鳥も飛び越えるのがきついほどの険しい峠。南から攻めてくる敵を防ぎ、都を守るための国防の要塞。これらは聞慶(ムンギョン)セジェがもたらすイメージだ。古くから嶺南(ヨンナム)地域の関門の役割を担ってきた慶尚北道聞慶の峠道を歩いてみた。
嶺南大路の稜線で最も高い山、主屹山の「釜峯(ブボン)」から見下ろす聞慶セジェ。ソウルから車で1時間40分の距離に位置する聞慶セジェの歴史は、三国時代にまでさかのぼる。昔から交通の要衝であり戦略的にも重要な拠点だった聞慶セジェは、今でも美しい自然と文化を誇っており、遺跡地を訪れる観光客で賑わっている。
韓国語でよく使われる「分水嶺」という言葉は、「分水界(drainage divide)」と同じ意味である。国土全体の7割を山地が占める朝鮮半島で水系を分ける分岐点は、たいてい峠のように高い所にあったため、その分かれ目を「嶺」とした言葉が分水嶺なのだ。
高嶺と分水嶺が連なっているのが韓国の山脈である。そして、興味深いことに、その分水嶺から分かれる水路で山脈の位相が決まる。つまり、峠で左右に分かれたそれぞれの水路が再会することなく別々の河口、あるいは海へと流れていけば、その分水嶺の品格は一層高まるのである。朝鮮半島の北端に位置する白頭山からこのような品のある分水嶺に沿って、南の智異山に至るまでの1,600キロ以上の距離。この大きな山脈を「白頭大幹(ペクトゥデガン)」と称する。韓国人はこの山の尾根に沿って縦走することを大きな名誉とする。
近代の縮尺の概念を適用して、細密な地形度を仕上げた朝鮮時代の地理学者・金正浩(キム・ジョンホ、1804~1866?)は、晩年に白頭大幹の山脈や河川、里村を龍や太極の形状で描いて、もち運びのよい地図を木版刊行した。これが『大東輿地図(1861)』である。地図を製作した背景には、白頭大幹を朝鮮半島の自然地理の象徴、ひいては母国の文化や社会、歴史や環境を理解するベースと位置付けた彼の自然観があった。「愛国歌」(韓国の国歌)の第一小節に白頭山が登場し、小学校をはじめ中学・高校・大学の校歌に例外なく近隣の山の精気を受け継いだことを強調する内容の歌詞が書かれているのも同じ脈絡だといえよう。
聞慶セジェの第1関門主屹関は、文禄の役と丙子の乱以降、この地域の軍事的要衝としての価値が改めて認識され、1708年に鳥嶺山城築城の際に造られた。
三国の激しい角逐が続いた5世紀頃に築造された長さおよそ1.6㎞の姑母(コモ)山城。今ではそのほとんどが壊れ、一部だけが残っている。城壁の上からは周りの絶景が見下ろせる。
来世と現世をつなぐ道
韓国中部地方の内陸に位置する忠州(チュンジュ)の水安堡(スアンボ)から南東に向かって、車でおよそ20分ほど走ると、たどり着く旧陶窯址(トヨジ)。ここに車を停めていくつかの曲がり道を歩いて行くと、そこには壊れかけた石塔と巨大な弥勒の石像のある古いお寺がある。高麗時代の威容を誇る弥勒大院の敷地。現在、弥勒の石像は補修作業が行われている。無情感にかられて、立石を目指してハヌル峠(ハヌルジェ)へと足を運ぶ。曲がりくねった山道。鬱蒼とした森ではあるが、威圧感はない。安らかでこじんまりとした道を歩いているとおのずと歩みは遅くなり、妙に余裕ぶった奇異な形状をした木や岩の狭間に咲いている野花に視線がとまる。息が荒くなるころ、やや低めの峠が現れるのだが、ここが韓国の史料に登場する最古の峠、「ハヌル峠」だ。下り道の向こうに聞慶が広がっている。この峠に降り注いだ雨が聞慶へ流れると洛東江(ナクトンガン)、忠州の方に流れると、あの漢江(ハンガン)になるのである。忠州には来世を意味する「弥勒里」、聞慶には現世を意味する「観音里」がある。今でも観音里の街道のあちこちに石仏が立っているが、あいにくその道は、今やほとんどアスファルトで覆われている。
