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2017 SUMMER

特集

百済、失われた王国を求めて
百済は月の光の下にある

紀元前18年から約7世紀にわたって朝鮮半島の南西部を治め、美しい文化を花咲かせた古代国家・百済。新羅は唐と連合して660年、百済を滅ぼし、その8年後には高句麗も滅ぼした。その後、程なくして新羅は唐の勢力を退け、朝鮮半島を統一した。百済は三国(百済、新羅、高句麗)の中でも、日本や中国など周辺国と最も活発に交流し、東アジアにおいて重要な拠点だったが、その歴史は大きく歪められ忘れられていた。近年、地中に眠っていた数々の遺跡・遺物が発掘され、徐々にその姿を現している百済。その実体を追って、タイムトラベルに出かけてみよう。

錦江越しに見える公州山城に夕闇が訪れると、城郭に沿って明かりが灯される。公州山城は475年、現在の忠清南道公州に当たる熊津に都を移した百済が、その都を守るために自然の地形を生かして造った全長2660mに及ぶ王城

2015年7月8日にドイツのボンで開かれた第39回ユネスコ世界遺産委員会では、東アジア文明の形成に貢献した百済の遺跡地が「百済歴史遺跡地区」に指定され、世界遺産として登録された。この遺跡地区は、忠清南道公州にある①公山城と②宋山里古墳群、扶余にある③官北里遺跡と扶蘇山城、④陵山里古墳群、⑤定林寺址、⑥扶余羅城、そして全羅北道益山にある⑦王宮里遺跡と⑧弥勒寺址の合わせて8カ所。その中で残っているのは、公山城、扶蘇山城、定林寺址の五層石塔、弥勒寺址の西石塔くらいで、壊れたら壊れたまま、傾いたら傾いたまま日光・風・雪・雨にさらされ、少なくとも1300年以上の間、朝鮮半島に生きる人々を見守ってきた。

暗闇の中に浮かび上がる歴史の実体

稜線と渓谷に沿って上下する公州山城の城郭。川風を感じながら公州の市街地を見渡せる心地よい遊歩道でもある。

それ以外のものは、しばらく前まで地中に埋もれていた。公州の宋山里古墳群の一つが、百済の武寧王陵だと確認されて世間を騒がせたのは、1971年の夏。扶余の陵山里古墳群周辺の陵寺から百済金銅大香炉が出土し、王室の墓地であることが推認されたのは、1993年12月のことだ。扶余羅城は土城であるため目立たないかもしれないが、1975年の発掘調査開始から現在まで、その周辺で大小様々な遺物が出土し続けている。益山にある弥勒寺址の東塔址は1974年に輪郭が現れ、王宮里遺跡は1989年以降ようやく規模を把握することができた。

世界遺産登録申請では除外されたが、建国から500年続いた漢城百済時代(百済が漢江流域で古代国家としての基礎を築き、農業と鉄器文化を発展させた時代)に建てられた大規模な土城も同様だ。百済最初の王城である河南慰礼城と推定される風納土城(都城の北側に位置)は、1925年の大洪水の時に初めて発見されたが、そこから大量の百済の遺跡・遺物が出土して学界で注目されたのは、1997年の住宅団地造成工事がきっかけだった。都城の市街地が形成されていたとされる夢村土城(都城の南側に位置)も、1980年代に入って発掘された。

夕闇が夜の境界を越えると、公山城にぽつりぽつりと明かりが灯される。ちょうどその時、青黒い空を背景に、途切れ途切れに肩のラインを見せる城郭のシルエットは、遠く川の向こうに立っている誰かを呼ぶ。夜になってもまだ帰ってこない者がいるのだ。呼ばれることなく帰る場所を失った不在者の短い人生が、そこにある。

扶余・定林寺址の五層石塔(国宝第9号)。百済の地には三国時代の石塔が二つ残っており、この石塔は高さ8.8mで7世紀中葉に建てられた。百済では木塔の形式に石材を用いて新しい石塔の様式がつくられ、統一新羅時代には韓国の典型的な仏塔様式の完成につながった。

