6歳でチャング(杖鼓)を始めたというイ・ブサン(李部山)さんは、農楽の拍子に踊りのリズムを加え、全羅道と慶尚道の伝統を反映させた彼独特の音色を作り出した。60年近い歳月をひたすらチャングと共に生きてきた名人の人生は、今も昔もチャング一筋だ
ソルチャングの名人イ・ブサンさんが両手でチャング(杖鼓)を持ち、軽快に演奏している。ソルチャングは演奏者がその演奏ぶりを披露するものだ。
少年の家にはいつも客がいた。チャング(杖鼓)を肩にかけて父の部屋に入って来た客たちは、父の前で必ずチャングを叩いた。朝日と共に押し寄せてくるチャングの響きの中で目覚めた少年は、文字よりも先に拍子を覚えた。
音だけ聞いて知っていたチャングという楽器を初めて手にし、身体で初めて体験したのが1961年、少年が6歳になった年だった。頭の中でぐるぐる回る拍子を自分でも知らないうちに打っていたとき、父はそれを聞いていた。当時、全羅北道無形文化財第7-3号、湖南右道金堤農楽保有者で「人間文化財」だった父は、じっと立ち尽くして聞いていた。
父と息子のチャング演奏
その当時、チャングは単なる「楽器」ではなかった。村に一つ有るか無いかの白黒テレビから流れる連続ドラマを遠くから見るのが唯一の娯楽だった時代に、チャング(杖鼓)、ケンガリ(小金、小さい鉦)、テピョンソ(太平簫、チャルメラ)などの楽器と踊りが豊かに組み合わさった農楽団の公演は、庶民にとって大きな喜びだった。
大衆にとって遊戯の対象だったチャングは、農楽団員にとっては生活の手段だった。3食食べるのに必死だった貧しい時代に、チャングを演奏すればご飯にありつけた。「ソルチャング」と呼ばれるソロ演奏を披露すれば、観客は息を詰めて魅入り、演奏者の腰は観客の差し込むおひねりの紙幣がいっぱいになった。貧しさに押しつぶされそうな民衆は、それぞれの事情を抱えて農楽団に加わり、全国を流浪しながら奇芸を披露し、そのひもじい腹を充たした。
そのお金の喜びと悲しみをすべて知っている父は、テグム(大笒、横笛)、アジェン(牙琴)、ソゴ(小鼓)のどれも嫌だと突っぱねた息子がチャングにだけは没頭するのを見て、そのまま見過ごすわけにもいかなかった。父は息子の手を握り、二人は砂の土俵の上にチャングを2台置き、向かい合って座った。その日は農楽団がシルム(韓国相撲)の競技に興を添える日だった。砂埃の舞う土俵の上には、幼いチャングの音とそれを包み込む大きく温かなチャングの音が流れた。それはイ・ブサンさんがチャングの演奏者として生きてきた59年間、一度も忘れたことのない音色だった。
踊りの拍子を身につける
少年イ・ブサンの黒かった髪の毛が真っ白になるまでの歳月を経て、父のものと思われたチャングがだんだんと彼に近づいてきた。ソルチャングの名人に名を連ねるイ・ブサンさんの舞台は、その歩んできた歳月がそのまま反映した舞台だ。
公演が始まると彼はチャングを肩にかけて舞台に上がり、両手の撥を動かしてチャングを鳴らし始めた。互いに違う高さをもつチャングの二つの面からは、低く厚い音と高く澄んだ音が交差し広がった。彼の足は拍子に合わせて動き、片手がチャングを叩く間に、もう片方の手は撥を回したり握ったりして興を増す。両手の動きはチャングの音が作り出す二つの音の動きでもあった。そしてそれは、これまで見てきた他のチャング演奏者の動きとは明らかに違うものだった。
「1973年のことでした。釜山での公演に、韓国舞踊界の大家、イ・メバン(李梅芳)先生が、キム・ジンホン(金眞弘)先生、イ・ドグン(李道根)先生と一緒に来られて、私の公演をご覧になりました。ご覧になって、『いいねえ、舞踊家もソルチャングを習うべきだ』とおっしゃいました。それで私が舞踊家の皆さんにチャングを教えるようになったんです。ずっと農楽だけをやっててきた私が、そこで舞踊の拍子を知ることになりました。僧舞の拍子もしましたし、サルプリ舞の拍子もしましたし、太平舞の拍子もしました....。同じクッコリの拍子をとるのでも農楽のクッコリと舞踊のクッコリは違いますから…」。
