まごころと時間が作り出す発酵過程は、韓国の伝統的な飲食文化の最も大きな特徴だ。その奥深い味わいに象徴される発酵食品の中でも醤油は、料理の基本であり、極めて重要だ。360年の間シカンジャン(種醤油)を守り続けてきた家がある。その責務は代々、ひたすら長男の嫁が担ってきた。
宗家の嫁らしい優雅で余裕ある姿のキ・スンド(奇順度)名人の言葉には、芳ばしい味噌の味がした。静かにほほ笑む名人の後ろに白い犬がピタリと寄り添い、一緒に客を迎えてくれた。彼女は48年間、伝統的な手法で味噌作りをしてきた。その功績が認められて、2008年第35回大韓民国伝統食品名人に指定された。名人とは、20年以上一つの分野の食品に精進したり、あるいは既存の名人に5年以上教育を受けた後、10年以上同種の業界に従事した人に、農林畜産食品部が審査を通じて与える名誉ある呼称だ。彼女は5年以上熟成させた醤油「チンジャン(陳醤)製造加工分野」で名人の資格を得た。彼女が作る醤油にはどんな秘法があるのか。アジア初の「スローシティ」である全羅南道潭陽郡昌平面にある彼女の家の広い庭には1200個の甕が、良く訓練された軍人のように整然と並んでいる。その多くの甕の中にはそれぞれの段階の熟成過程にある味噌と醤油が眠っている。
「臭いかいでみますか」
彼女が袖をまくる。蓋を開けて鼻を近くによせてみると、妙な香りがした。発酵食品特有の香りはするものの、面白いことには甘い香りも混ざっていた。彼女が作った醤油はチョンジャン、チュンカンジャン、チンジャンの3種類だ。熟成期間が1年以内で薄味が特徴のチョンジャンは、主にモヤシ汁やキュウリの冷汁のような澄んだ汁物を作るときに使われる。熟成期間が5年以下のチュンカンジャンは、しょっぱく色も濃いのでプルコギ(焼肉)やチャンジョリム(牛肉の醤油煮)などの味付けに使われる。最も濃いジンジャンは、ユッポ(干し肉)やヤッカ(薬果)を作るときに使い、熟成期間は5年以上だ。黄色い新大豆をゆでて味噌玉を作り、わらの上で発酵させてから、水と塩を入れて漬けた味噌から醤油をすくい出すと、味噌になる。
「大豆をゆでる日には、不浄を払うためにまず沐浴して体を清めます。どんなに親しい人でも葬式には行きません。それだけ身も心も尽くして丹精を込めるのです。醤油の基礎を作ることは神聖なことだと考えます」
「陰暦11月、暦の上では12月に大豆をゆでて味噌玉を作ります。一か月間発酵させてから、次の陰暦1月15日の満月の日に味噌を漬けます。味噌をつける日を決めるのはとても重要なことです。練習などできません。1年に一度きりの味噌漬けによって、その年の食卓の味が左右されるのです」
全羅南道潭陽郡にあるキ・スンド(奇順度)醤油名人の家の庭には、1200個余りの甕がずらりと並んで壮観を成している。彼女は48年間伝統的な方法で味噌と醤油を作ってきた。その功労と味が認められて、2008年に第35号大韓民国伝統食品名人に指定された。
身も心も捧げ尽くす丹精
キム・スンド名人の長年の労苦と丹精は、海外でも知られている。ニューヨークのエリック・リパートやデンマークコペンハーゲンのレネ・レゼピのような世界的に名声あるシェフたちがここを訪れている。2017年、ドナルド・トランプ米大統領の訪韓の際、大統領府迎賓館で開かれた国賓晩餐会に、キ・スンド名人のシカンジャン(種醤油)が上り、300年間続いてきたシカンジャンの歴史が話題になった。
「私は竹塩で味噌を漬けます。大豆も100%国産です。シカンジャンも代々に受け継がれています。毎年最も良質な醤油をシカンジャンの甕に使った分だけ加えています」。
彼女に「キ・スンド味噌」の秘法をたずねると、味噌の基本となる水は167m下の地下水をくみ上げて使用し、竹塩の材料である竹も潭陽産だけを使っているという答えが返ってきた。彼女の家がある潭陽は、もともと質の良い竹が生産されることで有名だ。材料が卓越しているので味が良いのは当然だろうが、技術が足りなければ完成度も落ちるものだ。彼女は竹塩も市中で売られているものとは違うと言う。「西海岸で生産された天日塩を、700度以上の高温の黄土窯で4日間に9回焼いて作っているもの」と語る彼女の説明に自負心の強さを感じた。
「陰暦11月、暦の上では12月に大豆をゆでて味噌玉を作ります。一か月間発酵させてから、次の陰暦1月15日の満月の日に味噌を漬けます。味噌をつける日を決めるのはとても重要なことです。練習などできません。1年に一度きりの味噌漬けによって、その年の食卓の味が左右されるのです」。
彼女は発酵室も黄土で建てた。黄土は味噌玉特有の臭いを消してくれるので、彼女の味噌から甘い香りがする理由でもある。
宗家に伝わる食べ物
料理の味付けに使われる醤油は韓国料理の基本だ。以前には醤油を作ることが各家庭の重要な年中行事だった。各家ごとに少しずつ違う独自の醤油の味を保つことが尊いと考えられていた。今は大部分の家庭で市販の醤油が使われている。
