密陽(ミルヤン)は、人口10万8千人余りの小さな内陸都市だが、長い歴史を有する交通の要衝でもある。釜山(プサン)広域市から北西に約47キロほどの距離にある密陽は、ソウルからだと車で4時間余りかかる。都心を貫いて流れる川の周辺には、旧石器時代の住居跡や鉄器時代の遺跡、朝鮮後期の儒林の根拠地に至るまで、長い歴史の息吹が宿っており、人足が絶えない。
密陽市北西に位置しているウィヤン池(別名:陽良地))は、約63,000平方メートル規模の貯水池で、新羅時代に灌漑用水の供給のために築造された。近くにカサン貯水池が造られて以来、本来の機能を失ったが、1900年に建てられた東屋・宛在亭周辺の風光に恵まれており、観光客を引き寄せている。
ある映画を想い起させる都市がある。李滄東(イ・チャンドン)監督が、2007年に公開した『密陽』(Secret Sunshine)という作品を思い浮かべる人が多いだろうと思われる。この映画を紹介するインターネットの記事には、いまでも女優のチョン・ドヨン(全道嬿)の演技力に「鳥肌が立った」というコメントが付きまとう。チョン氏はこの映画で第60回カンヌ国際映画祭女優賞に輝いた。映画のオープニングには、次のような会話が出てくる。
「おじさん、密陽ってどんなところなんですか」
「密陽がどんなところだと?何というか...景気は最悪で、ええと…それに…ハンナラ党の都市で、釜山の近くにあって、釜山の方言が使われていて、ちょっと早口で。人口は15万くらい、ああ、最近は減少して10万くらいかな…」
「おじさん、密陽ってどういう意味か知ってますか」
「意味? 意味なんてどうでもいいんだよ。ただ、暮らしていくだけさ」
「漢字で秘密の「密」に日差しの「陽」だから『秘密の日差し』いい意味でしょう?」
主人公は交通事故で夫を亡くし、幼い息子をつれて夫の故郷である密陽に向かうのだが、密陽に差し掛かった所で車が故障し、整備工場に牽引されていく途中だった。
「旅の途中ですか」
「いいえ。密陽で暮らすために来たんです」
「暮らす」ためにやってきたその密陽で、彼女の幼い息子は誘拐され、殺害される。
暮らすために集まってきた人々が村を成した所、彼らの人生を取り巻く条件が、常に平凡な一人の人間の幸せと運命を支配する所、ある人には希望を与えるが、ある人には受け入れ難い苦痛を抱かせ、一日も早く抜け出したいと思わせる所。でも、ほとんどの人はどうすることもできないまま日々を暮らしていく所。ならば、あらゆるの都市の名は密陽なのかも知れない。
全国の伝統的な楼閣の中でも最も古い楼閣として挙げられる嶺南楼は、密陽江の傍にある崖の上にそびえ建っている。楼閣の内部には扁額が掛けられているのだが、朝鮮時代の著名な文人墨客が、その風景を絶賛した数多くの文と文字が書かれている。
川の都市
密陽は川を挟んでいる。この不変条件は、密陽の昔と今日を創り上げている。川は東に何度も曲がりくねりながら南に流れ、洛東江と合流した後、南海に流れ込む。この川が密陽江である。密陽の中心街はこの川の北側に位置する。「密陽」という地名にある「陽」という漢字には「日差し」という意味もあるが、川の名前に使われているのは「川の北」を意味するのだそうだ。北には山を、南には水を臨んでいるのでどれほど日当たりがいいだろうか。
密陽の地名に関する最も古い記録は、3世紀ごろの中国の史書である『三国志』に見ることができる。この本に言及されている「ミリ(彌離)」という国名は、古代朝鮮語である「ミル」を中国の昔の漢字に変えて表記したものである。古代朝鮮語の「ミル」は、水または水の神で龍を意味する。だから「秘密の日差し」という地名の解釈は、イ・チャンドン監督自身も述べているように、恣意的な詩的認識に過ぎない。