トップクラスの舞踊手たちが繰り広げる踊りの振りの中で生きていた時代に、彼はこんなことを悟る。
「民俗楽には楽譜がありません。定められた時間の中で好きなようにチャンダン(長短:独特の拍子)を伸ばすことも縮めることもできます。それは経験から生まれるものです。それでソルチャングの粋は口で教えることができない、本人が肌で直接感じるものなんです」。
そんな時期を過ごす間にも、「チャング」という単語の隣に彼の名前三文字が並ぶことが多かった。農楽の大きな大会でも開かれようものなら、主催者側はイ・ブサンさんを参加させるために必死になった。それは全羅道と慶尚道の間の深い感情の溝を越えて、全羅道金堤出身の彼が慶尚道普州三千浦農楽を伝授するチャングチェビ(重要無形文化財第11-1号普州三千浦農楽伝授助教)になるほどだったからだ。
「幼い頃に学んだ湖南右道農楽は、華やかながらものんびりしていましたが、普州三千浦農楽は、線の太い力強いものでした。周りの話によれば、私のソルチャングには二つのスタイルが溶け込んでいるそうです。変わった履歴のせいでしょう」。
「民俗楽は楽譜がありません。定められた時間の中で好きなようにチャンダン(長短:独特の拍子)を伸ばすことも縮めることもできます。それは経験から生まれるものです。それでソルチャングの粋は口で教えることができない、本人が肌で直接感じるものなんです」
皮によって違ってくる音色の変化
彼の音色が気になった。彼が作り出すチャングの音色のルーツはどこにあるのか。
「私の故郷の金堤は平野が発達しているところです。平和だった農村の姿が音楽にそのまま現れています。つまりオンドルの床の上に大豆をばら撒く音、枯葉ににわか雨があたる音までチャングで表現します。私はそんな静かで穏やかな音まで表現します。チャング演奏者はそれぞれ自分の音色をもっていて、それらは声音と同じようなものです。このチャングを打っても、あのチャングを打っても同じような音色が出るんです」。
だからといってすべてのチャングが繊細な音を表現できるというわけではなかった。彼は皮の話を始めた。撥で叩くチャングの胴の両面は皮できており、その皮の種類と状態によってチャングの音色が変わってくる。
「静かな音を効果的に表現するには、皮は薄くなくてはなりません。一般の牛革は厚くて私には合いません。牛革は雅楽や民謡の拍子をとるチャングには使いますが、風物用のチャングにはほとんど使いません。私のチャングはドイツから輸入した子牛の皮で製作しています。音が柔らかいんです」。
彼が小さい頃には犬の皮を剥いで塩水に漬けている風景をよく目にした。1、2カ月の間そのようにしておき、毛をきれいに抜いたあと、釘を打って皮を伸ばした。そしてそれは父のチャングに張られて音をだした。農楽というのは文字通り、農業の現場の喜怒哀楽とともにあった民衆音楽であり、庶民は辛い労働の合間にせめて音楽からでもささやかな慰労を得ようと直接楽器を作った。それで村で育てていた犬はチャングの皮となり、裏山の桐の木はチャングの胴体になった。
そんな時代、人生と音楽が自ら楽器を作り、叩く人間の身体を通して一つになった。農業のかたわら桐の木を選んで切り倒し、中をくり抜くために汗を流し、好きな音を思い描きながら自ら準備した皮を薄くあるいは厚く整えた。そのように丁寧に心を込めて準備した過程があり、擦り切れてしまった皮を縫い合わせ、叩くたびに変化する音を探っていった細かな心づかいもあった。あれは何だったのだろうか。それほどまでに正直な生活の音に、いったいどこで出会えるのだろうか。
「直接削って作った幼い頃の、あのチャング以上の楽器は見たことがありません」という彼の話は留まるところを知らない。
「左手に握る撥は竹の根で作ります。かといってどんな根でも使えるわけではありません。崖を見るとまっすぐに飛び出している根があります。それを塩水につけてヤニを除いて使いました。その中でも節が一定で整ったものを選ばなくてはなりません」。
