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地の果てであり始まりの地、栄州

On the Road 2022 SPRING 582

地の果てであり始まりの地、栄州 地の果てであり始まりの地、栄州 栄州―二つの大きな川の発源地であり、二つの国の始まりと終わりを記憶している地。ここには、別れの時間を遅らせるという低く湾曲した橋と神秘的な伝説を秘めた浮石がある。自然に恵まれた悠久なる歴史を辿っていくと、まるで宝物のような空間が語りかけてくる。 慶尚北道・栄州(ヨンジュ)のムソム村は、太白山から始まった二つの清い小川が合流して洛東江(ナクトンガン)につながる道筋に位置している。1979年に現代式の橋が架けられるまではこの長い一本橋が、水路に囲まれて島と化した村落を外部と結ぶ唯一の通路だった。 地図を広げて見てみると、昔の栄州の人たちにとってはそこが地の果てだったのかもかもしれないという気がした。栄州市は朝鮮半島の東南側にある慶尚北道の一番上に位置している。江原道と接している北東には太白山が、西側の長い境界線を分かち合っている忠清北道の方には小白山がそびえる。栄州の人たちは北を遮るあの高い山々の向こう側が気になっただろう。南の海辺からは、世界がどれ程広いのかを知りたい他の地域の人々が絶えず集まってきたであろうし、人々はここでお互いの想像と経験を分かち合ったであろう。 私は南方から栄州に集まってきた人々の道しるべとなったであろう「水路」について考えてみた。それは韓国最長の川、洛東江(ナクトンガン)である。栄州にその発源地が必ずあるという確信を持って情報を模索し始めた。思った通り、『世宗実録地理志』(1454成立)に「洛東江の根源は太白山―黄池、聞慶―草岾、順興―小白山で、その水が合流して尚州に至り、やがて洛東江となる」と記されていた。そこに書かれている「順興」が栄州一帯の旧名である。その他にも驚くべき情報をもう一つ手に入れた。栄州には、洛東江だけでなく、漢江の発源地となる川がもう一つあった。漢江は東から西へと流れる川なので、さすがにこれは予想外の情報だった。朝鮮半島の南側にある二つの主要な川がいずれもここから始まっているのだから、栄州はつまり「始まり」でもあるわけだ。 午後遅くソウルを出て2時間ほど高速道路を走ると、遠くに竹嶺トンネルの入口が見えた。竹嶺トンネルは小白山の麓から始まって忠清北道と慶尚北道をつなぐ長さ4,600メートルの長い関門である。トンネルの向こう側が栄州だということを知っていたので、別の世界へと足を踏み入れているという実感が湧いてきた。 17世紀の中頃、肥沃な土地に呼び寄せられた人々によって造成されたムソム村には現在、約40戸の古い家屋が残っていて100人余りの住民が住んでいる。主に、潘南朴氏と禮安金氏が集まって住む集成村である。 一本橋が湾曲している理由 私は栄州の南にあるムソム村へ向かった。川が大きく湾曲した内側、川筋を押し出しまるでこぶのように突き出たところに古い村があった。韓国では、このような地形に形成された村をムルドリ(水の巡る)村と呼ぶ。村の三方が水に囲まれ、後方は山に塞がれていて、まるで陸の孤島のようだ。このように完全に孤立したところに村が造られたのは、このような地形が住民に良い気運を与えるという風水学的信仰に加え、多くの人々が自給自足生活を営める広くて肥沃な土地があるからであろう。昨今、この村が広く知られるようになったのは、ムソム村と向こう岸を結んでいる「一本橋」のおかげである。 この川は、梅雨の時期でなければ歩いて渡れるほど水深が浅いのだが、かといって服を濡らすわけにはいかず、簡易な橋を架けたのである。この一本橋は、高さが砂州と川の水面からわずか1メートルほどで、その幅は成人男性の指尺で二つ足らずである。不思議なことに、橋は直線ではなく、大きな「S字」型をなしていた。最後までその理由を見つけることはできなかったが、その有り様は見とれるほどにとても美しかった。ドラマやテレビでも紹介されて観光客が絶えず訪れているという。老若男女問わず多くの人々に人気の理由は、写真に収めていつまでも残る思い出とともにインスタ映えする美しい外観にあるようだ。 私は、観光客が押し寄せてくる前にのんびりと旅を楽しみたくて、早々に到着した。私のような人は他にも数人いた。一本橋の上には、縦列に前をゆっくりと渡っているカップルがいたので、私はそのカップルが写真に写らない所まで移動するのを待ちながら、橋がS字型に造られた理由についてじっくり考えた。梅雨期には水流が速くなるので簡単に橋が崩れるそうだ。今では、少し北のところに車が通行できるほどの大きな橋が架けられているのだが、それがなかった頃はこの一本橋が川を渡る唯一の手段だったのだろう。水流に押し流されてしまうと、再び橋を架けるためには大変な手間がかかるだろうし、増水した川の流れに耐えられるように丈夫に造る技術も当時はなかっただろう。また、橋を架けるのに必要な資材の無駄などを考えると、直線型に造った方がより合理的だったはずだ。もしかしたら、単なる美観上の理由からだったのだろうか。私は首を傾げながら橋を渡ってみた。本来一本のこの橋には、要所要所に橋の幅ほどの木が二重に設置してあるところがあった。これは「すれ違いの橋」と呼ばれる構造物だ。偶然、橋の上で反対側から来た人と向かい合うことにでもなれば、しばらくよけて相手に譲れるスペースを設けたのである。その合理的かつ思いやりの心に感心する一方で、S字に湾曲した非効率的なその形状が私を一層混乱させた。 ムソム村には古宅と東屋がたくさんある。そのうち16棟は朝鮮時代後期の典型的な士大夫の家屋として今でもよく保存されている。まだ一般には広く知られていないため、比較的昔の士人村の森閑とした趣がよく残っている。 村に入ると、保存状態の良好な伝統家屋が目の前に広がった。19世紀末までは約120世帯に500人ほどが住んでいたほど大きな村だった。この村を代表する数軒の瓦屋の大きさと形から、ここが単に仮住まいの島ではなく、一つの理想的な小都市だったと見なされるだろう。この村から数多の学者や士人が輩出され、独立有功者が5人もいるという話を聞いて、当時ここに初めて定着した人々の眼識と志の高さを実感した。 石垣と砂利道に沿って歩いていた私は、ムソム村の資料展示館に入った。庭にはある詩人を称える詩碑が建てられていた。その名は趙芝薫(チョ・ジフン、1920-1968)。誰もが学生時代に、教科書に載っている『僧舞』という題名の詩を詠んだことがあるだろう。ムソムには彼の妻の実家があるのだが、大きな岩には彼がここで作った『別離』という詩が書道家である妻の金蘭姫(キム・ナンヒ、1922-)の筆致で深く刻み込まれた記念碑だ。家を出て何処かに旅立つ夫を花嫁の目線で描いた詩である。床の大きな柱の陰から、夫の後ろ姿を密かに見守りながら涙でチョゴリの結びを濡らす新妻。おそらく、その夫も一本橋で川を渡ったのだろう。 そう考えているうちに、ふと一本橋が「S」字型になっている理由が理解できそうな気がした。村に家族を残して旅に出る多くの人々は、足取りが重くてなかなか前に進むことができない。いつ帰ってくるかもわからないまま村を出る人々は、気が重く、どうしても川を一気に渡ることができない。家族のことが気になって一度ぐらいは後ろを振り向きたいのだが、見送る家族の胸が張り裂けるのを心配して、涙を呑んでひたすら歩き続ける。見送る人も、柱の陰に身を隠しては遠く去り行く人を安心させるために必死に耐える。長く湾曲した橋が川を渡る時間を遅らせてくれるので、せめてもの慰めになる。私はこの詩に登場する夫が、一歩一歩踏みしめながらゆっくり一本橋を渡る姿を想像した。彼の頭上に白い雲が何気なく広がっては散り、はるか遠くから流れてきた小さな葉っぱは足もとに留まることもなく一瞬にして流れ去ってしまう。 開かれた王朝と閉ざされた王朝 再び市内へ戻って、栄州の中心街を見て回った。都心の近くに鄭道伝(チョン・ドジョン、1342-1398)の実家があった。チョン・ドジョンは、朝鮮王朝創業の礎を築いたとされる人物だ。一国の礎石を築いた人が、数々の大きな川の発源地を抱いている栄州で育ったという事実が並々ならぬことのように感じられた。彼の実家は、判書(大臣)を三人も輩出したことから「三判書古宅」と呼ばれている。水害に遭って崩壊した家屋を他の場所に移して復元したとはいえ、今でも、一国の統治理念をつくりあげ、子孫代々高官を輩出した家門の威勢がみなぎっていた。 西川を見下ろす高い岩壁にある磨崖如来三尊仏像は、統一新羅時代の彫刻様式がよく表れている重要な仏像ととして評価されている。発見当時は仏像3躯の両眼がすべてノミで削られていたが、大きな鼻やぎゅっと結んだ口元、丸くふくよかな顔に力強い気性が漂っている。 市内の中心街に入って栄州近代文化通りを見て回った後、緩やかな坂道を登って「崇恩殿」に辿り着いた。ここには新羅の最後の王である敬順王(在位927-935)の位牌が祀られているのだが、彼が高麗に降伏を申し出るために開城へ向かう途中ここに留まったことが縁となったと伝わる。私はたった今、新しい王朝を開いた革命的な思想家に会ってきた道すがらで、今や一千年間続いた自分の国が滅亡し、国を新しい王朝に捧げるしかなかった悲運の王と向かい合っていた。国運が傾いている状況下で、民百姓の命を守るためにやむを得ず下した決断だったという。栄州では、敬順王の「愛民精神」を讃え、彼を神として祀っていた。崇恩殿の前で市内を見下ろしながら龍がここに落とした涙に思い耽っているうちに、早くも冬の陽は西へ傾いていった。 翌日、早朝にもかかわらず、浮石寺へと向かう人が少なからずいた。浮石寺は「山寺、韓国の山寺僧院」という名前で通度寺、鳳停寺、法住寺、麻谷寺、仙岩寺、大興寺とともにユネスコ世界遺産に登録されている。長く続く上り坂と急な階段を上りながら美しく壮大な建築物を鑑賞しているうちに額に汗がにじみ、息が苦しくなってきた。しかし、私を含め、前後を歩いている観光客たちは少しも不平を言わなかった。空中に浮いて盗賊の群れを撃退しては地に降りてきたという伝説の岩を見るためにここを訪れた人々だった。少しの間の不自由ぐらい、伝説の秘められた神秘の世界を経験するために喜んで支払える対価だったわけだ。その伝説の岩のすぐ近くに浮石寺が建てられた676年は、新羅が高句麗と百済を制圧して三国を統一するほど強盛だった時期である。仏教が国教として多大な支援を受けていた時期だったため、浮石寺の規模や地位は格別だった。そんな国が、約250年後には人手に渡ってしまったのである。複雑な思いに駆られているうちにようやく108段の階段をすべて登り切って、韓国最古の木造建築である「無量寿殿」の前に立った。いつの間にか私の頭の中から王朝の興亡盛衰などはすっかり消え去っていた。無量寿殿と向かい合って立つと左側にあの浮いている石、「浮石」があった。 朝鮮王朝・英祖の時代に編纂された人文地理書『択里志』(1751)には、岩の下にロープを押し入れて通しても何も引っかかるものがないと書かれている。科学的に説明すると、浮石寺の裏側にある花こう岩の一部が板状節理によって割れ、傾斜面に沿って滑ってきて小石の上に載せられて浮いているように見える。私には、20人ぐらいの大人が囲んで座れるぐらいの大きさのテーブルに見えた。俗世の物差しで寺院の創建説話を測っていると、どこからともなく猫が現れて浮石と私の間に割り込んできた。警戒心もなければのんびりとした歩き方になんとなく、すげなくあしらわれたような気がした。猫が現れた方向の反対側へと消えた後、私はふと自分が図書館の書蠹(しょと)のように行動していたことに気が付いた。仏教の教えでは森羅万象に仏性が宿っているというが、もしかして私に悟りを与えてくれた猫を通じて仏に出会ったのではないだろうか。 浮石寺の梵鐘楼に上がると、寺の全景とその向こうに広がる小白山脈の絶景が目の前に広がる。浮石寺は676年、新羅の三国統一の直後に創建されて以来、今まで法灯が消えることなく保存されてきた韓国の代表的な仏教寺院である。2018年、他の六つの寺院とともにユネスコ世界遺産に登録された。 梵鐘楼は、安養楼とともに浮石寺にある2つの古い楼閣の一つである。一般的に寺院内の梵鐘楼はお寺の庭の端に位置するのだが、このお寺の梵鐘楼は境内の中心軸に堂々と位置している。一日二回、配置されているものを叩きながら衆生の平安を祈る儀式の場所でもある。 循環を抱擁する空間 午後は江原道方向にある馬具嶺(マグリョン)という峠を越えて南大里(ナムデリ)にある山間村を訪問し、再び浮石寺の方へ戻ってきて紹修書院を見て回った。南代理は、李氏朝鮮の第6代端宗王(在位1452-1455)が叔父の世祖(在位1455-1468)によって廃位されて流刑に処された際に滞在したところであり、ここに漢江の嶺南発源地がある。紹修書院は学者を育成する朝鮮時代最高の地方私立教育機関であるが、「韓国の書院」という名でユネスコ世界遺産に登録されている九つの書院のうちの一つである。ここは王から名を授かった初の書院であり、朝鮮半島で初めて性理学を伝播した安享(アン・ヒャン、1243-1306)をはじめ、多数の儒学者がここに祀られている。 紹修書院の周辺にあるトゥルレキル(森の道)は、自然と調和した風情ある古い書院の景観が楽しめるおすすめの散策コースだ。樹齢300年から1000年にも及ぶ松の木や数百本の赤松が立ち並んでいる。1542年に設立された紹修書院は韓国初の書院で、2019年に8箇所の書院とともに、ユネスコの世界遺産に登録されている。 静かな山寺、聖穴寺(ソンヒョルサ)には美しい建物「羅漢殿」がある。丹青を施していないので一層上品で奥ゆかしい雰囲気が漂う。羅漢殿の三つの間に蓮華と蓮の葉、タンチョウ鶴、蛙、魚などの象徴的な文様が精巧に刻まれている。 私は、栄州のあちこちを知れば知るほどその独自性に感嘆した。一国の立役者が生まれた地であり、消え去った王朝の最後の王を称えている地。書院で数多の学者や政治家を輩出した地であり、権力闘争から追われた幼君の幼弱な足跡が残っている地。まるで一つの雄大な歴史の循環を繰り返し見ているような気がした。私は栄州が誇る人物、宋相燾(ソン・サンド、1871-1946)先生を通じて発源と回帰について深く考えることができた。 彼が自分の号をつけた『騎驢隨筆』(1955)という編著には、植民地時代に全国各地で抗日闘争をした韓国人の姿が詳しく記録されている。宋先生は、毎年春、栄州を発って冬になるとすっかり憔悴した姿で帰ってきたという。植民地の国民の立場で占領国に対抗する人たちについて探っていることが発覚でもしたら命が危険にさらされる。彼は、あちこちで聞いた話を小さな字で紙に記録し、その紙を縄のようによじって風呂敷の包みの紐として使った。そのおかげで検問を受けてもひどい目に会わずに済んだのである。彼は、1910年以降、数十年間全国を回りながら愛国志士の遺族に会って、事件当時の新聞の記事などの客観的な資料を少しずつ収集した。 宋相燾先生に関する話を聞いて、私は志を抱いて飛び立つ際にどのような心構えが必要なのか惟ることができた。ムソム村に愛しの家族を残して一本橋を渡っていった人々のその覚悟も少しは解るような気がした。それは包容と包摂だった。世の中のすべての発源地であると同時に、いつだって回帰できる彼岸の空間でありたいというのが栄州に宿る精神だったのである。 旅の最後の日の朝、私はソウルへ戻る支度をしながら、生涯を捧げて国を立て直すための種火を集めたある士人の行路を思い浮かべた。言葉では言い尽くせないその苦難の旅程をそのまま傚うことはできないものの、高速道路を走ってさっさと帰るのは何となく申し訳ないような気がした。そこで私は昔の竹嶺の坂道へ向かった。急峻で狭く曲がりくねった山道を運転しながら、この険しい峠を二つも越えて栄州を旅立った士人の堅固で大いなる気概を感じてみたかった。峠の頂上に立った私は、今自分はソウルへ帰途なのか、それとも栄州を発っているのか、自分に問いかけた。栄州での経験を自慢したくなる想いと、ここへ何度でも来たいという想いで、「出発」とすることにした。 キム・ドクヒ 金㯖熙、小説家 アン・ホンボム 安洪範、写真

