大邱(テグ)はその名の通り「大きい丘」の上に数多くの路地が入り組んでいる都市である。路地には、それぞれ異なる歴史や物語が秘められている。パリのモンマルトルを思い起こさせる青蘿(チョンナ)丘と韓国初期のキリスト教建築を象徴する桂山(ケサン)聖堂のような洋風建築物は、韓国の近代文化の趣がきちんと保存されている博物館に他ならない。
大邱(テグ)は一時期、丘全体が白いりんごの花で覆われれるほどりんご畑が多く、最も美味しいと大邱りんごは全国的に人気が高かった。しかし最近では、地球温暖化の影響でりんご栽培地域が北の方に移動し、大邱ではりんご果樹園が見かけられなくなった。
1 7歳の時の出来事である。その時私は修学旅行中だった。高校卒業前に、国内の由緒ある場所へ旅行することは、当時の生徒たちにとって最も胸がときめくことだった。私たちの修学旅行先は新羅の古都・慶州(キョンジュ)だった。
バスが慶州に着く前にりんごの樹が果てしなく続く丘が目に入った。季節は春、りんごの花が満開だった。バスの窓を開けると風が吹き込んできて、あちらこちらに白い花びらが舞っていた。そのとき初めて「花の雨」という言葉が世の中に存在していることを知った。バスは花の雨の中をしばらく走って慶州に到着したが、私は慶州の古跡よりもりんごの花が風に舞う丘の街の風景のほうが、記憶に焼き付いている。その丘の街の名前が大邱(テグ)だった。
かなり時が経ったにもかかわらず、私にとって大邱は依然としてりんごの花の香りとして思い出される。丘ごとに白い花が咲いており、花の樹の間に家々が点在していたので、詩的な趣が深く感じられたようだ。あれから45年、大邱は大きく様変わりしている。人口250万人の都市になり、りんご果樹園は地球温暖化の影響によってほとんど見かけられなくなった。
「近代路めぐり、千の路地に千の物語」
大邱のダウンタウンに足を踏み入れた時、このような標語が目に付いた。この標語が印刷された立て看板が標識のように路地の入り口あたりに立っていたが、そこには靴下路地、印刷路地、コプチャン(ホルモン焼き)路地、カルビ路地のような名前が併記されていた。「千の路地」とそこににじんでいる暮しの物語を、都市観光テーマとして掲げた人々の想いが温かく感じられた。
1910年ごろ建てられたスイッツァ家の庭園には、アメリカから最初に韓国に持ち込まれたりんごの樹の子孫木が生育している。この古宅に住んでいた宣教師・スイッツァ氏は、近くの「恵みの庭園」に埋葬された。
韓国近代史が記録された路地
地元住民が「青蘿(チョンナ)丘」と呼ぶ小さな丘を登る。青蘿は「青いツタ」を指す言葉である。ここには学校やキリスト教会、病院など、韓国の近代洋風建築が立ち並んでいる。当時は馴染みの薄いこの建物の赤い煉瓦の色にツタの葉の緑が映えて人々の目を引いたに違いない。大邱の人々がここを「モンマルトルの丘」と呼んで大切にしているゆえんであろう。
大邱出身の作曲家・朴泰俊(パク・テジュン、1900~ 1986)は、『友達想い』という歌曲を作ったが、これには世間にあまり知られていない逸話がある。彼は信明(シンミョン)高校に通っていたある女子高生に片思いをし、その胸中を時調(定型短詩)詩人・ 李殷相(イ・ウンサン、1903~1982)に伝えた。その話を聞いた李殷相が恋心を作詞し、1992年にこの歌が生まれることになった。
「青蘿丘のような私の心に/百合のような私の友よ/君が私の心の中で咲くと/すべての悲しみが消え去る」という歌詞は、初恋に悩む数多くの韓国人の胸を打った。国民歌曲が誕生したのだ。
一方、この丘の上には19世紀末、韓国を訪れた宣教師たちが住んでいた住宅が三軒立っている。その中のスイッツァ家の庭園には、1899年アメリカから最初に韓国に持ち込んだりんごの樹の子孫木が生育している。東山(トンサン)病院の初代院長だったアメリカ人・ジョンソン博士がミズーリ州のりんごの樹の苗木を持ち込んで植えた。オリジナルの樹を見ることはできないが、その木の子孫が生き残って大邱りんごの元祖になったということを考えると、歴史の深さを改めて思い知らされる。大きめのスモモサイズの赤りんごが愛らしかった。
「90階段の街」あるいは「3・1万歳運動の街」と呼ばれる小さな階段は、青蘿丘と市街地をつなぐ路地の役割をする。1919年3月1日、韓国の民衆は日本の侵奪に抵抗し、全国的に独立運動を繰り広げたが、当時ここの学生たちは森の中のこの路地を通って市内に出かけて独立万歳を叫んだ。日本の警察の目をかわすため、男子学生は商人の服装に変装し、女子学生はタライを手にパルレト(公共の屋外洗濯場)へ行くふりをしたという。
