グォン・ウォンテ(権元泰)名人は、わずか3cmの太さのナイロンロープの上で、扇子1本を片手にバランスを取りながら、飛んだりはねたりして観客を喜ばせる。そして韓国の伝統綱渡りは、技巧を競うサーカスではなく観客と疎通する民衆の演芸なのだと力説する。
綱渡りの名人グォン・ウォンテ(権元泰)さんが9月末、ソウルの徳寿宮で開かれた夜間公演で空中に飛び上がり180度回転した後、また綱の上に座る「空中回転」の技を見せている。
40年間綱渡り師として生きてきた彼に「綱」について尋ねることは容易ではなかった。不慣れな質問が続くと、彼は語尾を上げる独特な話し方で質問をかわし始めた。綱渡り師の複雑な心境を推し量ることは、1本の綱の上でバランスをとるように難しかった。
「凍りついた山を登るとどうなります?滑り落ちることもあるだろうし、転がり落ちることもあるでしょう、だから気をつけて登りますよね。それに例えて綱渡りをする人間は『オルムサニ(凍りついた山)』と呼ばれていました」。
凍りついた山を登るように
彼の説明だ。しかしオルムサニという言葉の由来がまるで嘘のように、彼は綱の上を何のためらいもなく闊歩する。およそ3mの高さに張られた8~9mの長さの綱が彼の舞台だ。綱の上を歩いたり走ったり、綱にまたがりその上に座ったかと思うと、今度はぴょんと身体をそらして綱の上に飛び上がり、また綱の上で回転してそのまま綱の上に座る。公演の間中、観客をあっと驚かせるようなヒヤヒヤさせる場面が演出されるが、綱の下には何の保護装置もない。
「普通は一回の公演が30~40分程度です。韓国の綱渡りは1、2時間もの間継続できるようなコンテンツではないんです。観客とやりとりしながら、観客と一体化した演技をしなければならないし…、それでそのくらいの時間が限界なんです」。
グォン・ウォンテの綱渡りの公演は、朝鮮時代の放浪芸人の伝統民俗公演団・男寺党(ナムサダン)の流れをくんでいる。しかし最近では、各種イベントで綱渡りだけを単独で行う場合も多い。外国のサーカスが綱の上で曲芸を完成する視覚中心の舞台演出なのに対して、男寺党の綱渡りは綱の上で面白い話をするしゃべり手の役割までこなす話芸と奇芸の合わさった公演だ。そしてその始まりは、何の楽しみもない庶民の暮らしに慰労と活力を与える民衆の遊戯だった。
「綱渡りの動作や話芸の基本枠は伝承されてきたものに従っています。しかし地域や場所、社会的な問題、観客の反応などによってその時々で少しずつ変えています。技(わざ)の種類ですか? 何種類の技を見せるかは重要ではないです。状況によって応用技術が即興的に入ってきますから」。
綱渡り師の舞台
綱は綱渡りの舞台の全てであり、綱渡り師のチャレンジの場でもある。彼に綱に対して尋ねた。彼が使う綱はどんな綱で、サーカス公演の綱とはどんな違いがあるのか。2004年アメリカフロリダ州のタンパベイで開かれた「世界最高の記録-綱渡り」部門で、彼は50mの綱を19秒33で走破し綱渡りチャンピオンになった。そして2007年には、全世界から綱渡りの名人が参加した「漢江横断世界綱渡り大会」で、1kmの綱を17分6秒の記録で優勝したときの綱は、いったいどんな感じだったのか。
「そういうところでは鋼鉄のワイヤーを使います。鋼鉄は強くピンと張られて揺れることはないですね。ワイヤーは太さが3cmで、両方から引っ張る張力が35tです。ワイヤーが切れずに耐えられる荷重の最大値が35tだということです。その力を利用してその上に乗ってパフォーマンスを行います。ところが韓国の綱はナイロン製なので材質が柔らかいんです。ぶらぶら、ゆらゆらする感じが韓国の綱渡りの妙味です。それだけ綱の上でバランスをとるのが大変です。鋼鉄のワイヤーとナイロンの綱に乗る感じを比べると、地面の上でそのまま飛び跳ねるのと足がずぶずぶと潜ってしまう砂浜で飛び跳ねるほどの差でしょうか」。
同じナイロンの綱でも弾性が少しずつ違い、どんな弾性の綱を選ぶかは綱渡り師の好みだという。弾性率の違う綱を時には混ぜて使ったりもするのかと聞いてみた。彼は眉間のシワをさらに深く寄せてから、両手で顔を撫で下ろし口を開いた。