平和を夢見る

Image of Korea 2022 SPRING 596

平和を夢見る 平和を夢見る   © Gian 入り口は狭く通路は暗い。暗闇の中に漏れてくる光はなかなか照度が上がらない。時間の歩みが遅くなる。左の壁からほんのりと光の気配を感じる。広大で、強固な何かが横たわっている。巨大な岩あるいは氷が非常にゆっくりとした速度で、その形態は見極められない水となり、水はさらにゆっくりと水蒸気となって辺り一面に立ち込め、また岩になり固まる。ジャン・ジュリアン・ポウス(Jean-Julien Pous)のビデオ作品が喚起する宇宙的循環の洗礼を経て、ようやく「思惟の部屋」へと入っていく。 五感が目覚める。全身の毛穴が少しずつ開き、内なる空間が無限大に広がっていく。覚醒と静寂が一つになる時間、いつの間にか床が少しずつ高くなり、暗闇と明るさが出会った楕円形の地平に神秘的な二つの存在が浮かび上がる。その存在と近くも遠い間隔の空間の中で、思惟への道が始まる。似ているようで、異なる二つの反跏思惟像の交歓する神秘的な微笑がそこにあった。 南山を背に、漢江を前にして広がる龍山公園の森の中に位置する国立中央博物館。今回の野心的な企画は博物館側が直接、建築家チェ・ウク(崔旭)とブランドストーリー専門チームに依頼し、2021年11月に一般公開されたこの空間がまさにこの部屋だ。ルーブル美術館を訪れた観覧客がまず頭に思い浮かべるシンボルが「モナリザ」だとすれば、ソウルの国立中央博物館を訪れた人々は「思惟の部屋」と、その中で出会った2躰の「金銅半跏思惟像」をまず最初に思い浮かべるだろう。 レオナルド・ダビンチが描いた女性の肖像画(77×53㎝)は16世紀初めの絵画だが、韓国の1mにも満たない国宝78号と83号の金銅彫刻像は、それよりも1000年近く前の6世紀後半と7世紀前半に制作された新羅仏教美術の至宝だ。この傑作はその名前に込められた二つの特徴を持っている。先ず、立ったり座ったり、横たわっている他の仏像とは違い、丸椅子に腰かけ右足を左足の膝の上にのせ、座っているとも、立っているとも言い難い独特な姿勢を取っている。そして右手を上げて人差し指と中指の先を軽く顎にあてる姿勢で瞑想にふけっている。ロダンの「考える人」より1300年前に、この弥勒菩薩は何を考えていたのだろう。 仏教では生老病死に対する深い考えに沈んでいる姿だと言われている。しかし、仏像も長い歳月が過ぎ、美術館に入ったら宗教から自由になったのではないか。真の思惟はおのれを捨てると同時におのれを探す道だ。この二つの半跏思惟像は、捨離と探求の間の僅かな振動を神秘的な微笑みに変えて、広くて深い思惟の時空間を内面化しているのか。 キム・ファヨン 金華榮文学評論家、大韓民国芸術院会員

オックスフォード英語辞典に収録された韓国語由来の単語

Focus 2022 SPRING 622

オックスフォード英語辞典に収録された韓国語由来の単語 オックスフォード英語辞典に収録された韓国語由来の単語 英語圏で最も権威のある辞書『オックスフォード英語辞典』に昨年9月、韓国語由来の26単語が新たに追加された。高麗大学校のシン・ジヨン教授が今回の収録過程に諮問委員として参与しており、その経験と意見をうかがった。 2021年9月『オックスフォード英語辞典』に韓国語に由来する単語が新たに26語も追加された。1928年に初版が刊行されてから今回のアップデート以前に収録された韓国語由来の単語数は、24語に過ぎなかったが、最近の韓国大衆文化の影響力が世界的に大きく高まっている結果だと言える。 © Shutterstock 2021年5月オックスフォード大学のチョ・ジウン(趙知恩)教授から1通のEメールが届いた。チョ教授とはほとんど毎週のようにスカイプで研究会議を開き、頻繁に連絡を取り合っていた仲なのでメールも特別なことではなかった。しかし、その内容は非常に興味深い提案だった。その内容とは、4月初めにオックスフォード大学の出版部から諮問要請を受けたのだが、私にも一緒に参加する意向がないか尋ねるものであった。OED(オックスフォード英語辞典)に新しく収録する韓国語由来の単語を検討し、諮問する仕事だという。もちろん断る理由はなかったので、すぐにぜひ一緒にやりたいと返事を送った。 返事を受け取ったチョ・ジウン教授はすぐに、OEDのワールドイングリッシュ担当編集者のタニカ・サラジャール博士(Dr. Danica Salazar)にメールを送り、私を諮問委員に委嘱すると伝えた。サラジャール博士からは一緒に仕事ができて嬉しいという感謝のメールが届いた。こうして素晴らしい人々との興味深いプロジェクトが始まった。 二つのPDFファイル 後日質問内容の書かれた二つのPDFファイルが届いた。サラジャール博士が作成した最初のファイルは、2021年9月のアップデートの際に追加収録された韓国語由来の単語が、二つの表に整理された2ページの文書であった。二つの表のうち、一つには新しく収録される単語の目録と疑問事項が、もう一つの表にはすでに収録されている単語の中で修正が必要な単語の目録とそれに対する質問が含まれていた。 2番目のファイルは語源担当者であるキャトリン・ディア(Katrin Their)が送って来た6ページの文書だった。オックスフォード英語辞典は学術辞典の性格が強く、単語についての語源情報から膨大な例文はもちろん、様々な言語学的な情報が多層的に解釈されている。該当言語を知らずに英語の文書だけをたよりに外国語由来の単語の語源を正確に把握することは難しく、危うい作業だ。そのため語源は該当言語を母国語として使用している専門家の諮問が必要になる。語源担当者の質問は非常に具体的で、確認しようとする内容も明瞭だった。自分がアクセスできる資料をもとに判断した内容が合っているのかどうか、間違っているのなら具体的にどの部分がどのように間違っているのかを聞いてきた。そして語源を見つけるのが難しい場合と、それと関連して気になった事項も詳しくたずねてきた。韓国語を知らずして、どのようにしてこのように推論を導いたのか驚いたものだ。的外れな推論もあり、諮問委員として補完できることにやりがいを感じた。 このファイルを開いて最も驚き、また嬉しかったのは収録予定単語の多さだった。合計26の単語が新しく収録される予定だということだった。オックスフォード英語辞典に一度にこんなに多くの韓国語由来の単語が収録されるということは、それこそ一大事件だと言っても過言ではない。60万語を超える収録単語の中でたったの26語で大騒ぎをしていると言われるかもしれない。しかし、142年に及ぶこの辞典の刊行の歴史の中で、韓国由来の単語がこれまでどれだけ収録されてきたかを振り返ってみれば、興奮せざるを得ないことだ。 aegyo, n. and adj. A. n. Cuteness or charm, esp. of a sort considered characteristic of Korean popular culture. Also: behaviour regarded as cute, charming, or adorable. Cf. KAWAII n. B. adj. Characterized by ‘aegyo’, cute, charming, adorable. banchan, n. In Korean cookery: a small side dish of vegetables, etc., served along with rice as part of a typical Korean meal. bulgogi, n. In Korean cookery: a dish of thin slices of beef or pork which are marinated then grilled or stir-fried. chimaek, n. In South Korea and Korean-style restaurants: fried chicken served with beer. Popularized outside South Korea by the Korean television drama My Love from the Star (2014). daebak, n., int., and adj. A. n. Something lucrative or desirable, esp. when acquired or found by chance; a windfall, a jackpot. B. int. Expressing enthusiastic approval: ‘fantastic!’, ‘amazing!’ C. adj. As a general term of approval: excellent, fantastic, great fighting, int. Esp. in Korea and Korean contexts: expressing encouragement, incitement, or support: ‘Go on!’ ‘Go for it!’ hallyu, n. The increase in international interest in South Korea and its popular culture, esp. as represented by the global success of South Korean music, film, television, fashion, and food. Also: South Korean popular culture and entertainment itself. Frequently as a modifier, as inhallyu craze, hallyu fan, hallyu star, etc. Cf. K-, comb. form Forming nouns relating to South Korea and its (popular) culture, as K-beauty, K-culture, K-food, K-style, etc.Recorded earliest in K-POP n. See also K-DRAMA n. K-drama, n. A television series in the Korean language and produced in South Korea. Also: such series collectively. kimbap, n. A Korean dish consisting of cooked rice and other ingredients wrapped in a sheet of seaweed and cut into bite-sized slices. Konglish, n. and adj. A. n. A mixture of Korean and English, esp. an informal hybrid language spoken by Koreans, incorporating elements of Korean and English.In early use frequently depreciative. B. adj. Combining elements of Korean and English; of, relating to, or expressed in Konglish.In early use frequently depreciative. Korean wave, n. The rise of international interest in South Korea and its popular culture which took place in the late 20th and 21st centuries, esp. as represented by the global success of Korean music, film, television, fashion, and food ;= HALLYU n.; Cf. K- comb. form. manhwa, n. A Korean genre of cartoons and comic books, often influenced by Japanese manga. Also: a cartoon or comic book in this genre. Cf. MANGA n.2Occasionally also applied to animated film. mukbang, n. A video, esp. one that is livestreamed, that features a person eating a large quantity of food and talking to the audience. Also: such videos collectively or as a phenomenon. noona, n. In Korean-speaking contexts: a boy’s or man’s elder sister. Also as a respectful form of address or term of endearment, and in extended use with reference to an older female friend. oppa, n. 1.In Korean-speaking contexts: a girl’s or woman’s elder brother. Also as a respectful form of address or term of endearment, and in extended use with reference to an older male friend or boyfriend. 2.An attractive South Korean man, esp. a famous or popular actor or singer. samgyeopsal, n. A Korean dish of thinly sliced pork belly, usually served raw to be cooked by the diner on a tabletop grill. skinship, n. Esp. in Japanese and Korean contexts: touching or close physical contact between parent and child or (esp. in later use) between lovers or friends, used to express affection or strengthen an emotional bond. trot, n. A genre of Korean popular music characterized by repetitive rhythms and emotional lyrics, combining a traditional Korean singing style with influences from Japanese, European, and American popular music. Also (and in earliest use) as a modifier,as in trot music, trot song, etc.This genre of music originated in the early 1900s during the Japanese occupation of Korea. unni, n. In Korean-speaking contexts: a girl’s or woman’s elder sister. Also as a respectful form of address or term of endearment, and in extended use with reference to an older female friend or an admired actress or singer. まさにテバク! オックスフォード英語辞典の最初の完結本が出た時期は、本格的に辞典が作り始められてから49年が過ぎた頃だった。1928年に刊行された全12巻の初版には、およそ41万4千8百の単語と182万箇所以上の引用文が収録されていた。しかし、この辞典には韓国と関連した単語は一つもなかった。韓国と関連した単語がこの辞典に初めて収録されたのは初版の追加本が出された1933年のことだった。「Korean」と「Koreanize」がそれだ。その後の追加本にもいくつかの単語が収録された。1976年には「gisaeng(妓生、宮中や地方の官庁に所属して歌や踊りなど宴会を担当していた女性)」、「Hangul(ハングル、韓国固有の文字)」、「kimchi(キムチ、白菜にいろいろな調味料を混ぜて発酵させた食べ物)」、「Kono(コヌ、韓国のボードゲーム)」、「myon(面、行政区域の単位)」、「makkoli(マッコリ、伝統酒の一種)」の6語が、1982年には「sijo(時調、伝統声楽形式、または3行でなる定型詩)」、「taekwondo(テコンドー、伝統武術の一つ)」、「won(ウォン、貨幣の単位)」、「yangban(両班、伝統社会の支配階層)」、「ri(里、行政区域の単位)」、「onmun(ハングルを卑下する言い方)」、「ondol(オンドル、伝統家屋の床暖房の施設)」の7語が収録された。その結果、1989年に刊行された2版には15の韓国語由来の単語が収録されている。 その後、韓国語に由来する単語が再び収録されたのは、21年が過ぎた2003年のことだった。このときに収録されたのは「hapkido(合気道、近代武術)」だった。その後は2011年に「bibimbap(ピビンバプ、ご飯にいろいろな野菜や肉を入れて混ぜて食べる料理)」、2015年に「soju(焼酎、蒸留酒の一種)」と「webtoon(ウェブトゥーン、デジタルコミック、プラットフォーム・メデイアに連載される漫画)」、2016年には「doenjang(テンジャン、味噌)」、「gochujang(コチュジャン、唐辛子味噌)」、「K-pop」、2017年には「chaebol(財閥、家族中心の大企業)」、そして2019年には北朝鮮の統治理念である「Juche(チュチェ、主体)」が収録された。 このように2021年9月以前までにオックスフォード英語辞典に収録された韓国語由来の単語は24語に過ぎなかった。それが一度に26語もの単語が新たに収録されるというのだから、まさにサラジャール博士の表現通りに「Daebak(テバク、大ヒット)!」そのものだった。 実際に今回新たに収録された単語の中には「Daebak(テバク)」が含まれている。「思いがけない幸運」または「たいそう素敵なこと」のような意味を持つこの言葉がそれだけ海外でも広く知られるようになったということだ。そして「hallyu(韓流)」及び、それと同じ意味を持つ英語単語の「Korean wave」が同時に採択され、「K-drama(Kドラマ)」、「mukbang(モッバン、食べる様子を配信する動画)」、「oppa(オッパ、お兄さん)」のような単語が収録されたことも韓国の大衆文化コンテンツの国際的な威信が大きく高まったことを示している。また面白いのはこれまで韓国式英語として卑下されてきた「fighting(ファイティング)」や「skinship(スキンシップ)」のような単語が「Konglish(コングリッシュ、韓国語式英語)」と共に収録されたことだ。(#新しく収録された単語と意味は別表を参照) 様々な質問 オックスフォード側から諮問を受けた内容は様々だった。新たに収録される単語に対するものもあったが、すでに収録されている単語の中から修正が必要な12の単語に対する諮問も含まれていた。例えば、1976年の追加本に収録された「gisaeng」の音節境界(syllable boundary)情報や「kimchi」の語源についても聞かれた。最も多かった質問は単語の構造に関するものだった。「パンチャン」の「パン」と「キムパブ」の「パブ」は関係のある言葉なのかについての質問のような、単語がどんな意味のかたまりで分かれているのかとか、あるいはそれぞれのかたまりの語種(origin)についての質問だった。 また収録予定の単語に対する自分の分析が正しいかどうか検討して欲しいという要請もあり、韓国語での用法を尋ねられた単語もあった。南北韓の違いに対する質問もあった。また「オッパ」が恋人・彼氏を意味する場合もあるように「ヌナ」も彼女をも意味しているのか、のような面白い質問もあった。諮問の過程で私が新たに知りえた情報もあった。「PC房」関連の質問の中に、そこで飲食を売っているのかというものがあった。PC房ではカップラーメンぐらいしか売っていないと思っていた私は、カップラーメンを飲食と言えるかどうか自信がなく検索をしてみた。その結果、最近のPC房では「PCトラン(PC+レストラン)」という言葉があるほど様々な飲食を販売しているという事実を知った。それで検索したイメージを整理したものを注釈に入れて送った。 質問に答えるためにブログ記事から論文まで様々な資料を参考にした。諮問委員として質問を受けなかったならば、そのまま知らないままだった多くの興味深い事実を知ることができた。ある程度整理をした後、チョ・ジウン教授と調整をして最終的な回答をまとめ、担当者に返事を送った。いくつか追加質問のやり取りのあった後、諮問を終えることができた。   dongchimi, n. In Korean cuisine: a type of kimchi made with radish and typically also containing napa cabbage, spring onions, green chilli, and pear, traditionally eaten during winter. Cf. KIMCHI n.     galbi, n. In Korean cookery: a dish of beef short ribs, usually marinated in soy sauce, garlic, and sugar, and sometimes cooked on a grill at the table.     hanbok, n. A traditional Korean costume consisting of a long-sleeved jacket or blouse and a long, high-waisted skirt for women or loose-fitting trousers for men, typically worn on formal or ceremonial occasions. © MBC     japchae, n. A Korean dish consisting of cellophane noodles made from sweet potato starch, stir-fried with vegetables and other ingredients, and typically seasoned with soy sauce and sesame oil. Cf. cellophane noodle n.     PC bang, n. In South Korea: an establishment with multiple computer terminals providing access to the internet for a fee, usually for gaming.     tang soo do, n. A Korean martial art using the hands and feet to deliver and block blows, similar to karate. © 국제당수도연맹   収録語の条件 ここでいくつかの疑問が生じる。なぜ、これまで韓国語由来の単語がオックスフォード英語辞典にあまりなかったのか。なぜ今回は既存の単語数よりもはるかに多くの単語が一度に収録されることになったのか。辞典にのせる単語は誰がどのように決定するのか。このように多くの単語が収録されることにどのような意味があるのか。そして今後はどうなるのか。 一言で言って、今回新たに収録された単語は韓流の世界的な影響力が及ぼした結果だと言える。K-popファンが人気アイドルグループのメンバーを呼ぶ呼称として使い、広く知られるようになった「オッパ、オンニ、ヌナ」とファンがアイドルに求める「エキョ(愛嬌)」は、多国籍ファン層の間で共通語となり、それが国境や人種の枠を超えて広く使用され、辞典に掲載されるほどになったのだ。韓国ドラマとモッパンコンテンツ、そして韓国の大衆歌謡が国際的に注目を浴び、「Kドラマ」、「モッパン」、「トロット」などが英語に編入され、2015年に収録された「ウェブトゥーン」とは別に「マンファ(漫画)」も収録された。また卑俗語だとみなされて国内では辞典に収録されていない「モッパン」と「チメク」をオックスフォード英語辞典が先に収録するという不思議な事も目の当たりにすることになった。 韓流が起きる前、60万の単語を備えたオックスフォード英語辞典に韓国と関連した単語はわずか24語だけだったという事実は、英語圏で韓国文化の影響力が弱く、韓国語由来の単語が英語文献にあまり登場しなかったという意味でもある。収録語になるには編集者の目にたびたびとまり、文献で一定期間以上継続して確認され、その単語が期待される脈略で使用されなければならないという条件を満たさなければならない。 それなら今後はどうか。実際、26の単語は始まりに過ぎない。これらの単語が収録されたのはそれ以前に最低15~20年以上持続的に使用されてきた結果であるからだ。韓国の大衆文化の影響力は、今回の収録単語が観察され始めた時期とは比較にならないほどに大きくなっている。特に最近では『イカゲーム』のようにグローバル・メディア・プラットホームを通じて拡散される韓国文化コンテンツが世界の人々の耳に、ダイレクトに韓国語を伝えている。このように韓国語はより拡大していくだろう。それこそが筆者の胸をときめかせている理由だ。 シン・ジヨン 辛志英、高麗大学校国語国文学科教授

