38度線の南側に位置する「西海五島」は、軍事的に大変敏感な地域であり、南北(韓国と北朝鮮)間の問題が浮上する度に必ずニュースに登場する。ここは、北朝鮮が見渡せる地域として多くの人々の関心が集まってはいるものの、容易に足を運べないところでもある。しかし、かつてはこの海路を通じて中国との交易が活発に行われたり、カトリック教の宣教師が行き来したりもした。
「西海五島」の中で最も面積の広い白翎島にある入り江、頭武津には、海岸線に沿って奇岩絶壁が4kmにわたって広がっている。北朝鮮と向かい合っているため軍事的緊張感の高いところであるにもかかわらず、多くの人がその神秘的な風光に惹かれてこの島を訪れる。今年の7月、白翎・大青・小青島の地質名所10カ所が国家地質公園に指定された。
言語は現実を反映する。一定の地域内にある多数の島々を指す「群島」という単語は、古代はエーゲ海を意味する言葉だったが、次第にエーゲ海にある数多くの島々を指す言葉へと変わっていった。このような語源学的な探求は、ある特定の時期からギリシャ人がエーゲ海の島々を注目すべき価値のある場所として認識し始めたことを示唆する。
1950年に勃発し莫大な犠牲を払った朝鮮戦争は、1945年の第2次世界大戦の終結後に、アメリカとソ連が画定した国土分割占領ライン、つまり北緯38度線周辺の交戦線を軍事境界線(MDL)とする休戦協定が締結され、3年間の戦争に終止符が打たれた。当時、沿海島嶼や海面に関する統制権は戦争勃発前の状態に戻したが、緯度上、軍事境界線のはるかに北に位置する西海の白翎島(ペンニョンド)、大青島(テチョンド)、小青島(ソチョンド)、牛島(ウド)、延坪島(ヨンピョンド)だけは国連軍の管轄下に置かれ、西海の南北境界として位置づけられた。それからしばらくして、当時の国連軍総司令官が南北間の軍事衝突を防止する目的で、この五つの島と北朝鮮の黄海道の間の海上に北方限界線を設定した。
これは38度線以南にあった手前の黄海道甕津(オンジン)半島を引き渡した状況の下でも、最後まで必死に防御線を守り抜いた結果だった。この時からさほど関連性のないように見えたこの五つの島を一つにまとめた「西海五島」という新しい用語が登場したのである。それでは、この五つの島に付与された「注目すべき価値」とは一体何なのだろうか。
白翎島(ペンニョンド)の北西に位置しているサハン浦では、今でも漁船の操業が行われており、ここでは主にイカナゴがたくさん捕れる。
対立から和解へ
西海五島へ行く唯一の方法は、仁川港から出発する旅客船に乗ることである。小青島と大青島を経由して白翎島まで運行する船は一日に3回、延坪島まで運行する船は一日1、2回それぞれ往復している。仁川から最も遠く離れた島である白翎島までは、平均30ノットの高速フェリーで4時間ほどかかる。つい最近までは一日に1往復しか運航せず、しかも12時間もかかっていた航路を考えると、これでも大きな変化ではある。しかし、高波の日はスピードが出せず、海霧や風による欠航も頻繁に起こる。延坪島は白翎島より距離的にははるかに近いが、事情は他の島とほとんど変わらない。
住民が中和洞の海辺で収穫した昆布を干している。この村には、国内で二番目に古い長老派教会がある。
仁川から船で約200キロも離れている白翎島だが、地図で見るとはるかに近いところに北の領地、長山串(チャンサンゴッ)からはわずか16kmしか離れていない。延坪島はこれよりもっと近い距離に、10キロ離れたところにブポリという小さな入り江がある。問題は長山串、ブポリいずれも北朝鮮の領土だということである。ここで操業する漁民は、「霧が濃い日、船路から外れて北方限界線を越えて北朝鮮の水域に入り、慌てて引き帰した」というエピソードの一つくらいは誰しも持っている。これが西海五島の一つ目の「注目すべき価値」である。
北朝鮮の立場からするとこれらの島々は、脇腹に突きつけられた合口のようなものである。白翎島から平壌(ピョンヤン)までの距離が150kmに過ぎず、延坪島からは海州(ヘジュ)にある北朝鮮最南端の海軍基地を肉眼で観測できるので、気になるのも当然である。実際にここ数年間、南北間の軍事衝突はすべてこの地域で発生している。40カ所余りの近代化された民間避難施設が、この島々の戦略的要衝としての重要性を示している。
しかし、緊張と対峙が激化すればするほど、平和と和解への願望も益々強くなっている。毎回期待通りにはいかなかったものの、昨年行われた南北両首脳が発表した板門店宣言は、その願望を募らせる引き金となった。この宣言を機に、今年4月からはこの地域で夜間の漁労活動が55年ぶりに再開され、操業可能な漁場も著しく増えた。また、6月30日には米国、韓国、北朝鮮の3カ国の首脳が板門店で一堂に会し、停戦状態から平和体制への転換を約束した。
この一連のニュースは、長い間忘れかけていた昔の話とともに、国土分断後、十分に享受できなかったこれらの島々の風光明媚と島独特の文化的価値を改めて浮上させた。観光客誘致のためにこれらの島々が掲げた「行きたい島!留まりたい島!」というキャッチフレーズをみて、初めて現実感を覚えた。
朝7時50分、両手と背中にいっぱいの荷物、そして期待を抱いた人々を乗せた白翎島行きの船が静かに仁川港を離れた。今日の昼食は、白翎島冷麺とキムチ餅?それとも、エイの稚魚を煮込んだパルレンイ蒸しと新鮮な一皿のナマコ?
