞬間もあったでしょう。長距離走のトラックで感じる感情と比較すればどうかと想像して作りました」。

シンのもう一つの作品『場所』は、椅子シリーズの一つで自分の心の座を占めている相談に来た何人かの脱北者を表している。

メンターとメンティーの関係ではあるものの、二人の作家の生きてきた環境や過程が異なるため、今回の作業をしながら価値観の違いを実感したと言う。そのため疎通と配慮、忍耐が必要で「南と北の統合」に苦悩したと言いう。

コイは、予想よりもはるかに多かった観覧客が大きな勇気を与えてくれたと言う。

「新型コロナにより観覧客が低調だろうと予想していましたが、予想外にも多くの方たちが見に来てくださり驚いています。私の才能を統一のために意味あるものとして使うことができるという確信を得ました。特に一人で何かを成し遂げることよりも『韓国の作家と北朝鮮の作家が一緒に』達成したということだけで、すでに統一への最初のボタンをかけたように思えました」。

この展示はシン・ヒョンミが企画提案して推進した。2008年にソウル女子大と仁川東部教育長の共同プロジェクト「一つになるための脱北青少年芸術治療教育」が発端となって開かれた展示『南向きの家』の延長線上の展示会だ。今年の春、民主平和統一諮問会平和分かち合いギャラリーでもう一度展覧会が開かれる。

「私たちは企画段階から一度きりではなく、今後も続けていく展示にするために準備しました。今回を契機により大きな展示プロジェクトに発展させ、多くの人々が参加して疎通し、統一に向けての前向きの認識を抱いて、北朝鮮に自然と近づく懸け橋の役割をする計画です」と作家シンの説明だ。

そのすべての夢が一つに合わさり、さらにその夢が叶うように、南北統一への祈願が高まれば、一つになった半島を作ることができることを表現した。

『君と共に歩く南向き の家に向かう道』 2020、ファブリック、ハンドライティング、運動靴50足を用いたインスタレーション  作家コイが北朝鮮で履いていたのと同じ運動靴50足の中敷きに、友人一人一人に自筆の手紙を書いた作品を通して、友人たちへの思いを表現した。

アートセラビスト兼、作家シン・ヒョンミ氏(左)と彼女のメンタリングを受けている北朝鮮出身の作家コイ氏の特別な縁は、「統一」を主題とする初めての作品展『再び、南向きの家』で結実をみた。シン・ヒョンミ氏は、明るく前向きな性格のコイ氏の芸術世界が絶え間なく発展していることが嬉しいと言う。

夢に向けての歩み
コイは現在、韓国ファッション関連業界で働きながら弘益大学校ファッション大学院でファッションビジネス学の修士課程にいる。2016年にはコーロングループの後援でコモングランドで南北の青年作家9人による展示会を企画し参加した。彼女の夢は統一に備えてファッション産業と文化芸術分野に影響力を持つ専門家になることだ。

シン・ヒョンミは2004年から脱北者と深い絆を保っている。「国境なき医師団」でボランティアをしていて、一人の脱北少年と知り合ったのが契機となった。アートセラピストである彼女は、脱北者の定着を支援するハナウォンで絵を通じた心理相談を行い、彼らの心を治療し疎通してきた。アメリカのオハイオ大学で純粋美術絵画を専攻したシンはソウル女子大学校大学院で臨床美術学で修士の学位をとり、車医科学大学校臨床美術治療学の博士課程に在学中だ。脱北者が韓国社会で健康な暮らしを営めるように支援することが国家・社会的な課題だという信念で、韓国社会の多様な視覚の転換を図るためにいろいろな活動を準備中だ。

『歳寒図』 国民の宝となる

Focus 2021 SPRING 71

『歳寒図』 国民の宝となる

朝鮮後期の実学者キム・ジョンヒ(金正喜)の『歳寒図』は、流刑地となった済州島で1844年に描いた水墨画で、韓国文人画の最高傑作だと評されている。昨年、個人の所有コレクションだったこの有名な作品が国立中央博物館に寄贈された。政府はその功に対して文化勲章を授与し、当博物館では特別展を開催している。国宝が長い歳月を経て、ついに国民の懐に抱かれた。

2020年12月8日、韓国政府は13名の文化遺産保護有功者(文化財所有者など)に勲章を授与した。この日の受勲者の中で最も注目されたのが、美術愛好家で個人コレクターのソン・チャングン(孫昌根)氏だった。この日の受勲者の中で唯一、最高の栄誉である「金冠文化勲章」を受けたからだ。この勲章が生存者に贈られるのは極めて稀なことだった。

「生涯をかけて収集した国宝・宝物級の文化財を何の条件もつけずに国に寄贈し、その中でも特に計り知れない価値ある国宝『歳寒図』を、2020年1月に国民の財産とし、国民の文化財享有の増大に多大な寄与をした」というのが、文化財庁の勲章授与の理由だ。ソン・チャングン氏は去る2018年、すでに数百点の美術品と文化財を国立中央博物館に寄贈している。当時所蔵していたすべてのコレクションを寄贈しようとしたが、最後の瞬間に唯一つ手元に残したのがこの『歳寒図』だった。それだけ愛着の深い作品だったということだ。

『歳寒図』 キム・ジョンヒ、1844  紙に水墨、23.9×70.4㎝  国立中央博物館所蔵 国宝『歳寒図巻物』に収められているが、長さ70㎝ほどの絵である。『論語』の一節に、キム・ジョンヒの自らの身の上と心情を反映した発文が左側に書かれてある。松とコノテ柏、その間にある素朴な茅ぶきの家で、流刑地済州島の孤独で荒涼とした風景を描写したこの絵は、朝鮮時代の文人画の代表作だと評価されている。

『 阮堂先生海天一笠像』 ホ・リョン(許錬、1808~1893)  19世紀、紙に彩色、79.3×38.7㎝  アモーレパシフィック美術館所蔵 朝鮮後期の山水画の大家ホ・リョンが描いた、済州島で流刑生活中の師キム・ジョンヒの姿。中国清朝の詩人ソ・ドンパ(蘇東坡)を描いた『東坡笠屐図』がこの作品のモチーフとなっている。ホ・リョンは普段からソ・ドンパを尊敬していた師のために『東坡笠屐図』 に師の姿を投影した。

流刑地の師への贈り物
1974年に国宝第180号に指定された『歳寒図巻物』は、紐解くと全長1469.5㎝に達する。その中でキム・ジョンヒ(金正喜、1786~1856)が描いた『歳寒図』は、長さ70㎝ ほどであり、残りの部分はこの絵に対する幾人もの人々の感想・評価で埋め尽くさられている。そのため『歳寒図』は、後日継ぎ足されて装丁された巻物とは区分して理解する必要がある。どうしてこのように絵よりも感想文の方がより長い巻物が作られたのか?

キム・ジョンヒが生まれた18世紀末の朝鮮半島は、朝鮮王朝(1392~1910)が統治していた。当時欧州ではルイ16世に反旗を翻したフランス革命が勃発、アメリカでは8年間に及ぶ独立戦争の末、1783年にイギリスとフランスから完全に独立した。朝鮮はこのような激変する世界の潮流とはかけ離れたまま、依然として隣国中国清朝の影響を多大に受ける儒教国家だった。その一方では、一部の学者たちが中心となり実用主義の学問が活気を帯びて徐々に近代が胎動しようとしていた。

王室の遠い親戚として富裕な家柄に生まれたキム・ジョンヒは、考証学や金石学など多方面に関心を持ち、若い頃から先進学問を身に着け、24歳の時には使臣として清国を訪問することになった父に従い燕京(現在の北京)を訪れ碩学とも交流した。キム・ジョンヒはチュサ(秋史)、ウォンダン(阮堂)という号でも広く知られており、文人として身につけなければならない素養である詩・書・画のすべてにずば抜けた才能を示し、特に独創的な書体である「秋史体」を創案したことで知られている。

19世紀の朝鮮は、幼い王が相次いで即位したことで外戚の権勢が頂点に達していた政治的な混乱期にあった。実学や天主教(カトリック)のような新式の思想や宗教は、保守的な支配層の反発をかい、政敵を朝廷から追放し流刑に処することがしばしば行われた。キム・ジョンヒも政敵の策略に陥り1840年、55歳で流刑地の中でも最も遠く、険しい地域であっ た済州島に流された。家から外にも出られないという最も厳しい蟄居刑は、8年4カ月にも及んだ。

彼は流刑期間の間、絶え間なく疾病に悩まされ、さらに妻まで死亡するという悲劇に見舞われた。そして絶望の中で書と絵に没頭していった。そんな彼に訳官である弟子のイ・サンジョク(李尚迪、1804~1865)が船便で送ってくれた貴重な書籍と燕京の最新の情報は、大きな慰めとなった。イ・サンジョクは清国を往来する際に買い集めた書籍を流刑地で一人寂しく過ごしている師に送ったのだった。

『歳寒図』はこの時期、キム・ジョンヒがイ・サンジョクに贈った絵だ。絵には一軒の素朴な家を中心に左右に松とコノテ柏が対称を成して立っており、周囲は余白として処理されている。絵の左側には他の紙を貼り付けて枠を書き、これまで本を贈ってくれたことに対する御礼の気持ちが端正な書体で書かれている。続いて『論語』の「子罕」篇にある『寒さの厳しい季節になり、ようやく松と柏の葉が枯れないことを知る(歳寒然後 知松柏之後凋)』という一節を引用した。絵の題目はこの引用文の最初の二文字をとったものだ。済州島での孤独な流刑暮らしを「寒い季節」に例えて、逆境の中でも変わることのない師弟間の友情を表現したものとみられる。

長さが1,469.5cmに達する『歳寒図巻物』には、キム・ジョンヒからこの絵を贈られた弟子のイ・サンジョク(李尙迪)が、中国清朝の知識人16人に書いてもらった感想文が書き綴られている。
中国清朝の知識人たちは、この絵に秘められている意味を念頭に置きながら、君子が志操を守ることの重要性について書いている。
実学者兼、金石学者であり朝鮮最高の書道家のキム・ジョンヒは、絵の左側に他の紙をつなげて、弟子のイ・サンジョクへの感謝の気持ちをはじめ、流刑中の自分の心境を書き綴っている。
この絵の3人目の所有者であったキム・ジュンハク (金準学、1859~?)が、1914年に書いた『阮堂歳寒図』という五文字と感慨を書き記した詩。



国境を超える長い旅路
師から『歳寒図』が届いた時、イ・サンジョクは清国に向かう準備をしているところだった。感激し、そのまま絵を持って燕京に向かった。燕京ではイ・サンジョクの訪問を歓迎する宴が開かれ、その席には清国の知識人17名が集まった。その席で師からもらった『歳寒図』を披露して感想文を頼み、その中の16名が文を書いてくれ、それが現在まで伝わることとなった。彼らは大部分君子が志操を守ることの難しさと大切さについて言及した。

この巻物には合計20名の感想文が書かれているが、清国人の16名を除いたあとの4名は朝鮮からの訪問者だった。ここには多くのエピソードが含まれている。この絵は最初の所有者だったイ・サンジョクが亡くなった後、その弟子に、そしてその息子にと引き継がれた。その後もう一人を経て、20世紀前半の日本植民地時代に、日本人学者・藤塚鄰(ふじつかちかし、1879~1948)の手に渡った。京城帝国大学(現ソウル大学校)中国哲学科教授だった藤塚は、キム・ジョンヒに関する研究に打ち込んでおり、キム・ジョンヒと関連した膨大な資料を収集する過程でこの絵も所有することになり、1940年に日本に帰国した。

一方、キム・ジョンヒの書画を研究していた書道家のソン・ジェヒョン(孫存馨、1903~1981)は、日本に渡ってしまったその絵を譲ってほしいと1944年東京の大東文化学園の院長をしていた藤塚のもとを訪れた。そして「何でも望み通りにするから、作品を譲ってほしい」と頼んだ。しかし藤塚は自分もキム・ジョンヒを尊敬していると言って、ソン・ジェヒョンの頼みを断った。しかし、ソン・ジェヒョンは譲ってくれるまではあきらめないと2カ月間、毎日藤塚のもとを訪れ続けた結果、ついにその年の12月藤塚は「歳寒図を手にする資格のある人物はあなただ」と言って、何の対価も求めずにソン・ジェヒョンに作品を譲ったのだった。その翌年の3 月、東京は米軍による東京大空襲を受け、藤塚の研究資料も大部分が灰燼に帰してしまった。

1945年8月15日、朝鮮半島は35年間の日本の植民地支配から解放された。ソン・ジェヒョンはその喜びを込めて『歳寒図巻物』に、当代を代表する学者や政治家3名の感想文を求めた。彼らは国を取り戻した感激とともに、日本人から『歳寒図』を取り戻してきたソン・ジェヒョンを称賛する文を記した。当時彼は絹の巻物を新たに仕立て直し、所々に余白を残した。たぶんより多くの感想文をもらおうとしたものの実現できずに終わったようで、巻物の相当部分が今も余白のままだ。

その後ソン・ジェヒョンは1971年に国会議員選挙に立候補し、選挙資金のために『歳寒図』を含めたコレクションを売り払うことになった。次に渡った先が、高麗人参貿易で大きな富を築いた開城出身の事業家ソン・セキ(孫世基、1903~ 1983)だった。文化財に対する秀でた眼目をもっていたソン・セキは、キム・ジョンヒの作品を特に愛蔵していた。そしてそのコレクションを受け継いだのが昨年、金冠文化勲章を受章した長男のソン・チャングン氏だ。

