韓国のインディーズ音楽を語る上で、弘大(ホンデ)エリアのライブクラブ(ライブハウス)は欠かせない存在だ。ライブクラブは1990年代初めに弘大前に登場し、新しいスタイルの音楽を紹介するとともにインディーズバンドの登竜門にもなっている。また、ミュージシャンの交流の場として韓国の音楽シーンをいっそう豊かなものにしてきた。
2023年10月のライブクラブデーにクラブ・パンのステージに立つ4人組バンド、ダブダ。ライブクラブデーは、1枚のチケットで多くの会場のコンサートを楽しめる音楽フェスティバル。ライブハウスや公演会場が集まっている弘大エリアの特徴を生かしたイベントだ。
© インソムニア(indieinsomnia)
「あの暑い夏の日に違う世界がそこにあった / 強い日差し、ざわつく通りに水をまきちらす若者」。
男性デュオ・ウィーパーの「あの暑い夏の日に1996」は、こんな歌い出しで始まる。ウィーパーが2001年にリリースしたアルバム「喪失の時代」に収録されている曲で、次のような経験が歌詞の背景にある。夏が近づく1996年5月25日のこと、ウィーパーのリーダーのイ・ジヒョン(李知衡)が「全く違う世界」と描写したのは、弘大(弘益大学校)前の駐車場通り。正確に言うと、そこに設けられた舞台だ。その舞台はレザーの服にチェーンを身につけて髪を逆立てた「荒くれ者」が占拠し、知らない人には騒音にしか聞こえない生の音を炸裂させていた。その音楽はパンクと呼ばれるもので、このイベントは「ストリート・パンクショー」というタイトルが付けられていた。
それまでパンクは、韓国では馴染みのない音楽だった。1970年代後半に世界的なムーブメントを起こしたセックス・ピストルズやザ・クラッシュは、韓国では無名に近かった。ストリート・パンクショーは、そうした見知らぬ音楽が弘大前のアンダーグラウンドに存在することを広く伝えるイベントだった。地下で独自の世界を築いていた若者が、地上に出て不特定多数の人たちを驚かせたわけだ。観客の一人だったイ・ジヒョンも、その日の経験をもとに「あの暑い夏の日に1996」という楽曲を作った。大きなうねりを起こした同イベントによって、1996年は韓国インディーズの元年と呼ばれるようになった。歴史的な瞬間だった。
ライブクラブの時代
ストリート・パンクショーで衝撃を与えた若者は、当時ドラッグというライブクラブで活動していた。ドラッグは1994年7月にオープンしたものの、最初はただお酒を飲みながら音楽を聴くだけの場所だった。しかし翌年、自ら命を絶ったニルヴァーナのカート・コバーンの一周忌追悼公演が開かれ、店の性格が変わった。定期的に公演が行われ、公演を見に来た人が数カ月後に舞台に立つこともあった。5人組パンクロックバンドのクライングナットも、そうして活動を始めた。
弘大前にはライブクラブが次々と誕生した。ローリングストーンズ(現ローリングホール)、マスタープラン、ブルーデビル、スパングル、ジャマーズ、クラブパン、フリーバードなどが、弘大前を中心に新村(シンチョン)から梨花(イファ)女子大学校の裏手まで広くオープンした。1990年代半ばから後半における韓国のインディーズの始まりは、ライブクラブの始まりでもあった。
ライブクラブとインディーズシーンは当時、多くのメディアの注目を集めた。メディアはオンニネイバルグァン(お姉さんの理髪店)、ホボクチ(太もも)バンド、ファン・シネ・バンドなどユニークなバンド名に興味を示し、パンクを前面に押し出した新しいスタイルにも関心を寄せた。さらに、この時期にモダンロックというジャンルも持ち込まれた。従来とは違った音楽を楽しみ、異なる感性を持った新しい世代が登場したのだ。そのようなミュージシャンが韓国のインディーズの第1世代になった。
弘大前のライブクラブはパンク、モダンロック、ヒップホップなど、それぞれにカラーがある。電子音楽に特化した所もあり、ハウスバンドのような所属ミュージシャンも存在した。クライングナット、ノーブレイン、ウィーパーなどが主にドラッグの舞台に立ち、オンニネイバルグァン、マイ・アント・マリーは主にスパングルで活動していた。ライブクラブは所属バンドとコンピレーション・アルバムも制作した。ドラッグは「Our Nation」(1996)というスプリット・アルバムをシリーズで発表し、ジャマーズは「ロック鶏の鳴き声」(1997)を、ローリングストーンズは「The Restoration」(1998)を出した。1990年代のインディーズシーンは、まさにライブクラブの時代だった。
