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2018 AUTUMN

特集

平和へのプレリュード -
大衆文化で歩み寄る南北

別の形で出会うだろう北の山河

韓国人が白頭山と金剛山を訪れずにはいられない理由は、ただ美しい景色にあるわけではない。 白頭山と金剛山は、朝鮮半島の人たちにとって、歴史・文化・芸術的に特別な意味を持っている。 特に韓国人にとっては、切なさと懐かしさの対象でもある。

白頭山(ペクトゥサン)の天池で記念撮影をする韓国の観光客。北朝鮮の両江道と中国の吉林省の境界をなす白頭山は、朝鮮半島で最も高い。ここから南に1400㎞ほど連なる「白頭大幹」が、韓国の背骨ともいえる山脈。韓国人は、中国を経由しなければ訪れることができない。

私は分断国家の南側で生まれ、徹底した反共(反共産主義)教育の中で育った。私が学んだ北朝鮮は、傀儡政権、強制労働、貧困だった。1日に千里を走る馬のように休まずに働く「千里馬運動」、5軒ごとに共産党員を一人ずつ配置して日常生活を監視する「5戸担当制」は、社会の試験によく出る問題だった。新聞には武装共匪(スパイ)の侵入という記事が載せられ、学校では、武装共匪の手榴弾や短剣などを見せるため「反共展示会」を訪れた。

しかし、音楽の授業では「金剛山へ行こう。1万2千峰、見れば見るほど美しくて新鮮だ」と歌った。そして国語の授業では、教科書に載せられた金剛山の旅行記『山情無限』で、金剛山の森、滝、雲、霧、岩などの美しさを想像することができた。金剛山は、季節ごとに全く違った風景が広がるため、春夏秋冬それぞれに違った呼び名がある。金剛山は春の呼び名で、1万2千の峰が全て新芽と花で覆われて、ダイヤモンドのように見えるからだという。

韓国には「金剛山も食後景」ということわざがある。いくら景色が美しくても、お腹がいっぱいでないと楽しめないという意味だ(「花より団子」に相当)。金剛山は、ことわざでも美しい景色の代名詞になっている。それだけではない。韓国人がよく歌う歌として、チェ・ヨンソプ(崔永燮)作曲の『懐かしき金剛山』がある。「誰のものなのか。清く美しい山」という出だしを聞いた瞬間、想像せずにはいられないだろう。金剛山は、どれほど美しいのだろうか。どれだけ美しければ、分断によって失われたものの中で、最も惜しくて恋しいといわれるのだろうか。

白頭山への関心も、金剛山に劣らない。何よりも白頭山は、韓国の国歌『愛国歌』の冒頭に登場する。「東海が乾き果て、白頭山が磨り減る時まで、神の護り給う我が国、万歳」。この歌詞の意味を今日の分断の状況から考えてみると、韓国の東の海が乾き、北朝鮮の白頭山の峰が磨り減るくらい無限の時が過ぎるまで、超自然の力が国を守り助けるという意味だ。

白頭山の裾野には、高くて広い蓋馬高原が広がり、神秘的な原生林が残っている。白い軽石に覆われた山頂が白髪のように見えるため、白頭山と名付けられた。国境を接している中国では、同じく「白」の入った長白山と呼ばれている。雄大な白頭山と、世界で最も深い火山湖・天池の姿は、今は分断されているが、かつて大陸まで進出した朝鮮民族の気概を思い起こさせる。白頭山は、二度と行けないという切なさもあり、「民族の霊山」という象徴としてのみ存在し続けると思われた。

しかし、歴史は一歩進んだ。私は2002年、ついに奇岩怪石が連なる金剛山の渓谷に足を踏み入れた。さらに数年後には白頭山の頂上に登って、青い水をたたえる天池を見下ろしていた。

見知らぬが 、求め続けてきた美しさ

その歴史の始まりは、現代グループの創業者である故チョン・ジュヨン(鄭周永)氏の「牛の群れの北朝鮮訪問」といえる。チョン氏は北朝鮮に故郷がある「失郷民」で、17歳の時に父親が牛を売ったお金を盗んで韓国に渡り、大企業を育て上げた。1998年、83歳の時に北朝鮮と交渉を行い、平和に向けた故郷訪問を実現した。牛1頭分の借りを返すという意味で500頭の牛を連れ、CNNが生中継する中、板門店を通って北朝鮮に渡ったのだ。フランスの文明批評家ギ・ソルマンが「20世紀最後の前衛芸術」と評した出来事だ。そして、同年末から現代グループの主導で、韓国民間人向けの金剛山観光が始まった。キム・デジュン(金大中)大統領とキム・ジョンイル(金正日)総書記が初めて会って「6・15南北共同宣言」を採択したのは、それから2年後のことだ。