長い沈黙を破って地中から姿を現した遺跡・遺物は、百済という古代国家が、朝鮮半島の中央部を流れる漢江流域の南西側を領土として700年近くも続き、儒仏道(儒教・仏教・道教)思想を基に優れた建築技術と独特な造形美を追い求め、日本や中国など東アジアの古代王国と交流していた証拠となり、世界遺産としての保存価値を証明した。深い地中に埋もれていたり埃をかぶっていた遺跡・遺物が、偶然の機会に見つかり、驚くべき客観的証拠になったのだ。その価値や意味を考えたり強調したりするのは、学者や研究者に任せることにしよう。私はその代わり、そうした物証とは別に、百済が韓国人にどのような影響を与えてきたのか、その一端を紹介したいと思う。

ずいぶん意欲的な試みではあるが、私が持っているものはアマチュア的な関心だけだ。その関心の手がかりは、明らかにされて過去を再構成するものが、常に不確実で曖昧なものと関係を結んでいるという点にある。そうしたものは、それぞれの方式で内面化された過去を秘めている。古びることなく、変わることもない。そして、忘却を拒否する。そうやって過去を支配するのだ。

現代の戦争の治癒と融和のために呼び起こされた古代国家

40mの絶壁にある落花岩を通り過ぎる扶余の白馬江遊覧船。百済が滅亡した660年に「三千宮女」が身を投げたという伝説が残っている。この絶壁の中腹には11世紀初め(推定)、慰霊のために皐蘭寺が建立され、現存している。

1955年4月18日、扶余で百済を記念する「百済大祭」という行事が初めて開かれた。春雨が突然、豪雨に変わり、予定よりも2日遅れて開催された。扶余は百済末期の123年間、最後の義慈王を含めて6人の王によって統治された百済の古都だ。歴代の王を追悼するために始まった百済大祭は、亡国を悲しみ落花岩から白馬江に身を投げた宮女の霊を慰める水陸斎を最後に、5日間開かれた。全国から2万人ほどが押し寄せ、扶余の宿泊施設と飲食店は人であふれかえった。当時の社会・交通環境を考えると、ものすごい人出だ。最も大きな関心を集めたのは、百済の3人の忠臣である成忠、興首、階伯の位牌を奉安する三忠祭だった。この祭礼の行列には、数百人の学生と地元の人が動員され、さらに大勢の見物人も集まって壮観を呈した。

ドイツのライン川流域のローレライにも劣らないほど、扶余の白馬江と「三千宮女の落花岩」に多くの人が訪れたという点で、イベントは大成功だったといえる。しかし、それだけでは、全ての地域住民が敬虔な心と態度で、自主的に募金に参加したという証言に納得できないかもしれない。その時は地中の百済の遺跡が発掘される前で、文化への誇りもそれほど高くなかった。それでは結局「団結と融和のための場」だったのだろうか。

国連軍が初めて参戦した朝鮮戦争は、3年間にわたって激しい戦闘が繰り広げられ、約300万人が死亡した。その中には、内戦で見られるような政治犯への大量虐殺、南北の反逆者の犠牲も含まれている。1953年の休戦後、血縁や地縁で結ばれた地域社会は、内部の課題を抱えていた。それは、分裂の傷を癒すことだった。扶余も同様だったため、地元の有力者が知恵を絞ったストーリーテリングこそ、外敵によって滅びつつある国のために命を捧げた三忠臣と三千宮女の忠義を称えることだった。そのため慰霊祭は、戦争で分断された扶余住民の家族や隣人のための慰霊祭としても、自然に受け入れられたのだ。この行事は10年後の1965年から政府の全面的な支援を受けて地域の文化祭となり、規模も大きくなった。

扶余群恩山面で伝承されてきた恩山別神祭をモチーフにしたオ・テソク(呉泰錫)氏の戯曲『白馬江の月夜に』(1983)はクッ(ムダンによるシャーマニズムの祭儀)を演劇の要素としたことで注目を浴びた話題作だ。恩山別神祭の由来は、次の通りだ。昔、恩山に疫病が流行ったが、ある老人の夢に白馬に乗った将軍が現れ、百済の兵士の死体があちこちに放置されているので、それを集めて葬儀を行えば、この村の疫病は収まると話した。村人が夢で言われた通り、散らばっていた白骨を拾い集めてクッをすると、疫病が収まって村が平穏になったという内容だ。

