坂部仁美(さかべ・ひとみ)さんは十代前半に、両親とともに渡韓した。今では、故国日本よりも異国韓国でより多くの時間を過ごしたことになる。彼女は韓国で過ごした期間を、芸術家として教授として、様々な境界を行き来しながら、常に最善を尽くした。
啓明大学校 Artech Collegeで視覚デザインを教えている坂部仁美さんは、子供の絵の挿絵画家としても活発に活動している。夏休みや冬休み、授業が終わった後の時間を使い、研究室で絵を描いている。
近くて遠い国」というフレーズで韓国と日本は長い間、お互いを修飾してきた。芸術家である坂部仁美さんもまた、これに同意する。彼女の眼に両国は、世界の隣国同士の関係性に比べてまったく異質に映る。これは何よりも両国の国民性から起きている。
坂部さんが日本に帰らない最も大きな理由は、両国の差異性にある。日本のほうが韓国よりも現代美術の歴史がより長く、芸術に対する大衆の関心がより大きいにも関わらずだ。
「韓国に比べれば、日本ははるかにより安定的で予測可能な社会です。ほとんど変わらないでしょう。片や韓国は非常にダイナミックで、活力にあふれています」と彼女は言う。
「日本は一つの出来上がった社会として、その独特さを示しているのだとしたら、韓国は、日本よりも世界に向けてさらに開けており、外国人とも仲良くできるようです」
「私は日本があまりにも閉鎖的で窮屈さを感じますね」彼女は、日本で暮らしていたらたぶん仕事はしてはいないだろうと言う。「私の友人たちを含めて大部分の日本女性たちは韓国女性に比べて、状況をあるがままに受け入れ内面化して、仕事をしようという動機づけが足りない気がします」
根を下ろす
根深い反感とともに日本に対する韓国人の複雑な感情を考慮するとき、韓国に暮らしている日本人ならば不便さを感じる点もあるかもしれない。しかし、日本よりも韓国にとりわけ長く暮らしている坂部さんは、気楽に考えている。今では韓国社会により慣れてしまい、故国の日本を訪問したときに、むしろ文化的な衝撃を受けるほどだという。
東京で生まれた坂部さんは、日本の中部地方に位置する名古屋近郊の小さな海辺の町で育った。1996年、中学1年の時に両親とともに韓国に来た。ソンファ芸術中・高等学校を卒業し、大学で現代美術とデザインを学び、ソウル大学校大学院でデザイン学博士号をとった。
坂部さんは、大学時代に出会ったIT業界に務める韓国人男性と結婚し、2010年と2015年生まれの二人の子供がいる。上の子が生まれた後、彼女は子供向けの本の挿絵を描き始めた。数冊の絵本を出版し、各国で展示会も開いた。コンピュータで描いたきちんとした線よりも、手書きの温もりのある線が好きな彼女の作品は、もこもことした柔らかな形と、幼いころの思い出を蘇らせるような、多彩な風景が描かれている。
自らを「境界人」あるいは「周辺人」だと呼んではばからない坂部さんは、今の時代には多様な技術が要求されていると言う。「マルチタスキングが求められるこの時代に、私にできる仕事の範囲を確定しようと努力しています。不確実な未来が新しい挑戦をするように強要するんです」
「もし私が画家として、デザイナーもしくは挿絵画家の中の一つの職業に没頭していたなら、今よりずっと容易かったかもしれません。主題を一つに絞って様々な観点から勉強すればよいのですから。しかし、一つのことに集中できる状況ではないとして、私自身を発展させ続けていくためには、ほかの領域を探し求めることになります」
坂部さんがもっとも関心のあるテーマは、「記録保管」すなわち現在を保存することだと定義する。人々と日常、例えば服のパターンのようなものが、彼女が好きなテーマだ。大邱大学校視覚コミュニケーションデザイン科の助教授である彼女は、大邱を「韓国の名古屋」と呼ぶ。この二つの都市が、それぞれの国で占めている歴史的・産業的な重要性が互に似ているからだ。「学校で最善を尽くして学生たちに教えようと思っています。学生たちをサポートするために、私の強みをどのように活用すべきかを、常に悩んでいます」と彼女は言う。