キム・デジュン大統領が掲げた「太陽政策」によって、南北の反目は徐々に解消していった。その結果、釜山で2002年に開かれたアジア競技大会に、北朝鮮が応援団と共に参加した。分断の歴史上初めてのことだった。その年は、ちょうどサッカー・ワールドカップが開かれる年でもあった。文化界・芸術界・体育界の関係者が集まって、金剛山で「ワールドカップとアジア競技大会の成功に向けた日の出イベント」の開催を決めた。私は、学校で嫌になるほど各種行事に動員させられた世代だ。官が主導するイベントには、何となく拒否感を覚えた。しかし、あの金剛山ではないか!正直なところイベントに招かれた瞬間、作家になって本当に良かったと思った。

初めて北朝鮮の地を踏んだ時に感じた小さな身震いは、何だったのだろうか。北朝鮮の人と初めて挨拶を交わした瞬間の不思議な感動は、何だったのだろうか。他の人たちから離れて一人で金剛山の渓谷を歩いた時に私を包み込んだ、おぼろげながら生き生きとした精気は、何だったのだろうか。私は山歩きが好きで、韓国のいろいろな山に登った。そんな私の目の前に、それまで見たことのない風景が広がったのだ。初めて見たが、求め続けてきた美しさとでも言おうか。私の「美しいものリスト」にその風景が加えられると同時に、美しさを見る目が一つ増えたような気がした。

3年後の2005年には北朝鮮を訪れる機会が2度あった。白頭山で「民族作家大会」が開かれることになったのだ。韓国、北朝鮮、海外に住んでいる朝鮮民族の作家200人ほどが、終戦から60年にして初めて一堂に会する歴史的なイベントだ。主催側の勧めで、ちょっとしたプレゼントを買うために、家の近くの薬局に行った時のことだ。薬剤師が「どうして、そんなにたくさん薬を買うのか」と尋ねるので「北朝鮮に持っていくプレゼントだ」と言うと、薬剤師はさらに多くの薬を渡して代金を受け取らなかった。そして「みんな元気に過ごして、いつか会えるといいですね」と話した。

ソウルから高麗航空の飛行機に乗って、1時間足らずで北朝鮮の平壌国際空港に着いた。船で金剛山に向かった時、一晩中船酔いに苦しんだことを考えると、呆気なく感じるほどだった。「平壌」という赤い文字とキム・イルソン(金日成)主席の写真が左右にかけられた空港の入口で、出迎えの北朝鮮の人たちから歓迎の拍手を受けた。

創作者は、それぞれ個性的な世界観を持っているため、コントロールされた団体活動をするのはなかなか難しい。長い間異なる政治体制の下で、違う人生を生きてきた作家の交流でもあった。いろいろな事情があり、様々な出来事もあった。互いに見せたいものと見たいものが異なっていた。何よりも、互いにどこに価値を置くのか違っていたため、緊張と葛藤が生じて誤解を招いた。その一例として、韓国側は1970年代を連想させる田舎の風景に郷愁を感じてカメラを向けたが、それは体制の優越性に誇りを持つ北朝鮮に対して失礼な行為だった。同じ民族という連帯感の中で、相手を尊重して譲り合い、調整していくことが何よりも重要だと肝に銘じた。結局のところ大切なのは、平壌の高麗ホテルで杯を交わし、玉流館で冷麺をすすり、妙香山で一緒に歌いながら、「これは夢じゃない」と交わし合った眼差しなのだから。

同一性を確認した瞬間は、何度もあった。同じテーブルに座っていた北朝鮮の作家が、サンチュ(包み菜)のことを「プル」と呼ぶと、韓国・済州出身の作家がとても喜んだ。済州島の方言だと思っていたが、北朝鮮の標準語だと聞いて嬉しかったのだろう。そうすると、話題は南北の言語の同一性になった。南北の言葉は、60年間分かれていたが、外国語の影響を受けた言葉さえ除けばコミュニケーションに全く問題がなかった。それは、南北共に朝鮮語学会が1933年に制定・公表した「朝鮮語綴字法統一案」に従っているからだ。民族作家大会が開かれた当時、韓国で出版された北朝鮮の作家ホン・ソクチュン(洪錫中)の小説『ファンジニ(黄真伊)』を見ても分かるだろう。この小説は広く親しまれ、韓国の著名な文学賞も受賞している。