2014年の夏、ソウルの南山芸術センターで『白馬江の月夜に』が新たに公演された。演出家兼原作者のオ・テソク氏によると「初演に比べて、百済の兵士と義慈王、そしてスンダン(村でクッをする老巫女の娘で、百済の義慈王を刺した新羅の間者の転生)の和解に集中することで、対立と叙事の展開が淡泊で明瞭になった」と評価されるほど、原作を大幅に修正したという。その過程において朝鮮戦争と百済の敗亡を結び付けていた「不確実で曖昧な」つながりは、なくなってしまった。村の入り口にある百済の城跡・ソルメ城壁の下で、17の死体が発見されるシーンでは「百済の兵士であれ、朝鮮戦争で虐殺された無実の市民であれ」という絶妙で重層的な表現も削除された。歴史的なアレゴリー(寓意)が抜けた隙間に、作家ならではの言葉の綾とユーモアが込められた。70代の老作家は、なぜこのような選択をしたのだろうか。

陵山里古墳群には、泗沘期(扶余に都を置いた時期)の百済王の墓が、現在7基保存されている。陵山(海抜121m)の南斜面の中腹に位置している。

「ついえて、代わりに精神を残すところ」

ヒョン・ジンゴン(玄鎭健、1900~1943)は、韓国近代小説の定着期に、社会・歴史問題への旺盛な探究によって、リアリズム文学の規範となった優れた作家だ。日本統治時代に新聞記者としても活動していたが、その際、ベルリンオリンピック(1936)の男子マラソンで優勝したソン・ギジョン(孫基禎)選手の胸の日の丸を塗りつぶした写真が新聞に掲載された事件に関わったとして収監されたほど、民族意識も強かった。その結果、生活は一変し、新聞社を辞めるしかなく家も処分し、養鶏業を営むなどして生計を立てるほかなかった。だが養鶏業はうまくいかず、持病の結核で生涯を終えるまで、それほど長くはなかった。

そうした状況で発表した長編小説『無影塔』(1939)に、阿斯達と阿斯女という百済の石工職人の夫婦が主人公として登場するのは、決して偶然ではない。ヒョン・ジンゴンは『無影塔』以降、百済を背景にした『黒歯常之』(1940)と『善花公主』(1941)という二つの長編小説を次々と執筆した。彼は『黒歯常之』の連載前「過去の方が、現在にはない、得られない真実性を保っているため、より現実的」だとして「現在の事実を取材したものより、さらに鼓動が高鳴って血が流れるような現実感を与えることができる」と歴史小説に対する見解と意志を明らかにしている。しかし『黒歯常之』は、外敵の勝利を不服として百済の復興に奮闘した将軍を主人公としていたため、東亜日報連載中に日本の圧力によって強制的に中断された。百済の武王の伝説『薯童謡』を素材にした『善花公主』も、月刊誌『春秋』連載中に未完のまま中断されてしまった。

『無影塔』の主人公は、新羅の首都・慶州に連れて来られて、仏国寺の石塔を建てる扶余の石工職人で、これは多くの百済の木工・石工職人が新羅で寺院や塔の建立に動員されたという記録に基づいている。だが、そうした職人に阿斯達という名前をつけたのは、ヒョン・ジンゴンが初めてだ。この名前をつけて、満足げな表情を浮かべている彼を想像するのは難しくない。阿斯達は『三国遺事』の古朝鮮編で始祖・檀君が国を建てた際の都であり、「朝の光の地」という意味を持つ一種の朝鮮民族の象徴だからだ。つまり、国を失った百済の一介の石工である阿斯達と、彼に恋する新羅の貴族の娘チュマン、そして待ちわびた末、夫に会いに扶余から慶州まで来た妻の阿斯女の関係が、『無影塔』の基本的な対立の構図だ。

日本統治時代に扶余で生まれ育った詩人シン・ドンヨプ(申東曄、1930~1969)の詩は、扶余という場所に根ざしている。その理由は、ただ「喪輿舎の日の当たる場所で/鼻水をすすりながら/ククス(麺料理)を売っていた老婆」や「杏子の木の村は/深い眠りのさなか」のような故郷での体験に基づいた叙情にあるわけではない。彼の歴史的な想像力は、百済から三韓(馬韓、弁韓、辰韓)、高句麗、扶余といった上古時代に導いたかと思うと、突如として東学(朝鮮王朝末期の新興宗教)、三・一独立運動、朝鮮戦争、四月革命(1960年の民衆デモ)のような近現代史にいざなう。阿斯達と阿斯女は、彼の詩によく登場する詩的対象であり話者でもある。彼は、ヒョン・ジンゴンが『無影塔』で築いたこの虚構の登場人物の設定と状況を引き継いで、阿斯達と阿斯女を戦争と貧困に苦しむ隣人や分断の象徴とした。

