通りにはロシア語の看板がずらりと並んでいる。行き交う人々の会話も韓国語よりロシア語のほうが多い気がする。中央アジアで生まれ祖国に移住してきた同胞たちが暮らす
「高麗人村」、ここは光州広域市光山区月谷洞だ。
光州の高麗人村の保育園で子供たちがハングルを学んでいる。中央アジアから先祖の国に移住してきた高麗人たちは、家族単位で3代が一緒にやってくるケースが多いため、子供の教育、特に韓国語の学習が大切だと考えている。子供たちだけでなく青少年や成人のための各レベルの韓国語教室も運営されている。
独立国家連合(旧ソ連)に暮らしている韓国系の人々をひとまとめにして「高麗人」と呼んでいる。彼らは3~5世代にわたって、少なくとも3回以上ディアスポラ(Diaspora)の悲哀を体験している韓民族の子孫だ。20世紀初頭の日本植民地時代に朝鮮半島からロシアの沿海州に移住した1世代はスターリン時代になると日本のスパイだという濡れ衣をきせられ、中央アジアに強制移住させられた。見知らぬ荒野に追いやられはしたものの必死に生きぬいた人々はソ連崩壊後、中央アジアでまた差別を受けるようになる。そして耐えられずに自分のルーツを探し求めて韓国に渡ってくる人々が生まれた。
現在、韓国に住んでいる高麗人は4万人、その内の4000人余りが光州の月谷洞で暮らしている。彼らの大部分はワンルームのような手狭な部屋で暮らしながら、製造業の職工や日雇い労働者として生計をたてている。ウズベキスタンのタシュケント文学大学や医科大学でロシア文学を教えていた詩人のキム・ブラジミールさんも事情は同じだ。キムさんは夫人と娘、息子、孫を含む一家10人と共に2011年、韓国行きを決行した。光州に高麗人村があるという話を聴いたからだ。
キムさんのように噂を聞いてここを訪れた高麗人のほとんどが、光州内の産業団地とその近くの農耕団地で日雇い労働者として働いており、職場に近く家賃も安いワンルーム住宅の多いこの村で暮らすようになり、月谷洞はいつの間にか自然と高麗人村になった。
村の基盤をつくる
カフェ「スィミヤ」では中央アジアの伝統方法で作ったパンを売っている。高麗人たちはここで懐かしい故郷の味を楽しむことができ、ここを訪れた他の地域の人々は見慣れない飲食文化を体験できる。
多文化家庭の子供たちのための韓国初の代案学校であるセナル学校では、高麗人の青少年が韓国社会に定着できるように、木工教室をはじめとする各種職業体験プログラムも運営している。
ここ高麗人村の高麗人たちは慣れない環境や経済的な面など、さまざまな問題を抱えているが、強固な共同体意識で新たな基盤を作りだそうとしている。共同組合をつくり、保育園を運営し、住民センター、児童センター、相談センター、憩いの場、村の放送局などのような各種支援空間を自主的に作り、積極的に生活基盤を整えている。
流入人口が増え、自営業で成功するケースも増えている。ロシア語で家族を意味する「スィミヤ」という名前のカフェでは、中央アジア地域の主食であるヌルクパン(麹パン)と焼き鳥を作って売っている。ジョンバレリさんが2015年に1号店を出して以来、長女と息子夫婦が4号店まで開店し、この家族カフェは高麗人村に出来た最初のグルメだという評価を得ている。ホアナスタシヤさんが2017年10月に開業したヨーロッパスタイルのカフェ「コレアナ」も人気を得ている。このように成功する自営業者の人たちが増え、飲食店、旅行会社、外貨両替店、土産物店など30軒余りの店舗が誕生し、高麗人村通りまでできた。
ここに高麗人たちが暮らし始めたのは、村の産婆役となった高麗人3世のシン・ジョヤさんが韓国の地を踏んだ2001年頃からだ。