平和を夢見る

Image of Korea 2021 WINTER 865

平和を夢見る 平和を夢見る 1960年代の春、非武装地帯の鉄柵地帯で服務していた私は、時々人気がない近くの川辺に行き、時間を忘れるほどに美しい景色に見とれていたものだった。絶壁の端には満開の薄紅色のツツジの花が、戦争前のありし村の長方形の塀にそって生い茂った雑草の中には桃の花やアンズの花が咲き誇っていた。あの時の大学生兵士が歳を重ね、今や高齢のさらなる高みへと足を進めようとしている。南北は依然として二つに分かれて対置しているが、寂寞に包まれた川辺には今も四季折々の花が咲き、実がなっているだろう。 ⓒ パク•ジョンウ(朴宗祐) 朝鮮戦争勃発から3年後の1953年7月27日に発効された休戦協定によって、東西およそ240㎞にわたって朝鮮半島の腰を横切るように、仮想の軍事境界線(MDL)が引かれた。それから南北にそれぞれ2㎞の範囲に軍事衝突を防止するための緩衝地帯が設置された。それが朝鮮半島の非武装地帯だ。総面積およそ907㎢のこの地域の南北境界線には、それぞれ高い鉄柵が立てられ、南北の軍隊が対峙する。非武装地帯なので軍事活動は禁止されているが、地雷で埋め尽くされたここは、地球上で唯一の冷戦体制の危険な遺産が残存する殺伐とした空間だ。軍事境界線には韓国軍と北朝鮮軍、そして国連軍が共同で警備する半径400mの円形地帯に、今でも世界の耳目を集める板門店が位置している。一方、非武装地帯の外側、南北に10㎞ほどの地域に鉄柵が立てられ民間人の立入りが規制されている「民間人出入統制線」がある。ただし休戦協定により南側の台城洞、北側の機井洞には民間人が暮らしている。 人の住まないDMZ一帯は哺乳類と鳥類の分布面で国内最大の多様な生物が生息している地域であり、数多くの天然記念物と滅亡危惧種が生息する場所でもある。10月初旬には、民間人統制線の北側鉄原平野に数千羽のマナヅルがシベリアの寒さを避けて訪れ、原野に落ちている稲穂をついばむ。また11月初旬には民族の吉兆のシンボルと言われるタンチョウヅルがやって来る。羽のない私は、この南北の接境地域で羽を休めている数千羽の渡り鳥の姿をただ写真で見るしかなく、先の見えない統一を、鉄柵の中が平和な生態公園に変わるその日を夢見ている。 キム・ファヨン 金華榮 文学評論家、大韓民国芸術院会員

ベールを脱いだ李健煕コレクション

Focus 2021 WINTER 923

ベールを脱いだ李健煕コレクション ベールを脱いだ李健煕コレクション サムスングループの故イ・ゴンヒ(李健煕)会長が他界した後、故人が所蔵していた国宝級の文化財をはじめ、美術史的な価値をもつ近現代の美術作品2万3千点が社会に還元された。国立中央博物館と国立現代美術館は寄贈された作品の一部を一般に公開し、その特別展は大衆の関心を集め大盛況となっている。 『仁王霽色図』 チョン・ソン(鄭敾、1676-1759) 79.2×138㎝ 紙に墨 1751年雨が上がった直後の霧が薄らぐソウルの仁王山の夏景色を描いた作品で、朝鮮後期の画家チョン・ソンの代表作の一つだ。仁王山の裾野で生まれ育ったことから、自分のよく知っているこの山の姿を自信に満ちた筆致で描いている。伝統的な観念の山水画から抜け出し、実際の景色を直接見て描いた実景山水の画風を大きく発展させた画家の末期の作品だ。 2020年10月、急性心筋梗塞で長い間昏睡状態に陥っていたサムスングループの李健煕会長が亡くなり、大衆は残された膨大な美術品のコレクションに大きな関心を示した。サムスンの創業者である父イ・ビョンチョル(李秉喆)会長の時代から始まったサムスン家の美術品収集は有名な話だ。父親から譲り受けた作品に加えて、健煕会長夫妻がその規模を画期的に拡大したコレクションの一部は、その間サムスングループの文化財団が運営する湖巌(ホアム)美術館やリウム美術館を通じて展示されたことはあったが、全体の規模や詳しい目録が公開されたことはなかったので、常に人々の関心の的となっていた。 中には、いわゆる「李健煕コレクション」が国立中央博物館や国立現代美術館の所蔵品よりも遥かに高い文化的価値を有しているという評価や、財産的な価値が数兆ウォンを超えると推定評価もあった。2021年4月サムスン家は、李会長の個人所蔵文化財と美術品2万3千点あまりを社会に還元すると公式に発表した。古美術品は国立中央博物館に、国内外の巨匠たちの作品は国立現代美術館に寄贈されることになった。これを記念するために国立中央博物館は7月21日から9月26日まで『偉大な文化遺産を共に愛でる―故李健煕会長寄贈名品展』を特別展として開催し、国立現代美術館も7月21日から来年の3月まで『MMCA李健煕コレクション特別展:韓国美術名作』展を開催している。 『水月観音図』(左側) 83.4×35.7㎝ 絹に彩色 14世紀「水月観音」は観音菩薩のもう一つの名で、月の光が水面をあまねく照らすように多くの人々を救済するという意味がある。観音菩薩の透明な衣の下に映る文様と穏やかな色彩の調和が、高麗仏画特有の繊細な美しさを感じさせる。 『千手観音菩薩図』 93.8×51.2㎝ 絹に彩色 14世紀「千手観音菩薩」は無数の多くの手と目で衆生を救うといわれている。韓国仏教は千手観音菩薩信仰の永い歴史があるが、この千手観音菩薩図は唯一の作品だ。描かれた千手観音菩薩は、計11個の仏面と44本の手を表し、それぞれの手には吉祥の持物を持っている。 国宝クラスの文化財 李健煕コレクションは国家寄贈に先立ち、作品のもつ性格にしたがい地方自治体の美術館にも一部が寄贈された。たとえば全羅南道出身の画家キム・ファンギ(金煥基、1913-1974)とチョン・ギョンジャ(千鏡子、1924-2015)の作品は全羅南道立美術館に、慶尚北道大邱出身の画家イ・インソン(李仁星、1912-1950)とソ・ドンジン(徐東辰、1900-1970)の作品は大邱美術館に、江原道揚口出身のパク・スグン(朴壽根、1914-1965)の作品は揚口郡立朴壽根美術館にそれぞれ数十点ずつ寄贈された。 しかし、何よりも特筆すべき寄贈は、国立中央博物館と国立現代美術館が所蔵することになった作品群だろう。国宝クラスの文化財をはじめとする韓国美術史において重要な意味をもつ作品が多数含まれているからだ。まず国立中央博物館には、先史時代から朝鮮時代に至る土器、陶磁器、彫刻、書画、木家具など、膨大な遺物2万1600点が寄贈された。今回の展示にはその中から当代最高の美観と優れた技術が施された70点が選ばれて一般に公開された。展示作品の中で代表的なものとしては、朝鮮後期の文人画家チョン・ソン(鄭敾、1676-1759)が1751年に描いた『仁王霽色図』と国宝クラスの金銅仏像、そして美麗な菩薩の姿を精密に描いた高麗仏画『千手観音菩薩図』を挙げることができる。 その中で最も注目を集めたのが『仁王霽色図』だ。この作品は景福宮の左側に位置している仁王山に雨が降った直後の姿を描いている。この絵は18世紀、ヨーロッパで貴族の子弟がイタリアに行くグランドツアーが流行し、それにともなって関心を集めるようになった風景画と同時代に制作されたものだ。英国の風景画家リチャード・ウィルソン(Richard Wilson)が1750年にイタリアを訪問した際に描いた作品と比較することができる。墨と油絵具という材料の違いはあるものの、ウィルソンの作品がリアリズム的な色彩描写に立脚し牧歌的な雰囲気の表現に忠実なのに対して、『仁王霽色図』は多様な運筆と墨の濃淡から生じる微妙な変化を利用して、雨が上がった直後の霧が薄らぐ仁王山の風景をリアルに描写しているという点で比較される。 『女たちと壺』 キム・ファンギ(金煥基、1913-1974) 281.5×567㎝ キャンバスに油彩1950年代 絵に登場する半裸の女たちと白磁の壺、鶴、鹿などはキム・ファンギが1940年代末から1950年代までよく描いていたモチーフだ。大型壁画として制作された作品で、ペールトーンの色面をバックに様式化された人物や事物、動物などが正面または側面に配置されており、高踏的な装飾性を帯びている。 © 煥基財団・煥基美術館 美術史的な価値 国立現代美術館に寄贈された李健煕コレクションは1488点だ。国立現代美術館史上最大規模の寄贈であり、20世紀初めの希少かつ重要な作品が含まれているという点でもより大きな意味がある。ここで現在展示されている58点の近現代美術作品は、韓国美術史における重要な里程標(道程を示す標識)を形成する作家たちの代表作と言える。韓国は20世紀前半に植民地統治と民族分断、さらに戦争という嵐に巻き込まれ混乱と破壊の時期を経験した。そのためにこの時期を前後とした美術品の相当数が破壊され、紛失し美術史研究の資料が相対的に貧弱な時期だ。したがって苦難と欠乏に耐えて必死に制作された数多くの作品が日の目を見る今回の展示は高い評価を受けるに十分だ。 『楽園』(右側) ペク・ナムスン(白南舜、1904-1994) 8幅屏風、173×372㎝ キャンバスに油彩1936年頃東京とパリで西洋画を勉強した韓国の1世代の女流画家ペク・ナムスンの大型作品で西洋のアルカディア(理想郷)と東洋の桃源郷が同時に連想され、東洋と西洋の理想郷が結合した感じを与える。東洋画と西洋画の素材と技法を、いかに融合させデフォルメするか苦悩した作品と評価されている。画家だった夫のイム・ヨンリョン(任用璉、1901-?)が朝鮮戦争中に行方不明になり、その後1964年に子供たちを連れてアメリカに移住し、その後の作品活動は国内ではあまり知られていない。 『コンギノリ (ビー玉遊び)』 チャン・ウクジン(張旭鎭、1917-1990) 65×80.5㎝ キャンバスに油彩 1938年 韓国の近現代美術を代表する画家の一人であるチャン・ウクジンの作品世界は、家、木、鳥など日常よく目にする素朴な素材を簡素化させて、童画的に表現するという特徴がある。この作品は養正高校在学中に朝鮮日報主催の公募展に出品して最高賞を受けたもので、画家の初期の代表作だ。精密な描写は省略されているが画面構成が絶妙で、広く知られている画家の独特な画風が始まる以前の作品として意味がある。 出品作の中ではペク・ナムスン(白南舜、1904-1994)の『楽園』、チャン・ウクジン(張旭鎭、1917-1990)の『ビー玉遊び』、キム・ファンギの『やまなり』が注目される。『楽園』は韓国の伝統的な8幅屏風形式の画面に油絵具で描いた作品で、東西美術の形式的な融合だと見ることができ、現在までに見つかっているペク・ナムスンの作品の中で唯一の大型作品だ。『コンギノリ (ビー玉遊び)』は、単純で天真爛漫な作品を主に描いて来たチャン・ウクジンが二十歳の時に新聞社の公募展に出品し入賞した作品で、全盛期の作品とは違いリアリズム的な風俗画形式の描写をしており貴重な作品だと言える。1963年から1974年に亡くなるまでニューヨークで作品活動をしてきたキム・ファンギが、亡くなる前の年の1973年に制作した点画『やまなり』は、最近国内だけではなく、ニューヨークや香港のオークションでも数百万ドルの落札価格を記録し、注目を浴びている作家の全盛期の大作の一つだ。   国立現代美術館に寄贈された李健煕コレクションは1488点だ。規模でも国立現代美術館史上最大の寄贈であるが、20世紀初めの希少かつ重要な作品が含まれているという点でより大きな意味がある。 『構成』 イ・ウンノ (李應魯、1904-1989) 230×145㎝ 布に彩色1971年 イ・ウンノは様々なジャンルと素材で絶え間なく実験を繰り返し、韓国美術史に新たな地平を切り開いたと評価される画家だ。1960年代初めから制作された「文字抽象」シリーズもまた彼の造形的実験がよく表れているが、この作品は抒情的な傾向が見られる初期作とは違い、文字がより立体的・抽象的に組み合わされている。 『作品』 ユ・ヨングック(劉永國、1916-2002) 136×136.5㎝ キャンバスに油彩 1974年 ユ・ヨングックは1960年代初めから一貫して「山」をモチーフにした作品を発表した。彼にとって山は自然の神秘と崇高さを抱いた美の原型であり、同時に形態や色彩など絵画的な要素を実験するための媒体だった。彼の絵画的旅情の転換点となった時期に描かれたこの作品は、既存の絶対抽象から形態と色彩がより自由な方向に変化しているのが分かる。 展示観覧の熱気 李健煕会長の遺族が寄贈した作品に対する社会の関心の高さは、二つの特別展に対する観覧熱気からも確認することができる。韓国一の財閥が所有していた作品に対する好奇心は当然、国民所得の増加による文化的消費の活性化により、芸術界のホットイシューとして浮上したからだ。 何よりも普段美術にあまり関心のなかった一般市民、とくに若者層が美術館や博物館に行くようになり、そこには普段展示場をよく訪れていることで知られているアイドルグループBTSのリーダーRMだけではなく、若者層に人気のある多数の芸能人が足を運んだことで少なからぬ影響を与えた。二つの特別展は新型コロナウイルスの感染拡大により、事前予約した制限された人数だけが観覧可能なため、入場券の予約競争が激しく不法転売が登場したほどだ。韓国の美術館における観覧文化は、欧州のサロン展形式に似た朝鮮美術展覧会が1922年に創設された以降、一般観覧がはじまり今ようやく一世紀をが過ぎたところだ。その間、展示観覧は高い文化的な素養が求められる特別な行為と見られてきた。しかし最近では、そのような社会的な認識にだんだんと変化が生じ、若者層を中心に展示観覧と展示場に隣接したサービス施設で余暇を楽しむのが日常の重要な活動とみなされる雰囲気が急速に拡大している。ちょうどこのような社会的な雰囲気の中で李健煕会長の寄贈品が公開されたことで熱気がより一層拡大している。 『黄色い散歩道』 チョン・ギョンジャ(千鏡子、1924-2015) 96.7×76㎝ 紙に彩色 1983年 花と女を主に描いた画家チョン・ギョンジャは、東洋の伝統顔料と紙の性 質を利用した技法を駆使して画面に夢幻的な雰囲気を漂わせた。長男の嫁をモデルとしたこの作品も美しい色彩と文学的な抒情に満ち、独自の様式を完成させた彼女の作品世界をよく示している。 ハ・ケフン河桂勳、 美術評論家

