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On the Road

2024 SPRING

住みたい村の秘訣とは

慶尚北道・醴泉(イェチョン)は、山岳奥地であると同時に洛東江が曲がりくねった水の故郷だ。また、朝鮮時代に社会の騒乱を避けて身を保全できる、居住環境の良い避難所として選定された10の場所「十勝之地」の村もある。自然環境から生まれた豊かさと共同体結束のための先人の知恵がうかがえる醴泉には、韓国の伝統的な美しさが随所に根付いている。
イェチョン

ⓒ 韓国観光公社


醴泉の地理的特徴を理解するためには、まず回龍浦(フェリョンポ)展望台を訪れてみるとよい。長安寺の駐車場に車を止めて10分ほど坂道を登ると展望台に出る。そこからは大韓民国で最も長い川、洛東江の支流である乃城川を見下ろすことができる。東から流れてきた水路が展望台を取り囲むように蛇行するのだが、その滔々とした流れがまるで飛翔する龍に似ていることから回龍浦という名が付けられた。

川が出合う物流網の中核

回龍浦から直線距離で2キロ余り離れたところには三江酒幕がある。酒幕は三つの水路、すなわち回龍浦を通って流れる乃城川、北西側から流れてくる錦川、そして東に端を発する洛東江が出合う地点にある。

今では高速道路や鉄道、航空路が主要物流ルートとなっているが、20世紀の初めまで韓半島の物流は主に水路を利用していた。荷車や背負いより平らな渡し船や筏を利用した方がより大量の荷を比較的簡単に運ぶことができたからだ。渡し船や筏では通れない水深の浅いところでは緩やかな河川沿いの道を利用すればよかった。

実際、韓半島で歴史の深い都市名は「州」で終わる場合が多い。河川とその間の河中島を模した象形字で、その後次第に村から都市を象徴する字へと変わっていった。多くの国々がそうだったように、韓半島でもほとんどの昔の都市が河川を挟んで誕生し、そこを起点に発展してきた。

醴泉もそのうちの一つで、三江酒幕がその象徴である。1900年まで、ここは渡し船が1日に30回以上も運行していた賑やかな物流の中心地として、休憩所を兼ねた食堂、宿舎として栄えた。しかし、1934年に大洪水に見舞われ周辺の建物が全て消え去り、今は三江酒幕とその隣にある樹齢500年ほどのムラサキツリバナ一本の木だけが昔の趣を残している。幸いにも、当時の旅人たちの空腹を満たしてくれた白菜チヂミとマッコリを、江酒幕の真横に新しく建てられた酒幕で味わうことができる。

サムカンチュマク

慶尚北道民俗文化財に指定された三江酒幕(サムカンチュマク)。かつて三江渡し場を往来する人々や行商人、船頭に食事や宿を提供していた建物である。
ⓒ Shin Jung-sik

伝統遊び中の姿

醴泉(イェチョン)の代表的な祭りとして定着した三江酒幕渡し場祭りで伝統遊びを楽しんでいる。
ⓒ醴泉郡

住みたい村

韓国人の伝統的理想郷を実現し住みたい村として挙げられている「十勝之地」は、そのほとんどが谷深い内陸奥地に位置している。奥地でも沃土が広がっており、物流網もよく整っているので昔から豊かな生活ができた。慶尚北道の醴泉にも十勝之地の一つとして挙げられる村がある。

三江酒幕から車で40分程離れた所にある金塘室村が十勝之地の一つである。村の内外に青銅器時代の支石墓が散在しているのだが、古く昔から居住地として注目を集めてきた金堂室村には現在、数十軒の古風な韓屋が点在している。そしてその韓屋は、約7キロにも及ぶ石垣道で迷路のようにつながっている。

悠々と村を歩いていると、間もなくしてなぜここが十勝之地の一つなのか解ってくる。北側は高い小白山脈に塞がれており、村の周辺には田んぼが広く拡がっている。物流の利点をうまく活用できる距離に位置していながらも主要都市間の移動路からは外れているため、軍事上の重要性が低いとされるところだ。平穏で豊かに暮らしていくのにこの上なく優れた地理的条件を備えているのである。

