済州の甕器(オンギ、素焼きの陶器)は、土ではなく石の窯で作られる。甕器は昔から、鉄が生産されない火山島で、日常生活になくてはならないものだった。だが、新素材の化学製品が登場した1960年代以降、歴史から姿を消した。しかし、何人かの職人の大変な努力によって、2000年に伝統的な石窯が復元され、少量ではあるものの生産が続けられている。
済州陶芸村のカン・チャンオン(姜彰彦)村長が、石窯「ノラン(黄)グル」の上で、チェップルジル(発色のために火をくべること)をしている。火を入れてから4日ほどすると、窯の温度がもっとも高くなる。その時に窯焚きの佳境であり最終段階でもあるチェップルジルをする。窯の上の穴から乾かした焚き物を入れて、炎を強める。この過程で、陶器の表面に釉薬を塗ったような光沢が出る。
「カヒナ茶器」7.6×18.5㎝
済州陶芸村の独創的な特許工法で作られたカヒナ茶器は、2007年にユネスコによって優れた手芸品(Seal of Excellence)として認められた。済州陶芸村で開発した陶器用の粘土を用いて、玄武岩のような質感を出している。
済州の石は土と火に出会い、島の人々が日常的に使う甕器に生まれ変わった。朝鮮戦争の悲劇を予告するかような済州島四・三事件が1948年に起きた際、虐殺から逃れて山奥に逃げるなど緊迫した瞬間にも、済州の人々は甕器を持っていったという。命をつなぐために欠かせない道具だったのだろう。
済州では古くから甕器が使われていた。『南槎日録』は朝鮮王朝の粛宗(在位1674~1720)の時代、官吏として済州に派遣されたイ・ジュン(李増、1628~1686)の在任期間にあった出来事を日記のように記録したものだ。この本の後半に、その160年ほど前に同じく済州に遣わされた文臣チェ・ブ(崔溥、1454~1504)の『耽羅詩』が載せられている。この詩には、ホボク(水汲み用の壺)を担いだ女性が、水汲み場へ向かう姿が描写されている。当時も甕器が使われていたのだろう。一方で、18世紀に刊行されたと推定される『済州邑誌』には「大静県に甕器を専門的に売る甕店があった」と記されている。
済州市翰京面の高山里(コサンリ)遺跡から出土した高山里式原始無紋土器と隆起線紋土器は、約1万年前に作られたものと推定され、済州の甕器の先祖に相当する。原始無紋土器は、それまで韓国で発見された新石器時代の土器の中で最も古い。表面に波のような模様が施された隆起線紋土器は、古い済州土器の白眉といわれている。
内陸と異なる生産方式
「石壺」28.0×22.3㎝
ろくろの上で済州の石を使い、陶器用の粘土を何度も打つようにして成形し、粗く素朴な質感を出している。
済州の甕器は長い間、朝鮮半島とは異なる形で進化してきた。最も大きな特徴は、日干し煉瓦で造られた土窯ではなく、玄武岩の石窯で焼く点だ。これは朝鮮半島のものとは明確に異なる生産条件であり、日本や中国の生産方式とも区別され、世界的にも珍しい。
また、釉薬を塗らない点も注目に値する。その理由は、朝鮮半島でよく使われる白土や黄土ではなく、火山灰土が使われるからだ。陶磁器に適した土が少ないため、環境に合わせたのだろう。火山灰土に多く含まれている鉱物質が、甕器を焼く過程で表面に溶け出すと、釉薬を塗ったようにほのかな光沢を放つ。
また、他の地域では、窯に火を焚く際に薪を使うが、生木の枝を切って日陰で乾かした後、くべる点も異なる。それだけではない。済州の甕器は、一人の陶工によって作られるのではなく、土を採取する人、窯を造る人、火を焚く人、土を練る人が、それぞれ異なっていた。土と木の枝を集めるコネクン、土を練るオンギデジャン、火を焚くプルデジャン、全ての過程を統括するクルデジャンなど、分業が徹底していた。分業された共同作業によって生産されたという点で、済州の甕器は地域共同体文化の産物といえる。
粘性が低い火山灰土がほとんどを占める地質学的な条件と、ホボクで水を汲んで運ばなければならなかった点など、済州は甕器の生産において厳しい環境だった。故シン・チャンヒョン(申昌鉉)ホボク匠(済州島無形文化財第14号)が「甕器を作るのは、あの世に行って来たかのように大変だ」と話しているほどだ。厳しい環境の中、そのような苦労の末に作り上げられた甕器は長い間、済州の人々の日常生活において非常に重要なものだった。
伝統的な石窯の復元
20世紀に入ってピークを迎えた甕器の生産は、1960年代末に完全に途絶えてしまった。工場で大量生産される安いプラスチック容器が登場し、製作が煩わしく生産性も低い甕器に取って代わるようになったのだ。そのように途絶えてしまった甕器を復元したのが、済州陶芸村のカン・チャンオン(姜彰彦)村長だ。