夜明けと共に目覚める白頭山

翌日の日程は、白頭山の頂上で日の出を愛でながら行う予定になっていた。南北の作家を乗せたバスが、真っ暗な夜明け前、白頭山の麓にあるホテルを出発した。最後の夜ということで遅くまで宴が続いたため、ほとんどの作家は寝ていた。起きているのは、司会を任せられてひどく緊張していた私だけだった。しかし、そのおかげで一生忘れられない風景を目にした。夜明けと共に目覚める原生林の美しさ。白樺の白い森の中、曲がりくねった道が続き、グイマツの鱗のような幹の間に様々な花が咲き乱れていた。マツ、チョウセンゴヨウ、エゾマツ、ヤナギ、そして花々…。澄んだ水、奇妙なシルエットを見せる黒い岩。白頭山に住むという白い虎、黒い熊、ジャコウジカが今にも姿を現しそうな風景だった。そうして頂上に辿り着き、将軍峰に登った瞬間、天地を突き抜けるように荘厳な太陽が昇り始めた。ある北朝鮮の作家が、私たちに言った。

「本当にすばらしい日です。白頭山は高い山なので気候の変化が激しくて、私は5回登りましたが、日の出を見るのは初めてです」。

そこで南北の作家は詩を朗読し、一緒にスローガンを叫び、肩を組んで写真を撮った。その日のことを記した文章によると、韓国の作家が「醜いバラのとげのような鉄線をそっと取り去れ」と言うと、北朝鮮の作家が「人の思いを集めれば、天にも勝る」と答えたという。その時、私たちは様々な困難に直面しても、新しい歴史を作れると強く感じた。

すばらしい景色が季節ごとに違った姿を見せる金剛山。南北分断後、 1998年9月に船での観光が始まったが2004年に中断された。陸路での観光も2003年9月に始まり、2008年に中断されている。

そのような雰囲気はさらに続いた。翌2006年には「南北6・15民族文学人協会」が発足し、結成式が金剛山で行われた。韓国と北朝鮮の作家が一堂に会する「金剛山文学の夜」も開かれた。陸路での観光が始まった頃だったので、船酔いに苦しむことなくバスで移動した。北朝鮮には、韓国の江原道からすぐに到着した。そこで私たちは再び北朝鮮で取れた穀物や肉を食べ、お酒を飲んだ。統一したら、私たちの中で誰の本が北朝鮮で人気になるのか予想するなど冗談を言い合った。少数言語を使っている国の作家として、統一は読者数を増やす唯一の方法だと、励まし合いもした。

2008年には南北の作家の作品が載せられた雑誌も発行された。6・15民族文学人協会の機関誌に当たる『統一文学』だ。小説、詩、随筆、評論など33編が載せられた。そこには私の短編小説も運よく入っていたので、その雑誌を手に入れることができた。紆余曲折の末、ようやく世に出たその雑誌を大切に本棚に収めた。平壌でプレゼントされた北朝鮮の詩人の詩集の隣に…。私の作品はいろいろな言語で翻訳されているので、図書展や文学イベントなどで外国の読者に会うこともある。しかし、北朝鮮の人たちが私の小説を読むと考えると、不思議な感じがした。長く続けられてきた反共教育の影響から抜け出して、小さな一歩ではあっても歩み寄れた気がした。

しかしその年、南北関係が急激に冷え込んだ。金剛山を訪れていた観光客が事故に遭ったのも、一つの契機といえる。早朝、散歩に出かけた韓国人の観光客が、鉄条網を越えて軍事地域に入り、北朝鮮軍に銃で撃たれたのだ。その結果、毎年観光客が増え、2005年には100万人を超えた金剛山観光が、即座に中断された。米外交専門誌『フォーリンポリシー』でアメリカ人が行けない世界の絶景の第1位に選ばれた金剛山が、韓国人にも閉ざされてしまったのだ。それから10年間、韓国政府は北朝鮮側と対話をしなかった。そのようなぎくしゃくした雰囲気の中、金剛山観光は、その収益で敵性国家に利益を与えたという批判も受けた。しかし、その扉は再び開かれつつある。