村の西北の端にある松林では、安全な村を作るための住民の取組みもうかがうことができる。この松林には900本余りの松が800メートルにわたって植えられている。村の前を流れる金塘川がよく氾濫するので、村の住民が水害防止のために力を合わせて造林した森である。樹齢100~200年に達することから、村の長い歴史を推し量ることができる。風光にも優れ歴史性もあるので、今では天然記念物に指定され保護されている。

もちろん松林もなかなかの見ものだが、この季節は松林の近くにある龍門寺まで続く7キロ余りの道のりを彩る桜並木もとても素晴らしい。もし金塘室村に立ち寄る予定なら、時間に余裕をもって旅行計画を立てた方がよいだろう。韓屋で宿泊しながら松林の散策を楽しんだ後、桜並木の散策を楽しんでいただきたいからだ。

ここで誤解のないよう特筆すべきことは、村の住民がこの村でただ安貧楽道(貧に安んじて道を楽しむ)しながら安住していたわけではなかったということだ。彼らは松の造林のように氾濫という自然の挑戦を克服するための努力も怠らなかった。さらに、十勝之地独特の豊かさをもとに固有の文化も発展させてきた。その一例を桜並木の真ん中あたりにある草間亭に見ることができる。

金堂実村

朝鮮時代の伝統家屋の姿が保存されている金塘室村(クムダンシル-マウル)。青銅器時代の支石墓や古宅など各種の文化財が散在しており、迷路のようにつながっている石垣道や天然記念物に指定された松林もこの村の見どころである。
ⓒ 醴泉郡

豊かさの上に開花した文化

草澗亭は16世紀朝鮮の文臣、草澗 権文海(クォン・ムンヘ、1534-1591)が官職から退いた後、心身の修養のために建てた亭子(あずまや)だ。渓谷の片方の垂直岩盤の上に造られたのだが、その姿がまるで以前からそこに建っていたかのように周辺と調和を成していて自然な佇まいだ。朝晩の気温差が大きい春には川霧が立ちこめ、さらに神秘的な光景が広がる。これを目の当たりにすると人間が住む十勝之地を超えた、まるで神仙が住むという想像の中の理想郷を思い浮かべるかもしれない。

草間亭の特筆すべきは外見の美しさだけではない。ここは文臣・権文海が韓半島初の百科事典と呼ばれる『大東韻府群玉』を編纂した書斎でもある。この辞典は古代から15世紀までの韓半島の歴史、地理、人物、動植物、説話などを網羅したもので、全20巻で構成されている。つまり、20のテーマ別項目が20冊にまとめられた辞典、『大東韻府群玉』編纂の舞台裏となった。

権文海の息子である權虌(クォン・ビョル、1589-1671)が、『大東韻府群玉』の中から官職を務めた人物の話だけを選別して作成した人物辞典式文献説話集、『海東雑録』を著述したところもこの草間亭である。19世紀中ごろには、裴象鉉(ペ・サンヒョン、1814-1884)が刑法や田畑関連の様々な制度や地理などをまとめた『東國十志』を、朴周鍾(パク・ジュヒョン、1813-1887)が、朝鮮の伝統文化を14の類型に分けてまとめた『東國通志』などを次々と編纂した。そのような点で醴泉は百科事典の宝庫ともいえる。醴泉の士大夫たちは豊かさを享有の対象としてのみ見ていたわけではない。それをもとに培った知識とノウハウを他の人、ひいては後世に残すために努め、実際にその目標を成し遂げたのだ。

草澗亭

人工的に作られた園林と調和を成しながら朝鮮時代の亭子文化をよく表している草澗亭
ⓒ 醴泉郡

共同体の結束のための知恵

共同体の安寧と結束のための絶妙な知恵にも目を見張るものがある。醴泉にはなんと土地を所有している木が2本もある。枝の幅が東西に23メートル、南北に30メートルにも達する「石松霊」(天然記念物第294号)という名の巨大な松と「黄木根」(天然記念物第400号)と呼ばれるエノキである。