密陽江の周辺には、現在を生きる人々と昔この地に住んでいた人々の痕跡が共存している。2001年に完成した密陽ダム北側の丘陵には、工事中に発掘された2万7000年前の後期旧石器時代の遺跡がある。これで、密陽に人が住んでいたことを立証できる時期は3世紀以前に遡る。一方、密陽江河川の沖積地には、新石器時代と青銅器時代の遺跡が散在する。近くに小学校があり、高速道路がすぐそばを通る琴川村には、青銅器時代の水田の遺跡がある。山中の穴蔵から肥沃な河川近くの地に移り住むまでに、数万年の歳月がかかったのである。家の跡地は、自然堤防の上にあり、畑は家の跡地があった場所のすぐ下、水田はそれよりも更に低いところにある。当時の人々は、春になると石の鋤で土を耕し、キビやトウモロコシなどを植え、収穫した穀物は櫛目文土器に保存して寒い冬を乗り切ったのだろう。
挫折も喜びも、今の私たちより先に感じたであろう人々の、このような素朴な生活の痕跡の上に「秘密の日差し」が降り注ぐ。彼らが守ろうとしていた大事な価値観は何処かに消えて久しい。
嶺南楼の横には枕流閣が、階段式の回廊で繋がっている。
天台山のふもとにある父恩寺は、200年頃、金官伽倻の第2代の王である居登王が、父親の首露王を称えるために建てたと伝えられる古刹である。ここからは、曲がりくねった密陽江に架けられた洛東大橋と三浪津橋が見下ろせる。
鉄器文明の都市
川底から出土した舟の構造を見ると、昔の人々が川を上り下りしながら漁をしていた姿が思い浮かぶ。彼らにとって舟は、風の力を利用し、あらゆる道具を駆使して作られた科学的で先端の技術文明だった。おそらく彼らは、密陽江と合流して海に流れる洛東江に舟を漕いでいたのだろう。彼らはその冒険と進取の気性で、新たな北方移民勢力が洛東江下流の金海地域に建てた加羅国と連合して、500年間、伽倻(カヤ)連盟の一員として朝鮮半島の鉄器文明を導いた。
密陽江を挟んでいる村の中には、「鉄が出る谷」という意味を持つ「金谷」という地名が2カ所ある。興味深いことに、この二つの村ではいずれも製鉄の遺跡が発掘されている。上東(サンドン)面にある金谷村とその周辺には、鉄を熱する時に出る副産物の鉄くずが山ほど積もっている。また三浪津邑の金谷村では先だっての道路工事中に、製鉄炉から廃棄場に至るまで一連の製鉄過程がすべて発掘された。密陽江周辺には以前から風化や浸食によって、川沿いに大量の砂鉄が堆積していたのである。
このような考古学的な発掘から、密陽が周辺国はもちろん日本と中国にも鉄を輸出し、加工した鉄を紐で縛って貨幣のように使用した弁韓(紀元前後から4世紀にかけて洛東江下流に居住した三韓の一つ)が、12国からなる部族国家の一つとして活躍したことが推測できる。この弁韓が後に、「鉄の王国」と称される伽耶連盟へと発展し、新興勢力である新羅と併合して資源と技術を提供し、新羅が強力な古代国家に発展する土台になったことは明らかである。
仏教の都市
朝鮮半島の他の地域のように、密陽にも美しい山河の景色を誇るところには、必ず寺が建っている。中でも、現地の人々から重んじられている寺は、父恩寺と万魚寺である。父恩寺からは、黄昏の密陽江を見下ろすことができ、万魚寺は、寺の前の渓谷に黒い岩塊流が広がっていて、独特の景観を誇る。密陽の住民にとってこの二つの寺は、伽耶仏教の聖地でもある。