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村の憩いの場、コンビニ

An Ordinary Day 2022 SPRING 585

村の憩いの場、コンビニ 流動人口の多い都市のコンビニとは違い、広々と開けた田畑のまん中に建つ高層アパート団地、その前にあるコンビニ。7年間この店を守ってきた心優しい店主は、自分の店がご近所さんたちの温かな団らんの場、傷ついた心を癒してくれる確かな憩いの場となってほしいと願う。 京畿道安城でコンビニを経営するイ・ジョンシムさんの重要な日課は、一日に二度、注文した商品がきちんと配送されてきたかを確認し、陳列することだ。近くにライバルのコンビニが開店し、新型コロナ禍の打撃で客足が遠のいても、彼女は常に誠実な対応で、自分の店が近所の人々の憩いの場になるように努力している。 荒涼とした野原にはまだ春の気配はない。京畿道安城市庁の前を通り過ぎて片側一車線の道路へと進んで行く。両側に広がる田んぼには稲刈り後に残った稲株が列をなしていた。貯水池を過ぎてトヒョン里村に入ると、ビニールハウス、農機具修理所、畜舎、小さな工場などが散見される。ここから目的地までは2㎞ほどだが、約束の時間にはまだ50分もある。寒さが身に染みて、温かいコーヒーが飲みたくなった。しかし、行けども行けどもカフェはおろか小さな商店さえ見当たらない。民家もない田んぼだけが広がる中、遠くに数棟のアパートがそびえ立っているのが見えた。あそこだ!速度を上げる。都市では見慣れているものの、こんな田舎にはそぐわない「コンビニ」がそこにあった。あ~良かった。   イ・ジョンシムさんは自分の店で働く従業員をアルバイト職ではなく、正社員として待遇している。そのおかげで従業員たちは自ら経営者意識を持って注意深く売り場を管理し、顧客にも親切な対応している。 一途な心 「カラン、カラン」入り口のガラスのドアを押すとベルの音がした。「いらっしゃいませ」ベルの音よりも澄んだ声が迎えてくれる。荒涼とした冬の野原から、突然高級ホテルに足を踏み入れたかのようだった。ミカン色の照明が空間をやさしく満たし、目の前にはきれいに整頓されたワインの陳列台があった。温かいコーヒーを両手で包み込むようにして、大きなガラス窓の前にあるイートインスペースに座る。刈入れの終わったガランとした田んぼが目の前に広がっている。コーヒーの効果のせいだろうか。春を待つ野原にはもはや、寒々とした寂寞感はない。むしろ昨年の辛かった労苦をねぎらってくれているかように平穏に見えた。ここは『Eマート24R安城ユアン店』だ。田舎の村のコンビニといえば埃をかぶった商品がぽつりぽつりと置かれているみすぼらしい陳列台を思い浮かべるだろう。しかしここはぜんぜん違う。日常生活に必要ないろいろな商品がびっしりと並んでいる。菓子、インスタント食品、飲料水、ワインはもちろん、おかずが豊富なコンビニ弁当だけでなく新鮮な食品をはじめ、お膳を整えるのに十分なおかずもそろっている。さらには耳かきや爪切りのようなこまごまとした生活雑貨に、ペット用のオヤツまで、大型スーパーに並んでいる商品をそのまま持ってきたようだ。村の住民は市内の大型スーパーまで車に乗って買い物に行く必要が全くないようだ。「何でもぎっしり詰め込みたい性分なんですよ」と経営者のイ・ジョンシム(李貞心)さんは言う。「ご近所さんたちが車に乗って遠くまで行かなくても、家の近くで手軽に、早々に日用品を買うことができるようにしたいんです。それで可能な限り、本社で扱っている商品を種類ごとに一つ残らず発注しています。小さなコンビニですが、村の人々に確実に役立つように努力しています。利潤を追求するよりもまず便利さを提供したいんです」。1969年に慶尚南道南海で5人兄弟の末っ子として生まれたチョンシムさんは、故郷で高校を卒業するとすぐに、姉の暮らす水原に上京し就職した。偶然にも最初の職場がチェーン店のある中小規模のスーパーのレジ係だった。22才で結婚し1男2女に恵まれたチョンシムさんは、2002年に家計の助けになればと、教保生命保険に保険外交員として入社した。17年間在職する中で営業所長にまで昇進し、全国1300営業所のトップ100の中に入り賞までもらった。「子供たちを育てながら主婦として過ごしているときには分かりませんでしたが、仕事をしてみて初めて、私には接客能力があることを知りました。保険の仕事を始めた当初は怖くもあったのですが、だんだんと人並くらいにはできると思うようになりました。営業所長をしていた際も引けはとりませんでした。とにかく誠実に、一貫した態度で人に接していました。常に顧客に感謝する気持ちも忘れませんでした。それがコンビニの経営にも大きく役立っています」。保険の勧誘で顧客の元を訪れていたチョンシムさんが、今では自分の元を訪れるお客を迎えている。彼女は今も以前の気持ちそのままで、ガム1個を買いに来たお客にも丁寧に挨拶している。一言の挨拶にも心を込め、些細なことにも心を配る心遣いに惹かれて、ご近所の客足は途切れることがない。 まごころと配慮2016年にホームプラスが運営していたマート兼コンビニのチェーン店「365プラス」を始めたのが、この業界に足を踏み入れた最初だった。長い間の保険業務で身も心も放電してしまった頃だった。現在の広さの半分にも満たなかった店舗のもともとの経営者は、保険の顧客だった。不思議なことにチョンシムさんは最初からこの場所が気に入り、自分が経営すれば必ずうまくいく気がした。予想は的中した。チョンシムさんに代わってから、以前よりも売上げが増えた。早朝から夜遅くまで大変な日々だったが、顧客の顔を見ると力がわいた。そのエネルギーが暮らしにも生気を吹き込んでくれた。もちろん大変なこともあった。チョンシムさんの店が活気を帯びたからか、近くにブランドイメージの高い他のコンビニが出店したのだ。顧客がやって来るたびに鳴っていたベルの音がだんだんと間遠になっていった。気持ちは落ち込んだものの、気落ちせずに情熱を傾け続けた。彼女のまごころが通じたのか、足が遠のいていた客たちが再びチョンシムさんの店に戻ってきた。「新しく開店したコンビニはブランド認知度も高く、品物も違うので私が顧客にできるサービスにも限界がありました。私はただこれまでと同じように一生懸命働き、お客さんを待ち続けました。6カ月ほど過ぎると大部分のお客さんが戻って来てくれました」。2021年、本社のホームプラスがコンビニ事業から撤退したため、チョンシムさんはブランド名を変えて「Eマート24」を開店した。その際に店を拡張しようと、隣の食堂の敷地まで借りることにし、店は2倍以上広くなった。もちろん賃貸料もその分増えた。農村なので顧客は限られている。売上だけを考えたらわざわざ間口を広げる必要はなかった。しかし、チョンシムさんには心に秘めていたある想いがあった。「店が狭くて残念だったんです。お客さんが弁当を買っても、店内に食べるスペースがなかったので外で食べていたんです。そのたびに申し訳なく思いました。夏は涼しく快適な、冬は暖かくて居心地のよい店内に座って食べられるようにしたいと思いました。売り場を2倍にしても売上が2倍になるわけではありませんでしたが、それが私の夢でした」。暖かな照明の下、静かな音楽が流れる店内には、大きな窓ガラス越しに視界が広がるイートインスペースがあり、雰囲気は展望のよいリゾートのカフェとさほど変わらない。コーヒー専門店で見かけるようなコーヒーマシーンも目を引く。コップを乗せてボタンを押せば自動でコーヒーが出てくる一般のコンビニの機械とは全く違う。「私の作るラッテを一杯いかがですか」。チョンシムさんがコーヒーマシーンの前に立つ。豆を挽いてコーヒーを淹れる。瞬間ガ~ッという音とともに湯気があがる。ミルクスチーミングだ。ハートの描かれたラッテアートの泡が唇を包んでくれる。チョンシムさんは1級バリスタの資格証も持っている。「スチーミングをするのと、しないのとでは泡の弾力が違います。同じ値段ならよりおいしいコーヒーをお客様にサービスしたいと、がんばったんです」 ジョンシムさんのたっての希望でカウンターテーブルを入れてからは、客はこの席に座って窓の外を眺めながら食事ができ、コーヒーも飲めるようになった。最近はコロナ禍のせいで店の中での飲食ができなくなっており、彼女は残念でたまらないと言う。 カフェのようなコンビニこのくらいになるとチョンシムさんの店を単にコンビニと呼ぶことが多少はばかれた。しかし、彼女が最も大切にしているものは他にもあった。店を守る従業員だ。コンビニのアルバイト募集のアプリを見ると、週15時間以内の短期の仕事が大部分だ。週休手当のような人件費を減らすための自営業者たちの苦肉の策だ。しかし、チョンシムさんはそれとは正反対の道を選んだ。小さなコンビニだが働く人には、ここを大切な職場だと考えてもらいたいと思い、正社員待遇にしている。週休手当、4大保険はもちろん、旧正月や秋夕にはささやかではあるがボーナスも支給しており、勤続年数による手当もある。自分の仕事に誇りを持っている従業員は、自らが経営者のように売り場を切り盛りする。お客はいつ来ても、アルバイトではない経営者が直接迎えてくれるということだ。働く人が幸せなので、訪れる客も気持ちよく品物を買って行く。売上が増える秘訣だ。時には顧客も店の仕事に手を貸してくれる。一度はコンビニによくやって来る常連客の顔がだんだんと暗くなっていくので、チョンシムさんが「何かあったんですか」と声をかけた。するとその人は悩みを打ちあけた。保証人になったせいで大変なことになっており、家族とも離れて暮らさなくてはならない身の上だという。チョンシムさんは自分のことのように共感し慰めた。その後、その顧客は品物が入荷する忙しい時間帯に合わせてやって来ては、黙って手伝ってくれるという。農家のご近所さんは野菜を、果樹園をしているお客さんは梨を一籠手にしてやって来る。このような頂き物は社員たちと分け合う。田舎の人情が未だに生きているのだ。今ではチョンシムさんのコンビニは村の人々のリビングであり、集会所のような場所になっている。体が不自由な連れ合いの世話をするおばあさん、病気の子供の面倒を見ている若いお母さん、肥料をやったあとに来る農夫、油染みのついた作業服を着た移住労働者。「カラン」というベルの音とともに彼らが入って来たとき 、チョンシムさんは姉であり、娘であり、友人となる。時には子供たちの叔母さん、親戚のおばちゃんになり家族のように接している。 帰り道、チョンシムさんの心のこもったカフェ・ラッテがずっと、私の心を温めてくれた。