シン・ドンヨプの歴史に対するヒューマニティーは、叙事詩『錦江』でピークに達する。「五千年の間、追われ続けた無垢で無辜な民」のような人々に対して、怒りと憐れみをもって過去の事件を構造化することで、歴史を透察しようとしたのだ。彼の成功が歴史の現在化にあるとすれば、彼の失敗はその歴史の観念性にある。次の詩句は、そのような私の感想への反論として適切な例だろう。

「百済、
昔からここは集まって
腐るところ
ついえて代わりに
肥を残すところ
錦江、
昔からここは
腐るところ
ついえて代わりに
精神を残すところ」
(シン・ドンヨプ 『錦江』23章)。

「百済、
昔からここは集まって
腐るところ
ついえて代わりに
肥を残すところ
錦江、
昔からここは
腐るところ
ついえて代わりに
精神を残すところ」
(シン・ドンヨプ 『錦江』23章)。

全羅北道益山王宮里の五重石塔は、百済の石塔形式に統一新羅の様式を加味し、高麗初期に建てられたとみられている。王宮里はその地名の通り、百済が新しい都として構想していたと推定される。塔の現在の高さは8.5mで、国宝第289号に指定されている。

扶余の扶蘇山城から錦江へと広がる羅城の跡地には、貧しさと憐れみで「祖国の痛みを抱えて」この世を去った彼の詩碑が立っている。

書き直すべき敗者の物語

「虚偽ニュース」に対する議論は、現在だけでなく過去にもあった。いつの時代も勝者の物語は、誇張されて広く伝わるが、敗者の物語は、老いの繰り言のようにため息交じりで口にされる。百済の物語も同様だ。勝者の知略と勇猛の前に、敗者の無能と堕落は一層大きくなり、この単純な構図は時を経て事実よりも強く固まっていく。歴史はその間、記憶して見つめる人々の現実認識と感情によって内面化されたり断片化されたりする。悲劇的な戦争の現場であった「堕死岩」が「三千宮女の落花岩」に変わったことも、扶蘇山城の頂上にある「泗泚楼」が「泗沘楼」の誤記であることを知りながら直っていないことも、それと大差がない。彼らにとって客観的な事実関係に基づいた叙事構造は、それほど必要でも重要でもないのだ。

「月よ、高く上がっておくれ」で始まる『井邑詞』は、現存する唯一の百済時代の歌謡で、高麗・朝鮮時代まで俗楽の歌詞として歌われた。『高麗史』によると、井邑に住むある行商人が出かけたまま長い間帰ってこないので、妻が望夫石に登って夫の帰りを待ちながら、もしかして夜道で何かあったのではと心配して歌ったものだという。井邑市立国楽団は、この歌を記念する多彩な公演を毎月15日に行っている。そういえば、百済を歌った今時の歌も、例外なく月夜を褒め称えている。そこには白馬江、水鳥、静けさ、小舟、鐘の音が欠かせない。

ジャーナリスト兼小説家のイ・ビョンジュ( 李炳注、1921~1992)は、大河小説『山河』の序文に次の表現を引用した。「日光に色褪せると歴史になり、月光に染まると神話になる(褪於日光即為歴史染於月色即為神話)」。

この一文に答えるなら、百済は月の光の下にある。夕闇が夜の境界を越えると、公山城にぽつりぽつりと明かりが灯される。ちょうどその時、青黒い空を背景に、途切れ途切れに肩のラインを見せる城郭のシルエットは、遠く川の向こうに立っている誰かを呼ぶ。夜になってもまだ帰ってこない者がいるのだ。呼ばれることなく帰る場所を失った不在者の短い人生が、そこにある。百済の月の光は、その傷つけられ、抜け落ちて、歪められた山河の湿った痕跡を抱いて癒している。

イ・チャンギ李昌起、詩人、文学評論家
安洪范写真

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