「綱はデリケートなものです。人の命を担保する物だからです。ですから綱渡り師は綱にやたらに手を加えるようなことはしません」。
9歳で綱の上に立つ
40年以上、綱渡りをしてきたグォン・ウォンテさんは「韓国の伝統綱渡りは単純な技術を見せる技芸ではなく、機知に富んだ掛け合いで観客と疎通する民衆遊びの一つ」と強調する。
彼の公演映像を再び見た。綱渡り師の動きだけを追っていた視界に、揺れる綱の曲線まで一緒に飛び込んできた。地上を離れた時の人の動き、人一人の重さを受け止める綱の動きがそれだ。綱の上を歩いていた彼は扇子を開くと虚空に小さな曲線を描いた。観客が風流な扇子のイメージに酔いしれる頃、彼はその扇子で風の抵抗をコントロールしながらバランスをとるのだ。綱1本を頼りに空中を渡る彼が絶対に勝たなければならない相手は風であり、その風に立ち向かう唯一の道具が扇子なのだ。
「扇子を片手にして風を一度吹き飛ばしてみてください。重さを感じますよね。その重さでバランスをとることができるんです。しかしそれが全てではありません。扇子を手にしたときに風が強く吹けば落下傘の効果が出ます。バランスをとる方法は言葉で説明できるものではありません」。
綱渡りで一番の山場は何だろう。綱渡り師は何を前にしたとき挫折するのだろう。彼は質問を受けると再びその両手で顔を撫で下ろした。
「綱の練習は成長する過程です。人の体が大きくなり、また脳も成熟して綱の技術も同じように発展するものです。知らず知らずのうちに、ある段階を超えたとか、何かをマスターしたとか、単純にそんな風に言えるものではないでしょう。公演をしていく過程で少しずつ身につけながら完成度が安定圏に入っていくのです。綱というのはそういうものなんです」。
質問を重ねるほどにグォン・ウォンテさんの綱渡りは奇芸の領域をどんどん抜け出して行った。そして彼の人生と心が反映しはじめた。グァンデ(韓国のピエロ)芸人をしていた彼の両親は、9歳の息子を強制的に放浪芸人集団の男寺党に入団させた。彼は強制された人生を拒むこともしなかった。幼少期以降の人生は綱渡りから一度も離れたことがなく、綱渡り師として成長した時間はグォン・ウォンテという人間が育つ時間でもあった。暮らしと練習が密着した総体的な学習が続いたのだった。
「綱の上で大きくなった人の歳月」が当事者にはどんな記憶として残っているのか。その記憶を時間の単位で分けることができるか。彼は「10年の実力」などという数字で換算する能力値には抵抗があるという。
「どうしてもあえてそんな方式で話しをしなければならないのだとすれば…。
10年ほどたった頃には覇気がありました。恐怖もなく…。何も感じないんです。繰り返される練習で精一杯でしたからね。20年ほど経ちようやくある程度感じを出して体のコンディションに合わせて綱を渡ることができるようになりました。それ以降は『今日の体の状態はこうだから、今日はこの線でこんな風にしてみよう』ということが自然とできるようになりました。40年間綱を渡ってきましたが、まだ完璧なものではないです。今も天気が湿っぽいと綱も、身体も重くなります。それはどうしようもないことです。それで綱渡りは決まったものがあるのではなく、状況に応じてダイナミックに流れるエクストリーム・スポーツのようなものなんです」。
終始一貫、淡々と答えてきた彼が劇的な表情をしたのは「綱の高さ」を論じたときのことだった。3mという数字を確認しようという単純な質問だったが、彼は声を荒げた。
「綱の高さがどのくらいかは重要ではありません。3mの高さの造形物と3mの高さの1本の綱には大きな差があります。高さの差は危険と恐怖心の差です。わざわざ危険を冒して5mの高さにこだわる必要がない理由です。韓国の綱渡り文化は目がくらむような渓谷のうえで綱渡りをする、そんな奇芸ではありません。観客と目を合わせて対話をしながら、面白おかしく観客を楽しませるのです」。