この階段を下りて大通りに出ると、向かいに桂山(ケサン)聖堂が見える。1902年に建てられたゴシック様式のこの聖堂は、大邱最初の洋風建築であり、韓国に現存する最古の聖堂の一つでもある。折りよくミサが執り行われているところだった。神父様の声とステンドグラスの窓から差し込む日差しが暖かくて気持ちよかった。ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が、1984年5月5日「韓国カトリック103位列聖」のミサを捧げた聖堂だ。最初に聖堂が建てられた時、82年後に法王がミサを執り行うとは誰しも想像できなかったであろう。
名前ほど長くない路地「ジンゴルモク」
1902年にゴシック様式で建てられた桂山(ケサン)聖堂は、大邱で最初の洋風建築物であり、韓国初期のキリスト教建築様式をよく見せている。
桂山聖堂のすぐ隣の路地の中ほどに民族詩人・李相和(イ・サンファ、1901~1943)の故宅がある。
今は他人の土地
奪われた野原にも春は訪れるだろうか
私は日差しを体いっぱいに浴びて
青い空、青い野原が出会うところへ
分け目のような畦に沿って夢の中をさ迷うといわんばかり
に歩く
このように始まる李相和の詩、「奪われた野原にも春は訪れるだろうか」は、自由と独立に対する夢を切望していた当時、韓国人の心を打った。日本帝国主義が、この詩を載せた文学雑誌『開闢』を廃刊に追い込んだことからも、どれだけ彼の詩を脅威に感じていたかが伺える。
道はすぐジンゴルモクにつながる。ジンゴルモクとは大邱の方言で「長い路地」を意味する。生粋の大邱人たちの間では、「そこで待ち合わせしよう」と約束する際の「そこ」とは、当然のごとく「ジンゴルモク」を指していたという。ところが、名前とは裏腹にジンゴルモクは、思ったほど長くない。一度足を踏み入れると道に迷いがちなインドのヴァーラーナシー旧市街や、ユネスコの世界文化遺産であるモロッコのフェズ旧市街地とは大きく異なる。これはおそらく路地を生活の基盤にしていた彼らの身分と関係があるようだ。ヴァーラーナシーとフェズの場合、平凡な庶民たちの住居地がぎっしり立ち並んでいるのに対し、ジンゴルモクは大邱の上流階級であるソンビ(学者)が住み着いたからだ。
ヴァーラーナシーを初めて訪れた時のことである。当時、私はヴァーラーナシーの「迷路地図」を描くという目標で、火葬場へ向かう路地の入り口に入った。モンスーンの雨で幅1m前後の狭い道が泥だらけになり、悪臭を放っていた。火葬場へ向かう葬列が5分に一度の割合で棺を運んできたが、シヴァへのお祈りの音が陰鬱に感じられた。牛はなぜこれほどまでにまたどれだけ多いかというと、牛が群れをなして路地の中にぞろぞろと歩いてくると、壁に体をくっつけていても牛とすれ違うほどだった。その日、私は迷路地図の製作という夢を諦めた。荒々しいヴァーラーナシーは自分の浅い旅行歴では手に負えないと思ったからだ。
薬材卸売商が集まっている古典的な路地に、最近おしゃれなインテリアで室内空間を演出したコーヒーショップが立ち並び、若者と旅行者の足を向かわせている。漢方薬の匂いとコーヒーの香りが共存する、風変わりな香りの街並みなのだ。インドのヴァーラーナシーやモロッコのフェズでもこのような街は滅多にお目にかかれない。
在来市場で感じる幸せ
大邱・薬令(ヤクリョン)市場は、歴史を1658年にまで遡るほど韓国南部の地域で最も大きい漢方製剤市場である。最盛期には日本と中国はもちろん、アラビア商人までも集まってくる国際市場だったという。
ジンゴルモクを通って薬令(ヤクリョン)市場へ足を運ぶ。ジンゴルモクから徒歩で10分の距離にあるこの路地を大邱の人々は、「ヤクジョンゴルモク」と呼ぶ。入り口を入ると、漢方薬を煎じる匂いが立ち込める。「この道を歩くだけで万病が治る」という大邱住民の言葉からは、この空間に対する自負が滲み出ている。
西洋人が神秘的に感じる漢方薬治療の要は香りだ。薬剤が持つ固有の香りで体内から病気を追い払うのだ。そのような意味でここに暮らす人々は幸せだ。風邪気味だったり、胃もたれを感じていたりすると、漢方薬の匂いを嗅ぎながら1~2時間くらいヤクジョンゴルモクを歩くだけでも症状が好転するからだ。なんて幸せなんだろう。ここが薬令市になったのは、1658 年春と秋の2回薬剤市場が開かれてそれ以来、伝統になった。最盛期には日本と中国はもちろん、遠くはアラビア商人まで集まってくる国際市場だったという。
