イン・スニはトロット、ソウル、ダンスのすべてのジャンルをカバーし、大韓民国で一番歌のうまい歌手だと言われている。80年代に得たダンシング女王という名声に、圧倒的な歌唱力、本人の人生体験を背景にした深い洞察力が歌に深い解釈力を与え、まさに「国民歌手」と呼ぶにふさわしい。
歌手イン・スニ。彼女は「最高という言葉は存在しない。まだ歌の勉強の途中だ」と言う。
まずオンマの話から始めよう。韓国の週末はオンマ(母)を主人公にしたホームドラマが花盛りだ。KBSの『お願いオンマ』そしてMBCの『オンマ』はどちらも家族のために献身する母親が主人公だ。視聴者はそれぞれ自分の母を思い浮かべながら涙を流す。その中でも特に『オンマ』が人気を得ているのには、その挿入歌も一役買っている。「遥か遠き道を歩き/人生の中間点を過ぎて」という歌詞で始まる『あんなにも美しかったのに』は、冬枯れの木漏れ陽のように凄然としている。甘く清雅な音色と叙情的でドラマチックなメロディ。正直に告白すると、私はイントロの一小節を聞いた瞬間、この曲のファンになってしまった。あふれるような感情の高波に心の小船が大きく揺らいでしまったのだ。歌手イン・スニ(本名、金仁順)の底力を改めて確認した瞬間だった。
インタビューに現れた彼女は生気に満ちていた。数え年で60歳だということを信じる人はいないだろう。タートルネックに綿パン、そしてスニーカーをはいていた。銀色の髪の毛がカフェのグレーの壁と妙に調和していた。彼女にとってオンマとはどんな存在だったのだろうか。
「将軍でした。留まることを知らず、何事も真正面から突き進んでいくスタイル。倒れてもまた立ち上がる人でした」
そんな母は10年前に二度と帰らぬ人となった。イン・スニは「私なりには親孝行娘だと思っていましたが、亡くなってみて、もっと良くしてあげれば良かったと思うばかりです」と語る。
差別に打ち勝ち
イン・スニは韓国の大衆歌謡史に特別な位置を占めている。混血児に対する冷遇と差別を克服し、ただひたすら実力でトップまで駆け上った唯一の歌手であるからだ。1978年ガールズグループ『ヒチャメ(Hee Sisters)』でデビューした彼女は、1983年ロックンロールのダンス曲『夜は夜毎に』で人気歌手の隊列に加わった。以後10年間はヒット曲に恵まれず、ナイトクラブの舞台を転々とし、1996年『また』で「起き上がり小法師(こぼし)」のようにまた立ち上がった。以後、ラッパーのチョPDとのデュエット曲『友よ(2004年)』、バラード風の『ガチョウの夢(2007年)』、『アボジ(2009年)』が相次いでヒットし第2の全盛期を迎えて今日に至っている。これまでに14枚の正規アルバムなど合計19枚のアルバムを発表している。
イン・スニは1957年在韓米軍だったアメリカ人の父と、韓国人の母との間に生まれた。彼女が幼い頃にアメリカへ帰った父はそのまま二度と戻ってこなかった。「互いに愛しあい、時には憎みもし/誰よりも大切にしてくれたあなたに会いたい」と歌う彼女の代表曲『アボジ』が特別な理由がここにある。この曲は2011年、有名なプロ歌手が一般市民からなる評価団の審査を受けるというサバイバル歌番組『私は歌手だ(MBC)』でイン・スニが歌い広く知られるようになった。さらに、有名歌手とその歌手の物まね名人がブラインド競演をする『本物は誰だ—HIDDEN SINGER3(JTBC)』のイン・スニ篇でも物まね名人たちの涙の競演で再び話題となった曲だ。
『アボジ』は韓国(朝鮮)戦争の参戦勇士107人を招いた2010年ニューヨークのカーネギーホールでの公演で喝采を浴びた曲でもある。イン・スニはこの日「もしも韓国に私のような娘がいるかもしれないと思い、胸を痛めている方がいたならもうそのような心配はしないでください。皆、それぞれの人生で最善を尽くしており、皆様みんなが、私のアボジです」と挨拶し聴衆の目頭を熱くした。
『アボジ』もまた詩的な歌詞とドラマチックなメロディが特徴だ。そしてこの歌のサビは最後の「そう私が愛してきた」の部分だ。イン・スニはこの曲を簡単には終われないとでもいうように「あい・し・て」の三音節にそれぞれポーズを置いたあと「きた」という前にため息をつくように短い嘆息を漏らす。巨匠の境地とでも言おうか。この部分で聞いていた私は思わず息を飲んでしまう。
「その部分は私も毎回、同じように歌えません。雨が降る日の感情と、太陽が輝く日の感情が違うように、夜歌う時と、昼歌う時が違い、聴衆に男性が多いときと、女性が多いときが違います。気を緩めると涙声になってしまいます。気を引き締めると今度は歌がうまくいかず。それで時には歌いたくないときもあります。自分自身をコントロールできないからです」
ガチョウの夢
彼女の最も大衆的なヒット曲はリメイク曲で、『ガチョウの夢』が発表した同名の原曲を彼女の新たな曲解釈により発表から10年目に日の目を見た曲だ。「私、私には夢がありました」で始まるこの曲は超低音と超高音を行き交う高難度の曲として有名だ。
「練習のときに本当に何度も涙を流しました。辛い日々の記憶のせいです。それまで私も夢というものを考えたこともほとんどありませんでした。ただ一所懸命に働き、金を稼ぐという思いだけでした。どんな風に人生を生きるのか、私はこれが夢だと思います。その夢を若者たちに話頭として投げかけたいと思い、それが当たったようです。この曲のおかげで放送にもずいぶん出演しお金も稼ぎました(笑い)」
