数百万人ともいわれる犠牲者を出し、朝鮮半島を焦土化した朝鮮戦争(1950~1953)は、冷戦時代における最初の大規模な戦争だった。世界63カ国が、兵士の派遣や物質的・財政的な支援を行った。その中で16カ国の数十万人の兵士が、怪我を負ったり命を失った。朝鮮戦争は韓国人にとって、同じ民族同士の戦争という悲惨な経験であり、その苦痛と傷はポピュラー音楽に込められている。
国連軍は、中国軍の連日の攻勢に押されて南に後退したが、ソウルの北側に足場を築くため、1951年1月1日~4日に議政府(ウィジョンブ)渓谷で敵の攻撃を阻止した。写真は、この戦闘によって、わずかな身の回りの物を持って南に避難する住民。避難民の悲しみや喜びは、当時のポピュラー音楽の主なテーマだった。© gettyimages; Photo by Joe Scherschel
韓国の現代ポピュラー音楽は、日本の統治が本格的に始まった1910年代から始まった。それまでは階級や地域によって音楽への接し方が大きく異なっていたが、そのような前近代的な環境から抜け出した時期だ。その頃から日本によって持ち込まれた西洋音楽の影響を受け、多くの人の感性と好みを反映した新しい形式・内容の歌が登場し始めた。さらに1930年代以降、レコードや放送などの近代メディアと緊密な関りを持ち、社会的な影響力も大きくなっていった。そして、大衆文化の重要な一分野として位置付けられるようになったのだ。
ポピュラー音楽は、時代が投げかけた問いに、自らの方法で反応・適応してきた。1945年の終戦以前は、主に比喩によって民族主義を遠回しに表現することで、日本から検閲や圧迫を受けながら軍国歌謡を作り広めた。レコードの生産システムは、20世紀初頭に外国資本の主導で始まったが、日本の本社と韓国の支店では役割が異なっていた。
レコード産業
終戦に続く民族の分断によって朝鮮半島全体が混沌としていた1940年代後半、韓国のポピュラー音楽界の差し迫った課題は、レコードの新しい生産システムを構築することだった。放送や公演は、基盤施設がそのまま残っていたため、日本の資本や人員が撤退した後も、運営主体を変えてある程度続けられた。だが、レコードは事情が違っていた。企画、流通、部分的な録音は、日本統治時代にもソウル支店で行っていたが、レコードの生産設備は日本の本社にしかなかった。そのため終戦直後は、劇場公演がポピュラー音楽の普及の主なルートだった。
様々な困難を乗り越えて、韓国の資本と技術だけで初めてレコードが作られたのは、1947年8月。韓国初のレコード会社は、高麗レコードだった。同社が初めて製作したレコードは『愛国歌』で、その後初めて発売したポピュラー音楽のレコードは『去れよ、38度線』だった。当時のレコ―ド産業において注目すべき点は、ソウルではなく地方にもレコード会社が設立されたことだ。釜山(プサン)では1948年にコロナレコードが創業し、大邱(テグ)では1949年にオリエントレコードが発売を始めた。ソウルよりも戦争の被害が少ない地方の主要都市にもレコード会社があったため、戦争中にも新しい歌が作られたのだ。
朝鮮戦争は1950年6月25日、北朝鮮の奇襲攻撃によって始まった。しかし、すでに1948年から内戦への不安や恐怖は広がっていた。韓国と北朝鮮が、それぞれアメリカと旧ソ連の支援によって政府を樹立し、双方の軍隊による小規模な衝突が頻繁に起きていたからだ。そのような状況で発表された『去れよ、38度線』は、当時多くの人が抱いていた不安を最もよく表していた。朝鮮半島を南北に分断する北緯38度線という冷戦の壁。その壁が取り払われることを願うこの曲は、当時多く共感を呼び、分断の現実を反映した数多くの歌が発表されるきっかけにもなった。政治問題をストレートに扱う歌が、かつてないほど数多く作られた時期でもある。このように1940年代後半の韓国ポピュラー音楽は、分断の時代相とそれに伴う人々の複雑な情緒を反映していた。
1.スターレコードが1954年に発売した蓄音機用レコード『シューシャイン・ボーイ』。苦しい生活の中、靴磨きで何とか生きていく少年の姿をコミカルに描いている。 © ネイバー知識百科
2.オリエントレコードが1952年に発売した蓄音機用レコード『戦線夜曲』。生と死のはざまを行き来する戦場で母を懐かしむ軍人の心情を描いている。 © イ・ジュニ(李埈熙)
3.『去れよ、38度線』は終戦後、韓国の資本と技術で初めて作られたポピュラー音楽のレコード。1948年に高麗レコードから発売された。© 大韓民国歴史博物館
戦争の兆し
レコード業界だけでなく、公演の現場にも戦争の影が忍び寄っていた。1949年に政策的な支援によって作られた大型ミュージカル『肉弾十勇士』は、38度線を跨いだ南北の小規模な戦闘によって犠牲になった韓国の兵士を追悼する作品で、韓国の主要都市で上演された。また、後にポピュラー歌手の戦争中の活動拠点となる軍芸隊、つまり軍隊内の慰問公演組織も1949年に設立された。