彼は青年だった1970年代から、廃虚になった窯跡を探し、伝統的な甕器の破片を丁寧に観察していくうちに、済州甕器ならではの固有性に気づいた。本格的な現地調査を行うため、1980年代初めに仕事を辞めて海岸の村や中山間一帯を歩き回った。当時は、瓦と甕器を焼く石窯が50基ほど残っていて、済州道内の博物館に資料を求めたり共同作業を進めたりしたが、今は済州大学校の博物館で国内外の学者と交流し、より体系的に研究を行っている。しかし、運よく残っていた窯跡さえ、現代化の下で激しく損なわれている。
さらに、1990年代に入り、甕器製作の経験がある陶工が、次々とこの世を去り、使っていた道具まで消えていった。焦りを覚えたカン・チャンオン村長は、存命の陶工を探し回った。しかし彼らは、労働が厳しい上に、収入も期待できないため、甕器製作を辞めて農業を始めていた。そのため「伝統的な甕器をもう一度作りたい」という言葉に、なかなか耳を貸さなかった。
伝統的な石窯の復元は、職人が力を合わせなければ不可能だ。幸いクルデジャンのホン・テグォン(洪泰権)氏とオンギデジャンのソン・チャンシク(宋昌植)氏ら数人が、献身的に協力してくれた。カン・チャンオン村長は1996年、全ての財産を投じて、大静邑永楽里に済州陶芸村を設け、4年後の2000年にようやく伝統的な方式で済州甕器を作り始めた。
済州陶芸村の展示室。この陶器は、製作に多大な労力と費用がかかるため、普及には限界がある。それでも、日本と中国の陶磁器愛好家が訪れるという。
温度差による甕器の特性
済州では、各種甕器を焼いた窯を「クル(窟)」と呼ぶ。地面の自然な斜面を利用した半円筒形の天井のため、窯が洞窟のように見えるからだ。石窯は大きく「ノラン(黄)グル」と「コムン(黒)グル」の二つに分けられる。二つの名前は、窯で焼いた甕器がそれぞれ黄色と黒色を帯びることから名付けられた。甕器の色が違うのは、火の温度が異なるからだ。
まず、ノラングルは1100~1200度まで温度を上げる。その過程で土が酸化し、甕器の表面が釉薬を塗ったように滑らかになり、黄褐色や赤茶色を帯びる。また、高温の火花によって、様々な模様が自然にできる。カン・チャンオン村長はこれを「プルムニ(火の模様)」と呼ぶ。この甕器は、硬くて食品の変質を防ぐ効果があるため、水を運んだり食品を入れるために使われた。
コムングルは、それよりも低い700~900度まで温度を上げて、窯の前後の穴を塞いで酸素量を減らす。それによって不完全燃焼が起きて、煙が甕器に染み付き、灰色や黒色を帯びる。この甕器は、乾燥食品の保管に使われ、蒸し器としても利用された。
済州の甕器は、一人の陶工によって作られるのではなく、土を採取する人、窯を造る人、火を焚く人、土を練る人が、それぞれ異なっていた。徹底的に分業された共同作業によって生産されたという点で、済州の甕器は地域共同体文化の産物といえる。
待つ美学
カン・チャンオン氏は、済州の伝統的な石窯と陶器が失われることを残念に思い、大変な努力の末、 2000年に伝統的な石窯を復元した。
済州陶芸村で復元されたノラングルとコムングルも、伝統的な様式に従って玄武岩で造られた。カン・チャンオン村長は窯を造る際、適当な大きさの玄武岩を選んだり、必要に応じて形を整えたりした。石の間にできる隙間は、玄武岩の破片や粘土で埋めた。
ノラングルは全長12mで、焚口から排煙口までの空間は、燃焼室と焼成室に分けられる。窯の正面中央の下段にある焚口は、地面に接しており、一見アーチ型に見えるが、よく見ると左右の石柱の上に天井石をかけたロ型だ。済州式の石窯は、焚口が非常に狭いのが特徴だ。済州陶芸村だけでなく、西部の新島里にある100年以上前の廃棄された石窯も、これと同じような形をしている。
天井の外側には砂土を塗る。その左右には直径15㎝ほどの穴が、一定の間隔で15個ずつ開いている。陶工が火の状態を確認し、木を入れる役割をする。窯の裏側には、煙突を設けずに穴を四つ開けて、そこから炎が噴き出るようにする。
コムングルはこれよりも小さい全長7mで、仕切りのない穴窯だ。甕器は、窯の後ろ側にある開口部から入れたり出したりする。その開口部は密閉せず、甕器を出してから適当に石を積んでふさいでおく。
済州の石窯には、焚口前の作業場所を取り囲むように玄武岩を積んだ「プジャンジェンイ」という空間がある。プジャンジェンイは、トダシバを覆い被せて雨風を防いだ。島の強い風が、石窯にも影響を及ぼしたからだ。これも済州の伝統的な石窯の特徴といえる。
「黒いホボク」(前)41.4×33.0㎝ / 「黄色いホボク」(後)37.5×29.0㎝
「黒いホボク(水汲み用の壺)」には、高温の火花が作り出した赤い模様が鮮明に現れている。「黄色いホボク」は、口と肩の部分の色がその下と違うが、これも焼成中に自然にできたものだ。
済州の甕器は、土質の粗い火山灰土を練り、蔵に10カ月ほど保管してから窯で焼く。この蔵も玄武岩で造られ、隙間を土で完全に埋めて、光も風も入らないようにする。これも済州の甕器の大きな特徴で、まるで一人の人間の誕生のように、謙虚に待つことを教えてくれる。