世界的なビデオアーティストのナムジュン・パイク(白南準)が他界し十余年になるが、今も彼の作品の保存・管理に勤しむ人がいる。ソウル世運電子街で電気修理店を営むイ・ジョンソン(李正成)さんは、白南準に出会って専従のエンジニアとなり、やがてかけがえのない協力者として、アイデアメイトとして共に仕事をするようになった。
白南準の作品設置の専門家イ・ジョンソンさんが、2010年仁川松島Tribowlに展示された『M200』の前に座っている。1991年に製作されたこの作品は、横9.6m、縦3.3mの大型ビデオウォールで、合計94台のモニターで構成されている。© ニュースバンク
世界最初のビデオアーティスト、ナムジュン・パイク(白南準)の隣にはイ・ジョンソン(李正成)さんがいた。このコンビの始まりは、1003個のテレビ受像機を積み上げた作品『多々益善』(1988)だった。それからの18年の間、李さんは白南準のビデオ設置作品にテレビ設置技術者として加わり、共に世界中を飛び回った。そしてその間に、彼はだんだんと技術者以上の存在となり、白南準の協力者でありアイデアメイトとなっていった。白南準の頭脳は「イ・ジョンソンの手」という翼をつけ、イ・ジョンソンの手には「白南準の頭脳」があったので飛び立つことができたのだ。
イ・ジョンソンさんに会うために、ソウル鍾路区清渓川路にある世運電子街を訪れた。6階にある事務所兼の作業室に彼はいた。古びたテレビとテレビの部品が無造作に置かれた棚、白南準に関する書籍が並び、縦に長く伸びた書架、その先に彼の机が置かれていた。『多々益善(多いほどよい)』を組み立てたその手が、私の手をぎゅっと握り締めた。
信頼の始まり
イム・ヒユン:いつからここで働いているんですか?
イ・ジョンソン:世運電子街は1968年に完工しましたが、私は1961年からこの街にいました。その頃は宗廟前から退渓路まで、何ブロックにもわたってバラック小屋が続いており、そこに古物や電子部品を扱う商店と作業場が集まっていました。私の最初の仕事は、釜山にいた下の兄の真空管ラジオ工場からはじまったんです。
イム:ラジオからテレビに?ソウルにはいつ来たんですか?
イ:小さい頃から兄のラジオが大好きでした。布団をかぶって夜通し聞いていたものです。しかしバッテリーの値段が高くて、兄からいつも怒られていました。ラジオが珍しくて、ついにはその蓋を開けて中をのぞいてみることを覚えました。家族には「これを勉強してみる」と告げました。姉がソウルで一部屋間借りして住んでいたんですが、「縁側で寝るからご飯だけ食べさせて」と頼みこみました。そうして乙支路2街の国際テレビ学院に通い始めたのが、18歳の頃でした。学院卒業後、世運電子街で働くようになりました。その頃はまだ一般の家庭にはテレビがありませんでした。KBSテレビが出来る前のことです。お金持ちの家ではアメリカ軍の放送を見ようとテレビを買っていました。私はそんな家を相手にテレビの設置と修理の仕事を始めました。
イム: 白南準さんと出会ったきっかけは?
イ:その前にこの話からしなくてはなりません。韓国で家電博覧会が初めて開かれた年が1986年です。今の三成洞COEXのあるところでソウル国際貿易博覧会が開かれ、三星とLGの競争が熾烈をきわめていました。オープニングでいかに画期的な展示をするかをめぐり、互いに徹底した保安体制のもとで頭脳を競っていました。当時三星側から私に「TV wall」(壁内配線の壁掛けテレビ)の設置を依頼してきました。短時間に528台のテレビを完璧に積み上げました。その後、ソウルの三星電子の主要代理店のディスプレイは、すべて私に一任されたんです。
そして1988年になりました。白南準先生が『多々益善』を創るために技術者を求めて、探し回った挙句に三星の仕事をしていた私に連絡が来たんです。「1003台の仕事をしてくれないか」と言うんです。「いいですよ」と答えました。「528台も出来たのだから、二倍に増やすのもできないわけがない」と考えたんです。その時まで白南準先生がどんな人物で、これに失敗したら世界的に大恥じをかくなどということは全く知りませんでした。無知ほど勇敢なものはないと言いますでしょう?
イム;それで『多々益善』の作業は順調に進んだんですか?