西海防御の最前線
地理的にソウルの北側を取り囲んでいる黄海道(ファンヘド)は、平地が多く陸地の外郭防御という側面からは、十分な役割が果たせなかったのだが、海岸防御となると状況が異なる。この地域は5世紀の三国時代から朝鮮半島の西側海岸に沿って中国の遼東地域に至るまでの北部沿岸航路において中核的な役割を担っていた。
そのため、高麗末の14世紀前後から16世紀の朝鮮中期まで倭寇の侵略による海岸地域での略奪が頻繁に発生し、明から清への交替に伴う混乱が激しかった朝鮮時代後期には、混乱の隙をついた海賊の群れが海に出没することもあった。周辺情勢が安定した18世紀以降は、清の密漁漁船と住民間の衝突が多発し、また清と朝鮮商人の間で密貿易が横行した地域でもある。中国山東省までの距離が187㎞に過ぎず、仁川よりも山東省の方が地理的に近かった白翎島は、長い間様々な摩擦と貿易の最前線だったのである。
朝鮮政府は侵入者を監視・追捕するために主要な沿岸の浦に陣を張ったのだが、これらの陣は次第に港から岬へ、さらには島へと移行した。内陸には阻止線に適した山岳や要塞がなかったため、外敵が海から上陸する可能性を事前に排除するための処置だった。白翎島に最初の陣が張られたのは17世紀初期で、すでに11世紀高麗時代からここには白翎陣と呼ばれる軍事基地があった。ここを通過して長山岬に着くと南と北のいずれの沿岸へも進める航路が広がる。農地が広く、兵士が駐留している間自給自足できるという利点もあった。現在も白翎島には海兵隊が駐留しており、兵隊と住民の食糧の確保は島で十分可能である。そのためか、今でもこの島には漁業より農業に従事する住民の方がはるかに多い。
白翎島海岸のフェンス越しに北朝鮮の陸地が見える。朝鮮戦争以来、南北間で最も激しい軍事的衝突の殆どが、この地域の近海で発生している。
カトリック教伝来の道
白翎島の住民は、古典小説『沈清伝』の主要な背景である印塘水が、この島の北西側の海だと信じている。供養米三百石を仏様に供養すれば盲の父の目が見えるようになると聞いた沈清は、純潔な処女が印塘水の航路安全祈願のいけにえとして入水すれば災厄を免れられると信じていた南京の商人が、その犠牲となる処女を探しているといううわさを聞いて自分の身を売る。島の住民は、沈清が身を投じた小説の中の柔利國の印塘水が、白翎島にある鎮村里の近海だと信じているのである。彼女の孝心を褒め称えるために白翎島の住民は、印塘水が見渡せる鎭村里に「沈清閣」を建てた。
『沈清伝』は作者未詳の民話小説であるためこの物語が事実である可能性は低いが、白翎島と長山串の間に広がる海は、商人に恐れられるほど波の荒々しいところだったことは明らかである。南北に流れる沿岸海流と東西を行き来する潮流が随時重なるうえ、暗礁も多く、昔から船舶の沈没事故が多発した。英祖(ヨンジョ)時代の1771年には、海上で軍事演習をしていた軍船が沈没し、水軍が命を落とす事故が発生。王が直接長山串を基準に以南と以北に地域を分け、別々に訓練を行うよう規定を変更したほどである。あいにくここは、2010年に北朝鮮の潜水艦艇の魚雷攻撃で韓国の哨戒艦「天安(チョンアン)」が沈没したところでもある。
中国の山東半島から白翎島を経由して漢陽(ハンヤン)や開城(ケソン)を行き来する経路を歴史に残した代表的な人物は、朝鮮最初のカトリック司祭、金大建(キム・デゴン、1821~1846)である。1845年、中国の上海で司祭になった金大健は、翌年に第三代朝鮮教区監牧(朝鮮教区長)だったフェレオル(Jean Joseph Ferreol、1808~1853)司教から西海の海路を宣教師の入国路として開拓するよう命じられた。当時、朝鮮では外勢からの門戸開放の要求に対抗し、カトリックを邪教と位置付け弾圧が加えられていた。5月14日、他の信者たちと麻浦(マポ)を出発した金大健は、5月29日に白翎島にたどり着いた。そこで、彼は清国の漁船と接触し、朝鮮の地図2枚と6通の書簡を渡した後、帰国の途中の6月5日に逮捕された。朝鮮政府は同年の9月16日に金大建を処刑、1984年、ローマ法王庁は彼を聖人として宣言した。
