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2016 WINTER

特集

21世紀の韓国映画、その躍動性と夢

強い監督の時代

大ヒットと作家主義という二兎を得る「奇跡」を起こす監督が少なくない。海外の権威ある映画祭が、大ヒットとは程遠い作家主義監督に、韓国での足掛かりを与えることもある。韓国の映画界は今、強い監督の時代だ。

同じテーマで違う映画を作り続けている二人の監督。デビュー20年になる同い年の中堅映画監督ホン・サンス(18頁)とキム・ギドク

韓国の映画監督は、現場の誰よりも力がある。むろん、すべての監督に当てはまるわけではないため、一般化するのは危険だ。それでも、大企業が運営する会社が投資・配給・上映の垂直系列化を果たした現在も、依然として監督は強い。観客数1千万人以上の映画を演出した監督は、自ら映画会社を立ち上げて映画を作る。妻に映画制作会社の代表取締役を任せ、自らシナリオを書き、キャスティングから編集などポストプロダクションまで、力を発揮することも少なくない。つまり、映画のすべての過程に監督が存在するのだ。映画業界で働きたい人を見ても、監督志望が絶対的に多い。

そうした意味で、作家主義は、現在活躍している韓国のほとんどの監督を修飾する言葉だといっても過言ではない。

大企業が運営する会社が、投資・配給・上映の垂直系列化を果たした現在も、依然として監督は強い。観客数1千万人以上の映画を演出した監督は、自ら映画会社を立ち上げて映画を作る。作家主義は、現在活躍している韓国のほとんどの監督を修飾する言葉だといっても過言ではない。

キム・ギドクとホン・サンス

キム・ギドクとホン・サンスは共に1960年に生まれ、1996年にデビューした。キム・ギドクのデビュー作『鰐~ワニ~』とホン・サンスのデビュー作『豚が井戸に落ちた日』は、共に映画界で話題になり、その後も両監督はほぼ毎年映画を演出し、海外にも進出して国際映画祭で良い評価を受けた。何よりも両監督は、確固たる映画的世界観を持つ作家として評価されており、韓国では大ヒットしなくても、海外での支持によって地位と名声を簡単に失うことはないという共通点を持っている。

民族的リアリズム系列映画のリーダー、イム・グォンテク(20頁)とその系列の嫡子イ・チャンドン

キム・ギドクの映画の前提は「病んだ資本主義」だ。主に疲弊した資本主義の中で動物的な暮らしを続ける下層の男の人生を赤裸々に描いてきた。『嘆きのピエタ』(2012)はその過去の創作を集約し、一歩進んだ映画といえる。かつては産業化の象徴だったが、今は撤去の危機に瀕しているソウル清渓川の世運商店街を背景に、悪徳なヤミ金業者が債務者から暴力的に取り立てる現場にカメラを向けた。他人を脅迫して暴力を加え、金を奪って生きていく資本主義が生んだ悪魔であり、怪物ともいえる一人の男。キム・ギドクは、その男が自分の人生を顧みて反省するように仕向けるが、さらに映画のエンディングでは男にイエスの犠牲的なイメージも与える。資本主義のどん底に目を向けるだけでなく、ひいては野性的な一人の男の犠牲と死を通じて、慈悲と救援という問題に展開させたのだ。

ホン・サンスは、徹底的といえるほど似た映画を作ってきた。完璧な作家主義の実現あるいはマンネリズムの持続だ。彼の映画では、男性と女性の恋愛が、ロマンや華やかな想像を取り除いた状態で表現される。飲み屋から飲み屋に、そして安宿に続く極めて世俗的な恋愛で、愛情に先立つのは欲望の噴出と充足だ。ホン・サンスは、この欲望の多様な表情をスタイル的な実験で再現する。2015年にロカルノ国際映画祭で金豹賞(グランプリ)を受賞した『今は正しくあの時は間違い』(2015)を見てみよう。映画監督である主人公が偶然、水原に行って、ある女性に出会って酒を交わすまでの過程を第1部と第2部の二つの物語として併置している。この構成の絶妙な対句と韻律によって、見る者に人生と芸術について考えさせる。

パク・チャヌクとポン・ジュノ

パク・チャヌクとポン・ジュノは、ハリウッドのジャンル映画を韓国特有の状況に持ち込み、それを土着化させて、言いたいことを鋭く表現する監督だ。そのため両監督は、キム・ギドクとホン・サンスよりも大衆的で広く知られている。パク・チャヌクが、スリラーとミステリーというジャンルで罪の意識と復讐について語り続けるとすれば、ポン・ジュノは、何かを追いかける物語の中で、韓国社会の構造的な矛盾を鋭く捉える。見た目にはジャンル映画の類型をなぞっているようだが、もう少し中に入ってみると独創的な物語が展開されるのも、両監督の映画の共通点だ。