イ:白先生は私に1003台を設置するようにと命じて「頼んだよ」と一言言い残し、アメリカに帰ってしまいました。信じるときには無条件で信じる、そんな思い切りの良い人でしたね、あの方は。当時大規模なテレビ設置で最も大きな課題は、映像分配器をどのように準備するかでした。日本にもテレビ6台を連結する分配器しかありませんでした。しかも1個が500ドルもする高価なものでした。それで分配器を自分で作り始めたんです。その結果、約束した生放送の日時に1003台を完全に作動させることができました。気分は最高でしたね。白先生も驚かれたようです。後に韓国に来て「正直、半分動けば十分だと思っていた」と打ち明けておられました。そしてこう訊ねられたんです。「ニューヨークで作品を一つ創らなければならないんだが、出来るかい?」と。私は「ええ。はい、やりましょう」と答えました。それが1989年ホイットニー美術館に設置した作品『世紀末Ⅱ』でした。
それを設置した後に今度は、白先生は私を言葉も通じないスイスに派遣したんです。テレビ80台を1週間で設置しなくてはならない作業でしたが、大きな部品カバンのせいでチューリッヒ空港では税関員と身振り手振り、韓国語でやりあいました。美術館側と協議して閉館後まで作業時間を延長してもらいました。そして5日もかからずに作業を終えて、観光までして帰ってくると白先生は私の度胸と臨機応変さを見て、完全に信頼してくれるようになりました。
意見交換
1994年ソウルの事務室で、イ・ジョンソンさんと共に『メガトロン』の初期バージョンを試験している白南準 。イ・ジョンソン氏提供
イム:白先生は芸術家で、イ先生は技術者ですよね。作業のための意志の疎通に問題はありませんでしたか?
イ:白先生と私の間には正式な図面などというものはありませんでした。二人でレストランやカフェで多くの時間を過ごしました。世界のどこに行っても、何時間でも座って討論をしながら、レストランのナプキンやテーブルクロスにアイデアをスケッチしたりしました。時にはLPレコードの袋や、タバコの包み紙にも書きました。子供の落書きのような絵と字がまるでスパイの乱数票のようでしたが、私さえ分かればよいのですから。
「あの時、フランスのカフェで話したやつ。あれやってみようか」「ニューヨークで話したやつ。あれ一度やってみよう」。こんな風に作品がはじまりました。アニメーションイメージをビデオ映像と一緒にディスプレイした『メガトロン』(1995)のアイデアもそんな風に生まれました。パリのポンピドゥーセンターで展示が終わりレセプションの日でした。
1993年ヴェネツィア・ビエンナーレに出品された作品の図面。ドイツ館代表として参加した白南準は、最高の栄誉である金獅子賞を受賞した。
白南準がイ・ジョンソンさんにプレゼントした絵。
パリのモンパルナス駅近くのカフェで、白南準がテーブルクロスに描いた『メガトロン』のコンセプト図面。『メガトロン』1号はワシントンのスミソニア博物館、2号はソウル市立美術館、3号はソウルのソマ美術館にそれぞれ所蔵されている。
2018年、上海の HOWアートミュージアムで開かれた「白南準・ヨゼフ・ボイス:見者の手紙展」に展示された作品の一つ『Tower』(2001年)。イ・ジョンソンさんが2週間ほどかかって作品を設置した。イ・ジョンソン氏提供
我々二人は、ポンピドゥーセンター広場で身体の調子が悪いと言いわけをして外に出ました。その足でモンパルナス駅の近くのカフェに行き、一番良い席に座りました。その席からは当時ヨーロッパ最大規模の大型ネオン広告を一目で見ることができました。ウエイターにチップまで渡してとった窓辺の席でした。二人で座って窓の外を見ながら、あれを作品にしようと構想しました。
イム:先生は技術者ですよね。当時芸術界でも追いつけなかった白先生の芸術世界を、どのように理解されたのですか?
イ:では逆にお聞きします。ピカソの絵が分かりますか。芸術作品を受け止めるのに正解はありません。人々がその作品をなぜ好きなのか、気にすることもありません。ただ「面白い」「きれいだ」と自ら感じればよいのです。最初は私も白先生に言われるがままに受け身的に作っていました。しかしいつからか、私も虚心坦懐に自分のアイデアを先生に提案するようになりました。「先生、これを追加したらもっと面白いと思うのですが、どうでしょう」と言うと、白先生は「やあ、なぜもっと早く言わないんだ」とおっしゃいました。その時には「ああ、こんな風に話をすれば自分のアイデアにも耳を貸してくれるんだ」と思ったものです。展示場の環境と技術的な限界を考えた私のアドバイスを、白先生は積極的に受け止めてくれました。
そんな風に、自由に意見交換をして芸術世界に一緒に踏み込んでいきました。また、外国に一緒に行った時などは、たいてい夜通し話をしました。たとえばニューヨークのコリアタウンに行けば、白先生は食堂で6人用のテーブルを予約するんです。二人で行って食事を6~8人分注文して、午前4~5時まで話し込むんです。白先生は主に正午に起きて夜仕事をするのが日課だったので、午前2時や3時でも目がらんらんと輝いていました。
イム:どんな話をそんなにたくさんしたのですか? 白先生はどんな方でしたか?