歴史書には、新羅に先立つ5世紀頃、金官伽耶の始祖と伝えられる首露王の夫人・許皇后の冥福を祈るために王后寺を建設した時から、伽倻が仏教を公式に受容したと記録されている。しかし、この二つの寺に関する口碑伝承は、その時期を伽倻の成立初期へと導く。「首露王が万魚寺を創建する際、落成式に出席した僧侶たちが父恩寺に泊った」という伝説からすると、仏教伝来の始まりは1世紀頃まで遡る。許皇后と共に古代インド王国から渡ってきたと伝えられる婆娑石塔について、『三国遺事』には「この地域では見かけない石だ」と記されている。このような論議とは別に、新羅仏教が新しい世界を切り開くうえで、伽耶仏教が多大な貢献をしたことに疑問の余地はない。
伽耶文化は、その特有性と影響力が高く評価され、新羅時代はもちろん朝鮮時代に至るまで、その文化を称える行事が開かれた。今日までその行事は続いていて、10月には「告由祭」が行われた。10月には「告由祭」が行われた。これは2020年3月1日まで開催される国立中央博物館の特別展、『伽耶本性-剣と絃』の展示のために、婆娑石塔を金海(キムヘ)の首露王妃陵からソウルへと、移動を知らせる祭祀であった。この祭祀に、地域の政治家など有力者が参列したということは、その子孫や地域住民にとって「許皇后」の話が単なる伝説ではなく、歴史として人々と共に生きていることを裏付ける。密陽市内に「伽倻」の名がついている商店が多いのもその証拠の一つだ。
暮らしのために集まってきた人々が村を成した所、
彼らの生活を取り巻く条件が、常に平凡な一人の人間の幸せと運命を支配する所、
ある人には希望を与えるが、ある人には受け入れ難い苦痛を抱かせ、
一日も早く抜け出したいと思わせる所。
でも、ほとんどの人々はどうすることもできないまま日々を暮らしていく所。
万魚寺は1世紀頃、金官伽倻の始祖である首露王が建てたと伝えられており、密陽の地元の住民にとって仏教の聖地である。境内には12世紀に造られたものと推定される三層石塔がある。
万魚寺周辺のノドル地帯(小石が広がっている地帯)には、万魚石と呼ばれる黒い石が山ほどある。龍神に付いてきた数多くの魚の群れが石となったという伝説を持つ万魚寺は、学術・景観的価値が高く、天然記念物第528号に指定されている。
嶺南大路の都市
嶺南大路は、首都の漢陽(ハニャン)から朝鮮半島の最南東端にある東莱(トンレ)を結ぶ道で、朝鮮時代の最も代表的な陸路として知られる。千年以上利用してきた海路に代わって、密陽がこの道の経由地になったということは、色々なことを示唆する。まず、朝鮮半島内に統一された国家体制が維持され、周りの郡県だけでなく中国にも、安定的に早く行き来できる道が確保されたということである。また、国際的には元の衰退以降、日本の国力が強力になったことを意味する。これは倭寇の跋扈(ばっこ)につながり、活発だった朝鮮半島の水運は、彼らの横暴でほぼ麻痺事態に至る。朝鮮の陸路の確保は、このような苦肉の策の結果でもあったのだろう。
この嶺南大路は壬辰倭乱(文禄の役)当時、倭軍の攻撃路としても利用された。釜山浦から攻め入って東莱城を陥落させた後、橋頭堡を確保した倭軍が梁山を通過して密陽の官軍と対峙した所は、三浪津邑にある鵲院関。ここは東莱とソウルを結ぶ交通と国防の主要関門だ。しかし、わずか300人余りの兵力で1万人を超える敵軍を食い止めるには力不足だった。倭軍はこの道のおかげで18日後には漢陽まで占領したのである。