2018年4月、板門店で南北首脳会談が開かれた。「徒歩の橋」を散策した後、その橋にある椅子に座った両首脳は、30分以上二人だけで話し合った。その間に聞こえてきたのは、鳥の鳴き声だけだった。翌日、読唇術で両首脳の会話を解読するメディアもあった。しかし私は、鳴き声の主を探して、その地域の生態系を紹介した記事が印象に残っている。鳥の鳴き声が平和をもたらす音に感じられたのは、私だけではないだろう。鳥の鳴き声だけが聞こえてきた30分間、私は金剛山と白頭山を思い浮かべていた。そこを訪れた後、私はいくつもの山を旅した。アンナプルナのベースキャンプに行き、マチュピチュに向かうインカトレイルを歩き、ロッキー山脈でキャンプもした。レーニア山が見えるアメリカの西部の都市で2年間過ごし、ワシントン州の周辺の山だけでなく、イエローストーンやグランドキャニオンなども旅しながら、自然の驚異を実感した。しかし、白頭山と金剛山のように心に染み入る風景ではなかった。私が韓国人だからかもしれないが…。

初めて北朝鮮の地を踏んだ時に感じた小さな身震いは、何だったのだろうか。北朝鮮の人と初めて挨拶を交わした瞬間の不思議な感動は、何だったのだろうか。他の人たちから離れて一人で金剛山の渓谷を歩いた時に私を包み込んだ、おぼろげながら生き生きとした精気は、何だったのだろうか。

分断後の歴史への理解

私の本棚には、白頭山と金剛山の写真集が二冊ある。一つは、マグナム・フォト(国際的な写真家グループ)を代表する写真家・久保田博二による『北の山河』。1979年に日本の雑誌『世界』のために撮られたものだ。日本人として北朝鮮の登山許可を得たのは、4番目だったという。本の末尾には、次のように書かれている。

「雄大で大陸的な山の典型といえる白頭山、まるで東洋そのものという感じを与える金剛山。私はこの二つの山の豪気で荘厳な大自然の迫力に圧倒された」。

この写真集は、30年前の1988年、市民を株主として誕生したハンギョレ新聞社が発行したものだ。当時は文民政権の発足前で南北関係が冷え込んでいたため、勇気が必要なことだった。この本の発行は、読者をとても興奮させるものだった。3万ウォンという値段は、当時としてはインスタントラーメンを300袋も買えるほど、かなりの金額だった。それでも、私もためらうことなく買った。「初夏にも氷が浮かぶ天池」、「渓谷の紅葉」、「原生林、木と氷」などの風景は、言うまでもなく素晴らしく美しかった。しかし、私の心を一層ときめかせたのは、今は訪れることのできない北の地にある白頭山と金剛山について、現在の様子が見られることだった。写真集の裏にある文章も、風景の美しさ、そこから感じられる子供の頃の思い出と懐かしさ、民族の精気に関する内容だった。

もう一つの写真集は、1982年に平壌の朝鮮画報社が発行した『白頭山』だ。私が民族作家大会に参加するために平壌に行った際、買ってきた本だ。限られた時間の中、許可を得て撮影された『北の山河』とは違って、四季折々の風景が収められている。また、ディテールに富んだ『北の山河』よりも、親近感があって多彩だ。写真のクオリティーは比べられないが、自然だけでなく人々の様子も収められていて、情感を増している。

最も大きな違いは、山を捉える見方だ。この画報集の第1章は、白頭山でも金剛山でもなく「偉大なる首領・金日成同志」の写真から始まる。ページをめくると、抗日革命闘争の歴史として、白頭山が登場する。その次に、白頭山と金剛山の美しい山河が多彩に広がる。北朝鮮において白頭山は、風景の美しい場所でもあるが、抗日闘争の遺跡としての価値も同様に重要だ。白頭山は朝鮮人民革命軍の蜜営(軍の密かな野営地)があった場所であり、あちこちに銅像、記念塔、記念碑が建てられている。遊撃隊の隊員の家や野営地も保存されている。韓国と断絶された後、北朝鮮の領域になり、その中で変容してきた。韓国と違う歴史、分断後の北朝鮮の現代史が凝縮された領土なのだ。そうした理解がなければ、その地に足を踏み入れる準備がまだできていないと言えよう。