ハヌル峠の旧名は「鷄立嶺(ケリプリョン)」、つまり「立っている鶏の形状をした峠」である。朝鮮の史書『三国史記』(1145)には、「西暦156年の4月、新羅の阿達羅(あだつら)王が、鷄立嶺への道を切り開いた(阿達羅尼師今 三年 夏四月 開鷄立嶺路)」という記録が残っている。しかし、歴史学者はこれに対しては慎重な姿勢を示しており、紀元前からこの地域で生活を営んでいた部族国家が、交通路としてこの峠をつくったと推定している。百済・高句麗・新羅の三国が、朝鮮半島の中央を貫通する漢江を水路として確保するために、この地域をめぐって数百年間争い続けたのは事実ではあるが、当時の新羅は、慶州(キョンジュ)を中心とする小国に過ぎず、王権も衰退していたからである。だが、主要な国境への玄関口とはいえ、いつも軍人であふれていたわけではない。この峠は、昔から北と南で生産された物品が往来する玄関口であると同時に、阿道和尙という高句麗の僧侶が初めて新羅に仏教を伝播するために通った道でもあったのだ。阿道和尙がこの峠を越えて布教したと伝えられる亀尾(クミ)に位置する毛禮(モレ)という町は、今日新羅時代の仏教の聖地として名高い。
大きな野心を抱きハヌル峠を越えて、北への旅に出た新羅人がたどり着いたのは、文化・芸術の黄金期を迎えた唐。慶州から唐の首都である長安に到達するためには、いくつもの都市を経由して、聞慶からハヌル峠を越え、忠州から漢江の水路を利用して西海岸まで行き、唐恩浦からは船に乗って北沿岸の航路を利用するのが、最も安全な経路だった。
記録によると、新羅の僧侶である元暁(617~686)と義湘(625~702)は、この道を少なくとも2回は往復したと伝わる。650年、34歳の元暁は義湘とこの峠を越えて、当時流行っていた唐への留学に出たが、遼東で高句麗の国境守備隊に捕まって追い返される。その10年後、元暁は再び義湘と唐への留学を試みるのだが、唐恩浦で船を待っていた元暁は突然義湘と別れて戻ってくる。彼が枕元では甘く飲めた水が、実は骸骨に溜まっていた雨水だということを起きた後に知り、「すべてのことは人の心のもち方次第である(跋文)」という悟りを得たというあの有名な逸話が『海東高僧傳』(1215)に伝わる。そののち元暁は、唐文化の最盛期にその独自の思想で、韓国仏教史に偉大なる足跡を残した。また、義湘は唐での留学から戻り、新羅仏教の盛行を導いた。
935年、最後の新羅王・敬順王は、国運が傾くと高麗に降伏した。高句麗に帰依して首都開京(開城の高麗時代の名)で晩年を過ごした敬順王も、また、降伏に反対し金剛山の山中に篭って新羅再建を目指しながら、そこで一生を終えた息子の麻衣太子も、志は違えども両者ともこのハヌル峠を越えた。そして、二度と戻ることはなかった。
1594年、中城が築城される際に造られた第2関門「鳥谷関」。聞慶セジェの関門のうち最も早く造られ、他の関門に比べて険阻な山地に位置している。
より至険な峠道へ
高麗時代の弥勒大院は、公務で旅に出た官人や旅人に食事と宿を提供していた駅家の管理・代行をした寺院であり、人気の旅先でもあった。金賆という人物の妻・許氏(1255~1324)の墓碑からは、当時の雰囲気をうかがい知ることができる。許氏は夫が亡くなると、お墓の近くにお寺を建てて金・銀で写経するなど、夫の冥福を祈るために10年以上も法事を務めた。彼女は57歳になると旅に出て、名の知れた寺院や山巡りをしたのだが、当時、彼女が礼拝した代表的なところが、この弥勒大院の石仏なのである。仏教を国教とし、男女の社会的な地位が比較的平等だった高麗時代には、女性の聖地巡礼は珍しいことではなかったのである。