工場で働いていたシンさんは工場の月給が滞り困っていたときに、セナル教会のイ・チョニョン(李天永)牧師と出会い、その助けを得たのが契機となった。その後、シンさんはイ牧師の助けを借りて2005年月谷洞に「社団法人高麗人村」を設立し、くたびれた商店街のビルの1階に高麗人センターを開いた。2007年から中国同胞と高麗人同胞に合法的な滞在の道が開け、訪問就業ビザが発給されるようになると、それに伴い光州を訪れる高麗人の数も急増した。
高麗人がここに集まる理由は簡単だ。この村に行けば韓国社会に馴染めない人々に宿泊や通訳、そして憩いの場を提供してくれ、問題も解決してくれるという噂が中央アジアの国々で広く広まったからだ。このような環境を構築できたのは、彼らの悩みを自分のことのように受け止め、解決してくれたシン・ジョヤさんがいたからだ。自ずからシンさんは「高麗人のゴットマザー」と呼ばれている。ここで暮らす高麗人たちは「ジョヤ母さんがいなければ生きていけません」という言葉がいつも口をついて出る。シンさんの携帯電話に保存されている高麗人の電話番号だけでも2000件以上だ。またシン代表と2008年に結婚した夫も、移住民の哀歓を誰よりもよく知っている脱北者なので高麗人の心強い同士となっている。
子供から大人まで一人ひとりにあった韓国語教育
「ウズベキスタンでは高麗人はどんなに賢い人でも冷遇されています。大学を二つも出ましたが就職はできませんでした」。
シン・ジョヤさんの話だ。彼女はウズベキスタンでは生計を立てることが到底できず、祖父の祖国に来ることを決心したと話す。高麗人3世のジョンスベトㇽラナさんもシンさんと同じ理由でここに来た。
「ここに来て洗濯機の組み立て工場に就職しました。日曜日には食堂で皿洗いをし、そうやってお金を貯めてワンルームの保証金50万ウォンをつくりました」。
ソ連崩壊後、独立した中央アジア諸国は自国語使用と自国民優先政策をとった。そのためロシア語しかできない高麗人たちはだんだんと社会的な弱者となってしまった。しかし、言語的な差別のせいで故郷を離れた高麗人たちは、韓国に来て直面した一番大きな障害もまた言語だった。ビザ問題などで官公庁に行き公文書の作成はもちろん、子供を学校に入学させたり市場で物を買うという些細な日常生活でも、韓国語ができないことは大きな障害となった。
そのような理由で高麗人村で最も大切にされているのが教育だ。朝鮮族のような在中国同胞や東南アジアの労働者たちのほとんどは単身でお金を稼ぎに来ているが、高麗人たちは家族単位で3世代にわたって一緒にやってくるケースが多いため、子供の教育問題により関心が深いといえる。ここで高麗人教育の中心的な役割を果たしているのが韓国初の多文化代案学校であるセナル学校だ。2007年に開校したこの学校は2011年に学力認定学校として認可を受けた。無償教育機関であり小中高校を統合した代案学校として道徳教育を重視しており、中央アジアに暮らす高麗人の間でも噂になっているという。この学校は高麗人村を誕生させたもう一人の立役者であるイ・チョニョン牧師が率いている。シン・ジョヤさんが高麗人村のゴッドマザーなら、イ牧師はゴッドファザーというわけだ。
高麗人村の韓国語講座はいくつもの機関で能力別、時間帯別に分かれて運営されている。受講生が増え、現在は成人のための基礎班、中級班、高級班など3つのクラスと最近移住してきた青少年のための韓国語教室を運営している。週末勤務と夜勤で時間のとれない人々にとって高麗FM放送講座は、仕事をしながらでも聞くことができると好評だ。
また2013年にオープンした児童センターでは、小中高校生のために放課後に韓国語、英語、数学、ロシア語の書き方、芸能学習を指導し、サッカーとギターも教えている。2012年にできた保育園は共働き家庭の子供たちを早朝から夜まで預かり、ハングル学習、文芸活動、運動を指導し給食と間食もでる。2017年7月からは小学校課程の週末ロシア学校も運営されており、高麗人の子供たちは韓国語とロシア語の二つの言語を必修として学ばなければならない。出生地でロシア語を習ったものの、韓国滞在期間が長くなるにつれロシア語を忘れてしまう子供たちが増えているからだという。