二世紀に渡り韓国から中国、 そして日本へと、多くの人々にインスピレーションを与えた『歳寒図』が、デジタル時代にも新たな作品の素材として再解釈されている。

メディアアーティストのジャン・ジュリアン・プシュさんは『歳寒図」に対する感想を白黒映像作品『歳寒の時間』を通じて表現した。

巻物の最後の部分には、20世紀の学者や政治家など4人の感想・評価も書かれている。
巻物の一番最後には、漢学者チョン・インボ(鄭寅普、1893 ~1950)の非常に長い感想・評価がある。彼はキム・ジョンヒの心境を推し量る一方で、この絵を見ることは国を取り戻したような喜びだとも記している。
書道家オ・セチャン(呉世昌 1864~1953)は、第2次世界大戦の終戦間近に砲弾を浴びる東京からこの絵を苦労の末に持ち帰ったソン・ジェヒョンの勇気を大いに称賛している。
『蒙古遊牧記』などを著述した中国清朝の学者チャン・モク (張穆、1805~1849)は、キム・ジョンヒに送った書簡の形で 感想評とした。



21世紀のフランス人の解釈
2020年11月末、国立中央博物館は『歳寒図巻物』の寄贈を受けたことを記念する特別展『真冬が過ぎて春が来たようだ―歳寒・平安」展を開催した。『歳寒図』が展示されたことはこれまでも何度かあったが、巻物全体を公開したのは2006年以降はじめてのことだ。4月4日まで会期が延長されたこの展示では特に注目されるものがある。イントロダクションとして制作された白黒の映像『歳寒の時間(Winter Time)』だ。この7分間の映像には済州島の風と波、休みなく巣を張っていく蜘蛛と松が生い茂る森の様子などが映っている。

この映像を制作したメディアアーティストのジャン・ジュリアン・プシュは、中央日報とのインタビューで「歳寒図には多くの感情が含まれているだろうが、孤独が一番大きかったのではないかと考えた」として「最近私たちも新型コロナの感染拡大により、孤独な都市に暮らしている状況なのでより一層強く心に迫ってきた」と説明している。精蜜な美的感覚が感じられるこの作品は、21世紀のフランス人が『歳寒図』に書き残した感想文だと言えよう。二世紀にわたり韓国から中国へ、そして日本へと渡り多くの人々にインスピレーションを与えた『歳寒図』が、デジタル時代に新しい作品素材として再解釈された。

People

マイカーで楽しむ旅

Lifestyle 2020 WINTER 51

マイカーで楽しむ旅 高価なキャンピングカーを購入したりレンタカーを借りなくても、マイカーでキャンプを楽しむ「チャバㇰ(車中泊)」が新たなレジャー文化として浮上している。新型コロナウイルスの感染拡大によりその人気が急増している、非対面型の野外活動だ。 忠州湖の湖畔でチャバク(車中泊)をする愛好家ら。チャバクはキャンピングカーではなく乗用車で夜をすごす旅行のことで、最近の新しいレジャー文化として定着している。 © イ・ジョンヒョク(李正赫) 「最初に1列目の椅子をできるだけ前方に押し出してください。その次に2列目の椅子も同じ方向に倒してください」。 あるユーチューバーが自分のSUV車の内部を指しながら話している。30秒もかからずに内部空間を広くした彼は「これで床にマットを敷きます」と言い、「その前に自分が横になれるのか、椅子を倒した後の空間の縦、横の長さを測ってみます」と付け加えた。続いて車の内部の横幅がおよそ1m、縦の長さは1m95㎝だと測定された。 彼は「この程度なら一般の成人男性も楽に横たわることができます」と言い「皆さんがカップルならば仲良く二人でキャンプを楽しむことができます」とほほ笑んだ。去年7月にユーチューブにアップロードされた車中泊の準備過程を扱ったこの動画は、今年10月基準で再生回数が10万回を超えた。 「車中泊」とは、車と宿泊を合わせた新造語で「車に泊まる」という意味だ。旅に出て車で宿泊するなら、厨房施設にベッドもついているキャンピングカーを連想するものだが、車中泊は必須装備だけを整え、普段使っているマイカーで寝るというものだ。よってほとんどが車内空間の広いSUV車を利用しているが、運転席の後ろの椅子を倒して空間を最大限に広げれば、それなりに一晩眠れる空間を得ることができる。最小限の荷物だけで、キャンプのような感覚を楽しむことのできる新しい旅行形態だ。 トランクをフラットにした後、装飾した車中泊用の車両。若者世代の間では車中泊に必要なマットと装飾用の小物を直接作るのが一種のトレンドとなっている。ⓒ パク・ナムジュン 車中泊には、主に車内空間の広いSUV車両が使われるが、一人旅なら折り畳み式シートの一般の乗用車でも可能だ。ⓒ gettyimages 車中泊の最も大きな長所は、やはり場所を選ばずに宿泊できることだ。わざわざキャンプ場や自然休養林にまで出かけなくても、気が向けばどこにでも停めることができるのだ。 新しいレジャー文化 韓国自動車産業協会の報告書によれば、トラックと乗用車の長所を持ち合わせたピックアップトラックの販売台数が、2017年は2万2000台だったのが翌年には4万2000台の90%以上増加した。またキャンピングアウトドア振興院は、同じ期間に国内のアウトドア産業規模が2兆ウォンから2兆6000億ウォンを記録し、30%以上成長したと発表した。 キャンプ用品市場も今年、爆発的な成長を遂げた。オンラインショッピングモールのSSGドットコムは、6~7月の売上高を分析した結果、車のトランクと連結して使うドッキングテント(カーサイドテント)とテントの中に敷くエアーマットの売上げが直前の2か月よりもそれぞれ664%、90%増えた。キャンプの必須アイテムのアイスボックスの売上げは10倍以上増加した。大手スーパーのロッテマートも同じ期間のキャンプ用品の売上げを前年比で分析した結果「椅子やテーブルなどを含めたキャンプ用品は103.7%、寝袋、マットレスなど寝具類は37.6%、テントは55.4%、キャンプ用の炊事用品は75.5%それぞれ増えた」ということだ。 2018年頃から世間で話題になり注目されていた「車中泊」は、テレビ番組で紹介されて人気に火が付いた。今年3月MBCテレビの代表的な芸能番組の『私は一人で暮らす』は、ある人気俳優が自家用車で海辺に行き、アイドル歌手と一緒にキャンプを楽しむ姿を放送した。彼は車の後部座席を全面的に改造し、車の中に電球もつけて夜も温かな雰囲気を演出していた。この放送が流れた後、ポータルサイトのリアルタイム検索に「車中泊」が登場し、SNSでは「車中泊をしてみたい」という反応が爆発的に増加した。インスタグラムのハッシュタグで「車中泊」を検索すると数十万件の記事がヒットした。 新しい魅力 この新しいレジャー文化が急激に成長したのにはいくつかの理由がある。まず面倒な準備なしに出かけたい時にさっと旅に出られるという点だ。金曜日のアフターファイブに出発し、海辺で過ごすこともでき、山林で翌朝にさわやかな空気を吸うこともできる。映像一つで40万件以上のアクセス数の記録をもつ女性ユーチューバーは、一人で余裕を楽しむには「車中泊」が一番だという。特別な装備なしにキャンプを楽しめる点も人気の要因だ。食事を解決するいくつかの冷凍食品と1本のお酒があれば、一晩のキャンプが完成する。 キャンプ場を予約する必要もない。キャンプ人口が増えたことで、有名なキャンプ場の場合、予約しても数か月も待たなければならない。しかし車中泊ならキャンプ場でなくても、車を駐車できるところならばどこでも一晩を過ごせる。新型コロナウイルスの感染拡大の影響だという側面もある。社会的距離を保つために対面接触が制限されているので、一人あるいは家族で、自然の中でコロナブルーから脱却する役割をしているからだ。ポータルサイトネイバーに基盤をおいている国内最大の車中泊コミュニティー「車中泊キャンピングクラブ」だけでも、今年2月末に8万人だった会員数が9月初めには17万人に急増している。 しかし長所だけではない。車内に敷くマットは多少不便だ。車中泊用のマットを使うにしても枕が変わると眠れないような人は、その不便さで不眠の夜になってしまうかもしれない。今年2月28日自動車管理法が改正され、乗用車もキャンピングカーに改造できるようになったが、床を平らにする作業は簡単ではない。また必ず洗顔やシャワーをしなければらならないような人にとっては、爽快な旅とはならないだろう。 健全な文化 車中泊は、夏は暑く冬は寒いという欠点もつきまとう。車内で長時間、エアコンやヒーターをつけておくと危険だからだ。よって電気を作り出すパワーバンク(モバイルバッテリー)とパーキングヒーターなどの装備を揃えないと、暑さや寒さをしのぐことはできない。また車内に入ってくる虫も問題で、その解決のためには車中泊用の蚊帳を準備しなくてはならない。 必要な装備を一つずつ揃えていけばいくほど、さらに高価な品物を求めるようになる。安楽な車中泊を求めて行けば自ずと生じることだ。ある男性ユーチューバーは、彼が車中泊を辞めた理由としてこのような「装備病」のせいだったとしている。車中泊の最も大きな長所は、何といっても場所を選ばずに宿泊できることだ。わざわざキャンプ場や自然休養林にまで行かなくても、気が向けばどこにでも停めることができる。もちろん大多数の車中泊族はトイレのある公園や海辺、川辺を好む。このような勢いにのり「車中泊聖地」として浮上しているところも多いが、野営と炊事から起きる問題点のせいで入場を制限するところも増えている。一度に多くの人々が押し寄せ、自然を破壊し、ゴミを無断投棄するからだ。健全な文化を定着させることができれば、車中泊は新型コロナの時代に合理的で快適な旅をする手段の一つとなるだろう。