物語を広げるプロダクションデザイン

Interview 2022 SPRING 595

物語を広げるプロダクションデザイン 昨年、世界的な話題となったネットフリックスのオリジナルシリーズ『イカゲーム』は、生存競争の残酷かつ凄絶さが、童話のようなビジュアルを背景に展開され注目された。この個性的な空間デザインを担当した美術監督はチェ・ギョンソン(蔡炅宣)である。彼女の次回作の撮影地である京畿道高陽市のアクア特殊撮影スタジオを訪ねた。 今年1月『イカゲーム』の劇中で001番の参加者「カンブ」を演じた俳優オ・ヨンス(呉永洙)が、第79回ゴールデングローブ賞で助演男優賞を受賞した。このシリーズは昨年9月に公開され1億4200万世帯が視聴し、46日間にわたってネットフリックスの視聴率1位を占めた。全米映画俳優組合賞(SAG)や全米製作者組合賞(PGA)の主要部門の候補にもなった。このドラマが世界的な人気を集めた秘訣についてはいくつかの分析があるが、確かなことはこれまでに見たことのないような、超現実的な感覚のスペクタクルなプロダクションデザインが大きな役割を果たしたという点だ。いかに空間をリアルに表現するかに苦心する多くの映画やドラマとは違い、この作品の中の空間は現実とファンタジーが混在する構成が強烈な色彩で具現されている。それがキャラクターや物語と違和感なく調和し、劇的な効果を引き出しているという点で非常に印象的だ。このシリーズのチェ・ギョンソン美術監督は祥明大学校演劇映画科で舞台美術を専攻し、2010年5組のカップルの愛と別れを描いたキム・ジョングァン(金宗寛)監督の映画『もう少しだけ近くに』でデビューした。翌年『トガニ幼き瞳の告発』から始まり『怪しい彼女』(2014)、『南漢山城(邦題・天命の城)』(2017)でファン・ドンヒョク(黄東赫)監督と美術監督として共に取り組んだ。『イカゲーム』は彼との最初のドラマシリーズだった。そのほかチャン・ジュンファン(張駿桓)監督の『ファイ:怪物を飲み込んだ子』(2013)、イ・ウォンソク(李元錫)監督の『尚衣院-サンイウォン』(2014)、イ・サングン(李相槿)監督の『EⅩIT イグジット』(2019)など、多数の映画に美術監督として参加してきた。このように主題も、ジャンルも、一緒に仕事をする監督の個性もそれぞれ違うものの、彼女の仕事はストーリーに適した空間を作り出し、叙事を膨らませるという共通点が見られる。 チェ・ギョンソン(蔡炅宣)美術監督が、次回作のディズニープラスのオリジナルシリーズ「ムービング」のセットのある京畿道高陽市のアクア特殊撮影スタジオでポーズをとっている。昨年、ネットフリックスのオリジナルシリーズ「イカゲーム」の美術監督として脚光を浴びた彼女は、十分な財政支援と監督から与えられた自由裁量権が大きな幸運だったと言う。 「イカゲーム」は、リアルな空間を具現化してきたファン・ドンヒョク監督のこれまでの作品とは大きく違います。美術監督としても非常に挑戦的な作業だったのでは? 現実的な空間ではないので、プロダクションデザインに対する観客の好き嫌いが大きく分かれるだろうと予想していました。否定的な意見も多いだろうと心の準備はしていましたが、幸い多くの人が肯定的な反応を見せてくれました。美術監督が新たなチャレンジのできる機会を得ることは滅多にありません。セットの製作費を十分に支援してもらったおかげで、頭の中で想像していた絵を具現化することができました。この作品に出合ったこと自体が大きな幸運でした。 シナリオを始めて読んだ時の感想は? シナリオをもらう前に、ファン監督からだいたいのあらすじについては聞いていました。幼い頃、友達と一緒に遊んでいた遊びを使ってサバイバルゲームをする物語を演出するので、斬新なビジュアルを試してみたいとのことでした。そして「どうぞ好きなようにやってくれ」と言われました。このように内容はだいたい知っていましたが、実際にシナリオを読んでみて悩みました。いろいろな構想をめぐらせたあとで、これまでに一度も見たことのないようなデザインにしなければと強い意欲が湧き上がってきました。中年世代が童心に帰ることのできる空間を背景に、一編の残酷な童話を作ってみようと思いました。 ファン監督と合意したプロダクションデザインの全体的なコンセプトは?大きく分けて三つでした。一つは、世界をあまり暗く描かないようにすること。二つ目は、ゲームが進行するたびに、それぞれのゲームの背景となる空間に固有の性格を付与すること。これはゲームの参加者たちが各空間で、どんなゲームをするか分からずに感じる混乱と恐怖心を極大化させるために非常に重要でした。また視聴者にも、次はどんな場所でどんなゲームが行われるのかを期待させるようにしました。三つ目が色彩を果敢に使うことにしました。韓国映画はハリウッド映画に比べて色彩の活用が保守的です。そんな制限から抜け出したカラーを大胆に使いました。最近は韓国映画もSFのような新しいジャンルでは、色彩活用の幅が前より広がっている傾向はありますね。 カラーを選ぶ基準は?最初は主要カラーとしてミントとピンクの二つを考えていました。この二つは1970~80年代を象徴するレトロカラーです。この意見に対してチョ・サンギョン(趙常景)衣装監督が「ゲームの参加者を監視する男たちを大胆にピンクに設定しよう」と言いだしました。ゲーム参加者が着るジャージは彩度を高めて濃いグリーンにすることにしました。このシリーズではビビットなピンクが抑圧と暴力を、グリーンがひっ迫と敗北者を象徴します。それでゲームの参加者が、ピンク色の天井と壁に取り囲まれた建物の中を移動するように設定し、監視者が宿舎に戻る空間は、グリーンで表現しました。色を通して物語の世界観と規則を定めたのです。 「イカゲーム」で参加者が迷路のような階段を経て宿舎に戻っていく場面。残忍な生存競争と対極にあるパステルカラーの童話的なビジュアルは、資本主義社会の矛盾を象徴している。このプロダクションデザインは、オランダの版画家エッシャーの作品からインスピレーションを得たという。© ネットフリックス 最初のゲーム「だるまさんが転んだ」をする空間は、幼い頃に遊んだ学校の運動場をモチーフにして設計したと聞きましたが? このゲームのコンセプトは「本物と偽物」です。最初のゲームが行われる空間の青空とヨンヒ人形の後ろの壁は偽物ですが、ゲームを通過できなければ本当に死んでしまいます。ルネ・マグリットの絵からモチーフを得て、物語の中のゲーム参加者にも、視聴者にも混乱を巻き起こす空間を作ろうと思いました。進行要員がゲーム参加者を監視する設定は、映画『トゥルーマン・ショー』(1998)から影響を受けました。 ヨンヒ人形はどのようにして出来上がったのでしょう? 特殊扮装チームの「Geppetto」が人形を製作しました。高さが10mもあるので上半身と下半身を分けて運びました。ファン監督はもともとヨンヒ人形を10個作るよう美術チームに注文していましたが、そこまでの製作予算がありませんでした。またシナリオではヨンヒ人形が地下から地上に上ってきて登場するという設定でしたが、途中で変えました。 ドラマで最初のゲームが行われる運動場は、ベルギーのシュルレアリスム画家ルネ・マグリットの絵からモチーフを得て、本物と偽物が混在する混沌とした空間を演出した。視聴者に強烈な印象を残した高さ10mのヨンヒ人形は、特殊扮装チームのゼペットが製作した。 © ネットフリックス ドラマで使用された色彩のグリーンは「ひっ迫と敗者」、ビビットなピンクは「抑圧と暴力」を象徴している。© ネットフリックス ビー玉遊びが行われる路地裏の風景にずいぶん時間をかけたと聞きましたが?路地裏の風景は最も手間をかけた空間の一つです。ここもまた本物と偽物が共存します。ファン監督がこの場面で注文をつけたのは二つでした。一つは夕焼けを作ってほしいということです。もう一つは自分が幼い頃、夕方まで路地裏で遊んでいて母親に呼ばれて駆けていくと、家からご飯のにおいがした思い出話をしたあとに「ご飯のにおいまで感じられるような空間」にしてほしいということでした。オ・イルナムおじいさんの家を除いた残りの家は、大門だけあるという設計です。門はたくさんあるものの、門の中に入ると「我が家じゃないから入れない」という象徴性を空間に付与したかったのです。門には表札、練炭灰、植木鉢のような小道具を置いて本物のように見えるもののパターン化して表現しました。すなわち、ビー玉遊びで負けた人の空間には練炭灰を置き、生き残った人の空間には植木鉢を配置しました。 『イカゲーム』以前の仕事の話もしましょう。デビュー以降、何人もの監督と様々なジャンルの映画を制作されましたが、プロダクションデザインを通してストーリーに情緒を吹き込むという共通点が感じられるんですが? 作品ごとに、それぞれ違ったアプローチをしてきました。基本的に映画美術は監督が語りたいテーマとキャラクターをより豊かに表現するための領域です。美術が一人歩きをして目立ってはいけません。どうすればシナリオを監督よりももっと緻密に、うまく分析できるか、常に悩んでいます 『南漢山城(邦題:天命の城)』は、原作小説を映画化するのは大変だったと思います。実際の歴史を再構成した物語なので、時代考証が一番の問題だったのでは?歴史を扱う時代劇の中で、時代考証を最も徹底して行った作品だと言われたかったので、死活をかけて作業をしました。雪と寒さ、そして敵軍に包囲され孤立した城を徹底して表現しようと努力しました。 それよりも先に制作されたイ・ウォンソク監督の映画『尚衣院』も時代劇ですが、この映画の経験が『南漢山城』の作業に良い影響をあたえましたか。王室の衣装を縫う尚衣院が物語の主要舞台なので、その空間をどのように視覚的に見せるか、空間を通じして人物をどのように表すか、ずいぶん悩みました。しかし、興行成績では成功せず残念です。 ファン・ドンヒョク(黄東赫)の『南漢山城』(2017)は、1636年に清の侵入により南漢山城に避難した王と臣下たちの47日間の死闘を描いた作品で、チェ・ギョンソン美術監督は徹底した時代考証を通して雪と寒さ、敵軍に包囲された当時の状況をリアルに再現した。© CJ ENM 『トガニー幼き瞳の告発』の舞台となる聴覚障碍者学校は、暗い事件が起きてそれが明らかになる場所ですが、この空間が映画の全般的な雰囲気を象徴的に見せているのが非常に印象的でした。低予算の映画なので、できることはあまりありませんでした。新たに作ったセットは校長室と裁判所の二つだけです。この映画では霧が重要なので、小道具をはじめ廊下を含めて主要空間をグレートーンで設定しました。物語の全般にわたって色調を抑えることが大切でした。ただ、チョン・ユミ(鄭裕美)が演じた主人公が働く人権センターの空間だけオリーブ色を加味して温かさを加えました。美術監督としての欲を節制して最大限ストーリーに忠実だった作品です。 900万人以上の観客を動員した映画『EXIT イグジット』は、屋上や看板、建物など韓国ならではの空間を詳細に表現していたのが面白かったです。最初は典型的なハリウッドの自然災害パニック映画を考えていました。しかし、イ・サングン監督と話してみると「韓国的な空間」を表現するのがポイントだという事に気づきました。全国にある建物の屋上をいちいち探し回り、特徴を調べました。特に映画の後半、男女の主人公が渾身の力を合わせて走りながら陸橋を飛び越える場面では、二人の俳優の後ろに見える建物が重要でした。意図したとおりにうまく表現できたと思います。本当に短い瞬間でしたが。監督が美術チームの意見をたくさん取り入れてくれ、美術チームもまた監督のアイデアをずいぶん活用しました。互いにアイデアを出し合いながら楽しい作業ができた映画でした。 礼曹判書のキム・サンホン(金尚憲)を演じた俳優、キム・ユンソㇰ(金允錫)が川を横切り南漢山城に向かう場面。実際に川が凍り、氷の厚さが30㎝になったところで撮影された。 ⓒ CJ ENM この映画では信念の違う二人の人物の対照を、衣装を通して劇的なコントラストを表している。清の攻撃に立ち向かい最後まで戦うべきだと主張するキム・サンホンに対し、イ・ビョンホン(李炳憲)が演じる吏曹判書チェ・ミョンギル(崔鳴吉)は、降伏して国と民を救うべきだと主張する。ⓒ CJ ENM 現在撮影している「ムービング(Moving)」は、どんな作業ですか パク・インジェ(朴仁裁)監督のディズニーオリジナルシリーズです。公開前に詳しい話をするわけにはいきませんが、人気ウエブトーン作家カンプルの同名の原作を映像にした最初のシリーズだという点で意味があります。一つの作品の中で1980年代から2018年までの時代の変化を表現するのが、今回の大きな挑戦です。 天賦的なファッション感覚を備えたイ・コンジン役のコ・ス(高洙)が、30年間王室の衣装を縫ってきたチョ・ドルソㇰ役のハン・ソッキュ(韓石圭)の裁縫姿を真剣に見守っいる場面。イ・ウォンソク(李元錫)監督の2014年作『尚衣院-サンイウォン』は、朝鮮時代に王室の衣装を作っていた尚衣院を舞台にした物語で、様々な衣装と背景空間が観客の視線を集めた。 © WOWPLANET KOREA

奇跡を呼んだ人生

In Love with Korea 2021 WINTER 871

奇跡を呼んだ人生 イタリア生まれのビンチェンシオ・ブルド氏、韓国名キム・ハジョン神父は1990年に韓国にやって来た。その後、貧しい人々を助ける仕事に献身してきた。新型コロナ禍中でも彼が運営する福祉センターは毎日、数百人の空腹をかかえたホームレスの人々に昼食の弁当を配っている。 キム・ハジョン神父は30年間毎日、神父服の代わりにエプロンをつけている。神父服よりもエプロンが必要だと考えているからだ。京畿道城南市の「アンナの家」にある彼の簡素な事務室には、キム・スファン枢機卿(金壽煥、1922-2009)の写真がかかって いる。 新型コロナ禍が依然として世の中を脅かしているが、キム・ハジョン神父は黙々と、ウイルスを人類愛に変えて拡散している。「分かち合い」は浸透力が強く、人々に幸福感を拡散するウイルスだ。城南市で彼が運営する社会福祉センター「アンナの家」では、様々な人々を支援している。 最も目につくのは、新型コロナの感染拡大が始まった2020年初めから今日まで、毎日欠かさず貧しいホームレスのために数百個のお昼の弁当を準備する仕事だ。キム神父がこの無料給食所を開いたのは、コロナの発生よりもより以前のことだ。新型コロナで屋内での飲食が制限されると、それまで活動していたほとんどの無料給食所が運営を中止する中、キム神父は「無料給食所を閉めるわけにはいきません。食事はとらなければなりません。ここを訪れる人の70%は一日に一食しか食べられません。私たちの炊き出しがなければ彼らは飢えるしかありません」と言う。 共に分かち合う一食それまでの給食システムを弁当に変えるのは簡単なことではなかった。新しい運営システムが必要となり、包装材などの費用もかかり、ボランティアの人たちの健康リスクも考慮しなければならなかった。しかし、厳しい状況下の2020年1月以降も、城南市当局の許可を受けて「アンナの家」は毎日、650から700個の弁当を提供し続けている。キム神父は貧しい人々に毎日給食を提供することは奇跡だと考えている。なぜならと彼は、一度米がほとんど底をついた時のことを語った。「毎日160㎏の米が必要です。ですが二日分しか残っていなかったんです。私がどうしようと心配していると、料理長が『イエス様が下さるはずです』と言うのです。翌日本当に米100袋が門の外に置いてありました」。このように人々が食べ物や金銭、服、マスクなど、いろいろな物品を寄付してくれる。多くの人々が時間をさいて調理をし、包装、清掃、弁当を受け取るために列を作っている人々を案内するなど、手助けしてくれる。ボランティアたちは社会の各界各層からやって来る。カトリックの信徒だけではなく、仏教の僧侶や回教徒もいる、有名人も、会社員も、学生もいる。中にはルイヴィトンという名前の犬もいて人々を慰めてくれる。貧しい人々は午後3時に配られる弁当をもらうために、遠くソウルからもやって来るという。キム神父とボランティアたちは彼らを歓迎し「よくいらっしゃいました。愛してます」と語りかける。「新型コロナのせいで大変な状況なのは事実です。しかし今は、愛と分かち合いのウイルスが拡散する時でもあります。パンデミックのもう一つの経験ですが、本当に美しいと言えます」と彼は言う。 貧民のための献身キム神父ことビンチェンシオ・ブルド氏は、高校を卒業する前からすでに神父になろうと決めていた。大学で東洋哲学と宗教を学んだあと、彼は集中的に貧民を支援するオブレート会に入った。アジアに対する関心から韓国に来ることになり1990年5月韓国に到着した。そしてすぐに、貧困家庭を支援する修道女と共に働き始めた。2020年に出版された彼の著書『瞬間の恐れ毎日の奇跡』でキム神父は、転機となった1992年の出来事を紹介している。その日、カビの生えた地下の部屋で一人暮らしをしている50代の半身不随の男性と出会った。この男性は何も食べられない日もあり、隣人が差し入れてくれる食べ物を頼りに何とか暮らしていた。彼と会話を交わし、部屋の掃除をした後、キム神父は男性を抱きしめたが、あまりの酷い悪臭に吐きそうになったほどだった。しかし同時に、彼は言葉では表せないような幸福と心の平和を感じたという。多くの人々が福祉システムの外に取り残されていることに気づいたキム神父は翌年、貧民のための炊き出し給食所を始めた。当時の韓国の状況は今とは違っていた。彼は当時を回想し「なぜホームレスを助けるんだと大勢の人に言われました。ホームレスは問題を起こすアルコール中毒者だから助けてはいけないと言うんです。今はもうそんなことはありません。韓国社会がずいぶん変わりました」と話す。1997年アジア金融危機の余波で多くの人々が職を失い、ホームレスとなった。翌年キム神父は、母親の洗礼名が「アンナ」というある後援者の支援を受けて無料給食所を始めた。そのようにして「アンナの家」が誕生し、日曜日を除き毎日無料給食を提供し始めた。無料給食所は、城南聖堂が提供する空間で数年間運営されていた。しかし、2018年にそこを立ち退かなければならなくなった。立ち退きの期限が迫り、キム神父の懸念は大きくなった。城南市は通りの向こう側のグリーンベルト開発制限区域の土地を使うことを認めるから、そこを新しい空間として使うようにとアドバイスしてくれた。しかし、実行可能な解決策ではなかった。土地を買う資金がなかったのだ。「もう本当におしまいだと思いました。もうこの仕事を終えて退職しなければならないかもしれないと考えました」 新たな空間救いの手はインタビュー要請の形で訪れた。どうしようか迷ったが地域新聞だと思ってインタビューに応じることにし、その日程を決めた。しかし、インタビューはKBS放送局の有名な『人間劇場』という番組の一部だった。キム神父について放送されると 「もう一つの奇跡が起きた」という。後援の手があちこちから差し伸べられたのだった。そして12億ウォンにも達する後援金があつまり土地を買うことができた。 キム神父は長い間、異国で奉仕できる自分のエネルギーを「愛」だと言う。疲れて放棄しようとした際、必ず誰かが現れ助けてくれた。それでこれまで「アンナの家」を守ってくることができた。彼はこのすべてを人々の持つ愛の力だと信じている。 「アンナの家」は2018年新しい建物で再び活動を始めた。無料給食が主な業務だったが、キム神父の努力でより多くの部門で奉仕できるようになった。現在は医療奉仕やリハビリ、法律サービス、人文学講座などが週単位で提供されている。またホームレスの人々や高齢者、家出青少年のための宿泊施設、若者たちのためのシェアハウス、家出青少年や助けを必要とする若者たちのためのモバイル奉仕活動プログラムなどが提供されている。新型コロナ禍以前、奉仕活動プログラム「アジト」(青少年を守るトラック)は、夜な夜な街を徘徊する数十人の少年少女たちと出会った。コロナにより多くの活動が中止されたが、キム神父は依然として今は小型車「アジト」を運転して夜の街に出かけていく。アジトは韓国語で「集会所」あるいは「安全な家」を意味する。「希望を与えたいのです。人々に希望の種を植えたいのです。種が育ち大きな木になることもあり、また失敗することもあります。しかし、可能な限り最善を尽くすことが神の思し召しなのです」と彼は語る。 「無料給食所を閉めるわけにはいきません。胃腸が休むことはありませんから。ここを訪れる人の70%は一日に一食しか食べられません。私たちの炊き出しがなければ彼らは飢えるしかありません」 神のしもべこの30年間、キム神父はほとんど毎日エプロン姿で給食の仕事をしている。しかし、日曜日には自転車に乗って漢江の土手を走っている。貴重な休息の瞬間だ。良いことがどんどん起きてはいるが、毎日のように誰かを助ける仕事は肉体的な負担はもちろん、精神的ストレスも大きい。ある日、心臓が異常に速く脈打つのに気付いた彼は、医師のもとを訪れた。ストレスのせいだという診断を受けた。当分の間、彼の唯一の楽しみであるイタリアの朝の習慣「エスプレッソ」をあきらめざるを得なくなった。人に奉仕する苦労の多い人生で彼が報われるのは何か。「貧しい人々のために働くことが私を幸せにします。私にとっては仕事ではありません。私の使命であり、ここでの私の人生は彼らを歓迎し、愛し、助けることなのです」と彼は言い切った。この使命は「神のしもべ」を意味する彼の韓国名「ハジョン」に反映されている。キムという名字は韓国最初のカトリック聖職者であったアンドレア・キム・デゴン(金大建、1821-1864) に捧げる意味でつけた。キム・デゴンはカトリックを弾圧した朝鮮王朝に処刑され、1984年に他の韓国人殉教者と共に列聖にあげられた人物である。キム神父の業績が知られるようになり、彼は2014年に権威ある湖厳賞をはじめとする多くの賞を受賞した。どの賞が一番意味が大きかったかという質問にキム神父は明るい表情で、最近、手垢のついた千ウォン札を集めて彼に贈り物をくれた幼稚園の園児たちのことを挙げた。彼を特別に幸せにしたもう一つの賞は、2015年大統領令で与えられた韓国国籍取得だ。彼は韓国に帰化するずいぶん前から韓国に永遠にとどまることを決心していた。さらに、死後の臓器提供の登録までしている。「私は外国人ではなく韓国人です。韓国と恋に落ちるのには理由などありません」と彼は言った。 ボランティアは毎日午後1時から「アンナの家」の地下にある食堂に集まり、弁当を準備する。ご飯、おかず、汁、パン、缶詰などを順番に詰めて包装するその手さばきは一糸乱れず実にスムーズだ。キム神父(一番右)も常に彼らと共に働いている。 キム神父は毎日午後3時から「アンナの家」の前にある城南洞聖堂の広い広場でホームレスの人々に弁当を配っている。700個の弁当は2時間ほどですべて無くなる。