戦争は、日曜日の朝に始まった。大部分のソウル市民は、逃げ遅れてしまった。急速に進撃してくる北朝鮮軍を食い止めるため、韓国軍が漢江(ハンガン)大橋を爆破したためだ。それから3カ月間、ソウルは北朝鮮軍の統治下に置かれた。『去れよ、38度線』と『肉弾十勇士』を作った作曲家パク・シチュン(朴是春)も、その間は身を隠すしかなかった。もし北朝鮮軍に逮捕されれば、どうなるか分からなかったからだ。実際に、パク・シチュンの同僚でライバルでもあった作曲家キム・ヘソン(金海松)は、北朝鮮軍に逮捕され、北に後退する際に連れ去られて命を落とした。
1950年9月、韓国軍と米軍を中心とする国連軍が再びソウルを奪還し、その勢いに乗って北朝鮮側に進撃した。そうした状況を背景に作られたのが、パク・シチュン作曲の『戦友よ、安らかに眠れ』。軍歌でありポピュラー音楽でもあったこの歌は、子供も口ずさむほど人気を博し、今でも戦時中の代表的なポピュラー音楽として挙げられる。
国連軍が北朝鮮の首都・平壌(ピョンヤン)を占領し、中国との境界・鴨緑江(アムノッカン)まで進撃したため、韓国の勝利で戦争が年内に終わるという期待もあった。だが、1950年10月に中国が参戦すると、形勢は一気に逆転した。1951年1月にソウルが再び陥落した際には、一般市民だけでなく、ポピュラー歌手も大挙して南に避難した。海を越えて済州(チェジュ)に渡り、軍芸隊に入った歌手もいれば、釜山や大邱にとりあえず落ち着いて、音楽活動を続けた歌手もいた。さらに日本に密航した歌手までいた。このように多くのポピュラー歌手がソウルを離れた後、1951年後半からは臨時首都・釜山と大邱で本格的にポピュラー音楽が作られ始めた。
前線の激しい戦闘がニュースで報じられた時期に作られたため、ほとんどの歌が戦争と直接的・間接的に関係があった。だが、その表現方法と範疇は、多岐にわたっていた。例えば、生と死のはざまを行き来する戦場と兵士の心理を描写した『戦線夜曲』が大きな人気を集め、夫を戦場に送り出す妻の切ない想いを込めた『妻の歌』も多くの共感を呼んだ。戦争で家族と故郷を失った人々の悲劇をドラマチックに描いた『がんばれ!クムスン(今順)』も、戦時中のポピュラー音楽で忘れてはならない傑作といえる。
このように戦争を写実的・真摯に表現した曲が続々と発表される中、少し違った角度や方式で時代と人々の感性を反映した歌もあった。生きるために路上で靴磨きをする少年の目を通して、前線から離れた戦時中の日常を描写した『シューシャイン・ボーイ』には、コミックな技法が取り入れられた。戦時中の荒涼とした生活を癒す歌には、田園風景を描いた『水車の回る訳』などがある。束の間でも現実逃避したい心理を積極的に反映した作家や歌手によって、非現実的な異国の雰囲気を強調した『インドの香火』のような歌も発表された。
日常の癒し
1953年7月の休戦協定によって砲声は止んだが、戦争をテーマにしたポピュラー音楽は、その後も相次いで発表された。それほど当時の生活は、戦争の衝撃と疲弊から抜け出せずにいた。臨時首都の釜山を離れ、再びソウルに戻る人の複雑な心境は『別れの釜山停車場』が表現し、故郷に戻れなくなった北朝鮮出身の避難民の絶望感は『夢に見た我が故郷』となった。そして、戦争中にどこかに連れ去られたまま、家族の消息が分からない悲しみは、個人にとどまらず民族的な「恨(ハン)」というやるせなさを抱かせた。そのため『断腸のミアリ峠』は、皆の愛唱歌になった。
その後も1950年代のポピュラー音楽は、戦争の痛みを思い起こさせるものだった。命、体の一部、家族、故郷、あるいは家やお金など、誰もが何かを失った巨大な喪失の時代に生み出された悲しき自画像だ。しかし一方では、そうした歌が、絶望から立ち上がろうとする人々に、ささやかな力を与えてくれた。
朝鮮戦争がポピュラー音楽に与えた影響は、このように戦時中に数多くの歌を作り出しただけではない。戦争が終わった後も、数万人の米軍が韓国に引き続き駐屯したため、米軍基地での「米8軍ショー」が始まった。そこで活動する音楽家と彼らが取り入れたアメリカのポピュラー音楽は、1960年代以降の韓国のポピュラー音楽の構図を変えるほど大きな役割を果たした。また、北朝鮮に渡ったり拉致された音楽家の場合、数多くの作品が禁止曲になり、東西冷戦が終結した1990年代にようやく解禁された。
戦争の記憶が薄れつつある今も、戦時中に作られたポピュラー音楽は、多くの韓国人に愛される思い出の歌として残っている。朝鮮戦争とポピュラー音楽の関係は、まだ完全に規定されておらず、部分的には依然として進行形の歴史だと見てもいいだろう。焦土と化した国土の悲惨な貧困は克服したものの、民族の分断は、今も平和を脅かす厳しい現実として存在しているのだから。
生と死のはざまを行き来する戦場と兵士の心理を描写した『戦線夜曲』が大きな人気を集め、夫を戦場に送り出す妻の切ない想いを込めた『妻の歌』も多くの共感を呼んだ。
壤から撤退し、軍事境界線にかかる橋を渡る国連軍(1950年)。38度線に象徴される分断の傷跡は、朝鮮戦争休戦後もポピュラー音楽にたびたび登場するテーマだ。© gettyimages; Photo courtesy by Interim Archives