瞑想の道、悟りの道

In Love with Korea 2020 WINTER 87

瞑想の道、悟りの道 韓国の仏教が善を重視するという意味で、「曹渓山は」歴史的に大きな意義を持つ。朝鮮半島南西の端、全羅南道順天にあるこの山の東と西に位置する松廣寺(ソングァンサ)と仙巖寺(ソンアムサ)は、比丘僧(男性の出家修行者)と火宅僧(妻帯僧)それぞれの教団を代表する叢林(禅宗寺院)である。この二つの寺院をつなぐ山道には、信者と登山客の足が絶えない。 曹渓山の東側の山裾にある仙巖寺と西の麓に位置する松廣寺をつなぐクルモクジェという峠は、約6.5キロに及ぶ山道で、かつて、二つの寺院の僧侶たちが往来しながら自然に作られたものである。最近は、毎年数十万人の観光客がこの道を訪れている。 クルモクジェの峠道に立っている将軍標。村の守護神としての役割を果たす将軍標は、ほとんどの場合、町の入口に建てられるが、たまに道端に建てられ道しるべの役割をすることもある。 インターネットで「松廣寺」を検索すると、「松廣寺と仙巖寺をつなぐ道」というサジェストキーワードが真っ先に検索候補として表示される。逆に「仙巖寺」を検索すると、「仙巖寺と松廣寺をつなぐ道」という関連キーワードが表示される。インターネットユーザーの入力回数をもとに自動的に表示される「サジェストキーワード」は、あたかもあなたが探そうとしているのは、たった今入力した目的地ではなく、そこへと向かう道筋にあるのだと適切に伝えようとしているかのようだ。季節は秋の真っ盛りの中にある。カーナビをつける。さてどこから行ってみようかな。 慰安 曹渓山の頂上から南の方角を見下ろすと、順天市が誇る順天湾湿地が広がっている。曹渓山が多様な樹種で構成された広葉樹林に覆われるようになったのは、この南海の海辺から吹いてくる高温多湿な風の影響が大きい。この鬱そうとした山中にある二つの寺を東西に結んでいる約6.5㎞に及ぶこの山道が、われわれの今回の目的地である。 大きな山を間に挟んで両側の山裾にほぼ同じ大きさの寺が建てられるのは珍しいことではないが、二つの木造の寺が歴史の波風を耐え抜き、完璧に保存されているケースはかなり珍しい。地図では、東の斜面にある仙巖寺の方が曹渓山の頂上から近く、二つの寺は山腹の道を共有しているように見える。だが実は、この山道を切実に必要としていたのは松廣寺の方だった。南東側の順天市内に行政や交通、市場などの生活圏が形成されている松廣寺入口に住んでいる外松村の住民にとっては、仙巖寺の前を通過するこの山道が順天への近道だからである。もちろん、松廣寺から曹渓山を迂回して順天を往復するバスの便が乏しかった頃の話である。今では、順天駅前と松廣寺をつなぐ111番の市内バスが30分おきに運行している。 曹渓山は、1980年代に道立公園に指定されて以来、せいぜい薬草を採る人か火田民(焼畑農業を行う農民)、あるいは先を急ぐ近隣の山里人が往来していたこの山道が、日帰り登山コースとして口コミで広まり、年に40万人もの人々が訪れるようになった。仙巖寺と松廣寺は、山中でよく見かけるような普通のお寺ではない。いずれも千年に及ぶ長い歴史を有する古刹であるだけでなく、講院と禅院をすべて備えている名の知れた有数の叢林である。松廣寺は韓国を代表する三宝寺院のうち最も高僧を多く輩出した僧宝寺刹で知られている。一方の仙巖寺は韓国の仏教文化を継承して保存してきた文化的価値が認められ、2018年にユネスコ世界文化遺産として登録されている。 それ故か。高僧大徳でなくとも、世俗での縁と煩悩みを振り払い、新たな悟りを求めてこの山道を行き来したであろう修行者たちの足跡を辿る――と考えただけでも登山客のテンションは高まる。いつもながら、足取りが遅くなる登り坂で、影さえ脱ぎ捨てたい衝動に駆られ荒い息をたてる病弱な旅人であれ、道をたずねる人に知ったかぶりをしながら、まるで用事を果たすかのように急ぎ足で進む熟練の山岳会メンバーであれ、山道でしばし道連れになった彼らはそれぞれの事情はさておいて、申し合わせたかのようにこの林道が与える慰安と癒し、そして興奮を伝えあう。道の上に転がる小石一つ、名も知らぬ野の花一輪も、彼らにとっては軽んじることができないものばかりである。しかし、慰安はいつも暫定的だ。 花崗岩で造られた半円形の橋「昇仙橋」を渡ると仙巖寺の境内である。橋の下から見上げると、精巧につながっている丸い天井の真ん中に刻まれた龍頭のレリーフが目を引く。仙巖寺は「韓国の山寺」7カ所のうちの1つで、2018年にユネスコ世界文化遺産として登録されている。 松廣寺にある三淸橋は、仙巖寺の昇仙橋より規模は小さいが、それなりに美しい趣のある橋である。その上に建てられた羽化閣を通り過ぎると寺の中庭に出る。 仙巖寺と松廣寺 は、山中でよく見かけるような普通の山寺ではない。いずれも千年にも及ぶ長い歴史を有する古刹であり、講院(経典教育機関)と禅院(禅修行の専門道場)がすべて備わっている名の知れた有数の叢林である。 仙巖寺の大雄殿の前庭には統一新羅時代に建てられた石塔2基が左右に配置されている。2段重ねの基壇の上に3重の塔身を積み上げた石塔は宝物第395号に指定されている。 松廣寺は、海印寺や通度寺とともに韓国の三寶寺刹の一つであり、16国師を輩出した僧宝寺刹で知られている。 羽化閣の左側に連なる臨景堂は、松廣寺内でも優れた景観を誇る場所の一つで、大きな窓があるため室内でも外の景色が楽しむことができる。 平和 順天駅を起点に、松廣寺を出発して仙巖寺の方に下りていくと帰り道が短縮し、逆に仙巖寺から松廣寺の方へと下りていくと、行きが短縮する代わりに帰り道が遠くなる。効率性だけでは簡単にコースが決められないあなたに、耳寄りな情報を贈ろう。 前日、例えあなたにどんなことがあったにせよ、仙巖寺の方の道を選ぶと、勢いよく流れる渓谷の流れに逆らってまっすぐ伸びた道と、その両側に力強くそびえ立つ檜の森が放つ新鮮な雰囲気に圧倒されるだろう。そしてその後、渓谷を横切る虹模様の石橋「昇仙橋」に目が止まった瞬間、あなたはすでに浄土に立ち入っているのである。春なら、大雄殿の裏の石垣に沿って咲き乱れている色鮮やかな梅の花を見ることもできる。そのほとんどが樹齢400年を超える在来種の梅の木で「仙巖寺古梅」と呼ばれている。季節的に少し手後れだとしても躊躇せずそこへ向かってみよう。梅の代わりに華やかな桜があなたを歓迎してくれるだろう。 寺の一柱門で私たちを迎えてくれたのは、千里まで届くといわれる銀木犀(ギンモクセイ)の花のかぐわしい香りだった。餅をつくうさぎと共に月に住むという、あの伝説に出てくる月の桂がこの木である。庭は小さな白い花びらでいっぱいだった。仙巖寺の秋の挨拶である。私にはやや高くみえる門と池、そして大きくも小さくもない建物が花の木々を避けてびっしり立ち並んでいるのが仙巖寺である 。 松廣寺の三淸橋は、仙巖寺の昇仙橋と肩を並べると知られているが、それでは何か物足りないとでも思ったのか、橋の上に羽化閣という家を建てた。松廣寺の渓谷でしか見られない独特な見どころであると同時に憩いの場でもある。誰一人見てくれる人もいない深い山奥で孤独に育ち、バラバラになって渓谷に沿って流れてきた色とりどりの落ち葉が、羽化閣の下に重なって沈んでいる。水の色が冷たい。松廣寺の中心となるのは大雄殿の前に広がる広い庭である。仙巖寺を出発し夕焼け時に松廣寺に着いたなら、できるだけ高いところに登って松廣寺を見下ろしてみよう。山裾の間でかすかな残光が薄暗い寺の屋根瓦を照らす時のその静けさは、長く心に残るだろう。松廣寺のこの節度ある構成は、朝鮮戦争で廃墟と化した後に復元された風景である。いずれの寺を出発点とするにせよ、少しでも長く留まってほしい。平和とは常に暫定的なものだ。 クルモクジェを越えて下り坂に差し掛かると、開業40年の老舗である麦飯屋が現れる。いろんな種類のナムルにコチュジャンとごま油を入れてごしごしと混ぜて食べる麦ご飯は、この道を訪れる人々に大きな楽しみを与えてくれる。 松廣寺の裏山には「仏日庵」と呼ばれる小さな庵がある。仏日庵は、実直な修行者として崇められた法頂和尚(1932~2010)が1970年代半ばから1990年代初めまで過ごした場所である。ここで彼の代表的な随筆集である「無所有」が執筆された。 クルモク峠の麦飯屋 仙巖寺を出発してヒノキの森を通過し、虎が岩の上で頬杖をついてそこを通る人たちを善人か悪人か見張っていたと伝わる岩を過ぎると、最初に見える峠が「クルモクジェ」である。曹渓山の頂上が北に見えるこの区間はかなり急な傾斜面となっているが、この峠道を越えるとすぐ緩やかな道が広がる。逆に、松廣寺の方から出発すると、しばらく渓谷に沿って登り、途中で丈夫な木の橋をまるで石橋を叩くかのように渡り、――道を塞ごうと転がり落ちる岩を、ある僧侶が道力で止めた――といわれる伝説の岩を通り過ぎると、クルモクジェと記された表示石に出くわす。仙巖寺の方から登る峠は「大きなクルモクジェ」、松廣寺の方から登る峠は「小さなクルモクジェ」と呼ばれているが、この峠が湖南正脈の曹渓山噴水嶺である。東の斜面に流れる水は順天湾へ、西の斜面に流れる水は筏橋の沖合へとつながる。 この峠を過ぎて下り坂に入ると、思いも寄らない麦飯屋が出現する。欧州の黒いライ麦パンと韓国の麦飯は、同じ社会的カテゴリーに該当する。白い小麦のパンと米飯が少数の「ある程度経済的に余裕のある」人たちの食糧だったとすれば、ライ麦パンと麦飯は長い間、多くの貧しい人々が飢えをしのぐための食糧だった。もちろん、今では郷愁を誘う味、健康のためのウェルネスフードとして楽しむ人も多くなっている。 かつてここは、渓谷の下方にある壯安村の火田民の住居址を補修し、避難所としての機能を兼ねていた場所だったが、今では曹渓山登山コースのお食事付きパッケージのように思われるほど、麦飯屋をそのまま通り過ぎる人はほとんどいないという。釜で炊いた麦ご飯に、その辺りの山で採れた山菜、家庭菜園で育てた青菜のおかず、干した菜っ葉の味噌汁など素朴な飯ではあるが、海抜600mの峠道を2、3時間も歩いてきた人たちには最高の料理である。壯安村の方から登ってきて、麦飯を食べて、再び三々五々に山道を歩いて帰っていく人たちもたまに目につく。壯安村の頂上まで路地をくねくねと車で上り、その後20分ほど山道を歩いて登る道がクルモクジェの麦ご飯が味わえる最短距離である。 取り立てて言うほどの味ではないが、誰だってあっという間に料理を平らげてしまうという点で「一番おいしい麦飯屋」という賞賛も受けている。昔も今も、麦ご飯の満腹感はあまり愉快なものではない。普段よりたくさんの量を食べたり、すぐに消化されて腹持ちがよくないからではなく、飢えという自然の本性からやっと抜け出すためのこの行為に、何となく慣らされているのではないかという自己反省をしてしまうためである。 楽安邑城 ドラマ撮影ロケ地 順天湾国家庭園 順天湾湿地 歴史 すべての道は暫定的だ。慰安と平和、満腹感のようなものだと考えてもいい。通り過ぎる人々を見張りながら座っていたという虎の岩の話や、道を塞ごうとする岩を僧侶の道力で止めたという伝説は、単なる物語ではない。その話の中には、千年以上の歳月の間に何度も途絶えたり再現したであろうこのクルモクジェを越える道の歴史が込められているのである。 韓国現代史において「パルチザン」という用語は、主に韓国で自生的に組織され活動していた社会主義武装遊撃隊を意味するのだが、曹渓山は彼らの根拠地の一つである智異山とつながる主要通路であり、活動拠点でもあった。松廣寺からあまり遠くないところにある「ホンゴル」という渓谷は、朝鮮戦争当時、パルチザンの隠れ家として、彼らが最後まで猛烈に掃討作戦を繰り広げた場所である。この作戦で、当時松廣寺で暮らしていた高齢者が多数殺害される事件も発生した。その時代を生きた人たちが、各自の信念と生存のために必死に追いかけ、追われた道が、今ここで紹介した道の一部なのだろう。 さらに根本的・持続的な葛藤を巻き起こす事件は、その後発生した。朝鮮戦争直後の1954年、当時の大統領・李承晩(イ・スンマン)は、何故か「火宅僧は日本帝国の残滓であり、退出しなければならない」と主張した。韓国仏教には、妻のいる僧侶である火宅僧を容認する伝統がなかったが、朝鮮時代後期、抑仏政策のもとで経済的に厳しくなった寺院を管理する者を僧侶として扱う風習があった。そして日帝強占期には、明治維新以来キリスト教牧師のケースに倣って火宅僧を認許するようになった日本仏教の影響を受け、解放される頃には既婚の僧侶の数が比丘僧の数をはるかに上回っていた。 僧侶の身分であり詩人でもある韓龍雲(ハン・ヨンウン、1879~1944)は、『朝鮮仏教維新論』(1913)で「肉体を持って生まれながら、食欲や色欲がないというのは虚言にすぎない」と記し、僧侶自ら欲望を計り、結婚について自由に決定するべきだと主張した。仏教界で自主的に解決すべきだったことに国家の権力が乗り出して干渉したのは、朝鮮戦争による寺院の物的被害よりさらに大きな不運となった。結局、この紛糾は1969年、大法院(日本の最高裁)がすべての宗権は比丘僧にあると判決することで終わり、これに反発した僧侶たちは新たに韓国仏教太古宗を創宗した。仙巖寺がこの太古宗の総本山であり太古叢林と呼ばれ、一方の松廣寺は、比丘僧で構成されている曹渓宗の叢林なのである。これにより、松廣寺と仙巖寺の僧侶たちが互いに師匠と道伴(信仰の友)を訪ねて行き来しながら、教えを授け受けし交流した時代は、幕を閉じた。寺院をめぐる財産権紛争は今も進行中である。 縁 松廣寺の早朝の礼仏は敬虔で荘厳である。その音の荘厳さと音楽性を瞑想音楽に発展させたのは、国楽芸術家の金永東(キム・ヨンドン、1951~)氏である。彼は松廣寺の四物(法鼓、木魚、雲版、大鐘)と礼仏文、発願文、般若心経に大芩と小芩を調和させ、シンセサイザーを適切に取り入れ『The Buddhist Meditation Music of Korea 禅』(1988)という一編の日常系の音楽を完成させた。グレゴリオ聖歌のような教会音楽を普段楽しんでいる人なら,このアルバムの最後のトラックに収録されている「般若心経」を聴いてみよう。ニューエイジ・ミュージック(癒しの音楽)の影響を受けた一般的な瞑想音楽とはまた違った新鮮な感動を覚えるだろう。2010年レコーディング・エンジニア専門家、ファン・ビョンジュンによって録音されたアルバムは、礼仏の中の水や風の音といった自然の音を完全に排除し、長い歴史的木造建物の中の響きを生かしたという。ファン氏の音楽は、跡形もなく消えていく時間の中に徹底的に私たちを封じ込める。 一方、キム・ヨンドンの作品は、潜んでいる自然の音を引き出すという点で異なり、私たちを新しい空間に留まらせるのがキム・ヨンドン氏の魅力といえる。キム・ヨンドン氏は、自分がこのアルバムを制作するきっかけになったのは、松廣寺内にある佛日庵に住まわれた法頂和尚(1932~2010)との出会いの縁があったためだと話している。法頂は「無所有」という思想とそれに相応しい生涯を過ごし、宗教を越えて多くの人々から尊敬された。「無所有」という漢語で本質的な意味素(sème)は「有」である。「有」は「手で肉を握っている」形の甲骨文字が進化した文字だ。今年は法頂和尚の入寂から10周忌となる年である。今も佛日庵の前に静かに置かれているクヌギの薪で作ったといわれる椅子には、持ち主だった和尚の代わりに枯れた木蓮の葉が腰を下ろしている。おそらく彼がこれを見たなら葉っぱにこう話しかけたかもしれない。「今までご苦労さん」