最近、私は友達といくつもの旅行の約束をしている。韓国から始まる鉄道が北朝鮮、ロシア、ヨーロッパにつながれば、順に平壌、ウラジオストク、モスクワ、パリに行くという約束だ。「汽車旅ができるのに、飛行機なんかに乗るなんて…」と言いながら。そして、白頭山にもう一度行ってみたい。中国を通らず、鉄道で直接。もちろん、長く閉ざされた道をつなげるには、多くの時間と理解が必要だということは分かっている。私たちは十分待てるはずだ。間違いなく…。

現代グループのチョン・ジュヨン(鄭周永)名誉会長は1998年、2回にわたって計1001頭の牛を連れ、板門店(パンムンジョム)を通って北朝鮮を訪問した。南北の民間交流と経済協力の契機となった。

2005年に北朝鮮で開かれた「民族作家大会」で、韓国の作家が記念撮影をしている。キム・デジュン(金大中)大統領とキム・ジョンイル(金正日)総書記が初の南北首脳会談(2000年)で「6・15南北共同宣言」を採択し、和解ムードの中で開催された。

 

和解と平和のための旅

非武装地帯(DMZ)は、朝鮮半島の中央を横切る155マイルの軍事境界線から南北に幅22kmずつ設けられている。朝鮮戦争が休戦協定によって一段落したことから、当時の戦線がそのまま反映された。休戦会談が行われた板門店は、共同警備区域(JSA)であり唯一の通路だ。板門店と境界地域の分断関連施設は、国内外から年間300万人が訪れる観光スポットとして人気を集めている。

南北を分ける非武装地帯(DMZ)の唯一の通路「板門店」を北朝鮮側の訪問者が見て回っている。韓国で「安保観光」と呼ばれる板門店訪問をするには、国家情報院に遅くとも60日前に申請する必要があり、団体しか受け付けられない。

アメリカの歴史学者兼コラムニストのT.R.フェーレンバッハは、朝鮮戦争を記録した著書『この種の戦争』で、非武装地帯(DMZ)が生まれた板門店での休戦協定(1953年7月27日)の様子を次のように描写している。

「10時01分。彼らは双方が準備した18の文書の中で、1番目の文書に署名した。彼らが全ての文書に署名するのに12分かかった。署名が終わると、それぞれ席を立って無言でその場を離れた」。

地球に残る冷戦の最後の戦線と呼ばれるDMZ。分断の象徴として永遠に存在するかと思われた悲劇の現場が、突如として平和を語り始めた。休戦と分断が続く板門店で、韓国のムン・ジェイン(文在寅)大統領と北朝鮮のキム・ジョンウン(金正恩)委員長が2018年4月27日「板門店宣言」を発表し、平和な時代に向けて共に努力することを約束したのだ。そこでは65年前、戦禍の中で敵同士が12分間言葉を交わすことなく向かい合い、すぐに背を向けた。今度は二人で握手を交わし、抱き合い、一緒に歩いた。

板門店の「徒歩の橋」での南北首脳会談。この劇的な場面は、多くの人の目を引いた。青い徒歩の橋は、緑の森を背景に架けられている。二人は親しげに歩き、テーブルに向かい合って座った。会話の内容も、背景の音楽も聞こえなかった。ただ、いつもの板門店のようにシロハラが澄んだ声で鳴き、向こうからヤマゲラが大きな声で答えるだけだった。

四つのキーワード

DMZは、大きく四つの意味で捉えることができる。第一に、冷戦によって作り上げられた生態系の宝庫だ。自然は決して教科書通りに、人間の思惑通りに移りゆかない。昔の田畑は湿地になり、その湿地では世界的な絶滅危惧種であるキバノロの群れが暮らしている。悲惨な戦争、そして長い軍事的な対立を経て、思いもかけず自然が自らの居場所を育んだのだ。

国立生態院の統計(2018年6月)によると、DMZには絶滅危惧種101種など、野生生物5929種が生息しているという。熾烈な戦場が健康な森に復元されるまで、人間は何の役にも立たなかった。鉄条網を張り巡らせ、地雷を埋め、さらに枯葉剤を撒くなど、自然の営みを大きく妨げただけだ。そのため、DMZを「神の庭園」と呼んでもいいだろう。