高麗人村で最も大切にされているのが教育だ。朝鮮族のような在中国同胞や東南アジアの労働者たちのほとんどが単身でお 金を稼ぎに来ているが、高麗人たちは家族単位で3世代が一緒にやってくるケースが多いため、子供の教育問題により関心が深いといえる。
高麗人村では2013年から10月の第3日曜日を「高麗人の日」に定め、毎年記念行事を行っている。2017年第5回「高麗人の日」には村の子供たちが韓国伝統の扇の舞を踊った。
共同体を支える中心軸、メディア
高麗人総合支援センターはこの村の心臓部である。ここは来たばかりで住むところがないまま仕事を探さなければならない高麗人にしばしの間、寝泊りのできる避難所となっている。就職、労災、未払い賃金、ビザの問題など、ありとあらゆる悩み事の相談にのり、解決してくれる空間であり憩いの場だ。
2017年6月に開館した高麗人歴史博物館も目を引く。総合支援センターのすぐ隣にある博物館は規模は小さいものの、1860年に沿海州に住み着いた韓国人が1937年に中央アジアの不毛の地に強制移住させられるまで、どれほど熾烈な抗日闘争を繰り広げていたのか、その子孫たちがありとあらゆる差別と不当な待遇に耐えて、どのように生きてきたのかが一目で分かるようになっている。2017年には「高麗人強制移住80周年記念事業」も自主的に行った。
光州高麗人村という共同体を支える要素の一つにメディアがある。重病にかかり手術費用が必要だというような苦境に立った際には、高麗FM放送とナヌム放送のニュースを通じて互いに助け合うというシステムが出来上がっている。移住民による歴史上初の自主ラジオ放送として開局した高麗FM放送は、韓国語よりもロシア語のほうが楽だという高麗人のために80%の番組がロシア語で進行している。24時間番組を送信する高麗FM放送は「中央アジアに暮らしている親戚や知人がアプリケーションをダウンして聞いているというほど人気が高い」という。一方、ナヌム放送ニュースではフェイスブックやEメールで11万人とつながり、高麗人村の些細な日常生活のニュースを伝えている。
外国人に分類される4世
光州地域の高麗人は強い共同体意識で自分たちの立ち位置を固めている。彼らは互いに助け合いながら冠婚葬祭を行うのはもちろん「クリーン奉仕団」を創設して、通りの清掃ボランティアと自主防犯活動も行っている。また毎月「高麗人村訪問の日」を決めて運営し、韓国社会の関心を誘導している。2017年11月にはウズベキスタンの教育部長官がこの村を訪問したこともあった。
多様な支援システムが安定的に運営されているが、だからといって彼らの生活が楽であるというわけではなく、特に高麗人がもっとも悩んでいるのは病気にかかったときだ。滞在期間90日を過ぎて医療保険に加入できる資格を得ても、ひと月10万ウォンほどの保険料を負担するのは辛い。
彼らが直面するもう一つの悩みは滞在ビザの問題だ。現行の在外同胞法は高麗人3世までは「在外同胞」に分類して長期滞在を認めているが、4世からは「外国人」に分類している。従って高麗人同胞4世からは韓国生まれでも訪問同居ビザ資格が満了して満19歳になれば韓国を離れるか、3カ月の訪問ビザを更新し続けて再入国を繰り返さなければならない。出生地が韓国でもそうなのだ。このような法の適用を受ける高麗人4世が高麗人村にも400人ほどいる。彼らの願いは唯一つ、往来が自由な在外同胞ビザに制限をつけないことだ。
2018年は高麗人が祖国韓国に来始めてから30年になる意義深い年だ。
「私たちは国権回復のための独立運動に献身した祖先の意志を受け継ぎ、誇らしい韓民族の末裔であることを祖国であるこの地で証明していきます」。
シン・ジョヤさんの力強い言葉に高麗人の生命力を見た気がした。