パックご飯から有名シェフの料理まで

Lifestyle 2020 AUTUMN 38

パックご飯から有名シェフの料理まで 初期の頃には、一人暮らしや共働きの主婦が主な顧客だった家庭簡便食の消費層が拡大している。最近では、家庭でも高級料理を手軽に食べたいと思う美食家たちと、新型コロナウイルスの感染拡大により外食を避ける人々まで加わり、加工・食品産業が急速に進化している。 インスタント食品市場の始まりは、1996年に発売されたパックご飯だ。初期には消費者にそっぽを向かれていたが、現在は様々な種類のパックご飯がコンスタントに売れており、海外への輸出量も増えている。 © CJ第一製糖 ある日、会社から帰ると家のドアにチラシが一枚貼ってあった。そのままゴミ箱に捨てようとしたが、「お惣菜を配達します」という文句に目が行く。チラシには多彩な惣菜で構成された一か月分のメニューが小さな写真付きで紹介されており、その中のいくつかを選んで申し込めば自宅まで配達してくれるという。 「一度、注文してみようか」 気持ちが動いた。子供のいない共働きの夫婦が食卓に座って一緒に夕食を食べるのは、週末を除けば週に2、3回、それも二人のうちの一人の帰宅が遅くなる日には外で食べたり、チキンやピザのデリバリーに依存していた。最近では新型コロナウイルスの感染拡大のせいで外食を控えるようになり、仕方なく家庭で食事をしなくてはならないが、毎回デリバリーメニューにするというわけにはいかないので、インスタント食品もよく利用していた。二人で食べる量もさほど多くないので、食材を大量に買って冷蔵庫の中で腐らせてしまうよりは遥かに合理的だと感じる。また、家事労働の時間を減らしてくれるので、私のような働く女性にとっては非常に合理的なアイデアだ。 多種多様なインスタント食品が並んでいる陳列台の前で、消費者が商品を選んでいる。韓国人の食生活でチゲと汁物、タン(湯)は欠かすことのできない食べ物だが、材料の準備が面倒で手間がかかるとして、主婦には大きな負担となっていた。最近では、簡単に温めるだけというレトルト食品が多数販売されており、主婦の家事労働時間を画期的に減らしている。© ニュースバンク 電子レンジで温めるだけでよいRTH(Ready to Eat)商品 © マムスタッチ 最近、インスタント市場で最も人気のある商品は、レストランメニューだ。有名レストラン食べ歩きで美食を楽しんでいた人々が、新型コロナウイルスの拡大によって外出が制限されるようになり、人気店のメニューを家で簡単に楽しめる方法を求めるようになったのだ。 パックご飯の登場 家庭簡便食を一度も購入したことのない家庭はほとんどないだろう。家庭簡便食はインスタント食品の一種で、加工・包装された食物を簡単な調理をするだけで、すぐに食べられるので便利だ。その種類もかなり豊富で、レシピは4種類に分けられる。調理なしにそのまま食べるRTE(ready to eat)、加熱後に食べるRTH(ready to heat)、簡単な調理後に食べるRTC(ready to cook)、加工された食材で簡単に料理してから食べるRTP(ready to prepare)などだ。最近ではRTC, RTPタイプのミールキット(料理セット)に人気が集まっているが、何か料理をしたという気分にさせてくれるからだろう。 ニルスンコリアとWhat’s nextグループが2018年に発表した『韓国人の食生活調査』によると、一人暮らしは週3回、二人以上の世帯は2回インスタント食品を購入するという。また市場調査会社のユーロ―モニターによると、国内のインスタント市場規模は、2014年の1兆210億ウォンから昨年は1兆9500億ウォンに成長し、2024年には2兆9150億ウォンに達するものと推定される。 この市場を最初に開拓した商品はパックご飯だった。1996年にパックご飯が初めて発売された時には「ご飯を買って食べる人間などいるか」という反応がほとんどだった。ご飯は家で炊いて食べるものという固定観念が強かったのだ。有名モデルがCMに登場して、その便利さをいくら強調しても「パックご飯は健康に良くない」という考えをくつがえすことはできなかった。今日のようにパックご飯が食生活に根付くまでにはかなりの時間が必要だった。加工食品に対する抵抗感がだんだんと減少し、最近スーパーでは多種多様なパックご飯が売られている。それだけではなく各種、汁もの、チゲ、惣菜類など様々なメニューが開発され、インスタント食品だけで食卓を埋め尽くすことができるほどだ。 下ごしらえされている食材を簡単に調理して食べるRTP(Ready to Prepare)商品は、料理をしたような気分が味わえる。特に、一流シェフたちの参加による高級ミールキット商品は、グルメにも人気だ。 © CJ第一製糖 ソウルの大型スーパーで男性消費者が、陳列されているインスタント食品を見ている。初期の頃には、一人暮らしや若い共働きの主婦をターゲットにしていたインスタント食品市場だが、今では、調理済みのものを買って食べることに否定的な見方をしていたシニア層にまで、消費が広がっている。 © 聯合ニュース 有名レストランの料理 初期のインスタント食品は韓国料理が主流をなしていたが、最近では「プレミアム」商品に進む傾向にある。CJ第一製糖のインスタントブランドは、一流ホテルの厨房で10年以上働いた経歴をもつ13人のシェフが、メニューを研究開発している。最近の若者が好きなスペイン料理、エビのアヒージョをはじめパッタイ(ライスヌードルを炒めたタイ料理)、親子丼などグローバルメニューまで多種多様な構成となっている。ミールキット市場に比較的早く参入した韓国ヤクルトもまた、シェフの料理を家庭で楽しめる点を売りにしている。このブランドは、数年前から国内のスターシェフのシグネチャー(特性・看板)メニューで構成された商品を出しており、最近では家庭で料理するのが難しい羊肉料理まで発売し、食マニアのあいだで好評を得た。 最近のインスタント市場で最も人気のある商品はレストランメニューだ。有名なグルメな店を訪れ美食を楽しんでいた人々が、新型コロナウイルスの感染拡大により外出がままならず、有名レストランの人気メニューを家庭で簡単に楽しめる方法を求めているからだ。有名レストランの代表メニューであるだけに味は保証され、衛生面での信頼性も高く利用者が急増している。食材だけでなくインスタント食品の配送にも強い通販サイト「マーケットカーリー」の分析によると、2020年上半期のレストラン加工食品の販売量は、前年同期より175%増加したという。「マーケットカーリー」にはカルビタン、マクチャン(牛の胃袋)、冷麺、ベトナム料理のフォー麺など全国の有名専門レストランが多数入店している。 ミレニアル世代のライフスタイル インスタント市場がこのように拡大している理由として、一人暮らしと共働き家庭の急増とともにミレニアル世代のライフスタイルにも言及する必要がある。ミレニアル世代とは、だいたい1980年代から2000年代に生まれた人々のことを言い、彼らが結婚適齢期になって誕生した「ミレニアル家族」に注目する必要がある。彼らのライフスタイルを説明する重要なキーワードの一つが「効率性」だ。ミレニアルたちは自分で美味し料理を作りたいが、材料の下ごしらえや買い物など時間のかかる面倒な手順は省きたい。このような要求が半調理済み食品や時短食材を選択させている。特に、材料がすべてパックされて宅配されるミールキットは、不便さをあまり感じることなく、料理の楽しみも適当に味わえる。 一方、家の重要性がだんだんと高まっている点も、インスタント食品市場の成長を牽引する要因だ。新型コロナウイルスの感染拡大の長期化により、家が仕事をする空間、学習の空間、趣味生活の空間など、すべての生活のプラットホームとなっている。家の中にホームシアターを設置し、映画館に負けない映像とサウンドを楽しんだり、ホームトレーニングのための空間を別途に作ったりする。家で食事をするほかない状況で、インスタント食品は外食の気分を出すための代案となっている。すき焼き、鮭やまぐろの醤油漬け、中華のヤンジャンピ(洋張皮の雑菜)のような材料の準備に手間のかかる面倒なメニューも、同封されているレシピカードに書かれた順序どおりにすれば、下ごしらえされた適量の食材で、簡単に調理を楽しむことができる。 初期のインスタント食品は手軽さと価格競争力が強調されたが、最近では消費の主体が一人暮らしから二人以上の家庭に拡大しており、さらにはシニア層まで広がる勢いで、価格もやや高めの高級メニューもよく売れている。今後は乳児のための離乳食や病人のための流動食など、多様な領域に拡大する可能性もある。インスタント食品が簡単な一食の次元を越えてどこまで進化するか注目される。

西村の福徳房 人情あふれる不動産屋

An Ordinary Day 2020 AUTUMN 41

西村の福徳房 人情あふれる不動産屋 最近の若者は家を探すのにもスマートフォンのアプリケーションを利用している。売りに出す物件を動画撮影し、ネット上にアップロードする不動産屋もいる。このように目まぐるしく変化する中で、大都市ソウルに未だに「町の寄り合い所」の役割を果たし、商才よりも正直さをモットーとして、誰かの住まいを探す手伝いをしている人がいる。 15年間経営している公認仲介士事務所の前で、西村について説明するチョ・ガンヒさん。 「ハラボジ(おじいさん)は白い髭をなでながら、近所の福徳房(ポクトクバン)に賭け将棋をうちに出かける。賭けに勝った日には、鼻歌を歌いながら両手に大きなスイカを抱えて帰ってくる」。フォークロック歌手のカン・サネが1993年に発表した『ハラボジとスイカ』に出てくる光景だ。 「福徳房」と呼ばれたその店は、土地・家屋などの不動産の売買や、賃貸契約を斡旋・仲介するという本来の目的に加えて「町の寄り合い所」という別な任務も担っていた。世間に向けて大きく扉が開かれ、誰でも気安く立ち寄れるそこには人々が集まり、世間話を交わし、人情が行きかった。町中の噂話がそこから始まり、さらに膨らんであふれていった。 誰かが困っていれば、その人を助けるために力を合わせた。嬉しいことがあれば熱々のチヂミにマッコリを傾け共に祝い、悲しいことがあれば肩を抱いて慰め合った。低い屋根が続き、人と人との距離も今より近かった時代の話だ。 低かった屋根が高くなり、天に届きそうな高層アパートが登場すると、町はもはや人情にあふれた場所ではなくなった。「公認仲介士事務所」という堅苦しい名前の看板に変わった福徳房も、それ以降は町の寄り合い所の役割はしなくなった。それでも世の中のどこかには、まだ昔のようにその扉を開いているところがある。人情にあふれた町の温かさと人の匂いを求めて、ソウル西村に足を向けた。 チョ・ガンヒさんがその日の取引内容を手書きで整理している。彼の店舗には一日平均3人くらいの客が来るが、10人中、1~2人の契約が成立するという。 こぢんまりとした古い韓屋 景福宮はソウルの五大王宮の中でも最も大きく壮大だ。この古宮の中心より北に位置する町を通称「北村」と呼び、西にある町を「西村」と呼ぶ。朝鮮時代(1392~1910)北村には、政治の実権を握っていた士大夫階級の両班たちが住み、西村には、訳官や医官のような専門職の中人階級が暮らしていた。有名な画家や詩人など、芸術家も西村の住民だった。現在、北村と同様に西村の韓屋も政府の支援で保存されているが、北村の堂々とした韓屋に比べて西村の韓屋はほとんどがこぢんまりしている。肩を寄せ合う韓屋の間を蜘蛛の巣のような路地が広がっている。その路地の一角に、15年にわたってチョ・ガンヒ(趙康熙)さんが経営する「中央公認仲介士事務所」がある。 「西村は都心に隣接していますが、後ろには山もあり、大きな公園もあります。家を売り買いして金儲けの投資をする人ではなく、この町が好きでここで暮らしたくてやって来る人がたくさんいます。一度暮らし始めると、他に移ることはあまりありませんね」。 この町の家はだいたいが65~100平方メートルほどの小さな韓屋なので、不便な点も多い。だがアパートでは体験できない長所もある。チョさんは韓屋の長所と短所をリストにしてお客に詳しく説明している。 「木、石、土のような自然素材で作られた家なので健康には良いです。家は落ち着いて安定感もおり、お隣さんともすぐに仲良くなれるでしょう。住居スペースが狭いものの、細々と調和よく味わいがあります。好みによっては庭をつくる楽しみもあるでしょうし、風通しもよく、季節の変化を感じることができるので退屈する暇がありません。その反面、環境に優しい素材なので虫がつきやすく、断熱、防音には向いていません。火と水に弱いという短所もありますが、修理をすればある程度は改善することができます。屋根、壁材、床などは周期的な補修が必要ですが、政府が無償で支援してくれるので、経済的な負担はありません」。 西村は大統領府の近くに位置し、1968年には北朝鮮の武装スパイが潜入した事件もあったので、1980年代までは厳しい警備がしかれ、一般人が住むには不便な町だった。町の入り口での身元の照会確認は基本で、住民以外の人間が泊まる場合は必ず申告しなければならなかった。 「戦闘警察が常駐して警備しており、開発も禁止され、制約も多かったので不便な点もたくさんありました。1990年代末に建築規制が緩和され再開発するという噂が流れ、人々が集まり始めました。それでも建てられるのはヴィラ程度でした。道路に面していれば7階建て、中の方は5階以上の建築許可は下りませんでした。2010年に韓屋保存地域に指定された時にはがっかりした人もたくさんいました。古い家を壊しても韓屋しか建てられなくなったからですね」。 したがってここは、高層ビルの林の中を人々が忙しく往来するソウル市内のど真ん中にありながら、「静かな島」のような存在となった。西村の時計はゆっくりと進む。今では、ゆっくりと歩くために、ビルの谷間に見え隠れする空ではない空を見上げるために、人々はこの町を訪れる。そういう「スロー」な町を真っ先に謳歌したのは北村だった。昔の姿を残す北村の韓屋の間に素朴で、可愛いらしい店が立ち並びはじめ、好奇心旺盛な若者たちがやって来るようになった。商売になるようになると建物のオーナーたちはテナント料を値上げした。高いテナント料に耐え切れなくなった店が一つ、二つと西村に移転を始めた。韓屋を改造して作ったゲストハウスも生まれ、外国人の姿も自然に目につくようになった。 彼の店には一日平均3人程度のお客が来て、10件のうち1~2件ほどの契約が成立する。気難しいお客もいるし、腹が立つこともあるが、この仕事で暮らしているので、その程度は我慢できる。 切羽詰まって選んだ職業 チョ・ガンヒさんはソウル生まれだ。学校を卒業し建設会社に就職した。その後大企業の下請け工場を12年間ほど経営した。しかし2005年、それまで彼の工場で生産していた電子製品の部品が中国で作られることになり、ある日の朝、工場は閉鎖せざるを得なくなった。社員の給料と退職金を用意するのに、多額の借金を抱えた。 「子供二人が大学に入学したばかりでした。お金を稼がなけなければならないのに、すでに50歳を超えていたので、転職先もありませんでした。そんな中、公認仲介士をしている従兄弟に出会ったんです。彼の話を聞き、自分もこの仕事をしてみようと決心し、専門学校に通い始めました」。 彼が52歳の時だった。 「当時、家内が食堂をしていましたので、朝食材を仕入れて食堂に運び、それから学校に行きました。一日4時間しか眠りませんでした。中学高校時代にそんなに勉強していたら、一流大学に行けたでしょうに。2006年3月に勉強を始めて、翌年の2月に試験に合格しました。必死でした。この試験に落ちたら子供たちを、大学を卒業させてやれないと考え、必死にならざるを得なかったんです」。 崖っぷちにしがみついているような心境で勉強をして一発で合格し、知り合いの不動産屋で見習い生活を終えた後、専門学校の校長のアドバイスにより西村に店を持った。そしてもう15年が過ぎ、彼は今も毎朝午前10時に事務所の扉を開ける。 「この仕事をする前には不動産に関心はありませんでした。一生懸命に働き、努力した分だけ金を稼いで生活するのであり、不動産投資をして金を儲けるという考えはありませんでした。それでここに店を出すときにも、専門学校の校長が推薦してくれたところだから大丈夫だろうと、迷うことなく決めて、今まで居続いけています。どこどこの地域がもっと良いとか、金になるなどという考え自体がありませんでした。しかし、この仕事をしてみて少し欲が出て、他のところに移ろうかと考えたこともありましたが、うまくいきませんでした」。 移ろうかと考えた所は、アパート団地がたくさん集まっている京畿道地域だった。アパートは世帯数も多く、お客の所望も明確だった。内部の構造も同じなので、あちこち何軒もの家を見て回る必要もなかった。直接見なくても図面だけで、どんな構造の家か分かるからだ。家の広さと階数、内部の状態だけ簡単に確認すればそれだけで良かった。一方、西村にある物件は一軒一軒歩き回り、直接目で隅々まで見るまではその事情はよく分からない。ところで、アパート団地内にある公認仲介士事務所の敷居は高かった。仲介者たちはグループを作って物件を共有するのだが、そのグループに加入するためには高い加入費を支払わなければならなかった。彼はその金額を準備できず、結局、西村に居続けることになった。 「顧客は当然、清潔で日当たりの良い家を望んで来ますが、ここら辺の家はどんどん古くなっていくのが問題なんです。それでも情が移って今はもう出て行く気になりません」 チョ・ガンヒさんはお客と家を見に行くたびに、韓屋の長所と短所を詳しく説明する。彼は西村の韓屋は規模は小さくても、素朴な味わいがあり、隣人と疎通しながら暮らす楽しみがあると強調する。 倫理意識 チョさんの一日は午前7時半に始まる。食事をして出勤の準備を終えて、8時半に家を出発し電車に乗る。彼はソウルの外郭にある平村新都市のアパートに暮らしているが、自宅から店までは1時間半ほどかかる。夕方7時半に店を閉めて家に帰ると夜の9時。土曜日にも、公休日にも同じ日常が繰り返される。 「最初は日曜日にも店を開けていたんです。年とともにだんだんきつくなりました。家族と過ごす時間も必要だと考え日曜日だけは休んでいます。日曜日には仕事をせずに家の掃除をしたり、登山をしたりゆっくり休みます。特別な趣味はありません。酒も飲みません。私の日常はこんな風です」。 彼の店には一日平均3人ほどのお客が来て、10件のうち、1~2件の契約が決まる。気難しいお客もいるし、腹の立つこともあるが、この仕事で暮らしていけるのでその程度は我慢しなくてはと思う。「良い家を見つけてくれてありがとう」と、手土産の飲料水をもって挨拶にくる客に対しては「お客さんの運が良かったんですよ」と誉める。「福徳房」は「公認仲介士事務所」になってしまったが、西村の人々は今も通りすがりに立ち寄ってお茶を飲みながら、世間話に花を咲かせる。ファックスを送ってあげたり、コピーをしてあげたり、登記簿の謄本をとってきてあげるなど、簡単なサービスも無料でしてあげる。インタビューの最中にも「トイレの便器が揺れ動くので大家さんに修理を頼んで欲しい」と訪ねてきた人がいた。 「仲介士は倫理意識をもっていなければなりませんね。投機を煽ることのできる職業だからです。皆がそうだと言うわけではありませんが、欲を出し過ぎると問題が起きます。私はほらを吹くこともできず、口も達者ではありません。公務員か先生のスタイルなんです。それでもこの職業が好きなのは、体を動かすことができ、頭さえしっかりしていれば仕事を続けることができるからです。定年はありませんから」。 スローな町西村でスローな人生を夢見る、幸運なお客がまた一人、この正直な仲介士のいる店舗の扉を開けて入ってきた。