パク・チャヌクは、韓国のどの監督よりも倫理的で理知的なイメージを持っているが、面白いことにB級映画の情緒に大いに頼っている。彼から見てB級映画とは、完成度の低い映画ではなく、A級映画にはできない斬新な想像力を発揮したり、足りない時間と予算を作家の芸術的な想像力で補ったりするジャンルだ。パク・チャヌクの代表作といえる『オールド・ボーイ』(2003)には、彼の映画世界が集約されている。姉を守ることができなかったという罪の意識が復讐を呼ぶが、その復讐は結局成功しないまま、別の復讐を呼ぶ。そうしたストーリー構造の中に、近親相姦の要素を絶妙に溶かし込んだ。

映画に奇怪なユーモアを取り入れるポン・ジュノは、未熟な人物がとうてい耐えられない状況に落ち陥った物語をよく描く。そうした物語が面白いのは、事件の展開において韓国社会の現実があらわになるからだ。

例えば、ポン・ジュノは『殺人の追憶』(2003)という奇妙なタイトルの映画で、女性が連続殺人に遭っても犯人を捕まえることができなかった1980年代の異常な時代の治安システムについて緻密なディテールで表現した。

イム・グォンテクとイ・チャンドン

イム・グォンテクとイ・チャンドンは、誰よりも真摯に映画を作る監督だ。1960年代初めにデビューし今でも現役として活躍しているイム・グォンテクは、演出した映画が100本を超えている。1993年に公開され、彼のそれまでの興行記録を塗り替えた『風の丘を越えて~西便制』は、映画という西洋の枠に、民俗芸能のパンソリという伝統的なテーマを本格的に収めた作品として注目を浴びた。

パク・チャヌク(22頁)とポン・ジュノ(23頁)は、ハリウッドのジャンル映画を韓国特有の状況に持ち込み、それを土着化させて、言いたいことを鋭く表現する監督

イ・チャンドンは、小説家から映画監督に転身した特異な経歴の持ち主だ。リアリズム小説の作家らしく、現代史の不幸な事件や現在を生きる人々の苦悩について描く。ポン・ジュノの映画が社会の構造的な矛盾に直接迫るとしたら、イ・チャンドンは一歩引いて静かに観照するかのように再現する。『ポエトリー アグネスの詩』(2010)は、イ・チャンドンの代表作だ。映画は、子供たちが遊んでいる河原に女子中学生の遺体が流れてくる場面から始まる。少女がなぜ死んだのか、その死の原因を究明し処理する過程を追いながら、映画は少女の死と関わりのある祖母の死を詩という文学的技法に結び付け、より高いレベルに昇華させている。

ナ・ホンジンとヨン・サンホ

最後に、韓国映画の未来を想像させるニューウェーブとインディペンデント映画において、フロントランナーといえる監督はナ・ホンジンとヨン・サンホ(延尚昊)だ。過酷な映画を作るナ・ホンジン監督は、自分の映画世界をしっかりと構築していながら大衆的にも愛されている。極限状態に置かれた人間が、どのようにして動物のように残酷になれるのかを見せるなど、暴力と殺害が飛び交う映画だ。『哭聲』(2016)では、それが極端に前面に押し出されている。閉鎖された田舎の共同体に広がる原因不明の死の影、正体不明の存在の登場、飛び交う怪しい噂、とうてい逃れられないオカルト的な要素とシャーマニズムの並行構造など、随所に象徴と伏線を配して、ナ・ホンジンは観客との頭脳戦を愉快に繰り広げる。

ヨン・サンホは『釜山行き』(2016)で1千万の観客を動員して大ヒット監督になったが、アニメーションでは依然としてヒットは難しい。ヨン・サンホは『釜山行き』の直後に『ソウル駅』(2016)というアニメーションで、本来のフィールドに戻ってきたが、もともと子供ではなく大人向けアニメーションの問題作を作り続けてきた。学校、軍隊、宗教などの組織を背景にしたアニメーションで、韓国社会が生んだ怪物を描写してきた。そんな監督が『釜山行き』でゾンビの国を作って大ヒットを収め、話題を呼んだのだ。

面白いことに、この両監督が最近演出した作品は、共にゾンビ映画だ。韓国ではほとんど作られなかったゾンビ映画で両監督が大きな成功を収めたことは、何を意味するのだろうか。新たな流れを生み出すニューウェーブ、マイナーな感性で独創的な作品を作るインディペンデント映画界。そこで、殺しても生き返って執拗に追いかけてくるゾンビ映画が作られ、大ヒットした。これは、今の時代のどんな兆候を物語っているのだろうか。

カン・ソンニュル姜聲律、映画評論家、光云大学校教授
Cine21写真

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