イ:話題がぽんぽん変わるんです。自分の同窓生がどんな暮らしをしているか、韓国政治がどうなっているか話していて、突然「パク・キョンリ(朴景利)先生の小説『土地』のあらすじは」という具合です。白先生は韓国の状況に対して博識でしたが、新聞の隅から隅まで読んでいたからです。あの方の実力は新聞から出てきたと言えます。ニューヨークタイムズ、ワシントンポストから韓国のいくつもの新聞まで一抱えにして、毎日先生のお宅に持っていくのも私の仕事でした。たくさんの新聞にいちいち全部目を通していました。
生前に白先生にたずねたことがありました。「テレビが故障したらどうするんですか」と、すると「その時にはよく映るテレビに変えればいいよ」とおっしゃってました。
保存と復元
イム:京畿道果川の国立現代美術館の『多々益善』の電気が切れて動かなくなってだいぶ経ちます。モニターの交換を含めた復元方法をめぐり美術界でいろいろな意見が出ており、状況が停滞していますが。
イ:いろいろな方法があります。一つ目はブラウン管の交換です。しかし実行するのは非常に難しい案です。高さ19mのピラミッド型だからです。支持台と足場を立てることからが大変です。私が勧める方法は古いブラウン管をLCDに交換することです。しかし平面LCDに変えるとブラウン管のもつ原作の曲線を壊すという意見がでていますね。私はそうは思いませんが。メディアアートにおける作者の精神は、ハードウェアーではなくソフトウエアーにあるのではないでしょうか。ソウル市立美術館の『ソウルラプソディー』(2001)は平面です。白先生が『多々益善』を作ったときはブラウン管が良くて使ったのではなく、当時はそれしかなかったので仕方なく使ったのです。ですから原作を傷つけるという意見には同意できません。
そんな論理ならば絵画作品の復元も反対すべきです。ミラノのサンタ・マリア・デッリ・グラッツエ聖堂にあるダビンチの『最後の晩餐』も輪郭線だけ残っていたのを数年にわたって再び描いたのではありませんか。だったらあの作品にも手をつけるべきではなかったはずです。 生前白先生にたずねたことがありました。「テレビが故障したらどうするんですか」と。すると「その時にはよく映るテレビに変えればいいよ」とおっしゃってました。たぶん今の状況を白先生がご覧になったら大笑いされると思います。一角では撤去してしまおうという意見もあるようですが、そんなことをしたら国際社会から物笑いの種にされてしまうでしょう。
イム:白先生の作品を管理する仕事も多いですよね。それ以外には最近は何をされていますか?
イ:しばらく前には、慶州にある作品『108番脳』(1998)がひどく破損していたので1週間かけて復元し、大田市立美術館の『フラクタル巨亀船』(1993)にも手を入れてきました。最近ではニューヨークのホイットニー美術館に行き『世紀末Ⅱ』の補修作業を終えてきました。それ以外には、若いアーティスト志望の若者にアドバイスをしたり、時には講義もします。今年の秋頃に、中国の南京で大規模な白南準展を開くので、その仕事もしなくてはなりません。また、先生のアーカイブの整理にも心血を注いでいます。
イム: ユーチューブの時代ですね。この時代の白南準アートをどんな風にご覧になりますか?
イ:画期的な作品を創ろうと先生は借金をして回ったものですが、現在の技術力ならば本当に面白い作品をたくさん創られたことでしょう。晩年にはテレビアートをやめてレーザーアートをしようとされましたが、費用が高すぎました。軍需用のレーザーをやっと使う程度でしたから。もし白先生の時代にレーザーとLEDが活性化していたら、私たちは白南準をもう一人手に入れていたことでしょう。
イム:今も白先生と作業をしたときのことを思い出しますか?
イ;もちろんです。一介の技術者だった私が白先生と出会い一緒に芸術作業をしたのですから、思う存分生きてきました。実は月に2、3回は今でも夢で白南準先生に会い、一緒に作業をしているんです。全く新しい作業をです。夢の中では昔の作業をすることはありません。いつも新しいものを追及していた白先生の頑固さは、未だ健在ということでしょう。
ソウルの世運電子街にあるイ・ジョンソンさんの作業室は、彼が収集した古いテレビと電子部品でいっぱいだ。白南準の脳は「イ・ジョンソンの手」という翼をつけ、イ・ジョンソンの手は「白南準の脳」があったので飛び立つことができたのだ