ユニークな地方都市観光をリードする

In Love with Korea 2021 AUTUMN 1190

ユニークな地方都市観光をリードする CULTURE & ART--> ユニークな地方都市観光をリードする 全羅北道の農村都市、淳昌(スンチャン)に暮らすレア・モロさんは、より広い世界を経験したいという自分の願いを人々と共有したいと思っている。 レア・モロさんは週5日間、全羅南道淳昌郡のツアーバス「風景(プンギョン)バス」でガイドをつとめている。「風景バス」は剛泉山(カンチョンサン)国立公園、伝統コチュジャン民俗村、釵笄山(チェゲサン)など淳昌の主要観光名所を巡っている。 フランスのリオン市近郊にある人口1000人ほどの小さな村、イズロン(Yzeron)出身のレア・モロさんは自分のことを「主流の女性」ではないと紹介する。Kポップグループの中でもBTSやブラックピンクに感嘆はするものの、彼女が一番好きな歌手はインディバンドのセ・ソ・ニョン(SE SO NEON)だ。そしてソウルの名所よりは小都市の田舎暮らしが好きだ。豊かな伝統文化・慣習が残っている全羅北道の地方都市、淳昌(スンチャン)でレアさんは地方公務員として、観光広報の仕事をしている。観光客は外国人のレアさんが淳昌地域の観光名所を絶賛し、広報する姿を見て当然驚く。レアさんの韓国語の発音は完璧ではないが、自分が理解した内容を伝えるときには、自然と心地よい雰囲気を盛り上げることができる。淳昌は特産品のコチュジャンと多くの名勝地で有名だが、多くの人々が訪れるような観光地ではない。淳昌郡では2019年、より多くの観光客を誘致し気軽に周辺を観光してもらおうとバスツアーを導入し、そのためのガイドを探していた。ジャズカフェを経営するレアさんの友人が彼女を推薦した。「私がフランス語、英語、韓国語ができるので、韓国人と外国人観光客の両方を誘致するのにプラスになると友人が説得しました」とレアさんは言う。彼女はすでにユーチューブで旅行チャンネルを運営しており、観光産業関連の経験もあった。淳昌郡は彼女のために観光広報官のポストを作ることを決定したが、外国人を公務員として採用するためには上部機関の許可を得なければならなかった。6カ月後に彼女は広報官として採用された。地域の人々は彼女を「フランス公務員」と呼んでいる。レアさんは地元で人気が高い。彼女はスクーターに乗って飛び回っているが、スクーターのボックスには作業用の軍手、モンペズボン、カメラと韓服が入っている。彼女は自分の仕事を成し遂げるかたわらで、農家の仕事を手伝わなければならない場合や、ビデオ映像を撮りたいときもあるからだ。また、韓国で暮らす外国人を紹介するKBSのバラエティ番組『隣のチャールス』のようなテレビ番組に出演したのも、広報の仕事の一部だと考えたからだ。 彼女は、小都市には見るものがないという偏見をなくし、韓国にはKポップやKドラマ、そしてソウル以外にも意外と多くの素晴らしい体験ができることを伝えたい。 放浪癖 故郷の村イズロンから淳昌までやって来ることになったのは、旅を愛していたからだった。フランスの田舎で育ったレアさんは、いつも外の世界にあこがれていた。そしてついに幼い彼女は、家族旅行でバリに行くことになり、その時からすべてが始まった。「オートバイに乗ったんです。両親は私と妹を足の間に乗せてくれました。この旅行が私の人生のすべてを変えてしまったのだと思っています」とレアさんは回想する。「旅を通じて世界には様々な容姿、様々な文化や言語があることに気づきました。そして、異なる言葉を学ぶことがより多くのチャンスをもたらしてくれることに気づいたんです」。高校を卒業するとレアさんはオーストラリアで18カ月間働きながら英語を学び、時にはグレート・バリア・リーフでダイビングを楽しんだ。その後タイに行き、そこを拠点として東南アジアを旅した。結局、旅行産業に本腰を入れて、オンライン授業を通じて観光経営の学士号を取得した。この授業の条件の一つがいずれかの国で6カ月間インターンシップをすることだった。韓国人の友達が光州にある外国人用のゲストハウス「ペドロハウス」と旅行カフェを推薦してくれた。2016年韓国にやって来た彼女は、2年間ほどこのゲストハウスで働くことになった。「光州を愛するようになりましたね」と彼女は言う。「私が幼少のころ、歴史が好きだったおじいさんから韓国の歴史について学びました。おじいさんは韓国と北朝鮮について教えてくれました。でも光州や、1980年5月18日に起きた光州民主化運動については全く知りませんでした。光州は韓国の現代史と韓国社会について学ぶことのできる良いところでした」。光州で暮らす間、彼女は全羅道地域をちょくちょく旅行し、特に沿海の島々を含めた田舎を時間がある限り訪れた。しかし、外国人のための観光情報がなかったので、外国人バックパッカーが旅するには決して容易ではなかった。そこで彼女は、ペドロハウスのオーナーであるペドロキム(本名:キム・ヒョンソク)さんと一緒にガイドブックを書くことにした。残念ながら本としては出版されなかったが、その内容はオンラインの『チョルラゴー(全羅GO)』という名前のチャンネルに生まれ変わった。その後、慶尚道地域に対して好奇心を抱いた彼女は、造船業が盛んな町である巨済島の文化センターでもしばらくの間働いた。そして光州に戻ってきた彼女は、もう少し持続的な仕事を願っていた。そんな彼女に淳昌での仕事が舞い込んできたのだった。 母国のフランス語は当然、韓国語や英語もできるレアさんは、主に淳昌を訪れる外国人観光客をガイドするはずだったが、新型コロナウイルスの感染拡大により最近では主に韓国人をガイドしている。韓国人観光客は彼女の韓国語の説明を聞きながら、淳昌の名所旧跡を興味津々に観て回る。ⓒ Lea Moreau 多忙なガイド観光広報官であり経験豊富なバックパッカーとしてのレアさんは、観光客にあまり知られていないところを発見し紹介するのを楽しみとしている。彼女は小都市には見るものがないという偏見をなくし、韓国にはKポップやKドラマ、そしてソウル以外にも、思いのほか多くの素晴らしい体験ができることを伝えたいという。彼女はそんな淳昌の魅力のひとつとして、韓国で最も長いつり橋の一つが淳昌にあると話す。さらに春には、花見の名所の鎭海や河東のように見物人で混み合うこともなく、心静かに花見気分にひたれる。秋には剛泉山(カンチョンサン)国立公園の紅葉が観光客を魅了する。しかし、彼女が新しい仕事を始めるやいなや、世界的なコロナのパンデミックが押し寄せ、観光は事実上ほとんどストップ状態だ。車体に笑顔が描かれた屋根のないオープントップ型の特別仕様の「淳昌シティツアーバス」は現在、一週間に3回、1日におよそ10人ほどの観光客を乗せて走っている。ソーシャルディスタンスの確保という方針に従い、乗客は全員バスに乗る前に体温をチェックする。ツアーは外国人乗客がいない場合には韓国語で進行する。ほとんどの旅行がバーチャル体験で行われている今、レアさんは広報の仕事をSNSを通じて続けている。毎週一回程度、彼女は『全羅GO』に新しい内容をアップロードし、淳昌郡の公式ユーチューブチャンネル『スンチャン・チューブ』とコラボレーションしている。このような仕事を彼女は最も好きだと言う。「映像撮影が好きなんです。高校に通っていた頃に、うちのクラスはマダガスカルに旅行したんですが、その時の撮影を私がしたんですよ。もちろんあの時の映像の質は決して良いとは言えませんが」と彼女は言う。しかし、彼女の撮影技術が向上しているのは明らかだ。昨年、観光ビデオコンテストで受賞したからだ。150万ウォンの賞金で彼女はパノラマ撮影のためのドローンを購入した。 地域の人々は彼女のことを「フランス公務員」と呼んでおり、レアさんは現在、淳昌郡微生物産業事業所の微生物係に所属する職員だ。淳昌はコチュジャン(唐辛子味噌)とテンジャン(味噌)で有名だが、微生物産業事業所はそのような発酵食品を研究・広報する仕事をしている。おかげでレアさんは、コチュジャンとテンジャンの作り方とその魅力に関して、韓国人と同じくらいよく知っている。 ⓒ Lea Moreau 夢を生きるレアさんは最近、淳昌郡との契約を3年間延長した。「私が一番大切にしているものは、人と会って日常を共有することで、韓国をより深く知ることです」と彼女は説明する。「私が一箇所に留まる最も大きな理由は、私が出会った人々や親しくなった友人たちのためです。韓国人は本当に歓待してくれます。外国人を見ると、特に田舎では、救いの手を差しのべてくれます。私にはそんな出会いが、それ自体が一つの冒険となっています」。レアさんは自分の韓国語が完ぺきではないのにも関わらず、同僚の公務員が自分に行政システムや仕事の内容についてレクチャーしてくれることを本当にありがたいと思っている。「私に多くの時間を割いて、私を信頼してくれていることを知っています」と彼女は言う。有難いという思いで彼女は一週間に10時間、オンライン韓国語の授業を聞いている。レアさんの人生のモットーは「人生を夢見るのではなく、夢を生きよう」だ。彼女の目下の夢は、韓国での暮らしと旅行についての本を書くこと、旅行のテレビ番組を作ること、地域産業をもっと広報して地域共同体に寄与することなど、目標は山ほどある。何よりも人々がもっとたくさん旅をして、自分のグローバルな旅を共有できるようにインスピレーションを与える仕事を続けたい、と彼女は語る。 チョ・ユンジョン曺允廷、 コリアナ監修者、フリーランサーライターホ・ドンウク許東旭、 写真

独創的で異質な物語への愛

Interview 2021 AUTUMN 1242

独創的で異質な物語への愛 문학 산책--> 独創的で異質な物語への愛 ジョン・ミンヒ(全民熙)さんは1990年代、PC通信網を基盤として登場したファンタジー小説の第1世代に属する作家だ。1999年に連載を始めた『歳月の石』はこれまでに数十巻の作品を生み出し、その中の相当数が日本、中国、タイ、台湾でも出版され大きな人気を得ている。また『ルーンの子供たち』シリーズと『アーキエイジ』シリーズは、ゲームの原作小説となっている。景福宮近くのカフェで彼女と会った。 ファンタジー小説の作家チョン・ミンヒ(全民熙)さんは、1999年パソコン通信の「ナウヌリ」に『歳月の石』の連載を開始し、デビューした。彼女の小説は繊細な描写と抒情的な文体で国内外の多くのファンから愛されている。 小説家チョン・ミンヒさんはソウルで最も閑静な街、大統領官邸からほど近い庭のある家に暮らしている。小学校5年生の子供のいる彼女は一見平凡な主婦、あるいはキャリアウーマンのように見えるが、韓国ファンタジー小説の過去と現在、未来を語る上で欠かせない作家だ。1999年にパソコン通信の「ナウヌリ」に連載を始めた『歳月の石』は、雑貨店を営む18歳の少年パビアンが、父から譲り受けた首飾りの四つの宝石を求めて旅に出る物語だが、400万回のアクセスを記録し、これは現在もファンタジー小説の愛読者の間で、伝説として語り継がれている。作家特有のファンタジー世界観は、ゲーム業界でも認められている。2003年に発売されたネクソンのクラシックRPG(ロールプレイングゲーム)「テイルズウィーバー」と2013年に発売されたXLゲームズのRPG「アーキエイジ」といったインターネットゲームは彼女の小説が原作となっている。 今年でデビュー何年目ですか?1999年から連載を始めたので23年目です。合計3部作からなる『ルーンの子供たち』の1部『ルーンの子供たち−冬の剣』(2001-2009)が2001年に初めて本になって出版されたので、『ルーンの子供たち』シリーズが20周年となる年でもあります。 『ルーンの子供たち』シリーズが大きな反響を呼びました。販売部数は?全7巻の『ルーンの子供たち−冬の剣』と全9巻の『ルーンの子供たち−Demonic』(2003-2020)を2018年に出版社を変えて改訂版として出しました。その年の売り上げを推算したところ、正確ではありませんが300万部くらい売れたものと把握しています。 改訂版を続けて出している理由は? 作品のクオリティに気を使っているからですか。ファンタジー小説家のほとんどが作品を書き直すことを嫌がります。私のように何かのきっかけで文章を修正する作家は少数に過ぎません。以前の作品を手直しする時間に新しい作品を書く方が作業の楽しさや名声、収入面でもはるかに良いからですね。私は自分自身が納得するまで推敲を重ねて本を出しますが、時間が経過した後、他の視点で見直すと、補完したいところが目につきますね。例えば『歳月の石』は、2004年に出版社を変えて再出版しましたが、最初の作品なので愛着が大きかったとはいえ、未熟な部分が非常に目につき、到底そのまま出版することができませんでした。万一、あの時に修正せずにそのまま出していたら、それ以降の他の作品も修正することはなかったと思います。 「よくファンタジー小説は、主に作家の想像力でできていると思われがちですが、実は膨大な資料調査と緻密な研究が基盤となります。そのような事前作業が緻密な構成と繊細な描写を可能にするんです」 チョン・ミンヒの代表作『ルーンの子供たち』シリーズは、1部『ルーンの子供たち−冬の剣』(2001−2019)、2部『ルーンの子供たち−Demonic』(2003−2020)に続いて、3部『ルーンの子供たち−Blooded』(2018−)が現在4巻まで出版されている。繁栄していた古代王国の突然の滅亡から千余年後、諸国と諸勢力が衝突を続ける中で、自らの運命を切り開くために戦う子供たちの物語だ。 改訂版に対する読者の反応は?単純に文章を整えるという水準ではなく、新しいエピソードを付け加えているので読者の間では意見が分かれました。改訂版をまた買わなきゃいけないのかと思った読者は不満に思ったことでしょう。しかし、修正された作品の方が好きだという読者がだんだんと増えており、改訂前と後を比較して変わった点を一目でわかるように整理して共有する読者もいます。 作品が愛され続けている秘訣は何だと思いますか?「ナウヌリ」に連載を始めた20代の頃は、読者を意識せずにひたすら書きたいように書いていました。しかし、意外にも小説が人気を得るようになって、世の中には私と好みの似た人々がたくさんいるんだと考えるようになりました。それなら、私の好みをそのまま反映させても構わないという自信につながりました。それで思い浮かんだままに物語を積み重ねていきました。根本的にファンタジーというジャンルに内在する魅力のようなものではないでしょうか。ファンタジー小説は一つの時代に限られた物語ではなく、それぞれの時代を網羅する普遍性と心に訴えるパワーがあります。 壮大な世界を描いていながらも、繊細さを失わないという評価を得ていますが、それについてはどう思いますか?よくファンタジー小説は、主に作家の想像力で出来ているだろうと思われがちですが、実際は膨大な資料調査と緻密な研究が基盤となります。例えば、現実には無い仮想の都市を背景にするためには、人類の都市文化史に対する徹底した調査が先行しなくてはなりません。そのような事前作業が緻密な構成と繊細な描写を可能にするんです。 ファンタジー小説を書くようになった契機は?子供の頃から習作していました。その頃はただ書きたくて書いていただけなのですが、あとになって考えてみると、私の書いていたものがファンタジーに属していたんです。このジャンルをきちんと認識するようになったのは、「ナウヌリ」のファンタジー同好会で活動し始めてからです。それ以降、本格的に書き始めました。 今考えてみると、運が良かったのだと思います。1990年代はファンタジー小説が流行し始めた時期だったので、私と時代的なコードが合ったのでしょう。私の個人的な好みが、そんな話が好きな人々と共鳴することで、力を得たのだと思います。また、私は1994年に大学に入学しましたが4年生になった1997年に、韓国は金融危機に見舞われました。大学卒業後、就職先もなく、就職できなくても全然恥ずかしくない時期でした。私としてはどちらにしろ、お金を稼げなくなったのですから、好きなことをしてみる時間が与えられたというわけです。 どうしてファンタジーが好きになったのですか?たぶん、子供の頃に児童用の世界文学全集を読みながら影響を受けたのだと思います。は独創的で異質な物語が好きで、例えば『長くつ下のピッピ』シリーズで有名なスウェーデンの作家、アストリッド・リンドグレーンの『はるかな国の兄弟』のような作品が大好きだったんです。『ルーンの子供たち−冬の剣』がその作品の影響を非常に多く受けていることに後で気づきました。 あなたの小説にはどんな特徴があると思いますか?それに答えられるのは私ではないとおもいます。読者による私の小説に関する批評文をときどき見ることがあります。 一理ある分析だと思います。今は韓国の読書市場に青少年文学というジャンルが定着しましたが、私が最初に小説を書き始めた頃は、そのようなカテゴリーは存在しませんでした。私が青少年をターゲットに読者層を定めた理由は、前近代の時期にも子供たちは成人式という通過儀礼を経ており、子供から大人に移行する年齢の読者のための通過儀礼の物語を題材にした小説を書いてみたかったからです。『ルーンの子供たち−冬の剣』がそのような構造だと思います。ある子供が親をはじめ誰の助けも受けられない状況に陥るものの、結局最後には、恐ろしくて逃げ出した最初の対象と、対面することになるという内容です。 古くからの読者も多いですよね。『ルーンの子供たち』シリーズの中の2部の最後の巻が出たのが2007年で、3部『ルーンの子供たち−Blooded』1巻を2018年に出しました。10年以上も経ってから出たのです。その間、私の小説を忘れていた読者もいたことでしょう。就職したり、結婚した読者もいたでしょうに、大雪の降った冬の朝、ソウル光化門の教保文庫で開かれたサイン会には500人ものファンが来てくれました。それには本当に驚きました。小学生、中学生の頃『ルーンの子供たち−冬の剣』で私の小説に入門し、今や20-30代になった読者が私に会いに来てくれました。 今後のご計画は?すでに今年のスケジュールは一杯です。進行中のゲームシナリオ作業もしなくてはなりませんし、『ルーンの子供たち−Blooded』も書き続けます。 シン・ジュンボン申迿奉、 中央日報記者ハン・サンム韓尙武、 写真