「お腹が空いたでしょう。さあ、これ召し上がってみてください。砂糖はほとんど使っていないんですよ」。彼女が「人参正果(甘煮)」と「キキョウの根の正果(甘煮)」、「薬果」の盛られた器をだしてくれた。彼女は味噌だけではなく伝統料理にも素晴らしい腕前を発揮することでも知られている。果たして「キキョウの根の正果」を一口、口に入れると、口の中に天国が広がった。甘いという一言では到底表せない優雅な味だった。「キキョウの根の正果」の甘味は、その後に続く苦味で完成した。薬果はパサッとも、シャキシャキでもない食感が魅力的だった。この甘味の秘訣も気になり、手抜きをして市販の水あめを使うとちゃんとした味がでないので、面倒でもチョチョンという伝統方式で作る水あめを手作りして使用しているという。喉が渇いたのに気付いたのか、彼女がシッケ(甘酒)を出してくれた。シッケもまた、これまで味わってきたものとは全く違っていた。甘すぎず、ご飯の粒が多かった。
「ご飯の粒が多いと甘味が濃くなります。もともと甘味はご飯からでるものです。麦芽も新芽から発芽させて作りました」。
彼女は長興高氏の養眞斎門中の第10代の宗婦だ。 宗婦は家門の当主である宗家の長男の嫁を指し、宗家の伝統を守ることが義務となっている。その伝統の中にはもちろん飲食文化も含まれている。その家だけのレシピが伝承されてきているので、各宗家ごとに伝えられてきた料理も異なる。また宗家の料理は、その地域の食材料を最大限に活用しているという点で、高品質の身土不二の食べ物でもある。この家の代表的な伝承料理には「ゴボウのエゴマ汁」、「タケノコジョン」、「醤油キムチ」、「百日酒」がある。「ゴボウのエゴマ汁」はゴボウ、キノコ、玉ねぎなどを斜めに切って、エゴマ油で炒めてから水を入れて煮立てる。きれいにすりおろしエゴマ汁とネギ、ニンニクを入れてさらに煮出して作る。薄味が一品の健康食だ。材料本来の味が引き立つ「タケノコジョン」も負けてはいない。この宗家の伝承料理の中で特異なのはやや辛めのキムチに、塩辛の代わりに醤油が使われている醤油キムチだ。最近世界的に熱風を呼び起こしている菜食主義の神髄がこの家にあった。
キ・スンド名人はもともと厳しい宗家の嫁となる考えはなかった。潭陽から車で40分ほどのところにある故郷の谷城で1男5女の末っ子として生まれた彼女は、朝鮮時代の両班家の家風を受けついでいた実家の両親から厳しい家庭教育を受けて育った。家中の愛を独り占めにして育った末娘なので、台所仕事など全くしたことがなかった。それがなぜか 大小の家内行事の多い宗家の長男の嫁になってしまった。23歳で嫁に来た彼女は、1年に30回以上の祭祀をしなければならない。祭祀を終えるとまた次の祭祀の日が近づいてくるという多忙な日常の中で、姑を助けて味噌を漬けた。彼女はそれを運命だと思うと言う。
「姑が生きていた当時には、甕は50個ほどでした。味噌作りをすれば、人々がやって来て持って行きました。それだけ味が良かったということです」味噌の味が良いと評判になり、彼女の味噌作りはビジネスとなっていった。
「夫は東国大学校仏教学科を卒業し、修行僧の道を歩むことを望んでいました。しかし宗家ではありえないことです。息子を生んで家の代を継がせることが当主の一番大切な責務なので結局、自分の道はあきらめたんです」。
スロー、もっとスローに
高家の養眞斎家門に代々伝わる料理「ゴボウのエゴマ汁」は、漬けて2年以上5年未満のチュン醤油で味付けをする。ゴボウ、キノコ、玉ねぎなどを斜めに切ってエゴマ油で炒めてから水を入れて煮立てる。そこにエゴマをきれいにすった汁とネギ、ニンニクを入れてさらに煮て作る健康食だ。
夫のコ・カプソク(高甲錫)さんが10年前に亡くなった後は、宗家を守り家風を受け継ぐことのすべてが、キ名人一人の肩にかかっている。その努力の結果は、外国でも輝いている。彼女の味噌は、パリにあるボン・マルシェデパートに進出し、世界三大飲食博覧会の一つであるパリ食品博覧会にも招待され、イベントをおこなった。2019年には韓国観光公社と全羅南道宗家会が共同で行った「南道宗家宝物ツアー」にも参加した。これまでの輝かしい話からは、彼女の生活は陽の当たる道だけ歩いてきたように見えるが、決してそうではない。名門大学で家業の醤油で博士号まで授かった次男を事故で失ったのだ。苦痛の時間だったが、キ名人は自分で自分を奮い立たせた。彼女を立ち直らせてくれたのが伝統の味噌だった。彼女が経営している高麗伝統食品は、伝統味噌・醤油だけでなく、最近では生活様式に合うように改良された味噌や醤油の種類、そしてそれをベースにしたおかず類も販売している。
彼女は「早く、もっと早く」が時代の合言葉になってしまった今、「スロー、もっとスローに」に作る韓国の味噌を保存することこそ、天から与えられた使命だと考えている。
「他の人が作った味噌と私の味噌が違わなければ、わざわざ私が作る必要もないでしょう」。商業的な誘惑