海南 始まりと終わりが共存する地の果て

In Love with Korea 2020 AUTUMN 52

海南 始まりと終わりが共存する地の果て 「タンクッ(地の果て)」という名で広く知られている海南(へナム)は、見晴らしの美しい山々と数々の由緒ある寺院があり、多くの人が訪れる所である。朝鮮半島の最西南端に位置するこの地域は、昔、中国と韓国、日本を結ぶ海路があり、文化の移動路としてだけでなく、配流された人々の癒しの場としての役割も果たした。 海南の庫千岩(コッチョナム)湖は、毎年冬には、数十万羽の渡り鳥がやってくる主要な渡来地で越冬のためにここにやってくる最も代表的な渡り鳥は、トモエガモだ。その他にも天然記念物に指定されている様々な種類の珍しい鳥がしばしば発見されており、学界の関心を集めている。 『尹斗緖自画像』1710、紙に淡彩、38.5×20.5㎝ 尹斗緖(ユン・ドゥソ、1668~1715)の自画像は、韓国人が描いた肖像画の中でも最高傑作として挙げられる。彼は朝鮮中期の文官で詩人だった尹善道の曾孫であり、儒学者の巨頭である丁若鏞(チョン・ヤギョン)の母方の曽祖父でもある。 私はシューベルトを聴くたびに、ずいぶん昔に観たミヒャエル・ハネケ監督の『ピアニスト』(2001)のあるシーンが思い浮かぶ。 「シューベルトはそんなに散歩するように演奏しちゃだめだよ!」 主人公のエリカが、学生のアンナを叱りながらこのように吐き出したことを覚えている。精神錯乱で亡くなった父親、娘の成功に過度に執着する母親、ウィーンの音楽界から追放され、ピアノ講師としてかろうじて生計を立てている独身のピアニストの心の傷を、いつも身近で癒してくれたのは、病んでいて不幸だったシューベルトの音楽だった。そんな彼女にとって、名演奏をただ真似するのに汲汲としているアンナの「散歩」は「シューベルトの精神に反する罪悪」でしかなかったのである。 これとよく似た脈絡で、誰にだって何も考えずにただ散歩するように歩いてはいけない場所がある。私にとって海南はそんな所なのだ。 南道踏査一番地 私は1980年の春から1982年の秋まで海南で暮らした。当時、私は二十歳になったばかりで、これから一生続く人生への問いかけや憤り、激情を全て使い切った状態だった。一文無しの私は、逃げるように軍隊への入隊を志願した。予想通り、そこでは何ら抽象的な質問も許されなかった。基礎軍事訓練の終了後の真冬、私は実家から最も遠く離れた朝鮮半島の最西南端にある海南半島に配置された。そこで、私は海岸線を見張る哨兵の任務を任された。青い苔の生えた石垣と枸橘(からたち)の垣根、霧に包まれた湿った生臭い海の匂い、果てしなく広がる野原の黄土の小道と小川、その丘で遊び回っている数頭の黒ヤギ、郵便物に書かれている夫の名前も知らないまま老いていく部隊前の店のおばさん、これらが、やっと収まりかけていた私の不安と出くわした海南の第一印象だった。 あれから40年が経った今、再び牛膝峙(ウスルチ)を超える。海南の北方にある霊岩(ヨンアム)、康津(カンジン)方面から邑(町)内へ入るためにはこの峠を越えなければならない。旅の一行と私は、予約しておいた宿所を探しまわる。見慣れたものは何一つない。かつては輝かしかった文化遺産を見て回りながら、記憶の中の歴史を振り返り、感傷に浸る行為を踏査や旅だと思うなら、海南はふさわしい所ではない。まず、輝かしかった時代が存在しない。したがって、これといった見所もない。あえて言えば、都と遠く離れていたため、権力との不和で都落ちした隠遁者や流刑にされた罪人たちの居住地の跡が残っているだけだ。こんな海南を『私の文化遺産踏査記』という本のシリーズの第一巻で「南島踏査一番地」として紹介し、文化踏査旅行のブームを巻き起こしたのが美術史学者のユ・ホンジュン(兪弘濬)教授である。 蓮洞(ヨンドン)村の奥に位置しする、榧(かや)の木の森に囲まれた海南尹氏の宗家である緑雨堂(ノクウダン)、頭輪山の谷間の古木がまるでトンネルのように空を覆っている林道を一里程進むと、その先にひっそりとたたずむ大興寺、達摩山の稜線に位置する古色蒼然とした美黄寺と最果て展望台のある獅子峰に至るまで、ユン教授の巧みな話術に惹かれて訪れてきた多くの人々は、広く知られている既存の名勝とは違って、平穏だけど遥かで、親しみがありながらもおしゃれで、素朴だけど清らかな海南の風景に魅了された。しかし、無心に尾根と野原を包み込む優しい日差しと風の静けさが、容赦なく激しい風雨を浴びせ、人々を恐怖に陥れた後の風景だということを知っている人は多くないだろう。 海南尹氏の宗家である緑雨堂(ノグダン)の居間。朝鮮第17代王の孝宗(ヒョジョン、在位1649~1659)が王世子(王位を継ぐ王子)だった時、師父の尹善道に下賜した水原の家の一部を取り外して移したのものである。扁額は尹善道の曾孫である尹斗緖の親友であると同時に優れた書家でもあった李漵(1662~1723)が書いたものと伝えられている。 海南は海の南を意味する。つまり、「地の果てから海の南へという新しい世界に向かうところ」という意味が込められているのである。海洋文化が栄えた古代はもちろん、絶海の孤島の流刑地から、屈せずに生きて帰ってくる力も、すべてこの「地の果て」にあった。 甫吉島(ポギルド)の芙蓉洞にある庭園の中心に位置する洗然亭(セヨンジョン)の全景。1637年、仁祖(インジョ、在位1623~1649)が朝鮮を侵略した清の皇帝に降伏すると、官職を捨てて都落ちした尹善道は、ここにあずまやと池を造って隠居した。彼は、この庭園に滞在しながら「漁父四時詞」をはじめ数十編の漢詩を残した。 749年に創建された美黄寺(ミファンサ)は、朝鮮半島の最南端にある寺院である。13世紀、中国の学者と官吏たちがここを訪れたという記録が残っており、当時、中国にもよく知られていた寺院であったことが分かる。写真の左側には、この寺の中心建物である大雄寶殿があり、その後ろには達磨山の秀麗な峰々が聳え立っている。 達磨山の峰の巨大な垂直の岩壁に位置する兜率庵(トソルアム)は大興寺の末寺で、長い間廃寺となり放置されていたが、2002年に再築された。 緑雨堂と芙蓉洞 私たちが海南尹氏の宗家である緑雨堂を訪れたのは、コンビニで買った傘が何の役にも立たないほど土砂降りの日だった。そんな雨の中で、緑雨堂のあちこちを詳しく紹介し、その家にまつわる尹善道(ユン・ソンド、1587~1671)の生涯について説明してくれたのは、文化観光解説者であり、尹善道の13代孫にあたる尹永珍(ユン・ヨンジン、68歳)氏だった。彼が覚えている学生時代の海南は、土埃が舞っている新道と塀に貼られた間諜通報(スパイ申告)ポスターに要約される。「対共脆弱地域」だった海南の環境は、自ずと彼を軍人の道へと導いた。尹善道の孫で自分の直系の祖父である尹爾厚(ユン・イフ、1636~1699)が、几帳面に日常を記録した『支菴日記 』を詳しく理解するようになったのは、彼が陸軍大佐で転役して帰郷した後のことである。ユン・イフは朝鮮最高の自画像を描いた尹斗緖(ユン・ドゥソ、1668~1715)の父親で、ユン・ドゥソは朝鮮後期の儒学者である丁若鏞(チョン・ヤギョン、1762~1836)の母方の曾祖父である。ユン・ドゥソはこの家で生まれた。 ユン大佐は、緑雨堂の柱が王室の建築物のように丸い形をしているのは、孝宗(ヒョジョン、在位1649~1659)が王世子(王位を継ぐ王子)の時、師父のユン・ソンドに下賜した家だからだと説明した。ユン・ソンドは、彼を慈しんだ孝宗が死ぬや否や島流しの刑を受け、7年ぶりに帰京し、孝宗が下賜した水原の家の居間を取り外してここに移したという。彼が80歳の時だった。緑雨堂の隣に建てられた遺物展示館には、ユン・ドゥソが描いた自画像と朝鮮全図があると伝わるが、暴雨や盗難被害の防止のため複製品が展示されているという話を聞いて我々は引き返した。 ユン・ソンドの痕跡は、甫吉島(ポギルド)の芙蓉洞(ブヨンドン)に最も多く残っている。現在の行政区域では莞島(ワンド)に属するが、当時は主に海南の白浦から船で出入りしていたらしい。今は莞島と海南の葛頭里船着場の2カ所でフェリー号が30分おきに運航している。白浦村には海南尹氏所有の別荘がある。ユン・ソンドの祖父の時代からこの地域の干潟を仕切って農地化する干拓事業を展開してきたといわれるが、ユン・ドゥソの代でその規模がさらに拡大し、ここに土地を管理する田宅を建てたのだそうだ。ユン・ドゥソが描いた真景山水画の中には「白浦別墅圖」もある。 もし、外国人が芙蓉洞の庭園を見て回ったなら、ある裕福な朝鮮貴族の眼識と風流、自然と調和をなしている絶妙な設計にさぞかし驚くことだろう。客が訪問すると向いの丘で太鼓を叩いて客を迎えるパフォーマンスも演出したという話には、さらに驚きを禁じ得ないだろう。しかし実際のところ、韓国人の本音は多少複雑である。この庭園を造って楽しんだユン・ソンドの行跡が、清貧や輿民同楽のような伝統的な観念の中に潜んでいるソンビ(士人)精神や暮らしと衝突するからだ。そのうえ、彼が生存していた時代が、二度の大きな戦争による農地の荒廃で百姓の暮らしが困窮していた時期だったという点が、自然を友とした彼の高潔な品性を、完全に受け入れにくくするのである。 彼が甫吉島を背景に書いた「漁父四時詞」は、ダイナミックで洗練された表現と感覚的な描写で韓国の文学史で高く評価されている詞藻である。しかし、この作品に話者として登場する漁師も、序文にも書かれているように「声を一つにして歌を歌わせ、共に櫓を漕がせる楽しみのひとつ」のための風景の一部として演出されているだけである。だからといって、政争で3度も島流しになった彼の深き憂国の鬱憤までにも背を向けるわけにはいかない。これが、私があの美しい芙蓉洞庭園を「散歩」するように、気楽に歩くことのできない所以である。 甫吉島で最も美しい所として挙げられる礼松里沖のアワビ養殖場に作業船が浮かんでいる。周辺にはモンドル(小石)海辺や常緑樹林があり、多くの観光客が訪れる。 大興寺と美黄寺 海南文化院の紹介で、地域の保健所長を引退した全國成(70歳)氏から、海南の近況を伺うことができた。彼は、忘れかけていた海南の人々の穏やかさと勤勉さを思い起こさせてくれた。彼は大学で招聘教授として社会福祉学を教えているのだが、「幼くして家計が傾いたため自立しなければならなかった自分の環境が、今の自分を作り上げたのだ」と自らを褒め称えた。彼が道案内まで買って出てくれたおかげで、私たちは移動中の車の中でじっくり対話を続けることができた。海南の最奥に位置する花源面が、今や全国最大の冬白菜の生産地かつ塩漬け白菜の供給地となり、また木浦(モクポ)と道路でつながったことで、花源の地価が高騰したという話を聞いて我々は感嘆した。わずか40年前までは「花源への出張はまる一日」もかかったという話を聞いて、私は補給品の一斉調査のために、海岸の警戒所をひたすら歩いて探し回っていた汗まみれの当時の記憶を思い起こした。干拓事業で耕地面積は全国最大となったが、そのせいで海流が変わり、やかんが一杯になるぐらいいくらでも拾い上げることのできたテナガダコとムツゴロウが姿を消したという話を聞いて残念でならなかった。 地域開発は、遺跡を取り巻く状況だけでなく人情も変える。大興寺(テフンサ)へとつながる道の入り口には、新しく食堂街が建てられ、200年の悠久な歴史を持つ遊仙旅館は廃業となったと彼は伝えた。数十年前、ある寒い冬の日、妹を連れて100里を超える遠いところまで息子の面会に来た母親と一緒に、雪に覆われた大興寺の境内を見て回った後、オンドル部屋でみんなで横になり、苦しい家の事情を聞いて眠れない夜を過ごした場所が、この遊仙旅館なのだ。 朝鮮後期の名筆である秋史・金正喜(キム・ジョンヒ、1786~1856)が済州島へ島流しにされる時、友人の草衣禪師が滞在していた大興寺に立ち寄り、本堂にかかっていた当代の名筆、李匡師(イ・グァンサ、1705~1777)の書いた扁額を外して自分のものを掛け、およそ8年後、帰京の途中で再びここに立ち寄って、李匡師の扁額を再び掛けさせたという逸話は事実のようである。「秋史は海を渡った後、他人に拘束されたり真似することなく自ら一家を成した」と言う朝鮮末期の開化派の師匠である朴珪壽(パク・ギュス、1807~1876)の評価が説得力を増す。茶の名人としてもよく知られている草衣が晩年に起居し、茶文化の聖地としても知られる一枝庵を見るためには、大興寺の庭から山道を40分も登らなければならない。 ここよりさらに激しい変化を迎えたのは美黄寺(ミファンサ)である。3、4軒程度の建物で辛うじて寺の形を維持していた美黄寺に、石垣を高く積み上げ、寺の入り口には大きな寺でしか見られない四天王像も設置し、テンプルステイもやっているというから、あれこれと寺の規模を相当拡大したようだ。かつて木こりや修道士が行き来していたと思われる達磨山の狭い旧道を補修し、美黄寺からタンクッ村をつなげた「達磨古道」という素敵な名を付けた登山道はかなり有名だ。丹青を施していない昔の姿のままの寺の本堂にホッとする初老の旅人には、この佛事の繁栄や労苦よりも、隔世の感を禁じ得ない。 私が初めて美黄寺を訪れたのは、山萩を切りに達磨山の近くに役務で来た時のことである。練兵場に散る落ち葉掃きや除雪作業のためには、この萩の木でほうきを作らなければならなかった。激しい吹雪と厳しい寒さに耐えなければならない地域ではなかったが、真夜中に静かに降り積もった雪を片付けるには、この萩のほうきが最適だったのだ。見上げると、奇岩絶壁が屏風のように立ち並ぶ岩山が見え、見下ろすと、生まれて間もない小犬たちが、まるで母親の胸に頭をうずめているかのような群島の海が見下ろせる寮舎前の縁側の端に、年老いた在家僧夫婦が並んで座っていた。あの時、水でも一杯飲ませてもらったのか、遥かな海の地平線に真っ赤な夕日が沈んでいたのかは、記憶にない。 花源面一帯の白菜畑 頭輪山(トゥリュンサン)大興寺(テフンサ) 尹斗緖(ユン・ドゥソ)の旧宅 獅子峰(サザボン)のタンクッ展望台 地の果てにて 海南という地名は、ここと類似している地理的環境と意味を持つ、別の地名「南海」とは異なる。南海が、南に海がある地、南の海と面した所という意味なら、海南は海の南を意味する。つまり、「地の果てから海の南という新しい世界に向かうところ」という意味が込められている。海洋文化が栄えた古代はもちろん、絶海の孤島の流刑地から屈せずに生きて帰ってくる力も、すべてこの「地の果て」にあった。この終りと始まりが共存する地というイメージは、しばしば素朴な詩人たちに詩的な情感を呼び起こさせるが、その両極端なパラドックスの敍事と熾烈な闘いを繰り広げたのは、詩人の金芝河(キム・ジハ、1941~)氏である。 彼は不正や汚職を繰り返す人々の姿を、独創的な形で風刺した『五賊』という詩を発表して以来、1970年代、韓国の民主化の過程で激しく衝突する問題が発生するたびに、その先頭に立っていた人物である。逃避、逮捕、投獄、拷問、再び赦免という絆(ほだ)しで身も心も疲れ果てた彼は、1984年、家族と共に母方の実家のある海南へやってくる。生活は徐々に安定していったが、彼自身はその生活に溶け込むことができなかった。その頃、彼は地の果てで「昔も後々も一緒に加わり、呻き、痛哭し、嘆息し、息を殺してむせびながら歩むもの」を目にする。その暗くて、不吉で、湿っぽいイメージの中で彼が見つけたのは「甦る存在」である「愛隣」という抽象的な存在だった。 「地の果てに立って/これ以上は先に進めない地の果てに立って/二度と帰れない最後の/鳥になって飛んでゆくか/魚になって隠れるか/風であれ雲であれ鬼であれ/変わらずにはいられない地の果てに/一人立って歌う……」「愛隣」(1985) その後、極度に衰弱した彼は、本格的に精神科の治療を受けるために海南を発たなければならなかった。 晩年のルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは「非宗教的で憂鬱な」 シューベルトの旋律から「思考が先鋭化する要点を発見した」と語った。「私たちは歩きたい。したがって、摩擦が必要だ。ざらざらした地面に戻ろう。(We want to walk: so need friction. Back to the rough ground!)」(『哲学的探求(Philosophical Investigations)』)がその要点である。映画『ピアニスト』の原作小説『ピアニスト』(1983)で、著者のエルフリーデ・イェリネクは、勝者の定義である「健康」を判断の重要な尺度とする愚かさから抜け出すことだ、と一喝する。「『健康』なんて、何というばかばかしい話だ! 健康とは当然のように存在しているものをただ美化したものに過ぎない」。このような人たちも、思考力が底をつく直前の、気が狂う寸前の憂うつ感から、自らを乗り越える新しさを見つけるようだ。彼らにこの海南という「荒地」を見せてあげたい。