西海五島には教会がとりわけ多い。常住人口5,700人余りの白翎島には教会が13カ所もあり、信徒は島住民の75%以上を占めている。白翎島にある中和洞教会は、韓国で二番目に建てられた長老教会である。1898年、朝鮮政府の伝道と教会設立に対する制限が解除され、この地域のキリスト教の信者が漢学塾を改修して草屋24畳(中京間、約39.6平方メートル)の教会を建てたのがその始まり。その隣にある白翎キリスト教歴史館には、19世紀初からこの島と島周辺で展開された初期キリスト教宣教の史録が展示されている。
西洋木綿ブームの中心地
1876年に締結された江華島条約(日朝修好条規)によって朝鮮が開港を開始するまでは、貿易はすべて政府によって管掌されていた。だからといって、それまで密貿易がなかったわけではない。朝鮮初期、釜山の倭館や対馬で密貿易が行われていたが、主な取引品目は日本の商人が運んできた銀や朝鮮の高麗人参であった。19世紀に入ってからは、長山串付近が清の商人と朝鮮商人間で密貿易が行われる中心地となった。当時の主な取引品目は、朝鮮の紅参と清の商人が持ってきた西洋木綿だった。アヘン戦争を経験した清では、アヘンの解毒剤としての紅参の人気が高く、朝鮮では伝統方式の手織り木綿より英国やインド産の機械織り木綿の方が品質が良いという評判が広がり、西洋木綿がブームとなった。
開城の商人はもちろん、ソウルの資本家も先を争って紅参と西洋木綿を取引して大きな収益をあげた。取引現場となった白翎島や小青島などでは、緩い警備の中でも官憲が不法取引をする貿易商を逮捕することが多く、彼らは互いに詐欺にあったと言い争った。その後、開港以来、朝鮮の経済を大きく揺るがした西洋木綿を取り巻く商圏は、日本の商人にとって代わった。19世紀の半ば、密貿易で韓国人の衣生活に新しい風を巻き起こしたところが白翎島沖だったという歴史的な事実も次第に忘れられていった。
西海五島の観光の白眉は何といってもあの風光明媚である。白翎島の頭武津をはじめ、どの島を訪れても海岸沿いに切り立った絶壁が連なる絶景が広がる。それだけではない。ここには小型航空機が離着陸できるほどの固い砂浜もある。地質学者は、このような神秘的な風景が、先カンブリア時代に形成された3つの陸塊が造山運動によって長い時間をかけて徐々に現在の位置に移動し、朝鮮半島が作られる過程でできたものだと信じている。つまり、衝突時に発生した莫大なエネルギーが地殻変動を起こし、奇異な形に変形した新しい岩石の塊をつくり出したというのである。このような理由から、今年の7月、韓国の環境部は白翎・大青・小青島の地質名所10カ所を国家地質公園に選定した。
白翎島北側のクァンチャン洞にある村。かつてここは、貿易商が中国から運んできた品物を村の近くの入り江で荷下ろしした後、保管した場所である。
仁川(インチョン)港で1日に3回運航する超快速船に乗れば、4時間ほどで白翎島のヨンギ浦新港にたどりつく。休暇帰りの軍人をはじめ、住民や観光客が船から降りている。
最近の一連のニュースは、長い間忘れかけていた過去の出来事とともに、国土分断後、十分に享受できなかったこの島々の風光明媚と島独特の文化の価値を改めて思い浮かばせた。観光客誘致のために、この島々が掲げた「行きたい島!留まりたい島!」というキャッチフレーズをみて初めて現実感を覚えた。
また、西海五島は植物地理学的にも南方と北方の限界地域であるため、両地域の植物が混在しているという特性も合わせ持っている。特に、中でも大青島は椿自生北限地帯であるだけでなく、ヒオウギモドキ(アヤメ属のアイリスの一種)やオオハナニラなどの植物が自生する地域で、学界から多大な関心を集めている。
さあ、ここらへんで頭を休めて、そろそろお昼にしよう。黄海道冷麺は、平壤冷麺のように牛肉のスープに鶏肉やキジ、豚肉のスープをを混ぜるのではなく、豚肉のスープだけで作る。一見味の薄そうなこの黄海道冷麺に、醤油ではなくイカナゴのエキスで味付けをするのが白翎島冷麺の特徴なのだ。そば粉で打った麺なので(そば粉が7割以上)、口の中で簡単に噛み切れる。そこに柔らかい豚のゆで肉一皿と黄海道流の餃子や緑豆チヂミが加わると、一連の食事の完成だ。冬場に漬けたキムチに牡蠣やイガイを入れて作った餃子の形をした「キムチ餅」は、冬が旬の食べ物なのでまた次の機会にでも。すべての食材は現地調達である。「行きたい島!留まりたい島!」の妙味が口の中に広がる。
イ・チャンギ李昌起、詩人・文芸評論家
安洪範写真