彼は言った。数日間、箸を使わなくても箸の使い方を忘れることがないように、綱渡りもそういうものだという。練習をして足をくじいたり、怪我をすることもあるが、最近では練習なしにすぐに公演に入るという。時には公演の途中で事故にあったりもするが、そのことはめったに思い出すことはないという。綱の上に立つたびに恐怖が違う形、違う深さで訪れるからだ。結局、彼にとって綱渡りはすべての事故の恐ろしさから超然とするための行動であり姿勢だった。少なからずマインドトレーニングが求められそうだか、彼の答えは意外だった。
「複雑に考えてませんよ。単にこれは私の職業だ、職業に危険が伴うから気をつけよう、その程度だけ考えるようにしています。そして普段も常に気をつけています。生きている生命体をむやみに殺したりしないとか。特に鳥類は絶対に苛めたりも、食べたりもしません。私が常に高いところにいる人間なので…」。
綱渡り師の動きだけを追っていた視界に、揺れる綱の曲線までが飛び込んできた。地上を離れた人間の動き、人間一人の重さを受け止める綱の動きがそれだ。
グォン・ウォンテ名人がソウル光化門にある大韓民国歴史博物館前の芝生広場で技芸を披露している。片手に持った扇子は彼が綱の上で風の抵抗を抑え、バランスをとるための唯一の道具だ。
人生は綱だ
恐怖と不安は勝手に出没しては消えていくものなので、40年の経験でもコントロールするのは難しいのだろうか。彼はそのどうしようもない感情にただ距離をおいて立ち、不運の気運から遠くなるように自らを守るのだった。その代わりコントロールできる物だけはどんな些細なミスも曖昧さも許さなかった。
「綱を結ぶ仕事は当然直接自分でします。支持台を立てるときに綱がほどけない程度の荷重を受けとめられる地面なのか細かくチェックし、張力を測って綱を直接かけます。例えば、ピーンとはった綱が間違って指一本ほど動いてしまったとき、その綱が私の体に伝える衝撃はとてつもないものです。私の身体になじんだ綱の感覚、そんな綱の弾性は私だけが知っています。そこに合わせるのです」。
自分のやり方で綱の上の物理学的な力の分配まで説明する綱渡り師。案の定、彼は他の職業を選択できていたら理工系の仕事をしていただろうと言う。特に機械を扱う仕事が好きで今でも簡単な機械の部品程度は直接作って使うほどだと。そんな仕事についていたらもう少し成功した人生を生きていたかもしれないと付け加えた。そういう人生が見果てぬ夢として残っているかとたずねると、夢を見たことはないとピシャリと返された。
「食べていく心配さえしなければ、この仕事は実に素敵な職業です。綱1本、しっかり学んだおかげで海外にも行き、他人から『グォン先生』と呼ばれて尊敬もされていますから。またギネスブックにも名前がのっています。私が30秒間に空中回転(空中に飛び上がり180度回転後綱の上に座る)を連続で12回するという記録を打ち立てたんです。これほどなら幸せな人生じゃないですか」。
それだけではない。彼が履修過程を終えて「名人」の呼び名を得た男寺党ノリは、大韓民国の国家重要無形文化財であると同時にユネスコの人類無形文化遺産でもある。
人生は綱だと彼は言う。「生まれるとき何を掴んで生まれてきますか。へその緒です。新しい生命は細い綱で産着を着て人生を始めるのです。また人生をうまく生きるには綱をうまく使わなくては。まっすぐに前だけ見ていくべきなのに、横にずれたら悪いところに行ってしまいます。綱の上で風が吹いてふらふらするときもありますが、重心を取りまっすぐ進まなくては。人生の最後にはどこに行くのでしょう。死装束の麻ひもに巻かれて一握りの灰になって終わります。人生は綱で始まり、綱で終わるのです」。
人生で綱の無いところなどどこにも無いと言い、彼はようやく笑顔をみせた。彼は今、人生の綱のどこらへんに立っているのだろう。その綱の上でどれだけ軽やかに、またどれほど楽しく遊んでいるのだろうか。綱渡り師の投げかけた話題が、彼が踏んでいる綱のように長い間揺れていた。