薬材卸売商が集まっている古典的な路地に、最近おしゃれなインテリアで室内空間を演出したコーヒーショップが立ち並び、若者と旅行者の足を向かわせている。漢方薬の匂いとコーヒーの香りが共存する、風変わりな香りの街並みである。ヴァーラーナシーやフェズでもこのような街は滅多に見られない。もしあなたが香りに特別な感覚のある旅行者ならば、この路地をぜひ訪れてほしい。
在来市場で感じる幸せは、希望する商品を値引き交渉しながら購入するところにある。イスタンブールのグランバザールで経験した出来事が思い浮かぶ。15世紀にできたその市場では、5千軒余りの店舗があらゆる種類の生活用品を売っていたが、すべての商品から伝統の香りがした。日常用品、家具、衣類、絹、銀の工芸品、カーペットなどの様式が中世のデザインと文様を保っていた。
私はそこで手作りカーペット一枚を買った。荷物を持ち歩くのが嫌いな私は、店主にこのカーペットが韓国にきちんと届けられるということが信頼できれば購入すると言ったら、彼が金庫の中から古い契約書の束を取り出した。驚くべきことに、この書類は15~16世紀のものであり、契約書の紙面に骸骨の絵とともに「破ると死ぬ」という恐ろしい文言が刻まれていた。見た途端にその契約書が信頼に値すると思った。私が韓国に戻った半月後、カーペットを詰めた小包が我家に届いた。
早世した歌手・金光石
防川(バンチョン)市場には、ここで幼少時代を過した歌手・金光石(キム・グァンソク)を称える空間がある。32歳で早世した彼の歌と人生を反映した壁画が路地に沿って続き、彼を追悼するために訪れる観光客の足が絶えない。
防川(バンチョン)市場は朝鮮戦争当時、詰め掛けてきた避難民とシリャンミン(失郷民)が集まってできた市場である。最盛期には1千軒余りの店舗があったということから、ここは戦争から逃れてきた人々の数奇な人生の物語がひしめいていたに違いない。ところが、この市場は衰退の一途を辿り、貧しい人々が集まって生計を立てる、ありふれた平凡な市場に変わっていった。
しかし、最近この市場を再生させたいと願う人々が志を一つにして歌手・金光石(キム・グァンソク)を称える空間を作った。3~4人が肩を並べて歩くと隙間がないくらい狭い路地に、金光石の歌と人生を込めた壁画が描かれ、彼が残した言葉と歌詞が刻まれた。彼の歌を歌う野外コンサート会場が設けられ、ストリートライブをする歌手たちの歌声が路地の中に響き渡る。
故金光石は、今でも韓国で最も愛される歌手の一人である。彼が作って歌った曲は、軍部独裁政権と権威主義政権時代の韓国人の心を慰め、辛さをを紛らわす癒しの歌だった。二十歳の青春を迎えた若者らは、彼の歌『二等兵の手紙』を歌って軍に入隊し、『30歳の頃に』は三十路になったすべての人々が愛唱する歌になり、『ある60代老夫婦の物語』には、長く苦労してきた前の世代の切ない姿が溶け込んでいる。
防川市場の路地で生まれた金光石の音楽と人生を称える計画は成功を収めており、今では全国から彼を称える人々が相次いで訪れている。金光石フアンにとって、この路地は聖地となったといっても過言ではない。32歳で早世した彼の人生と音楽に憐憫の情を覚えるのは韓国人だけではない。東南アジアや中国、日本の旅行者たちの姿もよく見かけられる。
日が暮れて夕食をとるため、アンジラン・コブチャン通りに出向いた。案内地図に書いてある「青春の路地」という表現に惹きつけられた。青春の時代を切なく思わない人なんていないだろう。今が青春の人々は、お互い手を携えてこの通りに集まっており、青春があっという間に過ぎてしまった人々は、昔を懐かしんで集まってくるだろう。
路地に入った途端、驚いた。羊や牛のコブチャン料理を売る店がこんなに多いなんて!おそらくこの市場通りは、コブチャン料理を売る通りとしては世界最大規模だろう。ところが、客で賑わう食堂に一人で入って一人ご飯をする勇気が湧いてこなかった。「一緒に来て食べて、飲んで、話して、愛しなさい」がこの市場の世界観でもあるかのような気さえした。
地図で校洞(キョドン)「トッケビ(鬼)夜市通り」が目に入った。よし、こっちへ行こう。そこに行けば寂しいトッケビたちと一緒に夕食を食べることができるかも知れない。もしかすると、子どもの頃おとぎ話で見たトッケビと友達のように会えるかも知れないと思ったら、自ずと気分がよくなった。大邱は路地でつながる都市だ。果てしないその物語の中から、ふーっとりんご花の香りが立ちのぼった。
防川(バンチョン)市場には、ここで幼少時代を過した歌手・金光石(キム・グァンソク)を称える空間がある。32歳で早世した彼の歌と人生を反映した壁画が路地に沿って続き、彼を追悼するために訪れる観光客の足が絶えない。