ヘミル学校の基金作りのための「チャリティ音楽会」の舞台で熱唱するイン・スニ。彼女は多文化家庭の青少年の代案学校ヘミル学校の理事長だ。
逆境の中でも夢を忘れずに堂々と生きていくんだという人生の応援歌風のこの歌にはイン・スニの「起き上がり小法師」のような人生が投影されているという評価を受けている。
「2000年頃に、自分はどんな歌手として残るのだろうと悩んだことがありました。誰かに希望を与える歌手になれたらと思いました。不思議なことにその後、私のところに来た曲の一つ一つが希望に関する歌でした。そして家族の歌でした。作曲家や作詞家に私の考えを話したこともないのに、彼らの目に私が歳月の流れの中で変わっていく姿が映っていたようです」
彼女が愛着をもつ、もう一つの曲に『娘に』がある。1994年大学教授パク・ギョンベ氏と結婚して授かった一人娘のセインちゃんに捧げた歌だ。ミュージックビデオを見ると、セインちゃんが生まれた瞬間から成長の過程を記録した写真がパノラマのように繰り広げられる。2013年同じタイトルの本を出すほどに、娘に対する愛情は格別だ。
「オンマは年をとると娘と友達のような関係になりますよね。いつからか母がだんだんと娘のような存在になり、私は娘を産んでようやく母を理解するようになりました。娘に対して何か感情を抱くときに、母も私にこんな感情を抱いていたんだな、と考えるようになりました」
多文化家庭の青少年の代案学校運営
「2000年頃に、自分はどんな歌手として残るのだろうと悩んだことがありました。誰かに希望を与える歌手になれたらと思いました。不思議なことにその後、私のところに来た曲の一つ一つが希望に関する歌でした。そして家族の歌でした」
在校生たちがペイントを塗って完成させたヘミル学校の看板
彼女は娘に「あなたの好きなことをしなさい」と言い、「働かざるもの食うべからず」とも教えた。父母を頼りにせずに自分の人生は自分で責任を持てということを強調した言葉だ。
「幼い頃から節約する習慣が身に付いており、娘は今も高価なものはあまり買いません。私もそうです。舞台に上がるときには職業がら最高の姿を見せなくてはならないという考えから投資しますが、私自身のためだけにはお金を余り使わないほうです。でも他人のために使うのは惜しみません。私が使うお金で誰かが喜ぶ姿を見るのが楽しいんです」
孤児院、養老院に通い奉仕活動をしてきた彼女が最近、情熱を燃やしているのが多文化家庭の青少年のための代案学校ヘミル学校(Haemil School)の運営だ。「ヘミル」とは雨が降った後の澄んだ空を意味する。2013年江原道洪川に建てたこの学校の生徒数は中学校課程の15人だ。去年の12月に最初の卒業生を出した。
社団法人「イン・スニと善良な人々」が運営しているが、イン・スニが理事長をしている。運営費は200人余りの後援者が出している。その間、食事代程度のお金をもらっていたが、今年からは完全無償教育を行う方針を立てており、そのためにはもっと多くの後援金が必要だ。今年の夏には学校の建物も建てる。最近購入した廃校を生まれ変わらせるのだ。
ヘミル学校の生徒たちは父が韓国人で、母は大部分が東南アジア出身だ。子供たちは母と意思の疎通がうまくいかないという。父が母の国の言葉を習うことを望んでいないからだ。イン・スニは「だからオンマが子供たちにしてあげられることがあまり無い」と胸を痛めている。特別なエピソードでもあれば紹介してくれと言うと、イン・スニは首を振った。
「子供たちを明るく育てようと集めたんです。彼らの痛みを世の中に露わにすることは正しくないと思います。時に、後援してやるといって子供たちの家庭の事情と関連のある映像を要求されることがあります。そういうときには私がもっとがんばらなくてはと誓って、映像を送ることはしません。子供たちを傷つけたくないんです」
屈曲の多かったであろう彼女の人生。いつが一番挫折したときだったのか。人生のどん底に落ち込んだと思った瞬間のことを聞いた。しかし彼女の答えには一発やられた。
「私はそんなこと感じたことがありません。一つ一つが大変だと思っていたらとうてい耐えられません。生きていれば雨に打たれ、雪に降られ、小石につまずくこともあるでしょう。平坦な道だけ歩いてきたなんていう人がいるでしょうか」続く彼女の告白が再び胸の片隅を突き刺した。
「私はいまだに何でも語り合えるような気楽な友人がいません。人々は私に個人的な関心はなく、私も他の人々にあまり関心がありません。最近になりようやく誰と一緒にご飯しようか考えているほどです。放送局のプロデューサーも良く知りません。私が人を訪ねて回るのではなく、人々が私を訪ねてくるようにしなければという考えに取り付かれて過ごしてきました。幸い、私の実力を認めてくださる方がいて、ここまで来たのです」
今年、一番したいことは何かを尋ねると二つの答えが返ってきた。一つは白頭山に登ることだ。もう一つは釜山にあるUN軍墓地の碑石2300個あまりをきれいに磨くことだ。ここには韓国(朝鮮)戦争に参戦した外国の軍人たちが永遠の眠りについている。すでに昨年の11月にオランダの軍人の墓碑30個あまりを磨いたという。
「戦争当時の彼らの年が10代の後半でした。私の父もそのくらいの年でした。世間知らずの年齢です。好きな音楽を聴いて、女性アイドルの後を追いかけるような年齢です。そう思うと父を十分に理解できるようになりました。韓国のために命を捧げてくれた外国人に感謝しなくては。それで墓碑の話を聞いてこれは私のやるべきことだと考え、すぐに実行に移しました」
鼻の奥がツンとしてきた。