彼女は夏休み・冬休みはもちろん、講義が終わった後などには、自分の絵と挿絵に専念する。彼女が好きな画家はアンリ・マティスだ。このフランスの画家の、楽しい気分にさせてくれる溌剌とした雰囲気が好きだという。
冷静な現実
現在の韓国と日本の関係は、日本の戦時徴用工賠償問題に対する合意がなされず、さらに悪化した状態だ。辛い記憶とこみあげてくる怒りは潜在化し、常にぎくしゃくした両国の関係が、最近になり難局を迎えている。坂部さんが高校時代に韓国史を習った時の教師・学生ともども、日本人を「チョッパル」と呼んでいた。
韓国と日本は不幸な歴史のせいで、他国における隣国同士のようになるのは難しいと坂部さんは考えている。「私を含めて韓国で長い間暮らしている日本人は、一種の原罪意識を持たざるを得ません」
彼女は20年以上も暮らしてきた国で、ときどき異邦人だと感じると認める。「一般化するのは難しいですが、多くの日本人が韓国人を荒々しいと思っている一方で、韓国人は日本人が正直に感情を表現しないと思っています。私の考えでは、韓国人と日本人それぞれ敏感になる部分に国民性の違いがあるようです」。彼女は両国の“世代間の関係性”を例にあげる。「韓国人たちは年齢を非常に重要視します。韓国では年齢のいった店の主人が、お客が幼いという理由できちんと接しないことがよくあります。半面、日本では大学教授も学生たちに対するときに礼儀正しくしようと努力します」
このような違いにも関わらず坂部さんは、自分の子供たちが韓国人の血をひいていることを幸いだと考える。日本の子供たちに比べてより挑戦的で、堂々と現実に根を張り、変化に対して前向きの態度を見せているからだ。韓国的な方式になれた彼女は日本を訪問すると、ときどき当惑してしまうことがある。「日本社会はそれなりの規則を固守し、人々はそのような基準から抜け出すことを恥だと考えます。そのような面では韓国の方がやや開放的で、国際的だと言えます」
「私たちは共に生きていかなければならない隣人です。
個人は、隣人が嫌いなら他のところに引っ越すこともできます。
しかし国はそうはできないでしょう」
2019年夏に出版された『おばあちゃんの家が大好き!』は、ひとみさんの子供たちが日本の祖母の家で経験したことを描いた絵本だ。子供たちの思い出とひとみさんの温かな絵がピッタリあっている。
似ているようで違い、違うようで同じ
現在、両国が直面している外交的な葛藤に対して質問すると坂部さんは、この問題は政治だけで解決することはできないと言う。韓国人の知人たちは、韓日戦のサッカー試合が行われると、私の子供たちがどちらの国を応援するのかと尋ねるが、坂部さんは国際関係は勝敗のつくスポーツとは違うと強調する。「私たちは共に生きていく隣人です。個人は隣人が嫌なら、ほかに引っ越すこともできます。しかし、国と国はそうはいきません」
坂部さん家族が日本を訪問するときには、子供たちが両親の家の近くの学校に通えるように考慮している。一方に偏った狭い考えが偏見を招くので、子供たちが文化的な多様性を身に着けるのが重要だと信じているからだ。
坂部さんは将来に対して大きな抱負はもっておらず、現在の仕事を持続できることを希望するだけだという。「私は様々な境界を行き交ってきました。将来もそうするつもりです。それが私には弱点として作用することもあるでしょうが、境界人の位置は利点となることも、多々あるんです。ときどき、弱者に見える人々が成功して活動しているのを見かけるではありませんか。私自身をそのようなダークホースだと考えたいんです」
「私たちはみんな誰かとつながりたいと思っており、大小の共同体と社会を成しています。他の人に自分のことを知ってほしいと思っています。違うようで似ている、同じようで違う私たち」と、ご自身の絵とエッセイ『そのように人生はきちんきちんと』のカバーの裏に坂部さんは綴っている。
チェ・ソンジン韓国バイオケミカル・リビュー 編集長
ホ・ドンウク許東旭、写真