去れよ、38度線
作詞 イ・ブプン(李扶風
作曲 パク・シチュン(朴是春)
歌 ナム・インス(南仁樹)
あぁ 山に阻まれ 来られないのか
あぁ 水に阻まれ 来られないのか
同じ故郷の地 誰もが行けるはずなのに
南北に裂かれ 恨みの千里
夢であなたを探す 夢であなたを探す
憎い38度線
あぁ 花咲く頃に来てくれるのか
あぁ 雪降る頃に来てくれるのか
荷物を担ぎ 越えた峠
山鳥と泣きながら越えた
自由よ お前のために 自由よ お前のために
この命 捧げよう
あぁ いつ開かれるのか
あぁ いつ消え去るのか
38度線の三文字 誰が作ったか
峠はこんなに涙であふれ
手を合わせて祈る 手を合わせて祈る
去れよ 38度線

https:
//youtu.be/jqkh26uaMAU

戦線夜曲
作詞 ユ・ホ(兪湖
作曲 パク・シチュン(朴是春
歌 シン・セヨン(申世影
枯れ葉 舞い散る戦線の月夜
音もなく降り注ぐ露も冷たく
眠れず寝返り打つ耳元に
丈夫の道を教えた母の声
あぁ 懐かしい声
響く鐘の音を子守歌に
夢で駆け寄る故郷の家
朝一番の井戸水 汲んで 息子の功を祈る母
白髪まぶしく 涙こぼれる
あぁ 抱きしめたかった

https:
//youtu.be/ZjjqCRGZXgI

がんばれ!クムスン
作詞 カン・サラン
作曲 パク・シチュン(朴是春)
歌 ヒョン・イン(玄仁)
吹雪がすさぶ興南(フンナム)埠頭
声をからして呼んで探した
クムスンよ どこで迷い さすらうのか
血の涙を流して一人帰る 1・4*の後
身よりなく 今はどうしているのやら
この身は国際市場の物売り
クムスンよ 会いたい 故郷の夢も懐かしい
影島(ヨンド)橋に寂しく浮かぶ 三日月だけが
鉄のカーテン 悲しみの中 生きていても
この世で二人の仲は変わらない
クムスンよ がんばれ 南北統一 その日が来れば
手を取り合って 泣いて抱き合い 舞い踊ろう
*1・4:韓国戦争で、中国との国境近くまで進撃していた国連軍が、中国軍の攻勢によって38度線より南に退却し、1951年1月4日にソウルが再び陥落したので「1・4後退」と呼ばれる。

https:
//youtu.be/KQazL-qi2_Y

断腸のミアリ峠
作詞 パン・ヤウォル(半夜月)
作曲 イ・ジェホ(李在鎬)
歌 イ・ヘヨン(李海燕)
ミアリ(彌阿里) 涙の峠 あなたが越えた別れの峠
火薬の煙が遮って 目も開けられず さまよう間
あなたは両手を針金で縛られ
振り返り また振り返り
素足を引きずり 連れ去られた峠
やるせないミアリ峠
あなた 今どこで何をしているの?
幼いヨングは 今夜も あなたのことを恋しがり
眠ったばかりです
真冬の夜長 北風と雪が吹きすさぶ間
あなたは鉄格子の中で どんなにつらいことでしょう
10年経っても 100年経っても
どうか生きて帰ってきてください
ねぇ あなた
父が恋しい子供は眠り
真冬の夜長 雪風すさぶ その間
あなたは鉄格子の中 どれほど つらかろう
10年経っても 100年経っても
生きて帰って 泣きながら越えた峠
やるせないミアリ峠
やるせないミアリ峠

https:
//youtu.be/2Zz77mDiA-U