樹齢600年余りの石松霊が財産を有する韓国初の木になった背景には、イ・スモク(李秀睦)という人物がいる。彼には子供がいなかった。長い時間を悩んだ末、彼は1927年に所有する土地6,600㎡をこの松に相続登記し「霊験あらたかな松」という意味合いの石松霊と名を付けたと伝えられる。

しかし、いくら相続する子供がいないとしても、土地を親族や親しい知人に継がせなかった理由とは一体何だろうか? 秘密への糸口は、その木が所有する土地を使用している個人・団体がきちんと賃貸料を払っていること、その賃貸料で村の生徒たちに奨学金を支給しているということから合点がいく。つまりイ・スモクは、特定の個人に相続させることで村にトラブルの種を蒔くよりも、村人たちが木と土地を共同で管理し、そこから得られる収益で公共の繁栄のために使われることを願っていたのではないだろうか。

彼の意志が本当にそうだったのかは定かではないが、村の住民たちは100年が経過した今でも石松霊の保護に余念がない。下に垂れ下がっている石松霊の枝が折れないように石柱で支え、冬になると枝に雪が積もる前に雪下ろし作業をする。落雷から保護するために避雷針も付けられている。これまで石松霊から得た収益で奨学金を受給し学業を終えた学生が数十人に達し、今でもその恩恵を受けている生徒たちがいるからである。

石松霊から車で約30分離れた所にある黄木根も似たようなケースである。毎年5月になると木全体に黄色い花が咲くことから黄木根という名が付けられたこのエノキは、保有する土地の面積が石松霊の倍を超える13,620㎡にもなる。ただし、特定の個人によって相続されたわけではない。1939年、村の共同財産だった土地を黄木根に移転登記することで黄木根が所有権を有することになった。当然、黄木根所有の土地からも賃貸料収益が発生するのだが、村の中学生たちに毎年30万ウォン程度奨学金として支給されるという。

黄木根が立っている琴原村には、すでに100年も前から各家庭でご飯を炊く前に米を一さじずつ集めて共同財産を形成したという記録が残っている。1903年に作られた「琴原契案会議録」(1903年)と「貯蓄構造契案役員録」(1925年)がそれを裏付けている。村の共同体構成員のうち誰かに困難なことが起きた場合に備えて、はるか昔から対策を講じた先人の知恵を垣間見ることができる。

ソクソンリョン

村の安寧と平和を守る木「石松霊」。枝振りが良く、横幅が木の高さの3倍もある奇異な形をしている。横に長く伸びた枝が石柱で支えられている。
ⓒ クォン・キボン(權奇鳯)

真の十勝之地の条件

共同体の結束と平和のためにお互いを配慮する知恵は、醴泉の南側で絶頂に達する。そこには「言塚」と呼ばれる丘がある。これは一見平凡な丘のように見えるが、岩と土を使って人工的に巨大な墓のように作られた構造物だ。集落の間で大小の争いが絶えない状況が続くと、「言」を埋めてしまおうと塚を作ったのである。すべての争いの種は「言」から始まるからだ。

静まりかえっていて、広々とした野原が広がり、しかも物流網がよく整っており、昔から十勝之地として名高い金塘室村と醴泉の各所…。しかし十勝之地とは、豊かな自然と地理的条件だけで成り立つものではない。対人間の意思疎通と共感、そしてそれを可能にする関心と配慮があってこそ、初めて十勝之地となるのである。慶尚北道醴泉への旅は、たとえ正解ではなくても問題解決の糸口をあなたに与えてくれるかもしれない。

言塚

かつて村の住民同士で喧嘩が頻繁に起こると、喧嘩の始まりとなる「言」を埋めてしまおうという意味で作られた言の墓(言塚)。ここには墓とともに言葉使いに注意しようという意味の各種の文句が石に刻まれている。
ⓒ Shin Jung-sik


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クォン・キボン(權奇鳯) Writer

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