Review

抽象化される日常

Art Review 2021 SPRING 53

抽象化される日常 ドイツを中心に国際的に活動しているインスタレーション・アーティストのヤン・ヘギュ(梁慧圭)は、日常の中の身近な素材を活用して、さまざまな解釈が可能な作品を発表してきた。最近、国立現代美術館で行われていた展示会では、新たな試みに果敢に挑戦し、さらに表現の領域を広げた。 ヤン・ヘギュは、折りたたみ式ランドリーラックやブラインド、電球などのような身近な素材を活用した作品を発表している。代表的なものとしては、2009年のヴェネツィア・ビエンナーレ韓国館に作家として参加した時の鉄製フレームや扇風機、毛糸などで台所を形象化した作品『サㇽリム(暮らし)』だ。その後もカッセルの現代美術展ドクメンタや、パリのポンピドゥーセンターなどで彼女の作品を目の当たりにできた。 彼女は身近な素材を利用して様々な形態に変化させたインスタレーション作品と、さらにグラフィックデザインを施した壁面をコラボレーションしている。最近の作品には、互いに関連性のないイメージを複雑に組み合わせたものが多く、多少難解にも感じられるが、そのせいで時には「イメージの密度が過度で目に入ってこない」という評価を受けたりしている。これに対して彼女は「難解さ」こそ、自分の作品の特徴だと説明している。 2019年1月、台湾南港展示センターで開かれた「第1回台湾當代アートフェア」に参加したヤン・ヘギュ(梁慧圭)は、特定の歴史的な人物や日常の事物を設置、彫刻、映像、写真、サウンドなど、様々な媒体を通じて抽象的な造形言語で表現した。 『 沈黙の貯蔵庫―クリックされた芯(Silo of Silence-Clicked Core)』 2017、アルミニウム・ベネシャン・ブラインド、パウダー塗装アルミニウム及び鋼鉄天井構造物、スチールワイヤーロープ、回転舞台、LEDなど、電線、1105×780×780㎝ ベルリンのKINDL現代美術センターは毎年一人の作家を選定して、高さ21mのボイラーハウスに単独作品を発表する展示を企画している。2017年9月から2018年5月までヤン・ヘギュの作品がそこに展示された。 同一な対象、様々な解釈 国立現代美術館の展示『MMCAシリーズ2020: ヤン・ヘギュ―O2 & H2O』(2020.9.29-2021.2.28)も例外ではない。展示場に入ると真っ先に目にする、大型設置作品『沈黙の貯蔵庫―クリックされた芯(Silo of Silence- Clicked Core)』だ。題目からして難解なこの作品は、横型のベネシャンブラインドと照明器具を使った高さ11mの大型モビール(動く彫刻)形態をしている。観客はマリンブルーとブラックのベネシャンブラインドとが独自に動く作品の内側と外側を自由に行き来しながら鑑賞し、壮観な規模と色彩が演出する多彩な空間を体験する。 この作品に使われたベネシャンブラインドは、彼女の代表作『ソル・ルウィット反転(S o l L e W i t t U p s i d e Down)』のシンボルと同一な素材だ。展示場内部に移動すると、白いブラインドを使った『ソル・ルウィット反転 』の連作を見ることができるが、題目にあるアメリカのコンセプチュアル・アートのアーティスト、ソル・ルウ ィットの名前から推測できるように、ミニマリズム的な要素が強い。観客は21世紀に過去のミニマリズム様式を繰り返すことに果たしてどんな意味があるのか疑問が生じるかもしれない。 ヤン・ヘギュは作品の素材としているブラインドについて「誰かは西洋的、他の誰かは東洋的だという」と説明している。彼女の話のように西欧的なオフィス空間を連想する人もいれば、あるいは東洋的な竹林を思い浮かべる人もいるだろう。このように同一な対象が、見る人によって観方が変わる現象を表現しようという意図は、他の作品においても容易に見い出すことができる。 2017年メキシコシティのアートギャラリー<kurimanzutto>で開かれた『装飾と抽象』展の全景。 この展示はラテンアメリカで開かれたヤン・ヘギュの 最初の個展だ。 『中間タイプ―拡張 されたW形態のウフフ生命体』 2017  人造藁、パウダー塗装ステンレス鋼天井構造物、パウダー塗装ステンレス鋼フレーム、鋼線、装飾用の布切れ、装飾用の羽 580×750×60cm 『太陽と月の下、言葉を失った大きな目の 山-信用良好者#315』 2017  保安模様の封筒、方眼紙、色紙、サンドペーパー、額縁、接着ビニールフィルム11本  86.2×86.2cm; 57.2×57.2cm; 29.2× 29.2cm 『ソル・ルウィット反転-1078倍に拡張、複製し再び組み合わせたK123456』 2017 アルミニウムベネシャンブラインド、パウダー塗装アルミニウム天井構造物、鋼線、蛍光灯、電線 878×563×1088cm 混ざりあった境界 本格的な展示が広がる第5展示室に入ると、最も良く観える位置に『音のする家の物』の連作が設置されている。これらの作品は人造の藁とプラスチックの紐、真鍮の鈴が主な素材で構成され、金属の鈴が無数にぶら下がっている形態のせいで、一見奇怪な生物体のように見える。徐々に目が慣れてくると、これらの形態がアイロン、マウス、ヘアードライヤー、鍋であることが分かる。 ブラインドを使った作品で東洋と西洋の境界を狙ったとしたら、この作品では無生物と生物の境界を探索している。ヘアードライヤーをカニに、二つのマウスを組み合わせて昆虫の形態にしている。またアイロンを合わせるとハサミの形になる。これらの作品の下に車輪がついており、動かすと鈴の音がする。 作品の右側の壁面には4つの類型のドアの取っ手がついているが、九画形の幾何学的な形態に配置されている。ここで求めている効果も同様だ。取っ手はドアを開くために作られたものだが、それが壁に付くことでその機能が失われている。このような脈絡によって変わってしまった事物の意味を通じて作家は、観客の興味を誘発しようとしているのだ。ただこのような表現方法はすでに100年前のダダイズムの作家たちも使っていた。ヤン・ヘギュがアイロンを交差しハサミの形態を作る遥か昔に、視覚美術家マン・レイはアイロンに画鋲を打ち、その機能と意味を形骸化させている。1921年の作品『贈り物』がそうだ。さらにさかのぼるなら、マルセル・デュシャンが便器を美術館に持ってきて『泉』(1917)と名付けたのもその延長線上にある。 もちろん最近では美術史に現れた特徴的な要素を、時代に関係なくアーティストが好きなように借用する傾向が国際美術界では目立っている。19世紀以前の絵画を借用して抽象化する英国作家セシリー・ブラウンはもちろん、デイヴィッド・ホックニーも自身の偶像であるピカソの作品を堂々と作品に取り入れている。そうだとすれば、コンセプチュアル・アートを借用したヤン・ヘギュの狙いは果たして何なのだろうか。 東洋と西洋、生物と無生物の境界を問う作家が、 今度は現実と仮想、本物と偽物の境界にも疑問を提起し、明らかにしようとしている。 ( 左側) 『真実の複製』 2020、AI(タイプカーストゥ)、ヤン・ヘギュの声、スピーカー、可変サイズ、技術提供ネオサピエンス (右側) 『五行非行』 2020、ポリエステルの垂れ幕に水性インクジェット印刷、アドバルーン、アイレット、スチールワイヤーロープ、韓紙、可変サイズ、グラフィック支援、ユ・イエナ 国立現代美術館の『MMCA ヒョンデ車シリーズ2020: ヤン・ヘギュ-O2 & H2O』 (2020. 9. 29.~2021. 2. 28.)展では、AIで複製した自分の声を使ったり、垂れ幕にデジタルイメージを合成するなど、新たな形態の作品を発表した。 『 音のする家の物』 2020、パウダー塗装ステンレス鋼フレーム、パウダー塗装格子網、パウダー塗装取っ手、車輪、黒色真鍮メッキの鈴、真鍮メッキの鈴、赤色ステンレス鋼の鈴、ステンレス鋼の鈴、金属ロープ、プラスチック紐 (左側) 『音のする家の物―アイロンハサミ』 208×151×86 cm (左から2番目) 『音のする家物―カニ足模様ドライヤー』155×227×115 cm (左から3番目) 『音のする家物―貝ニッパー』 291×111×97 cm (右側) 『音のする家物―鍋重なる鍋』224×176×122 cm 作家は日常的に使われているアイロン、ヘアードライヤー、マウス、鍋の形をもとに素材を互いに組み合わせたり交差結合させて混種器物を誕生させた。 現実と抽象 今回の展示でヤン・ヘギュは、既存の展示では見られなかった新たな形態の作品を発表した。デジタルイメージを合成した垂れ幕作品『五行非行』と人工知能の声が飛び出す『真実の複製』がそれだ。 『五行非行』について作家は「政治的な宣伝物に似た強烈なグラフィックと誇張されたタイポグラフィが特徴」だと説明している。5つの垂れ幕には、韓国伝統カラーの五方色(青、赤、黄、白、黒)が象徴する5つの要素(木、火、土、金、水)の名前が書かれている。垂れ幕の下の方には漢紙で作られた文具がぶら下がっている。この作品は今回の展示タイトル『O2 & H2O』と大きな関係があるようだ。作家は日常空間に存在する空気と水が「O2」と「H2O」で記号化されている点に注目したと言う。現実を5つの要素に抽象化し、彼女なりの方式で表現したということだろう。 一方『真実の複製』は、垂れ幕の間にスピーカーを設置した作品だ。スピーカーからは人工知能技術で複製された作家の声が流れてくる。東洋と西洋、生物と無生物の境界を問う作家が、今回は現実と仮想、本物と偽物の境界にも疑問を提議しようとしている。 ベルリンとソウルの間 1971年ソウル生まれのヤン・ヘギュは、1994年ドイツのフランクフルトに移住してシュテーデル美術大学(Städelschule)を卒業した。2005年からはベルリンに定着して活動しており、2014年にはソウルにもスタジオを開き、ソウルとベルリンを行き来しながら作家活動をしている。2018年にはアジアの女性美術家としては初めてドイツのウォルフガング・ヘッセン美術賞を受賞し話題になった。 コロナウイルス禍の2020年にも世界各地で彼女の作品を見ることができた。ニューヨーク近代美術館のリニューアルオープンを記念した展示の『ハンドル』(2019.10.-2021.2.28)や、そしてイギリスのコーンウォールのテート・セント・アイヴスでは、大規模展示『Strange Attractors』(2020.10.24-2021.5.3)に出品された。 2014年のイ・ブル(李昢)から始まったMMCAヒョンデ車シリーズは、国立現代美術館が中堅作家を支援するために企画した連作展だ。特に今回の展示は、当美術館が企画したヤン・ヘギュの最初の個展であり、40点余りの作品が展示された。