Review

暗闇の中で輝き合う 綺羅星たち

Art Review 2021 SUMMER 971

暗闇の中で輝き合う 綺羅星たち 国立現代美術館徳寿宮の今年初の企画展『美術が文学と出会った時』は、1930-50年代に活躍した芸術家たちにスポットを当てている。特にこの展示は、日本植民地時代と朝鮮戦争という不幸な時代に、画家と文化人の交流がどのような芸術的成果を生んだのかに焦点を当てており、大きな関心を集めた。s 『 人形のある静物』 ク・ボヌン(具本雄1906~1953)71.4×89.4㎝ キャンバスに油彩1937年 三星美術館リウム所蔵 ク・ボヌンは印象派中心のアカデミズムが流行していた時期に、フォーヴィスムの影響を受けて新たな分野にチャレンジした。画面に描かれたフランス美術雑誌『Cahiers d’Art』 からも分かるように、ク・ボヌンと彼の友人たちは西欧の新しい文化芸術の傾向を同時代に享有していた。 1930年代は日本統治がより一層厳しくなった暗黒期であったが、一方では近代化が進み、韓国社会にとてつもなく大きな変化が巻き起こった時期でもあった。特に京城(1946年ソウル特別市に変更)は新文物が他の地域よりも先に流入し、目まぐるしく変化していった。舗装された道路には電車と自動車が走り、華やかな高級百貨店が開業した。そして街には流行の先端を行くハイヒールを履いたモダンガールと背広姿のモダンボーイがあふれた。 現実に対する絶望と近代のロマンが混在した京城は、芸術家たちの都市でもあった。当時の京城の芸術家たちは誰もがタバン(茶房)に足を向けた。中心街の路地に立ち並んだタバンは単純にコーヒーを売るだけの店ではなかった。異国情緒あふれる室内装飾とコーヒーの香りの中に流れるエンリコ・カルーソーの歌を聞きながら、芸術家たちはアバンギャルド(前衛芸術)について討論を繰り広げていた。 カルーソーとアバンギャルド植民地の国民という貧困と絶望も芸術への魂までうち砕くことはできなかった。そして苦難の中で咲いた創作の情熱の陰には、時代の痛みを共有し共に生き抜く道を探し求めていた芸術家たちの友情とコラボレーションがあった。この「逆説的ロマン」の時代を振り返る国立現代美術館徳寿宮での『美術が文学と出会った時』展は、連日多くの観覧客がつめかけている。近代を代表する50 人の芸術家を紹介するこの展示は、タイトルが物語っているように画家や詩人、小説家がジャンルの壁を越えてお互いどのように交流をし、影響を与え合っていたか。そしてどのように芸術的理想を追求していったかを振り返るものだ。 展示は四つの題目に要約できる。「前衛と融合」を題目にした第1展示室は、詩人であり小説家、そしてエッセイストでもあったイ・サン(李箱、1910~ 1937)が運営していたタバン「チェビ(燕)」と、そのタバンを愛した芸術家たちとの関係にスポットを当てている。建築を専攻したイ・サンは、学校を卒業後しばらくの間、朝鮮総督府で建築技師として働いていたが、肺結核を患い仕事を辞めてタバンを開いた。短編小説『翼』と実験主義的な詩『オガムド(烏瞰図)』など、強烈なシュールレアリズムな作品で広く知られるイ・サンは、1930年代の韓国モダニズム文学を開拓した代表的な作家だと評されている。タバン「チェビ」の白い壁には、イ・サンの自画像と幼い頃からの友人ク・ボヌン(具本雄、1906~ 1953)の絵が数点、飾られていたという。特別な室内装飾もない殺風景な空間だったが、そこは貧しい芸術家たちのサロンの役割をしっかりと果たしていた。ク・ボヌンをはじめとして、イ・サンと深い付き合いのあった小説家パク・テウォン(朴泰遠、1910~ 1986)、詩人で文学評論家のキム・キリム(金起林、1908~?)などがその主なメンバーだった。彼らはこのタバンに集まり、文学と美術だけでなく映画や音楽など様々なジャンルの最新の傾向と作品について意見を交わし、そこからインスピレーションを得ていた。彼らにとってタバン「チェビ」は単なる社交の場ではなく最先端の思潮を吸収し、芸術的な滋養を得る創作の産室だった。特にジャン・コクトーの詩とルネ・クレールのアバンギャルドな映画は、彼らの大きな関心事だった。イ・サンはジャン・コクトーの警句を書いたものを壁にかけ、パク・テウォンはファシズムを風刺するルネ・クレールの映画『最後の億万長者』(1934)をパロディ化した作品『映画から得たコント;最後の億万長者』を書き、植民地の現実をウイットに富んだタッチで描いている。彼等の作品に現れている互いの痕跡と親密な関係が非常に興味深い。ク・ボヌンが描いた『友人の肖像』(1935)のモデルは、屈折した印象のイ・サンだ。二人は4歳の年の差はあったものの、学生時代からいつも一緒にいて仲が良かった。キム・キリムはク・ボヌンの破格なフォーヴィスムの画風に誰よりも賛辞を送った人物だった。また彼はイ・サンが27歳の短い生涯を閉じるとそれを悲しみ、彼の作品を集めた『李箱選集』(1949)を出し、これがイ・サンの処女作品集となった。イ・サンもまたキム・キリムの最初の詩集『気象図』(1936)の装丁をしている。さらにイ・サンはパク・テウォンの中編小説『小説家クボ氏の一日』(1934)が朝鮮中央日報に連載された際には、挿絵も描いている。パク・テウォンの独特な文体とイ・サンのシュールな挿絵は、独創的な紙面を作り上げ大きな人気を得た。 『 自画像』 ファン・スルジョ(黄述祚1904~1939) 31.5×23㎝ キャンバスに油彩 1939年個人所蔵 ク・ボヌンと共に同じ美術団体で活動していたファン・スルジョは、静物画、風景画、人物画など多様なジャンルを席巻し独特な画風を築いた。この作品は35歳という若さで夭折した年に描いた作品だ 1920~40年代の印刷美術の成果が展示されている第2展示室。この時期に刊行された表紙が美しい本をはじめとして、新聞社が発行していた各種雑誌と挿絵画家たちの作品が展示された。 『 青色紙』第5集 1939年5月発行 ( 左)『青色紙』第8集 1940年2月発行1938年6月に創刊され1940年2月に、通巻8集を最後に廃刊となった『青色紙』は、グ・ボヌンが編集・発行をしていた芸術総合雑誌だ。文学を中心に演劇、映画、音楽、美術分野を網羅し、当代の有名執筆陣による水準の高い記事を掲載していた。 詩と絵画の出会い小説などの文章に添えられる挿絵の需要は、芸術家たちに一時的ではあったが一定の収入をもたらした。同時に新聞が大衆的でありながらも芸術的な感覚を持った媒体であることを、人々に認識させるのにも一役買ったといえる。洗練された図書館を思わせる第2展示室では、1920 ~40年代に発行された新聞や雑誌、本を中心に当時の印刷媒体が作り出した成果を集大成し展示している。「紙上の美術館」を題目にしたこの展示は、アン・ソクチュ(安碩柱、1901~1950)を筆頭に、代表的な挿絵画家12人の作品が添えられた新聞連載小説を一枚一枚ページをめくって読めるようになっており、一味違った展示構成になっている。当時の新聞社は雑誌も発刊しており、それらを通じて詩に挿絵を添えた「画文」というジャンルが本格的に登場した。「貧しい僕が/美しいナターシャを愛して/今夜は雪がさらさらと舞い上がる」ではじまるペク・ソク(白石、1912~1996)の詩『僕とナターシャと白いロバ』に、チョン・ヒョヌン(鄭玄雄、1911~1976)が絵を描いた1938年度の作品がその代表的な例だ。朱黄色と白の余白が印象的なこの絵は、ペク・ソクの詩にふさわしくおぼろげな情感の中に絶妙な空虚感を醸している。この作品は二人が一緒に制作して、朝鮮日報の文芸雑誌『女性』に掲載された。洗練された言語感覚をもとに郷土色の濃い抒情詩を発表したペク・ソクと、挿絵画家として有名だった画家チョン・ヒョヌンは、新聞社の同僚として出会い、その後も格別な友情を育んだとして知られている。チョン・ヒョヌンは隣の席で仕事をするパク・ソクの横顔を感嘆の声を上げて見つめていたという。真剣に仕事に打ち込む彼の姿を描き、その顔が「彫像のように美しい」という賛辞を短文『ミスター白石』(1939) に書いて、雑誌『文章』に発表した。彼らの友情は新聞社を辞めた後も続いた。1940年、突然満州に旅立ったペク・ソクは『北方から-チョン・ヒョヌンに』という詩を書いて送り、南北分断以降1950年に北朝鮮に亡命したチョン・ヒョヌンは、北朝鮮でペク・ソクと再会し、彼の詩を入れた詩集を出した。その詩集の裏表紙には『ミスター白石』の頃よりも年を重ねた重厚な姿のペク・ソクが描かれている。 植民地の国民という貧困と絶望も芸術家の魂までうち砕くことはできなかった。そして苦難の中で花開いた創作への情熱の陰には、時代の痛みを共有し、共に生き抜く道を探し求めていた芸術家たちの友情と共同作業があった。 『 僕とナターシャと白いロバ』 詩文ペク・ソク(白石、1912~1996) 絵画チョン・ヒョヌン(鄭玄雄、1911~1976) 雅丹文庫提供詩人ペク・ソクが朝鮮日報社から1938年3月発行された雑誌『女性』(第3巻第3号) に発表した詩に、画家チョン・ヒョヌンが絵を付けた「画文」。当時は文章と絵が調和を成した画文というジャンルを通じて作家と画家の交流する機会が多かった。 『 詩人具常の家族』 イ・ジュンソプ(李仲燮1916~1956) 32×49.5㎝ 紙に鉛筆、油彩 1955年 個人所蔵朝鮮戦争直後に詩人・具常の家に居候していたイ・ジュンソプが日本にいる自分の家族を恋しがりながら、友人家族の団らんの様子を描いたものだ。 現代文学社が1955年1月に創刊した文学雑誌『現代文学』の表紙。チャン・ユクジン(張旭鎭、1918~1990)、チョン・ギョンジャ( 千鏡子、1924~2015)、キム・ファンギ(金煥基、1913~1974)な ど。 第一級の画家たちの絵が表紙を飾っている。 画家の文章と絵「二人行脚」を題目にした第3展示室では、1930から1950年代までの時代的背景を広げて、芸術家たちの個人的な関係により焦点を当てている。同時代の作家や画家はもちろん次世代の芸術家たちとの人的交流においても、その人間関係の中心に立っていた人物がキム・キリムだった。彼は新聞記者という職業を十分に活かし多くの芸術家たちを発掘する先頭に立って、評論を通じて優れた作品を紹介した。次にそのような役割を受け継いだのがキム・グァンギュン(金光均、1914~1993)だった。詩人であると同時に実業家でもあった彼は、優れた芸術家たちを経済的に支援した。この展示室の作品のほとんどが彼のコレクションであったという事実は、別に驚きに値しない。 この展示室で多くの観客が足を止めるのは、断然イ・ジュンソプ(李仲燮、1916~1956)の『詩人具常の家族』(1955)だろう。絵の中のイ・ジュンソプは、グ・サン(具常、1919~2004)の家族を羨ましそうに眺めている。朝鮮戦争中に生活苦から家族を妻の実家のある日本に送り出し、一人で過ごしていた彼は作品を売って、そのお金で家族と再会することを乞い願った。しかし、ようやく開催した個展は思い通りにいかず、金を稼ぐことに失敗すると自暴自棄となっていった。当時のそんな心境がこの絵によく表れている。彼の日本人の妻が夫の安否を気遣い、友人のグ・サンに送った手紙も展示されており、戦争のもたらした貧困と病苦の中で、若くして世を去った天才画家とその家族の物語が人々の胸を打つ。「画家の文と絵」を展示している最後の展示室では、一般的には画家として知られているが、文章にも人並外れた境地に達していた6人の芸術家が紹介されている。シンプルで純粋な「もの」の美しさを賛美したチャン・ウクジン(張旭鎭、1918~1990)、生涯にわたり山を愛したパク・コソク(朴古石、1917~ 2002)、独特な画風だけでなく、内面に率直な文章で大衆から愛されたチョン・ギョンジャ(千鏡子、1924 ~2015)などが含まれている。中でも今回の展示の最後に目を惹くのが、キム・ファンギ(金煥基、1913~ 1974)の『全面点画』4点の作品だ。無数の小さな点がぎっしりと散りばめられた小宇宙を間近に眺めていると、逝き去りし作家や画家たちの名前が一人一人思い浮かんでくる。暗闇の時代に綺羅星のごとく輝いていた彼らを、今ようやく一堂に招集したような気がする。 『 18-11-72 #221』 キム・ファンギ(金煥基) 48 × 145㎝ コットンに油彩 1972年文学に造詣が深かった画家キム・ファンギはいろいろな雑誌に挿絵を添えた随筆を発表し、詩人たちとも交流していた。晩年のキム・ファンギの代表作で抒情的な抽象画『全面点画』は、彼がニューヨークに滞在していた1960年代中頃から描き始めたものだが、その時期に詩人のキム・グァンソプ(金珖燮、1906~1977)に送った手紙からもその事が垣間見える。