第二に、DMZは生きた戦争博物館だ。朝鮮戦争に参戦したイギリスの兵士は「バーナムの森が動くまでは安泰だ」という『マクベス』の一節を痛感しただろう。臨津江の向こうの野原が動くと、中国人民志願軍の大攻勢が始まったのだ。DMZは、63カ国が参戦した「人類の戦争」の記憶を収めた叙事的なドキュメンタリーといえよう。

第三に、DMZは境界文化のインキュベーターでもある。DMZの南側数kmは、立ち入りが制限された民間人統制区域に指定されている。そこにある村は、渡り鳥に餌を与えて観光資源として活用するなど、人間と自然が共存する「道徳社会」だ。そこでも老いた者は死に、若き者は愛し、子供は生まれる。それだけではない。DMZは、韓国史の重要な節目とも大きな関わりがある。弓裔(?~918)が新羅末期に建国した後高句麗の都は、DMZの中にある現在の鉄原だ。その後、高麗も鉄原で建国され、後に開城に遷都した。それから約400年後、その開城で朝鮮王朝が興り、現在のソウルに遷都している。

DMZの近くは自然生態系の宝庫で、朝鮮戦争の痕跡と分断の現実 を実感できる。そのため、年間300万人ほどが訪れている。

板門店の橋

板門店を理解するための第四のキーワードは、橋だ。休戦協定直後に中立国監督委員会は、会場への移動距離を短くするため、板門店の東側の軍事境界線上にある湿地に木造の橋を架けた。人だけが渡れる狭い橋なので「フット・ブリッジ(徒歩の橋)」と呼ばれている。この忘れられていた冷戦の副産物が、今まさに平和の象徴として注目されている。「板門店宣言」には、DMZを平和地帯にするという内容も含まれている。徒歩の橋での散策は、その実現に向けた第一歩だといえる。

板門店と橋との運命的な関係は、すでに400年前に始まっていた。朝鮮第14代国王の宣祖(在位1567~1608)は1592年、南海岸から破竹の勢いで進撃してくる日本軍に追われ、慌てて北に向かって避難していた。雨の中、宣祖が小さな村に着いたが、川が氾濫して前に進めなくなってしまった。すると、村の人たちが門の板を外して、橋を架けたのだ。それ以降、その村は「ノルムン(板の門)里」と呼ばれるようになった。ノルムン里は朝鮮戦争の休戦会談当時、中国側の主張によって「板門店」という漢字の名称に変えられた。

平和への歩み

板門店の軍事境界線には、時として「象徴的な橋」が架けられる。1984年11月、平壌のソ連大使館で観光案内員をしていたヴァシリー・ヤコヴレヴィチ・マトギョク氏が亡命の意志を示し、軍事休戦委員会の建物の間を通って軍事境界線を越えた。軍事境界線の「渡河」は、2017年11月にもあった。北朝鮮軍の兵士1人が銃撃の危険を顧みず、走って軍事境界線を越えたのだ。

また、アメリカのジミー・カーター元大統領は1994年6月、北朝鮮の第1次核危機の仲裁のため、初めて板門店を通って北朝鮮を訪問した。分断以降、板門店に架けられた最もスペクタクルな「平和の架け橋」は、現代グループの創業者であるチョン・ジュヨン(鄭周永)氏が1998年に行った「1001頭の牛の群れの北朝鮮訪問」だろう。チョン・ジュヨン氏は同年6月と10月、それぞれ500頭と501頭の牛をトラックに載せて北朝鮮を訪れた。キム・ジョンイル(金正日)国防委員長とも会談し、経済協力の契機をもたらした。そして同年11月、金剛山観光客を乗せた船が、初めて韓国の東海港から北朝鮮へ向かった。

最近、板門店やDMZの近くへ「安保観光」に出かける国内外の観光客が急増している。しかし、板門店はいつでも誰もが無条件に訪問できる場所ではない。一定の審査を経て許可を得なければならず、昼間にガイドの引率の下、決まったルートでしか移動できない。写真撮影の許可がなければ、カメラのシャッターに指を乗せることもできない。いろいろと不便な点はあっても、多くの人が板門店に向かうのは、そこが世界で唯一の冷戦の現場・遺跡であり、その意味を体験・実感できるただ一つの場所でもあるからだ。

ウン・ヒギョン殷熙耕、小説家
ハム・グァンボク咸光福、韓国DMZ研究所所長

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