見えないものとの接続

Art Review 2020 SUMMER 48

見えないものとの接続 国立現代美術館果川館が主催した「韓国ビデオアート7090:時間イメージ装置」は、1970年代から1990年代までの韓国ビデオアートの歴史を振り返る意義深い展示であった。ただし、2019年 11月28日から2020年5月31日までの開催期間中に、新型コロナウイルスの集団感染により、長期にわたって観覧が中止になったことは非常に残念であった。 韓国のビデオアートは、西欧と同じ時代に発展してきたが、そのような事実を知っている人々はさほど多くはない。また一般大衆にとってビデオアートといえば、世界的アーティストのナム・ジュン・パイク(白南準、1932~2006)のことしか知らない。「韓国ビデオアート7090」展では、ビデオアートの胎動期である1970年代からはじまり、このジャンルが本格的に熟成する1990年代までの韓国のアーティスト60人の作品130点が紹介された。観覧客にとっては、国内にビデオアートが定着していく全過程を理解する滅多にない機会として、今では国際的に有名になったアーティストたちの初期の作品を見ることができる興味深い機会となった。 『無題』パク・ヒョンギ(朴炫基)、1979 石14個、テレビモニター1台、260×120×260㎝(WDH)国立現代美術館所蔵 『テレビ仏陀』ナム・ジュン・パイク(白南準)、974/2002 仏像、CRTテレビ、閉鎖回路カメラ、カラー 無声、サイズ可変 白南準アートセンター所蔵 実験的美術 1970年代は、韓国現代美術の実験的かつ前衛的な運動が活発に展開されていた時期だった。軍部独裁という暗黒な政治的状況が逆説的に、芸術の前衛運動を触発した点は、非常にアイロニーといえる。ハプニング、設置、写真と映像を持ち込んだ一連の実験的な作業が旺盛に行われていた時代に、最初のビデオアート作業が何人かのアーティストにより先駆的に行われていた。 当時のアーティストたちは、ビデオを新たな独自の映像美学の表現媒体とするよりは、ほとんど前衛・概念芸術のための手段として受容した。代表的な事例がキム・グリム(金丘林)、イ・ガンソ(李康昭)、パク・ヒョンギ(朴炫基)などだったが、これらのアーティストたちは、ビデオという新たな手段を通して時間性、過程と行為、感覚と存在、概念と言語などに関連した事由を視覚化しようとした。例えば、国内の実験美術の先駆者キム・グリムの初期の作品『雑巾』(1974/2001)は、机を雑巾で拭く行為を見せるものだが、雑巾がけが繰り返されるほど、雑巾はどんどん汚くなり、ついには真っ黒になりぼろぼろになっていく過程が圧縮されて展開していく。 韓国での本格的なビデオ操作の先駆者としては断然、パク・ヒョンギをあげることができる。記録によれば、彼は1973年からビデオ作業に取り組んだという。一名『テレビ石塔』と呼ばれる『無題』連作は、実際に石を撮影した映像を一緒に配置することで自然と技術、実在と幻影、オリジナルとイミテーションの問題を探求している。彼は朝鮮戦争の避難の際に、人々が石を拾っては小さな石塔を積み上げて祈る様子を見て強烈な印象を受けたという。彼等にとって石は、物質でありながら同時に念願を投射する文化人類学的な事物でもあった。パク・ヒョンギの作品は、石に対する韓国人の巫俗信仰の片りんだと言える。観覧客は彼の作品を通じて、韓国の伝統美術に内蔵されている呪術性と巫俗性が先端テクノロジーの中で生まれ変わる様子を体験できた。 芸術的な転用 『グッドモーニング・ミスター・オーウェル』は、1984年1月1日に全世界に生中継されたナム・ジュン・パイクの衛星テレビショーを映像で編集した作品で、ビデオアートが韓国に本格的に知られる契機となった。ナム・ジュン・パイクは、自ら光を出すブラウン管が、ただの影に過ぎなかった写真や映画とは違う美学的な性質を備えていることに早くから注目していた。彼は若い頃は音楽を専攻し、実験的な現代音楽家として日本とドイツで活動し、1960年代初めにテレビを任意に操作することで、商業テレビ放送の一方的な情報支配構造を変化させる作業を展開した。1965年以降には、新しく開発されたビデオを初めて美術分野に活用することで、メディアアートの大きな流れを開いた。 テレビジョンに芸術的な可能性を見出したナム・ジュン・パイクは、その装置とイメージを変形させることで、もともとの設計目的とは違う用途に転用したが、彼のこのような想像力を「事物に与えられた機能や固定観念にとらわれずに、すべてを多機能的に解釈し活用してきた韓国人の柔軟で包容的な思考方式に起因したもの」とみる人々もいる。しかし、マルセル・デュシャンが便器を『泉』に変えたように、これは20世紀の現代美術の主な特徴の一つでもあった。 ナム・ジュン・パイクは、テレビという固定されたメディアを使い、造形的な実験だけではなく、哲学的な思惟を可能にし生命力を与えた。今回の展示では見ることができなかったが、単一の走査線で作られた『テレビ仏陀』(1974)は、瞑想的で祭儀的な初期の作品の特徴を示している代表作だ。長い台座の上にモニターが置かれており、その前に青銅の仏像がモニターに向かって座っている。モニターの後ろのカメラが仏陀を正面から撮影し画面に映し出す。仏陀は画面の中の自分を静かに見つめている。この設置作品は、東洋の宗教と西洋のテクノロジーを結合させたものだとして注目された。釈迦が瞑想を通じて修行した目的は、時間と空間を超越した絶対的な概念である「空」であったが、モニター上のカメラの映像は、抜け出ることのできない自分の肉体を反射している。ナム・ジュン・パイクの芸術的な貢献は、まさに東洋哲学や韓国の伝統思想を西洋のアバンギャルド精神に結合させ、現代アートの言語で造形化させた点だ。 『天地人』オ・ギョンファ(吳景和)、1990 テレビ16台、ビデオ&コンピュータグラフィック カラー、サウンド、27分4秒 作家所蔵 ビデオ彫刻 1980年代後半以降、ビデオ彫刻が新たな形式として浮上した。脱平面、脱ジャンル、混合媒体、テクノロジーなどに対する関心の中で本格的に展開されたビデオ彫刻は、1990年代後半まで続いた。最初は何個ものテレビジョンモニターを積み上げたり、重畳させる作品が主流をなし、1990年代中ごろ以降には、物理的な動きと映像の中の動くイメージを結合させたキネティック・アートのビデオ彫刻が現れた。その中でもキム・ヘミン(金海敏)、ユク・テジン(陸泰鎭)などのアーティストは、観念的で実存的な主題を扱っているという点でパク・ヒョンギやナム・ジュン・パイクと同一の脈絡に位置している。 キム・ヘミンは、メディアに対する深い洞察力をもとに仮想と実際、過去と現在、現存と不在の絶妙な境界を演出してきたアーティストだ。その初期の代表作である『テレビハンマー』(1992/2002)は、ハンマーが画面に振り下ろされるたびにグァーンという音とともに揺れ動くテレビモニターを通じて、実際と仮想の境界を行き来する独特な経験を与えてくれる。ユク・テジンは、古家具のようなオブジェと反復的な行為を撮った映像を結合させ、ビデオ彫刻の独創的な領域を開拓してきた。『幽霊タンス』(1995)は、二つの引き出しがモーターで自動的に閉じたり、開いたりの動作を繰り返すのだが、引き出しの中に設置されたビデオ映像には、背中を見せて階段を上り続けている一人の男の姿が映っている。これはギリシャ神話のシーシュポスのように永遠にどこかに上り続けなければならない人間、そしていくらジタバタしても不条理から抜け出すことのできない宿命を感じさせる。 韓国の巫俗がもつエクスタシーと超自然的疎通が、先端メディアであるビデオとつながっているという事実は非常に興味深い。 2. 『幽霊タンス』ユク・テジン(陸泰鎭)、1995 モニター2台、VCR、古家具、85×61×66cm(WDH) シャーマニズム的芸術 アーティストという存在は錬金術師だ。何でもない材料を使い、互いに組み合わせて新しい存在に生まれ変わらせる。彼らは物質の魂を詳しく読み取ることのできるシャーマンでもある。そうして石や木を人間に変形させたり、ありきたりの物質に魂を吹き込み生命が宿った存在にしてしまう。これは人間中心的な思考ではない、すべての物質を人間と対等な存在として見ているから可能なのだ。シャーマニズムはアニミズム的な世界観に基づいている。アニミズムは宇宙を構成するすべての生命体は生きているとみなす。そしてその存在を生かす力を神だとする。シャーマニズムとアニミズムは死と生、闇と光に分かれる二元性の分離と境界をなくしてしまう。シャーマニズムは死の世界と疎通し対話ができるようにする。芸術もまたシャーマニズムのように死と疎通するために、見えない世界を示すために、行けない世界に触れるために始まったものだ。それで私たちは芸術を通じて目に見えるものが支配する世界から抜け出すことができるのだ。 韓国の巫俗がもつエクスタシーと超自然的な疎通のイメージが、先端メディアであるビデオとつながっているという事実は、非常に興味深かった。それは韓国ビデオアートの魅力的な部分だと言える。その事実を今回の展示が気づかせてくれた。