詩人のキム・ブラジミールさんは光州高麗人村でも特別な存在だ。ウズベキスタンで大学教授をしていた知識人がここでは日雇い労働者として働いているというだけではない。高麗人3世である彼は、村の精神的な支柱となっている。高麗FM放送では「幸福文学」という文学番組をロシア語で進行している。その他、全国単位の行事にも高麗人代表として参加することが多い。
「私はペン以外には何も手に持ったことがありませんでした。それが母国に来て生まれて初めて肉体労働をしています。韓国語ができないので、出来ることといえばそれしかありませんから。それも数年前に小腸癌の手術を受けた後は力仕事はほとんどできません。果樹園と農場でリンゴ、梨、ブルーベリー、イチゴのような作物を育てて収穫するのが主な仕事です」。
最初工場で働いていたときは本当に大変だったという。韓国に来て2~3年間は毎日のように後悔し、戻ろうかと考えたこともあったという。しかし今では、父の遺言通り韓国に来たことを本当に良かったと自信を持って言えるようだ。
「父は1990年に亡くなりましたが、亡くなる直前になり韓国の話をして『おまえは必ず故国の土を踏むように』と言って亡くなりました」。
彼は時間をみつけて仕事の合間に詩を書くのが大きな喜びだ。韓国に来て書いた詩を集めた最初の詩集『光州に降る初雪』も2017年2月に出版した。雪の降る光州の風景に魅せられて書いた詩で、その詩の題目をそのまま詩集につけた。この詩集には韓国の地を踏んだ後にキム・ブラジミールさんが書いた35編の詩が、ロシア語とともに韓国語の翻訳文が掲載されている。啓明大学校ロシア文学科のチョン・マㇰネ(鄭莫来)教授が詩集の出版を薦めてくれたことで勇気を出すことができた。ロシア語で書かれた詩の韓国語翻訳もチョン教授がしてくれた。彼女は高麗人同胞に関する論文を準備していてキム詩人と出会ったという。彼の詩には祖国や自然に対する愛、スターリンの強制追放で中央アジアに強制移住させられた祖父や両親の哀歓のようなものが、率直な表現で静かに描かれている。彼の書いた多くの詩の中で特に深い感動を覚える詩がある。
「大韓民国よ!わが祖国よ分かっておくれ / 我らが遠く離れて生きてきたのは我らの過ちではないことを」(「必死に待ちわびた80年の歳月」)
彼は2017年夏、高麗人強制移住80周年記念事業会と国際韓民族財団が主管した「回想列車―極東シベリアシルクロードの旅 」 に高麗人村の代表として参加した。ロシアのウラジオストックからシベリア横断鉄道に乗り、カザフスタンのウシュトベ( Ushtobe)とアルマトイまで13泊14日の日程を通して、高麗人の祖先が経験した苦難の足跡をたどる旅だった。回想列車の体験は彼にさまざまなインスピレーションを与えた。これから出す2番目の詩集には高麗人強制移住に関する詩が多く含まれるという。
詩人である彼は言語に敏感にならざるを得ない。「自然に思い浮かぶ言語が母国語でなければなりませんが、韓国語で詩をかけない状況が残念です。ここで何年か暮らしながら少しはうまくなりましたが、もっと韓国語を一生懸命に学ぼうと思います」。
30余年の間ロシア文学の教授として教壇に立ったキムさんは、55歳停年退職の規定に従い、比較的若い年齢で教壇を去らなければならなかった。退職後に韓国行きを決心し、飛行機に乗ったのが2011年3月、すぐに妻と子供たちも韓国に来た。今や孫まで含めて10人以上の大家族が高麗人村で暮らしている。そして彼は「ここは私の祖国だ」と堂々と言える日を夢見ている。彼の詩にもそんな心境がたっぷり込められている。
「私の友よ、歴史的な祖国の地で / (……) 私は外国人という侮辱的な言葉を望んではいません/ 私は高麗人、私は韓国人だからです/ 精神的にも良心的にも血統的にもそうなのです」(「追跡」)
キム・ハクスン金学淳、ジャーナリスト、高麗大学校メディア学部招聘教授
安洪範写真