せめてもの慰めは、密陽出身の僧侶である四溟堂(サミョンダン、1544~1610)が2000人の僧兵を集めて、倭軍が占領した平壌(ピョンヤン)城奪還のための戦闘に参加するなど、多くの地域で大きな戦功を上げたということである。戦いが終わった後は、宣祖の特使として派遣され、京都で行われた徳川家康との会談で講和交渉を締結し、捕虜3000人の朝鮮人を連れ戻すことに成功した。密陽邑城へ向かう道には、四溟堂の銅像が立っていて密陽江を見下ろしている。
一つ興味深い事は、先進技術文明を有し、海洋志向的かつ多文化的な社会システムを享受していた密陽が、嶺南大路に編入されてから100年足らずで、儒教国家を標榜した朝鮮の新たな求心点である士林派の本場になったという点である。15世紀後半、新進士大夫として中央政界に進出した密陽出身の金宗直(キム・ジョンジク、1431~1492)とその弟子たちは、官僚勢力に対抗し、高官の不正はもとより王の方針をも批判し、義理と実践を強調する新たな政治勢力の中心となった。密陽府北(プブク)面には金宗直の生家と墓をはじめ、彼の学問と徳行を称える礼林(イェリム)書院がある。
渡し場と鉄道駅の都市
漕運制度が復元されて、三浪(サムラン)里に漕倉が建てられ、再び税穀船が運航するようになったのは、国際情勢が安定して税金を現物の代わりに米穀に統一して収める納税制度がある程度定着した18世紀半ばからである。嶺南大路と繋がっている水運で命脈を保っていた三浪里は、館員と船主の事務室と倉庫、酒幕、宿屋、店舗などで賑わっていたのだろう。しかし、このような繁栄も1905年に京釜(キョンブ)線鉄道が開通し、三浪津に鉄道駅が建設されると同時に終焉を迎えることになる。殆どの場合、線路は嶺南大路沿いにつくられた。そのため、三浪里は再び平凡な渡し場に戻り、三浪津駅は邑の中心として繁盛し始めた。
三浪津駅は、近代文学初の長編小説である李光洙(イ・クァンス、1892~1950)の作品、『無情』(1917年)にも登場する。彼にとって汽車は、自分の運命を自ら開拓する近代的な人間を描写する小説的な装置だった。一方、金廷漢 (キム・ジョンハン、1908~1996)の短編小説『ドゥイッキミ渡し場』(1969年)に描写されている三浪津のイメージは、また違う。彼は「ドゥイッキミ渡し場は、三浪津をさらにさかのぼった洛東江の上流、支流の密陽江が本流と合流するところにあるので、とりわけ水が澄んでいる。そのせいで、秋口から雁や鴨の群れがたくさん集まって来る」と描写し、同時にこの渡し場を「従順な民とその子どもたちが徴用だの、実際は日本軍慰安婦の女子挺身隊だの」といった様々な理由で渡った悲劇の場所として認識している。
密陽の三浪津は、詩人吳圭原(オ・ギュウォン、1941~2007)の故郷でもある。彼にとっての故郷は二つの顔を持っている。一つは13歳の時に亡くなった母の顔であり、もう一つは父の顔だ。母の顔は「いつも平和と安らぎが漂っている」「眠りたい、夢見たい」「子宮のような存在」なのだが、父の顔は「不和と窮乏の根源」だった。彼はこの心理的な葛藤を解決することができず、中学生の頃に故郷を離れて以来、父親のいる故郷を一度も訪れなかった。彼は「故郷とは子宮を持っている母親の体のようで、その子宮の中の自然の言葉と子宮の外の現実の言葉を抱えている時間的な空間」であり、「その境目に私が立っている」と述懐している。ならば、あらゆる都市の名は密陽なのかも知れない。
密陽江下流にある五友津(オウジン)渡し場は、朝鮮時代まで税穀船が行き来していた水運の要衝であり、租税として納めた穀物を貯蔵する漕倉もあった。しかし近代に入ってから、線路が造られるようになり、平凡な渡し場となってしまった。
イ・チャンギ李昌起、詩人・文芸評論家
アン,ホンボム安洪範、写真