ハヌル峠から南の方に40分余り山道をのぼると、炭項山の頂上にたどり着く。ここからなだらかな稜線に沿っていくつかの峰を通ると、連なる山々の間に聞慶セジェの第3関門である鳥嶺関が見下ろせる。ここもまた分水嶺で、峠に降り注いだ雨水が北西方向の忠州へ流れると漢江、南東方向の聞慶へ流れると洛東江と合流する。鳥嶺関から聞慶方向に第2関門の鳥谷関を通って第1関門の主屹関へとつながる道が、忠州と聞慶をつなぐあのセジェ道である。ハヌル峠から稜線に沿って歩くとセジェまで6時間余りかかる。
聞慶セジェは、朝鮮が建国初期に大々的に開拓して以来500年間、漢陽と東来、つまり現在のソウルと釜山(プサン)をつなぐ嶺南地方の交通の要衝であると同時に、峠としてもその名を馳せた。ではなぜ朝鮮は、千年以上も利用してきた平坦な稜線からなるハヌル峠ではなく、海抜が100メートル以上もあって険しいセジェを新たに開拓したのだろうか。
儒林の道
ハヌル峠には、租税で収めた穀物などを運ぶ漕運船が往来していた漢江の水路とつながった交通路だという利点があった。しかし、一時日本を脅かしていた元と高麗が衰退期を迎えると、海には倭寇が跋扈した。倭寇の略奪行為が日常化するにつれ、水運も次第に弱体化していった。モンゴルと紅巾の賊からの侵略に耐えられず、防御線としてのハヌル峠の役目も色あせてしまった。一方、セジェは敵からの防御に有利な険路であった上、陸路としても近道だったのである。
倭寇は朝鮮初期まで頻繁に出没した。朝鮮3代君主である太宗(在位1400~1418)は、武力と貿易という二つの手段を使って倭寇の挑発を抑制する一方で、通信と交通の円滑化のために全国を四方八方につなぐ大道を構築し、一定の街角に兵士を駐屯させ、馬や寝食を提供する駅站制度を設けた。大きな山を越えたところや川を渡る自然拠点に、駅や院を設置していた高麗とは違って、朝鮮では3里ごとに駅を、1里ごとに院を体系的に設置した。聞慶セジェが嶺南大路の一部になったのもこの頃からである。セジェのおかげで、他の峠を利用するより移動時間が短縮した。大路といっても、二人が横に並んで歩くと肩がぶつかるほどの幅に過ぎなかったが、牧畜を営んでいなかった農業国では、しかも常に敵の侵略に備えなければならなかった国にとって、この程度の陸路があれば十分だったのだ。
ただし、この道を開通する際に、なぜ防御のための城壁である関所を設置しなかったのかは疑問である。このような油断からか、1592年に日本軍が朝鮮を侵略し破竹の勢いで北進する際に、天恵の要衝であるセジェ峠の峡谷で防御しきれず、忠州で騎馬戦のあげく敗北してしまった。これは宣祖(1552~1608)が都を捨てて逃げる直接のきっかけとなった。翌年、領議政(ヨンイジョン、朝鮮における議政府3議政の一つで、正一品にあたる最高の中央官職。現在の大韓民国の国務総理にあたる)柳成龍(1542~1607)の提案で、セジェ峠に防御のための第2関門が設置されたが、今日のような三つの関門が完成したのは、丙子の乱以後の18世紀初期である。しかし、その後は深刻な戦乱はなく、辺境の警備や使者往来のための関門の役割にとどまった。
高麗も朝鮮も外勢の侵略による衰退は避けられなかったが、その道の上で営まれた暮らしの様相にはかなり相違があった。儒教国家だった朝鮮の10の都市のうち半分がこの嶺南大路に跨っているおかげで、セジェは朝鮮の文化がうかがえる象徴的な峠となった。官吏の登用試験は高麗時代にもあったが、朝鮮時代には定期的に科挙(官吏の登用試験)が実施された。この試験に合格することが立身出世の証だったため、嶺南地方で儒学を修業した人士の殆どは、官吏登用という大きな夢を抱いてこの道を通過した。つまり、彼らの帰郷の道は錦衣を着て故郷に還る祝福の道であったと同時に、恥辱と嘆息の道でもあったのだ。