私たちは今 どれほど遠くまで 来たのだろうか

Art Review 2018 SPRING 41

私たちは今 どれほど遠くまで 来たのだろうか ソウル国立現代美術館徳寿宮館で開かれている「新女性の到着」(The Arrival of New Women, 2017年 12月 21日~2018年 4月 1日)は、近代の視覚文化に登場した新女性のイメージを通じて韓国の近代性を探求する展覧会だ。一世紀にわたり、女性が女性を振り返ってみるという新しい試みだという点から注目を集めている。 “Scroll Painting of Buddha at Okcheon Temple” (Okcheonsa gwaebul), 1808. Ink and color on silk, 1006 x 747.9 cm. Designated as Tangible Cultural Heritage No. 299 of South Gyeongsang Province, this huge ritual painting has the unique composition of the Buddha and two bodhisattvas in the center, unlike most other paintings depicting scenes of the historic Buddha’s sermon on Vulture Peak. --> 「新女性(New Women)」とは、西欧の文物の影響で韓国社会全般に変化が起き始めた開化期に、新しいスタイルの教育を受けて教養を身につけた女性たちを指す言葉だ。国内ではこの言葉が1890年代以降に紹介され、雑誌や新聞などのマスメディアで1920年代から使われ始め、1930年代末まであらゆる方面で使われた。特に新女性は近代的な理念と文物を追及する存在として形象化された。 新女性を象徴する断髪  実存する人物にスポットをあてた小説家チョ・ソンヒ(趙善姫)が、2017年の夏に発表した長編小説『三人の女』は、20世紀初めを花火のように生きぬいた女性革命家チュ・セチュク(朱世竹、1901~1953)、ホ・ジョンスク(許貞淑、1902~1991)、コ・ミョンジャ(高明子、1904~)らの波乱万丈の一代記を扱っている。彼女らはある日、同士であり友人として志を同じくして断髪を決行する。当時としては悲壮でありながらも快活な「友情の連帯」だった。小説家チョ・ソンヒはこの事件を、植民地時代に京城で流行した月刊誌『新女性』に掲載された1枚のモノクロ写真から借用した。小説の主人公であり『新女性』の編集長だったホ・ジョンスクは、1925年10月号『短髪特集号』にこの日のことを写真と共にこう記録している。 「なぜか互いにわけの分からない偉大な理性と欲望がかなえられたようで無条件うれしかった」。 ソウル国立現代美術館徳寿宮館で開かれている「新女性の到着」展の第3部は、20世紀前半に先駆的な人生を生きた5人の女性たちへのオマージュだ。韓国人最初の女流西洋画家 ナ・ヘソク(羅恵錫、1896~1948)、作家であり翻訳家でもあったキム・ミョンスン(金明淳、1896~1951)、 現代舞踊家チェ・スンヒ(崔承喜、1911~1969)、社会主義女性運動家のチュ・セチュク(1901~1953)、大衆音楽家のイ・ナニョン(李蘭影、1916~1965)。時代を先駆けた5人の女性の理想と挫折を、今日の視覚で振り返っている。 1920年代、女性の断髪は大きな話題だった。断髪、ショートカットの女性たちは朝鮮全土を通じてもまだ10人にも満たない、指で数えられる程度だった。そしてその彼女たちの断髪は「私は独立した人格体だ」と叫ぶ一人パフォーマンスだった。夜寝るとき以外はひっつめ髪をほどくことのなかった朝鮮の女性たちが断髪をしたということは、それだけ強い意志を示す過激な行為だった。帝国主義、植民地主義、家父長制度、東西洋文化の衝突という何重もの抑圧と矛盾の中で新女性たちは、伝統的な良妻賢母の意識と新しいのモダンガール(modern girl)との間で分裂する自分たちの意識を、髪の毛を切ることで表出し「自我」を主張したのだ。徳寿宮美術館の展示場に足を踏み入れた観覧客が最初に目にする100年前の顔が、この断髪娘たちだ。 展示は絵画、彫刻、刺繍、写真、印刷美術、映画、大衆歌謡、書籍、雑誌など500点余りの豊富な視聴覚媒体を3部門に分けて展示しているが、多数の断髪が登場する。開化期から日本の植民地時代まで近代の視覚文化で断髪は新女性を象徴する典型的なイメージだった。趣味を主題とした月刊誌『別乾坤』(1933年9月号)の表紙からもそのような事実を確認することができる。断髪頭に西欧式の化粧、体の曲線が現れた上着、弾力のある脚の動きを暗示するモダンなスカート、誘惑的な赤いベルトとハイヒール姿で表現されている。 1920~40年代の女性雑誌と小説の表紙画に登 場する新女性は、ほとんど颯爽とした活発な姿 で表現されている。特にアン・ソクジュが描い た月刊誌『別乾坤』(1933年9月号)の表紙 画のこのような断髪は、既存の従属的な暮らし から抜け出し、自我の実現を求めた新女性の典 型的なシンボルだった。 (左から時計回りに)『恋愛小説 熱い愛情』セチャン書館、コンジ ンキュ美術館所蔵、1957年12月号 『新女性』アンソクジュ、開闢社、コンジンキ ュ美術館所蔵、1933年9月号 『婦人』盧壽鉉、開闢社、コンジンキュ美術館 所蔵、1922年7月号 『別乾坤』アンソクジュ、開闢社、オヨンシク 個人所蔵、1933年9月号 「女性たちはたくましく運命に挑戦し、ドラマチックな人生を生きた。私たちは今、年俸や昇進の問題にぶつかり憂鬱になるが、この女性たちはそんな諸々の現実を気にも留めずに、命さえ惜しまず、一人で全身で歴史に立ち向かった」 『自画像』ナ・ヘソク キャンパスに油彩、88×75cm、1928年(推定) 水原市立アイパーク美術館所蔵 タブーの領域に挑戦する 朝鮮の女性は「アンパンマニム(奥様)」という単語に現れているように、家の中の奥深いところにあるアン房に埋もれて暮らす存在であり、男性の影に過ぎなかった。外出を控え、ただただ家事と子供の教育にだけ力を注ぐ「ネジャ(内子)」だった。しかし、変貌する時代を迎えた新女性は街に飛びだしていく。家庭の垣根を抜け出し、自分の力で学び、働き、生きていく独立的な人間になろうとしたのだ。ヤン・ジュナム(梁柱南)監督の映画『迷夢』(1936年作)で女主人公のイェスンは「私は鳥篭の中の鳥ではない」と叫び、家族を残したまま家をとび出して行く。 展覧会の第1部「新女性オンパレード」は、街を闊歩する新女性の活動に焦点をあてている。「オンパレード」は公演を終えた俳優たちが舞台の上に一列に並ぶ姿を指す英語の表現「on parade」の1930年代の韓国式表記だ。韓国の新聞小説の挿絵の先駆者だったアン・ソクジュ(安碩柱)は、舞踊手の溌剌とした動作に例えて新女性の群像を描いている。 第2部では画家として活躍していた新女性たちを紹介している。依然として婦徳を守り従順する役割を強調していた近代期の女性教育の中で、美術は一種の脱出口だった。新たな価値観と芸術魂が結合し自由に息を吸える通路となった。しかし、女性が画家となるのはたやすいことではなかった。1910年代に初めて画家となった女性が、妓生出身の書画家だったという点は、その間接的な証拠だ。良家の子女よりは比較的外部活動が自由だった妓生は、四君子や書道でその才能を示したが、だからといって独立した画家として認められていたわけではない。 傑出した第1世代の女流画家が輩出されたのは、朝鮮美術展覧会を通じてのことだった。日本留学を経た東洋画家パク・レヒョン(朴崍賢、1920~1976)とチョン・ギョンジャ(千鏡子、1924~2015)がその代表的な人物だ。 しかし彼女らよりも一世代前に活動した西洋画檀のナ・ヘソク(羅恵錫、1896~1948)は、断然抜きん出た存在だった。彼女は最初の女性西洋画家であると同時に文人でもあり、女性の主体性を主張する近代女性運動家として強く記憶されている。ナ・ヘソクは絵だけではなく論説・小説・随筆などさまざまなジャンルの文章を書き、男性同僚たちを圧倒した。彼女が1928年に描いたものと推定される油絵「自画像」は、変革期を生きる知識人であり芸術家として女性が背負わなければならなかった苦痛と憂鬱を、その暗い色調で表現している。 『SF Drome: チュ・セチュク』 キム・ソヨン、3チャンネル映像 2017年、作家所蔵 『探求』イ・ユテ(李惟台) 画仙紙に墨と彩色、212×153cm、1944年 国立現代美術館所蔵 『いつかその日』千鏡子 紙に彩色、195×135cm、1969年 ミュージアムサン所蔵 新女性に対するオマージュ ナ・ヘソクをはじめとする5人の新女性を通じて、当代の彼女たちが抱いていた理想を今日に照らし合わせてみたのが第3部なのだが、彼女たちの人生を映し鏡にして大韓民国の現代女性を振り返ってみたという点で実に新鮮だ。ここでの展示は2018年に生きる女性たちが、当時の新女性から果たしてどれほど発展したのかと問いただしている。 はじまりはナ・ヘソクだ。彼女は日本の東京女子美術学校(現在の女子美術大学)を卒業した朝鮮初の女流画家として、封建的な家族制度と結婚制度の不当さに反発する辛らつな文章をいくつも発表した。その中の一つが東京の朝鮮留学生学友会の機関紙だった『学之光』第3号に掲載された「理性的な婦人」だ。彼女は「良妻賢母は男性本意の教育であり、女性を奴隷にする結果を招いた」と批判した。また1924年『新女性』に掲載された「私を忘れない幸福」の一節は、人間としての尊厳性を回復しようと叫んでいるように聞こえる。 「私たちは謙遜し過ぎだった。いや、私自身を忘れて生きてきた。自分の内心に隠れている無限の能力を自覚できずに、その能力の発現を試してみようともしないほど、全体が犠牲だけ、依頼だけだった」。 そうかと思えば、当代を熱く生き抜いたもう一人の代表的な新女性たち、作家であり翻訳家であったキム・ミョンスン(金明淳、1896~1951)、現代舞踊家チェ・スンヒ(崔承喜、1911~1969)、社会主義女性運動家のチュ・セチュク、大衆音楽家のイ・ナニョン(李蘭影、1916~1965)を展示した空間は、荘厳な新女性の殿堂だ。彼女たちの人生の軌跡を追う観覧客の間からはすすり泣きさえ聞こえてくる。 第3部の展示が興味深いのは、彼女たち5人の新女性に対する現代女性作家たちのオマージュだ。現在では想像さえできない男性権威主義社会の鉄壁を壊して飛翔した5人の女性に対する尊敬の念は、新たな芸術として発芽した。その新鮮な共感が21世紀に生きる女性たちの自覚と奮発を促す。 第1世代の女性文人として独特な作品世界を築いたキム・ミョンスンに対して作家 キム・セジン(金世珍)は、ビデオ作品「悪い血に対する年代記」で追憶している。庶子であり、妓生の娘だという身分から抜け出そうとするキム・ミョンスクの創作にかける情熱が、詩の朗読の形式で花開いている。映画監督キム・ソヨン(金素栄)は、無産者革命を夢見た社会主義者チュ・セチュクの魂を慰める映像「 SF Drome: チュ・セチュク」を捧げた。そうかと思えば「木浦の涙」で今だに私たちの耳元に聞こえてくるメロディを絶唱する歌手イ・ナニョンの人生は、作家グォン・へウォン(権慧元)のメディアアート「知らない唄」でよみがえった。作家はイ・ナヨンが1939年に録音したブルース曲「茶房の青い夢」のいくつかのバージョンをエンドレスで回転する舞台の上で、ほかの顔で再現している。 上記で紹介した小説家チョ・ソンヒは『3人の女』を終えるにあたりこう書いている。 「3人の女が生まれたのは20世紀の入口だったが、私は彼女たちと共に百年以上生きた気がする。この小説の3人の女性たちが生きていた時代は、歴史の最も陰湿な谷間であり、比喩や風刺ではなく言葉どおり「ヘル朝鮮」、朝鮮という名前の地獄だった。しかし3人の女性たちの人生もただの地獄ではなかった。女性たちはたくましく運命に挑戦し、ドラマチックな人生を生きた。私たちは今、年俸や昇進の問題にぶつかり憂鬱になるが、この女性たちはそんな諸々の現実を気にも留めずに、命さえ惜しまず、一人で、全身で歴史に立ち向かった 」。 会場をでても最後の一節が耳元から離れなかった。 「一人で、全身で歴史に立ち向かった」。 もしかすると、この展示に登場するすべての新女性がそうだったのかもしれない。私たちは今、彼女たちからどれほど遠くに来ているのだろう。必死にユートピアを捜し求めて人生を投げ出した私たちの母や祖母に頭が下がる。もしかすると本当の意味で新女性はまだ到着していないのかもしれない。

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