韓半島の南端、その中心に位置した晋州(チンジュ)は人口35万の由緒ある都市である。その中心を流れる南江(ナムガン)では昔は日本軍と凄惨な戦いが繰り広げられた。現代になって南江ダム工事により人工湖・晋陽湖(チンヤンホ)の水路になった。晋州では水とともに時は流れる。
湖の見える窓際に座って若い詩人の初詩集を読む。詩と水と旅の属性は互いに似ている。水は大地を静かに流れては留まり、詩は人間の魂の中を流れてはどこかで留まる。旅は人が時間の中を流れるようだ。しばらく旅の足を止めて、時の流れに身をまかせると人は温かくなる。
晋陽湖(チンヤンホ)沿いに位置した町・内村(ネチョン)。ここから旅を始めたのは幸運だ。カフェに座って窓の外を眺めながら詩集のページをめくる。
青銅器時代にも詩があったのだろうか
私の住む都市にある在来市場の中の路地に、若い夫婦が「植える」という名前の書店をオープンした。「木を植える」「花を植える」という「植える」である。
「いったい誰がこんなところで本を読むというのか。絶対に続かないだろう」。
周辺の商人たちは心配したが、取り越し苦労だった。3坪弱の書店に客が訪れ始めた。近隣の鉄道駅で降りた旅行者たちが市場の賑わいを掻き分けてこの書店にやってきた。そこに並んでいる旅行記と詩集と絵本を目当てに足を運ぶ客もいる。放送局や新聞社の記者たちも訪ねてくる。晋州に来る前に「植える」に立ち寄った際に、店主の夫婦が私に一冊の詩集を手渡した。『淡淡』。水が流れるように静かな心とは? 張誠希(チャン・ソンヒ)の初詩集だ。詩を読み進めるうちに詩集のタイトルとは違って、この世で彼が経験した人生の浮き沈みと苦難がそのまま伝わってきた。
慶尚南道・晋州市 (キョンサンナムド・チンジュシ)の中心を流れる南江(ナムガン)沿いの矗石楼(チョクソクル)。その欄干の向こうに晋州市内が見える。高麗時代に建てられて数回の補強と修復を経たこの楼閣は、文禄・慶長の役に晋州城を守る指揮本部の役割をしており、今は慶尚南道が指定した文化財資料として市民たちに愛される憩いの場となっている。
一人で病気になった日
寒さに溶けて形体がなくなった
私は滑稽な人間です
長く歩いてびっしょりになった足裏を押さえつけて
四角い靴を履いて
高いヒールの音をさせながら下へ下へ
降り注ぐ私の親愛なる冷たさ
最後までこだわっていた長い名前が
舌先に残るザラつき
「氷」という題名の詩。涙を氷として表現した隠喩が気に入った。「私の親愛なる冷たさ」も涙の隠喩表現である。四角い靴が目に留まる。人生はヒールの高い四角い靴を履いて、果てしなく虚空をさ迷うものではないか。湖は淡々とした色合いを帯びる。
晋州の青銅器文化博物館内部の展示室に、晋州市大坪面(テピョンミョン)一帯で発掘された青銅器時代の遺物が展示されている。
湖に沿って続く1049番の地方道路を走る。10kmほど車を走らせた時、「晋州青銅器文化博物館」という立て札が目に入った。紀元前1500年頃、ここ三角州に定着して暮らしていた青銅器時代の人々の姿を再現し、発掘された遺物を展示した博物館である。
今から3500年前の人々はどのように暮らしていたのだろうか。400基の穴倉の跡地が発掘されたという記録を読んで、彼らの衣食住が今日の私たちの生活と酷似していることに驚いた。火をつけて土器の釜でお米を炊いたり、川で捕った魚を焼いて食べたり、炭になった桃が発見されたりしたという。穀物を貯蔵していた屋根裏と糸を縒る紡ぎ車、赤紫色の土器も発掘された。
その時代の人々は心の流れをどのように表現したのだろうかと、ふと気になった。山を越えて河を渡って旅をしたかったのではないかと思った。土器の表面をよく見たら、いずれも無紋土器だった。
3500年前のここの人々に詩はまだ存在していなかった。一人旅がそもそも不可能だったのかもしれない。人間が万物の霊長だという認識は、近世以降の人間が生み出した文物に対する知的傲慢や虚勢である可能性が高い。