抽象化される日常

Art Review 2021 SPRING 1082

抽象化される日常 ドイツを中心に国際的に活動しているインスタレーション・アーティストのヤン・ヘギュ(梁慧圭)は、日常の中の身近な素材を活用して、さまざまな解釈が可能な作品を発表してきた。最近、国立現代美術館で行われていた展示会では、新たな試みに果敢に挑戦し、さらに表現の領域を広げた。 ヤン・ヘギュは、折りたたみ式ランドリーラックやブラインド、電球などのような身近な素材を活用した作品を発表している。代表的なものとしては、2009年のヴェネツィア・ビエンナーレ韓国館に作家として参加した時の鉄製フレームや扇風機、毛糸などで台所を形象化した作品『サㇽリム(暮らし)』だ。その後もカッセルの現代美術展ドクメンタや、パリのポンピドゥーセンターなどで彼女の作品を目の当たりにできた。 彼女は身近な素材を利用して様々な形態に変化させたインスタレーション作品と、さらにグラフィックデザインを施した壁面をコラボレーションしている。最近の作品には、互いに関連性のないイメージを複雑に組み合わせたものが多く、多少難解にも感じられるが、そのせいで時には「イメージの密度が過度で目に入ってこない」という評価を受けたりしている。これに対して彼女は「難解さ」こそ、自分の作品の特徴だと説明している。 2019年1月、台湾南港展示センターで開かれた「第1回台湾當代アートフェア」に参加したヤン・ヘギュ(梁慧圭)は、特定の歴史的な人物や日常の事物を設置、彫刻、映像、写真、サウンドなど、様々な媒体を通じて抽象的な造形言語で表現した。 『 沈黙の貯蔵庫―クリックされた芯(Silo of Silence-Clicked Core)』 2017、アルミニウム・ベネシャン・ブラインド、パウダー塗装アルミニウム及び鋼鉄天井構造物、スチールワイヤーロープ、回転舞台、LEDなど、電線、1105×780×780㎝ ベルリンのKINDL現代美術センターは毎年一人の作家を選定して、高さ21mのボイラーハウスに単独作品を発表する展示を企画している。2017年9月から2018年5月までヤン・ヘギュの作品がそこに展示された。 同一な対象、様々な解釈 国立現代美術館の展示『MMCAシリーズ2020: ヤン・ヘギュ―O2 & H2O』(2020.9.29-2021.2.28)も例外ではない。展示場に入ると真っ先に目にする、大型設置作品『沈黙の貯蔵庫―クリックされた芯(Silo of Silence- Clicked Core)』だ。題目からして難解なこの作品は、横型のベネシャンブラインドと照明器具を使った高さ11mの大型モビール(動く彫刻)形態をしている。観客はマリンブルーとブラックのベネシャンブラインドとが独自に動く作品の内側と外側を自由に行き来しながら鑑賞し、壮観な規模と色彩が演出する多彩な空間を体験する。 この作品に使われたベネシャンブラインドは、彼女の代表作『ソル・ルウィット反転(S o l L e W i t t U p s i d e Down)』のシンボルと同一な素材だ。展示場内部に移動すると、白いブラインドを使った『ソル・ルウィット反転 』の連作を見ることができるが、題目にあるアメリカのコンセプチュアル・アートのアーティスト、ソル・ルウ ィットの名前から推測できるように、ミニマリズム的な要素が強い。観客は21世紀に過去のミニマリズム様式を繰り返すことに果たしてどんな意味があるのか疑問が生じるかもしれない。 ヤン・ヘギュは作品の素材としているブラインドについて「誰かは西洋的、他の誰かは東洋的だという」と説明している。彼女の話のように西欧的なオフィス空間を連想する人もいれば、あるいは東洋的な竹林を思い浮かべる人もいるだろう。このように同一な対象が、見る人によって観方が変わる現象を表現しようという意図は、他の作品においても容易に見い出すことができる。 2017年メキシコシティのアートギャラリー<kurimanzutto>で開かれた『装飾と抽象』展の全景。 この展示はラテンアメリカで開かれたヤン・ヘギュの 最初の個展だ。 『中間タイプ―拡張 されたW形態のウフフ生命体』 2017  人造藁、パウダー塗装ステンレス鋼天井構造物、パウダー塗装ステンレス鋼フレーム、鋼線、装飾用の布切れ、装飾用の羽 580×750×60cm 『太陽と月の下、言葉を失った大きな目の 山-信用良好者#315』 2017  保安模様の封筒、方眼紙、色紙、サンドペーパー、額縁、接着ビニールフィルム11本  86.2×86.2cm; 57.2×57.2cm; 29.2× 29.2cm 『ソル・ルウィット反転-1078倍に拡張、複製し再び組み合わせたK123456』 2017 アルミニウムベネシャンブラインド、パウダー塗装アルミニウム天井構造物、鋼線、蛍光灯、電線 878×563×1088cm 混ざりあった境界 本格的な展示が広がる第5展示室に入ると、最も良く観える位置に『音のする家の物』の連作が設置されている。これらの作品は人造の藁とプラスチックの紐、真鍮の鈴が主な素材で構成され、金属の鈴が無数にぶら下がっている形態のせいで、一見奇怪な生物体のように見える。徐々に目が慣れてくると、これらの形態がアイロン、マウス、ヘアードライヤー、鍋であることが分かる。 ブラインドを使った作品で東洋と西洋の境界を狙ったとしたら、この作品では無生物と生物の境界を探索している。ヘアードライヤーをカニに、二つのマウスを組み合わせて昆虫の形態にしている。またアイロンを合わせるとハサミの形になる。これらの作品の下に車輪がついており、動かすと鈴の音がする。 作品の右側の壁面には4つの類型のドアの取っ手がついているが、九画形の幾何学的な形態に配置されている。ここで求めている効果も同様だ。取っ手はドアを開くために作られたものだが、それが壁に付くことでその機能が失われている。このような脈絡によって変わってしまった事物の意味を通じて作家は、観客の興味を誘発しようとしているのだ。ただこのような表現方法はすでに100年前のダダイズムの作家たちも使っていた。ヤン・ヘギュがアイロンを交差しハサミの形態を作る遥か昔に、視覚美術家マン・レイはアイロンに画鋲を打ち、その機能と意味を形骸化させている。1921年の作品『贈り物』がそうだ。さらにさかのぼるなら、マルセル・デュシャンが便器を美術館に持ってきて『泉』(1917)と名付けたのもその延長線上にある。 もちろん最近では美術史に現れた特徴的な要素を、時代に関係なくアーティストが好きなように借用する傾向が国際美術界では目立っている。19世紀以前の絵画を借用して抽象化する英国作家セシリー・ブラウンはもちろん、デイヴィッド・ホックニーも自身の偶像であるピカソの作品を堂々と作品に取り入れている。そうだとすれば、コンセプチュアル・アートを借用したヤン・ヘギュの狙いは果たして何なのだろうか。 東洋と西洋、生物と無生物の境界を問う作家が、 今度は現実と仮想、本物と偽物の境界にも疑問を提起し、明らかにしようとしている。 ( 左側) 『真実の複製』 2020、AI(タイプカーストゥ)、ヤン・ヘギュの声、スピーカー、可変サイズ、技術提供ネオサピエンス (右側) 『五行非行』 2020、ポリエステルの垂れ幕に水性インクジェット印刷、アドバルーン、アイレット、スチールワイヤーロープ、韓紙、可変サイズ、グラフィック支援、ユ・イエナ 国立現代美術館の『MMCA ヒョンデ車シリーズ2020: ヤン・ヘギュ-O2 & H2O』 (2020. 9. 29.~2021. 2. 28.)展では、AIで複製した自分の声を使ったり、垂れ幕にデジタルイメージを合成するなど、新たな形態の作品を発表した。 『 音のする家の物』 2020、パウダー塗装ステンレス鋼フレーム、パウダー塗装格子網、パウダー塗装取っ手、車輪、黒色真鍮メッキの鈴、真鍮メッキの鈴、赤色ステンレス鋼の鈴、ステンレス鋼の鈴、金属ロープ、プラスチック紐 (左側) 『音のする家の物―アイロンハサミ』 208×151×86 cm (左から2番目) 『音のする家物―カニ足模様ドライヤー』155×227×115 cm (左から3番目) 『音のする家物―貝ニッパー』 291×111×97 cm (右側) 『音のする家物―鍋重なる鍋』224×176×122 cm 作家は日常的に使われているアイロン、ヘアードライヤー、マウス、鍋の形をもとに素材を互いに組み合わせたり交差結合させて混種器物を誕生させた。 現実と抽象 今回の展示でヤン・ヘギュは、既存の展示では見られなかった新たな形態の作品を発表した。デジタルイメージを合成した垂れ幕作品『五行非行』と人工知能の声が飛び出す『真実の複製』がそれだ。 『五行非行』について作家は「政治的な宣伝物に似た強烈なグラフィックと誇張されたタイポグラフィが特徴」だと説明している。5つの垂れ幕には、韓国伝統カラーの五方色(青、赤、黄、白、黒)が象徴する5つの要素(木、火、土、金、水)の名前が書かれている。垂れ幕の下の方には漢紙で作られた文具がぶら下がっている。この作品は今回の展示タイトル『O2 & H2O』と大きな関係があるようだ。作家は日常空間に存在する空気と水が「O2」と「H2O」で記号化されている点に注目したと言う。現実を5つの要素に抽象化し、彼女なりの方式で表現したということだろう。 一方『真実の複製』は、垂れ幕の間にスピーカーを設置した作品だ。スピーカーからは人工知能技術で複製された作家の声が流れてくる。東洋と西洋、生物と無生物の境界を問う作家が、今回は現実と仮想、本物と偽物の境界にも疑問を提議しようとしている。 ベルリンとソウルの間 1971年ソウル生まれのヤン・ヘギュは、1994年ドイツのフランクフルトに移住してシュテーデル美術大学(Städelschule)を卒業した。2005年からはベルリンに定着して活動しており、2014年にはソウルにもスタジオを開き、ソウルとベルリンを行き来しながら作家活動をしている。2018年にはアジアの女性美術家としては初めてドイツのウォルフガング・ヘッセン美術賞を受賞し話題になった。 コロナウイルス禍の2020年にも世界各地で彼女の作品を見ることができた。ニューヨーク近代美術館のリニューアルオープンを記念した展示の『ハンドル』(2019.10.-2021.2.28)や、そしてイギリスのコーンウォールのテート・セント・アイヴスでは、大規模展示『Strange Attractors』(2020.10.24-2021.5.3)に出品された。 2014年のイ・ブル(李昢)から始まったMMCAヒョンデ車シリーズは、国立現代美術館が中堅作家を支援するために企画した連作展だ。特に今回の展示は、当美術館が企画したヤン・ヘギュの最初の個展であり、40点余りの作品が展示された。

見えないものとの接続

Art Review 2020 SUMMER 1049

見えないものとの接続 国立現代美術館果川館が主催した「韓国ビデオアート7090:時間イメージ装置」は、1970年代から1990年代までの韓国ビデオアートの歴史を振り返る意義深い展示であった。ただし、2019年 11月28日から2020年5月31日までの開催期間中に、新型コロナウイルスの集団感染により、長期にわたって観覧が中止になったことは非常に残念であった。 韓国のビデオアートは、西欧と同じ時代に発展してきたが、そのような事実を知っている人々はさほど多くはない。また一般大衆にとってビデオアートといえば、世界的アーティストのナム・ジュン・パイク(白南準、1932~2006)のことしか知らない。「韓国ビデオアート7090」展では、ビデオアートの胎動期である1970年代からはじまり、このジャンルが本格的に熟成する1990年代までの韓国のアーティスト60人の作品130点が紹介された。観覧客にとっては、国内にビデオアートが定着していく全過程を理解する滅多にない機会として、今では国際的に有名になったアーティストたちの初期の作品を見ることができる興味深い機会となった。 『無題』パク・ヒョンギ(朴炫基)、1979 石14個、テレビモニター1台、260×120×260㎝(WDH)国立現代美術館所蔵 『テレビ仏陀』ナム・ジュン・パイク(白南準)、974/2002 仏像、CRTテレビ、閉鎖回路カメラ、カラー 無声、サイズ可変 白南準アートセンター所蔵 実験的美術 1970年代は、韓国現代美術の実験的かつ前衛的な運動が活発に展開されていた時期だった。軍部独裁という暗黒な政治的状況が逆説的に、芸術の前衛運動を触発した点は、非常にアイロニーといえる。ハプニング、設置、写真と映像を持ち込んだ一連の実験的な作業が旺盛に行われていた時代に、最初のビデオアート作業が何人かのアーティストにより先駆的に行われていた。 当時のアーティストたちは、ビデオを新たな独自の映像美学の表現媒体とするよりは、ほとんど前衛・概念芸術のための手段として受容した。代表的な事例がキム・グリム(金丘林)、イ・ガンソ(李康昭)、パク・ヒョンギ(朴炫基)などだったが、これらのアーティストたちは、ビデオという新たな手段を通して時間性、過程と行為、感覚と存在、概念と言語などに関連した事由を視覚化しようとした。例えば、国内の実験美術の先駆者キム・グリムの初期の作品『雑巾』(1974/2001)は、机を雑巾で拭く行為を見せるものだが、雑巾がけが繰り返されるほど、雑巾はどんどん汚くなり、ついには真っ黒になりぼろぼろになっていく過程が圧縮されて展開していく。 韓国での本格的なビデオ操作の先駆者としては断然、パク・ヒョンギをあげることができる。記録によれば、彼は1973年からビデオ作業に取り組んだという。一名『テレビ石塔』と呼ばれる『無題』連作は、実際に石を撮影した映像を一緒に配置することで自然と技術、実在と幻影、オリジナルとイミテーションの問題を探求している。彼は朝鮮戦争の避難の際に、人々が石を拾っては小さな石塔を積み上げて祈る様子を見て強烈な印象を受けたという。彼等にとって石は、物質でありながら同時に念願を投射する文化人類学的な事物でもあった。パク・ヒョンギの作品は、石に対する韓国人の巫俗信仰の片りんだと言える。観覧客は彼の作品を通じて、韓国の伝統美術に内蔵されている呪術性と巫俗性が先端テクノロジーの中で生まれ変わる様子を体験できた。 芸術的な転用 『グッドモーニング・ミスター・オーウェル』は、1984年1月1日に全世界に生中継されたナム・ジュン・パイクの衛星テレビショーを映像で編集した作品で、ビデオアートが韓国に本格的に知られる契機となった。ナム・ジュン・パイクは、自ら光を出すブラウン管が、ただの影に過ぎなかった写真や映画とは違う美学的な性質を備えていることに早くから注目していた。彼は若い頃は音楽を専攻し、実験的な現代音楽家として日本とドイツで活動し、1960年代初めにテレビを任意に操作することで、商業テレビ放送の一方的な情報支配構造を変化させる作業を展開した。1965年以降には、新しく開発されたビデオを初めて美術分野に活用することで、メディアアートの大きな流れを開いた。 テレビジョンに芸術的な可能性を見出したナム・ジュン・パイクは、その装置とイメージを変形させることで、もともとの設計目的とは違う用途に転用したが、彼のこのような想像力を「事物に与えられた機能や固定観念にとらわれずに、すべてを多機能的に解釈し活用してきた韓国人の柔軟で包容的な思考方式に起因したもの」とみる人々もいる。しかし、マルセル・デュシャンが便器を『泉』に変えたように、これは20世紀の現代美術の主な特徴の一つでもあった。 ナム・ジュン・パイクは、テレビという固定されたメディアを使い、造形的な実験だけではなく、哲学的な思惟を可能にし生命力を与えた。今回の展示では見ることができなかったが、単一の走査線で作られた『テレビ仏陀』(1974)は、瞑想的で祭儀的な初期の作品の特徴を示している代表作だ。長い台座の上にモニターが置かれており、その前に青銅の仏像がモニターに向かって座っている。モニターの後ろのカメラが仏陀を正面から撮影し画面に映し出す。仏陀は画面の中の自分を静かに見つめている。この設置作品は、東洋の宗教と西洋のテクノロジーを結合させたものだとして注目された。釈迦が瞑想を通じて修行した目的は、時間と空間を超越した絶対的な概念である「空」であったが、モニター上のカメラの映像は、抜け出ることのできない自分の肉体を反射している。ナム・ジュン・パイクの芸術的な貢献は、まさに東洋哲学や韓国の伝統思想を西洋のアバンギャルド精神に結合させ、現代アートの言語で造形化させた点だ。 『天地人』オ・ギョンファ(吳景和)、1990 テレビ16台、ビデオ&コンピュータグラフィック カラー、サウンド、27分4秒 作家所蔵 ビデオ彫刻 1980年代後半以降、ビデオ彫刻が新たな形式として浮上した。脱平面、脱ジャンル、混合媒体、テクノロジーなどに対する関心の中で本格的に展開されたビデオ彫刻は、1990年代後半まで続いた。最初は何個ものテレビジョンモニターを積み上げたり、重畳させる作品が主流をなし、1990年代中ごろ以降には、物理的な動きと映像の中の動くイメージを結合させたキネティック・アートのビデオ彫刻が現れた。その中でもキム・ヘミン(金海敏)、ユク・テジン(陸泰鎭)などのアーティストは、観念的で実存的な主題を扱っているという点でパク・ヒョンギやナム・ジュン・パイクと同一の脈絡に位置している。 キム・ヘミンは、メディアに対する深い洞察力をもとに仮想と実際、過去と現在、現存と不在の絶妙な境界を演出してきたアーティストだ。その初期の代表作である『テレビハンマー』(1992/2002)は、ハンマーが画面に振り下ろされるたびにグァーンという音とともに揺れ動くテレビモニターを通じて、実際と仮想の境界を行き来する独特な経験を与えてくれる。ユク・テジンは、古家具のようなオブジェと反復的な行為を撮った映像を結合させ、ビデオ彫刻の独創的な領域を開拓してきた。『幽霊タンス』(1995)は、二つの引き出しがモーターで自動的に閉じたり、開いたりの動作を繰り返すのだが、引き出しの中に設置されたビデオ映像には、背中を見せて階段を上り続けている一人の男の姿が映っている。これはギリシャ神話のシーシュポスのように永遠にどこかに上り続けなければならない人間、そしていくらジタバタしても不条理から抜け出すことのできない宿命を感じさせる。 韓国の巫俗がもつエクスタシーと超自然的疎通が、先端メディアであるビデオとつながっているという事実は非常に興味深い。 2. 『幽霊タンス』ユク・テジン(陸泰鎭)、1995 モニター2台、VCR、古家具、85×61×66cm(WDH) シャーマニズム的芸術 アーティストという存在は錬金術師だ。何でもない材料を使い、互いに組み合わせて新しい存在に生まれ変わらせる。彼らは物質の魂を詳しく読み取ることのできるシャーマンでもある。そうして石や木を人間に変形させたり、ありきたりの物質に魂を吹き込み生命が宿った存在にしてしまう。これは人間中心的な思考ではない、すべての物質を人間と対等な存在として見ているから可能なのだ。シャーマニズムはアニミズム的な世界観に基づいている。アニミズムは宇宙を構成するすべての生命体は生きているとみなす。そしてその存在を生かす力を神だとする。シャーマニズムとアニミズムは死と生、闇と光に分かれる二元性の分離と境界をなくしてしまう。シャーマニズムは死の世界と疎通し対話ができるようにする。芸術もまたシャーマニズムのように死と疎通するために、見えない世界を示すために、行けない世界に触れるために始まったものだ。それで私たちは芸術を通じて目に見えるものが支配する世界から抜け出すことができるのだ。 韓国の巫俗がもつエクスタシーと超自然的な疎通のイメージが、先端メディアであるビデオとつながっているという事実は、非常に興味深かった。それは韓国ビデオアートの魅力的な部分だと言える。その事実を今回の展示が気づかせてくれた。

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