楽器を自分に合わせることができるというのは、楽器を完全に掌握したという意味でもある。だからだろうか、彼に有名な楽器職人が作ったチャングは使わないのかという質問をしたところ、彼はそんな必要はないと断言した。自分の求める音を具現できるチャングは、どこででも見つけることができるから。そしてそれを自分に合わせて手を加えればよいからだ。
京畿道水原市にあるアパート団地で公演を行い、子供たちがソルチャングのリズムに合わせて踊りを踊っている。
まっすぐな心が良い音を作りだす
彼に実力と楽器についてたずねても、話はまたもや心の問題になっていく。
「鋭い人々はチャングを叩いても鋭い音がしますし、のんびりした人は柔らかい音を出します。音を聞いただけでその人自身が見えてきます」。
チャング演奏者の人柄は、何人もの演奏者が一緒に演奏する舞台の上で最もよく表れるという。「トゥレペサムルノリ」の旗揚げメンバーとして国内外公演を数千回行ってきた彼が、ケンガリ、チャング、チン、プク(太鼓)の4つのリズム楽器が一緒になって演奏するサムルノリでのチャングについて語る。
「プク(太鼓)が拍子をとると言いますが、しかし拍子が早くなったり遅くなったりして何かしっくりこないときに、チャングで中心をピタッと合わせてやると他の楽器がそれについてきます。昔は分かりませんでしたが、年々やっていくうちにチャングがきちんと支えてやれば、4つの楽器の演奏が無理なく流れていくことが分かりました」。
彼の話を隣で聞いていた弟子のクウォン・ジュンソン(権俊成)さんが付け加えた。
「チャングの音にチャング演奏者の性格が溶け込むように、サムルノリの公演では先生の配慮がそのままにじみ出てきます。荒々しく飛び出して行く楽器を受け止めてやったり、流れをリードしながら中心をとったりします。実力と人格が兼ね備わってこそ可能なことです」。
弟子の話に恥ずかしそうな顔をしていた彼が言った。経歴が10年であれ、50年であれ、公演30分前に到着し衣装を整えて待機しているのが自分たちの道理だと。どんなに素晴らしい芸術を成し遂げたとしても人間としてきちんとしていることのほうが先だと言う。彼に最も記憶に残っている舞台を挙げてもらったところ、彼らしい答えが返ってきた。
「アメリカ11州を巡回公演したときのことです。ホテルの部屋を掃除してくれた夫婦が東洋人でした。彼らは私たちが話をしているのを聞いても何も言いませんでした。それが数日後に、彼らが韓国語で話しているではありませんか。自分たちの身の上が恥ずかしくて韓国人だと言えなかったようなんです。私は言いました。そんなことを考えるなと。私たちはどこにいても同じ韓民族なんだと。それで公演のチケットを差し上げました。夫婦でずっと苦労してきたので、こんな公演を見るのも初めてだと言ってとても嬉しそうでした。それが実に私も嬉しかったです」。
昔のことを思い出した彼が写真撮影のために服を着替えながらパンフレットをそっと差し出した。衣装と帽子を身に付けた彼が、チャングを演奏している写真だった。よく撮れているでしょう?と、繰り返し同意を求めた彼が言うことには、これが自分の背中にもあるという。人生をかけたこの道を死ぬまで一筋に生きていきたいので、その気持ちを身体に彫ったという。果たして背中にはその思いがそのまま投影されており、その横には「杖地一打」という漢字語が見えた。「チャングを背負ってどこの地でも一生打楽をする」という気持ちで自ら作った言葉だという。
「一人で背負い、一人で行くという意味」だと笑う彼の前で、それ以上チャングについて尋ねることはしなかった。そしてチャングの演奏のために、毎日のように身体を鍛錬するという彼の言葉をかみ締めた。背中の鮮やかな刺青は、身体を鍛えるたびに鮮明になるほかないということ、それでさらに堂々と輝くイ・ブサンさんの意志がチャングの向こうにかいま見えるようだ。
カン・シンジェ姜信哉、フリーライター
安洪範写真