不運な時代の美しい言語
同じ道を走り続ける。湖に沿って走る道沿いには、ネムノキの花が咲き乱れている。この木を人々は「合歓樹」または「合昏木」と呼ぶ。日中には葉が幹の左右に大きく広がっているが、日が暮れると葉同士で重なるからだ。湖を見下ろせる丘のネムノキの木陰に座って『淡淡』を読み直す。
神と酒
安全な解毒剤だと思っていた名前
冬が過ぎたのに白い息が出る墓が必要な体
私は戦争のような天気、どれだけ暑くなれるか
吐く息ごとにつく疑問符
風が吹いて雨が降るのに
傘もささずに歩くあなたが
倒れた木の陰のようだ
「歩いても歩いても」という題名の詩。「傘もささずに歩いていたあなた」とは、詩人自身である。倒れた木の陰のような1980年代、私は20代だった。韓国にも「詩の時代」と呼ばれる時代がやってきた。政治的な迫害と弾圧が相次いだが、人々は詩を書いた。農民も、大工も、バスの運転手も、鉄筋工も、先生も、鉱員も、看護師もみんな詩を書いた。詩が人々を慰めて癒してくれる魂の憩いの場だった。100万部以上売れる詩集が続々と刊行されていたその時代を人々は愛した。
『淡淡』を書いた若い詩人よ、絶望しないでください。愛おしい言語が傍にあるから、いつかあなたに人間の魂がどれほど悲しくて美しいものなのかを、ちゃんと綴れる日が来るだろう。
病んでいる人の心の中に詩があり、詩の中に痛ましい魂の旅があると思った。3500年前の青銅器時代の人々に詩がなかった理由は、彼らに痛みが存在していなかったためではないかという気がした。
ケシの花よりも赤い心の女性
3階建ての晋陽湖(チンニャンホ)の展望台で市民たちが河辺の夕日の景色を楽しんでいる。
矗石楼(チョクソクル)は、晋州城の中にある楼閣である。南江を見下ろせる高台にある美しいこの楼閣は、韓国人に歴史の傷みと慰みをともに与える魂の場所だ。
1592年日本は朝鮮を侵略した。その後7年間続いた文禄・慶長の役。1592年10月日本軍が2万の兵力を動員して晋州城を攻撃した際に、当時晋州の牧使(知事に相当)であった金時敏(キム・シミン)は、3800人の兵力で戦って勝利を勝ち取る。7日間続いた戦闘の末、300人余りの日本軍将師(指揮官級)と1万人の日本兵が失なわれたことからも、戦闘の壮絶さがうかがい知れる。金時敏はこの戦いで敵弾に撃たれて戦死したが、当時39歳だった。
第2次晋州城の戦いは翌年の1593年6月に始まる。梅雨の中で繰り広げられた戦闘の末、晋州城が陥落する。城内のすべての兵士が日本兵と戦って戦死したり、南江に飛び込んで死亡したり、百姓たちは殺戮される。日本兵が本国に送った首級は2万に上る。溺死者によって河川の流れが塞がったほどだという。晋州城は陥落したが、この戦いで大きな損失を被った日本兵は結局、朝鮮の穀倉地帯の全羅道(チョルラド)を占領することができず、朝鮮征服の野望を諦めざるを得なかった。それゆえに戦いの偉大なる香りは深い。
この戦いの果てに咲いた1輪の花のような女性の話が語り継がれる。論介(ノンゲ)。論介は妓生(芸者)と言われたり、良人(ヤンイン)の身分とも言われるが、その違いは重要ではない。晋州城の戦いが終わって、日本軍は戦勝祝いを行った。論介は敵将の毛谷村六助を抱き込み南江に飛び降りる。論介が敵将を抱いて投身した岩を晋州の人たちは義岩(イアム)と呼び、論介の位牌を祀る位牌堂の義妓祠(イギサ)が、南江を見下ろす山腹に位置している。韓国の詩人・卞栄魯(ピョニョンノ)は論介について次のように歌った。
晋州城壁に沿って形成された「仁寺洞(インサドン)」と呼ばれる600mにおよぶ骨董品通り。1970年代後半から骨董屋さんが一つ二つと店を構えて、今のような街の風景が出来上がった。
神々しい憤りは
宗教よりも深く
熱い情熱は
愛よりも強い
ああ、ツルナシインゲンマメの花よりも青い
その波の上に
ケシの花よりも赤い
その心流れろ
美しかったその眉
高くなびいて
ザクロの実のような唇
死の接吻!