クラブ・パンの前で出演者のリストを見ている音楽ファン。1994年のオープンから長い歴史を持つ同店は、主にフォークやモダンロックの色合いが強いアーティストがステージに立っている。コンピレーションアルバムも制作しており、韓国大衆音楽賞の特別賞に輝いたアルバムもある。
スターへの登竜門
対して、2000年代はレーベルの時代だった。コンピレーション・アルバムの制作主体がライブクラブからレーベルに変わったのは、象徴的な出来事だ。ライブクラブでハウスバンドのように活動していたバンドは、体系的な管理を受けられる所属事務所が必要だった。それはインディーズシーンが体系的な構造に変わっていく兆しでもあった。そのため、レーベルの役割まで果たすライブクラブが登場した。経営難で閉店する所もあり、新規でオープンする所もあった。
前述した1990年代のライブクラブの中で今もあるのは、ローリングホールとクラブパンだけだ。それ以外はストレンジフルーツ、アンプラグド、FF、チェビタバン(ツバメ喫茶)などに取って代わられた。こうした新しい店は、従来のライブクラブと全く同じではない。時間の経過に伴う自然な変化といえよう。
しかしながら、ライブクラブが果たしてきた登竜門の役割は今も続いている。ライブクラブは依然として独自のカラーを持ち、それぞれにふさわしいミュージシャンを舞台に立たせている。クラブパンでは先日、シューゲイザーバンドのジャムが長いブランクを経て再結成ライブを行った。ジャムが活動を始めたのもクラブパンだ。ソロ・インディーズバンドのシプセンチ(10CM)も、スターになる前パンで歌っていた。
また、ストレンジフルーツは弘大前でも個性的なミュージシャンが多く、FFはロックの熱いエネルギーを変わらず放っている。今や数万人の観客を集めるジャンナビも、数十人の観客を前にFFで公演を行っていた。
インディーズ音楽をテーマにした複合文化施設、アンプラグド。1階は自由な雰囲気のカフェで、地下は公演会場になっている。1階のカフェではキム・サウォル(金四月)など同店で活動するミュージシャンのシグネチャーカクテルを楽しめる。
2012年に上水洞にオープンしたチェビタバン(ツバメ喫茶)。芸術でコミュニケーションを図る文化空間だ。週末ごとに観客の自発的な募金で各種コンサートやイベントが行われている。弘大前を愛する多くのクリエーターがよく訪れる場所でもある。
ミュージシャンの世界的な交流
現在残っているライブクラブが協力して「ライブクラブデー」を復活させたのは、必要に迫られたからだ。このイベントは2004年に始まった「サウンドデー」が前身で、2011年に中断されたが2015年に復活した。経営難を一緒に乗り越えようという趣旨で再開され、音楽の祭典としてライブ文化を盛り上げてきた。最初は思い通りにいかないこともあったが、今はすっかり定着してチケットを手に入れるのが難しいほどだ。また、このイベントで交流してきたアジアのミュージシャンとともにアジアン・ポップ・フェスティバル2024を開催できたのも、ライブクラブがあってこそだ。
海外の音楽関係者が口をそろえて言う。「世界のどこに行っても弘大前のような場所はない」と。これほどライブクラブが集まっている所は珍しいのだ。こうしたメリットを生かして、弘大前では月に1度ライブクラブデーが行われ、年に1度チャンダリフェスタというグローバルショーケースが開催されている。弘大エリアの中心にある西橋洞(ソギョドン)の旧地名・チャンダリにちなんだもので、著名な音楽関係者も海外から参加している。海外の音楽関係者が毎年秋、弘大前のあちこちで行われる韓国インディーズミュージシャンの公演を見て、自国のイベントに招待することもある。例えばイギリスのグラストンベリー・フェスティバル、アメリカのサウス・バイ・サウスウエスト(SXSW)、イギリスのリバプール・サウンドシティに招待されたミュージシャンがいる。
最近「バンドブームが来る」という言葉がミーム(ネット上の流行)のように飛び交っている。あくまでも希望的観測だが、再びバンドの時代が来るとすれば、それはライブクラブのおかげだろう。現在バンドブームをリードしているセソニョン、シリカゲル、ジャンナビ、ヒョゴなどの代表的なグループはライブクラブで活動を始めており、ライブクラブはどれも弘大前にあるのだから。
クラブ通り。弘益大学校の正門から上水洞に向かう道の中間地点にある。ライブだけでなくダンスやコメディーなど、それぞれの個性を生かした店が集まっている。
2004年にオープンしたクラブFF。ライブハウスとクラブがはっきり分かれていた時期に、ライブとDJプレイを一緒に楽しめることで有名になった。クライングナットやノーブレインなど韓国の名だたるバンドが20年間ステージに立ち続けている。
© インソムニア(indieinsomnia)