またこの道は、儒林が朝廷に諫言や陳情のために赴く「上疏の道」でもあった。儒林の本場である安東の儒生たちが上訴文を所持し、出発から聞慶セジェを越えるのに4日かかり、朝廷にそれを伝達して解釈をうけて戻るまでには、3カ月もかかった。また、王の特命を受けて、身分を隠したまま地方監察に行く暗行御使(李氏朝鮮において、地方官の監察を秘密裏に行った国王直属の官吏)、政府の文書を伝えに行く官吏、名勝地に遊覧に出かける風流客で、聞慶セジェ付近の駅院や酒幕(旅人が飲食や宿泊をする施設)は混雑していたであろう。第1関門と第2関門の間には東屋があるのだが、ここでは新たな赴任と離任する慶尚道観察使の官印の引き継ぎが行われた。この東屋の前には、文人墨客たちがよく訪れる小さな滝もある。
聞慶セジェを通る特別な客としては、日本を行き来していた朝鮮通信使を挙げることができる。文禄の役の傷を乗り越えて、両国の交流を促すためにつくられたこの外交使節団は、400~600人余りの朝鮮の学識者と文化人で構成された。使節団はソウルを出発しいくつかの都市を経由し、聞慶セジェを越えて釜山に到達した。彼らの宿泊費はすべて地方行政の負担だったので、朝廷では行きと帰りの道を別々にして費用を分担するように規定していた。
大路といっても、二人が並んで歩くと肩がぶつかるほどの小幅に過ぎないが、牧畜を営んでいなかった農業国では、しかも常に敵の侵略に備えなければならなかった国にあっては、この程度の陸路さえあれば十分だった。
嶺南大路で最も険しい道で知られている「トキビリ」は、崖を削り、岩を割って完成した道で、片方には切り立った崖があり、その下を穎江が流れている。今では2㎞ほどしか残っていないが、そのうちの半分だけが通行可能である。数百年の間ここを通っていた人々の往来で岩道がつるつるにすり減っている。
名もなき人々の道
第3関門からいくつかの岩山を越えた後、階段の多い急な上り坂を1時間半ほど登ると、海抜1,026メートルの鳥嶺山の頂上にたどり着く。ここで南へ3キロほど下ると梨花嶺だ。ここもまた、槐山(クェサン)の方へ流れると漢江(ハンガン)に合流し、聞慶の方に流れると洛東江に合流する分水嶺である。梨花嶺の道は険しく、山獣による被害も多かったため、一人では到底越えられない峠だった。慶尚道(キョンサンド)の聞慶と忠清道(チュンチョンド)の槐山(クェサン)を東と西に結ぶ唯一の道だったので、昔から存在したことは確かではあるが、その根拠となる史料はない。ただし幼い頃、梨花嶺を越える行商人や牛の群れを率いて峠を超える牛飼いを見たことがあるというお年寄りの目撃談からすると、ここが忠州に行く際にセジェの迂回路として利用された道だと推測するだけだ。
安全かつ宿泊施設もよく整っているセジェ道があるにもかかわらず、わざわざ同行人まで集めてこの道を迂回した人々は一体何者だろうか。全国の市場をまわりながら品物を売っていた行商人だったのだろうか。彼らにとっては、難癖を付けては金品を奪い取ろうとする捕吏があふれているセジェ道より、山獣の鳴き声を聞きながらみんなと一緒に越える梨花嶺の山道の方が、かえって善策だったのだろうか。歴史の中における彼らの身分は決して尊敬を受けるものではなかったが、彼らは並々ならぬ機動性と結束力で、国が危機に直面する度に骨身を惜しまず、先頭に立って戦った。
セジェやハヌル峠とは違って梨花嶺古道は、日本植民地時代の1925年に嶺南とソウルをつなぐ新道として開通し脚光を浴びたが、1994年に梨花嶺トンネルが、2001年には中部内陸高速道路が沿道に開通し、今や登山客や自転車同好会の人々が行き来する閑静な道と化してしまった。
この三つの道のうち、あなたはどの道を歩いて旅行を楽しみたいですか?
弥勒大院の敷地にある高さ10.6メートルの花崗岩石造如来立像。すぐ前には高さ6メートルの五層石塔と八角石灯籠も建っている。高麗時代初期に建てられたと推定されるこの弥勒大院は、当時、寺院と駅院の役割を兼ねていた。
イ・チャンギ李昌起、詩人・文芸評論家
安洪範写真