ああ、ツルナシインゲンマメの花よりも青い
その波の上に
ケシの花よりも赤い
その心流れろ
晋州の人々は、毎年10月開かれる油燈(ユドン)祭典を街の誇りとしている。国際祭り協会(IFEA)は、この祭典を固有のストリーを持つ美しい祭りとして認定し、2015年の総会で晋州に「国際祭り都市」賞を授与した。
祭典が始まると、南江一帯は色とりどりの美しい灯りで埋め尽くされる。夜空には星より多くの提灯が輝くが、これは晋州城の戦いにおいて、城内の人々が城外の人々に自分の安否を伝え、城外の人々が城内の人々に故郷の便りを伝えたことから由来した。
旅人のあなたが10月初めに晋州に立ち寄るならば、旅がもたらす予期せぬ贅沢さに胸がときめくかもしれない。あなたの名前とあなたの夢、あなたの懐かしい想いを刻んだ提灯を秋の夜空に飛ばすことができるから。今から425年前の晋州の人々が南江を最後の砦に繰り広げた戦いを、その時の彼らの気持ちになって考えてみることもできるだろう。
小説家が愛した骨董品通り
晋州市南江路一帯で毎年 10月開催される晋州南江油燈祭りで文禄・慶長の役当時の戦いが再現されている。
私は晋州城壁に沿って形成された古い街が好きだ。この街はソウルの有名なアンティーク通りである仁寺洞(インサドン)と同じ名前を持つ。晋州市仁寺洞に寄るたびに思い出す人がいる。今は亡き小説家・朴婉緖(パグワンソ)だ。
彼はこの街をとてつもなく愛した。ソウルの仁寺洞はあまりにも混雑し、物価も高いのに比べ、ここは閑散としている上に人情に厚いので、歩くに値すると述べている。晋州の骨董商たちはほとんど1~2冊ずつ朴婉緖の作品を読んでおり、ある人は彼の本を取り出してサインを頼んだりもしたものだから、自分の作品を大切に思う読者の心は作家にそのまま伝わっていた。
「洗練された西洋絵画や非具象作品と一緒に並べても朝鮮木家具は見劣りしない。品位を保ちながら、静かに静物を完成させる力がある」。
彼の言葉を思い浮かべて数軒の骨董屋さんを見て回った。どうしても手に入れたい物が目の前に現れた。出来心で素焼きの陶磁器一点を300ドルぐらいで買った。朴婉緖先生が生きておられたら「郭さん、どこでそれを見つけたのですか。見る目がある」と言われたはずだ。
詩が芽生える場所、詩があるべき場所
晋州市立「李聖子(イ・ソンジャ)美術館」は2015年に開館した。李聖子(1918-2009)は、金煥基(キムファンギ)、李應魯(イ・ウンノ)らと並んで、20世紀韓国美術を世界に知らしめた晋州出身の西洋画家である。
展示された彼の多くの作品に詩的題名がついている。「風の息吹」「未明のささやき」「心配のない人魚」などの作品が私の心を和ませてくれた。
日本植民地時代に日本に留学した後、朝鮮戦争の真っ只中の1951年にフランスに留学したという彼の履歴が、絵に影響を及ぼしたに違いない。苦しみの中故国と、故郷の人々を忘れることなんて到底できない。
病んでいる人の心の中に詩があり、詩の中に痛ましい魂の旅があると思った。3500年前の青銅器時代の人々に詩がなかった理由は、彼らに痛みが存在していなかったためではないかという気がした。今よりその時代の人々の方が平和で穏やかだったのかも。詩を生み出した人間の歴史はその時代より後退したのかもしれない。