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On the Road

2021 SPRING

LIFE

オン・ザ・ロード 高敞
偉大な種子が芽ぶく土地

全羅北道の高敞(コチャン)一帯には、美しい自然景観と悲しい歴史が秘められている。 赤い椿の花の咲く早春のある日、韓国農民運動の足跡が生々しく残っている地に、 詩人イ・サンハが駆けつけた。

数千年も受け継がれてきた人類の文明と文化が、新型コロナの波で大きく揺さぶられている。目にも見えず音も立てない敵が、最先端ミサイルに劣らないほど恐ろしいということを痛感している。

今日この瞬間にも我々はなす術もなく、この前代未聞の状況に耐えている。家族や友人が亡くなっても、そばに近付くことはおろか、顔を見ながら花を捧げることもできない。新型コロナは、ささやかな自由も悲しみも容認しない。もしかすると、これまで自由をむさぼり自己欺瞞な我々の生き方に対する強烈な警告かも知れない。同様にこれまで他人の悲しみに付け入って、あるいは自分の悲しみを利用して利益を得たことはなかったのか、一度振り返ってみてはどうだろう。「死を忘るなかれ」という意味の警句「メメント・モリ(memento mori)」-この無力な瞬間に、胸に刻んでおきたい句である。

全羅北道高敞 (コチャン)郡にある禪雲寺 (ソヌンサ)の庵、兜率庵へ向かう道沿いにある「磨崖如來坐像」は、韓国の磨崖仏像の中でも最大規模であり、高麗時代に彫刻されたものと推定される。身の高さ15.7m、膝の幅8.5mで、岩壁の表面6mの高さに座禅を組む姿である。1890年代の東学農民革命当時、農民軍がこの仏像の前で革命の成功を祈ったという話が伝わる。

革命の種
高敞に発つ数日前から寝そびれてしまった。アメリカのテレビドラマ『スパルタカス』(全13話)にはまっていたせいだ。新型コロナによるソーシャルディスタンス(社会的距離)対策のおかげだった。さもなくば、一人でネットフリックスの世界に耽ることもなかっただろう。

ソウル龍山(ヨンサン)駅を出発したKTX高速鉄道が、1 時間40分で光州(クァンジュ)の松亭(ソンジョン)駅に到着した。コロナ禍で乗客が急減し、目的地の近くの井邑(チョンウプ)駅には停車しなかった。出迎えに来た後輩の車に乗り、逆方向に高敞を経由して古阜(コブ)に向かって走った。高敞町内に入るロータリーに設置されている電光掲示板が「朝鮮半島初の首都、高敞へようこそ。四季折々の美しい自然にあふれる禪雲山、東学農民革命(甲午農民戦争、1894)の聖地」というフレーズで歓迎してくれる。ここは朝鮮後期19世紀末、東学農民革命の旗が初めてはためいたところである。そして、その戦士たちの血と骨が埋められている墓でもある。電光掲示板の横には「覆盆子、うなぎ特産品の産地」、「チョン・ボンジュン(鄭鳳俊、1855~1895)将軍の銅像建立に向けた募金へのご協力をお願いします」という垂れ幕もある。もちろん、政府機関が公式に建立した「鄭鳳俊銅像」はいくつかある。しかし今回は、地元民間人の自発的な参加によって建てるという意味らしい。

車が広い野原を通り過ぎて、ある小さな瓦屋根の家の前に止まった。全羅北道井邑市古阜面新中里竹山(ジュクサン) 村にあるソン・ドゥホウ(宋斗浩、1829~1895)の生家である。表門はなく、右側のコンクリートの柱に「東学農民革命謀議の場所」と大きく書かれている。この家が、まさに朝鮮を大きく搖るがした農民革命の種が初めてまかれた所である。上の方向に伸びるものの中で、最も偉大なものは種子だ。かつて、その種をまきながら新しい世界を夢見る人たちがいた。彼らは、互いの目を見つめ合いながら決死の抗戦を誓い合った。その決意の結晶が、チョン・ボンジュン、ソン・ファジュン(孫華仲、1861~1895)、キム・ゲナム(金開男、1853~1895)など、22人の名前が書かれた一枚の「沙鉢通文」である。 沙鉢通文は、主謀者が分からないよう、沙鉢(どんぶり)を俯せて描いた円を中心に参加者の名前を放射状に書いて支持者に知らせるための文書だ。円型に座れば地位の上下関係が判断しにくい。中世ヨーロッパの円卓会議とも似ている。

この沙鉢通文は、東学農民革命が偶発的な出来事ではなく、長らく続いた暴政に抵抗するための草の根・民衆による計画的な事件だったことを証明する。同文書に書かれた4つの行動指針も、「全州監営(全羅道の行政府)を陥落し、ソウルへ直ちに向かう」という一種の戦争宣言文だった。ところで、この革命軍の極秘文書が今まで保存されているというのは奇跡的である。この村に住む宋俊燮氏の家の床下に埋められていた文書が偶然発見されたのは53年前。当時、革命が失敗すると、政府の鎮圧軍が「逆賊の村」という理由でこの村の住民を無差別に虐殺し、家を焼き払ってしまった。沙鉢通文は、誰かが密かに埋めたからこそ現在に甦ったのである。

この家と向かい合っている家が、私を案内してくれた後輩の祖父の住んでいた家だ。この2軒の家を交互に見つめている後輩の目が涙ぐんでいるように見えた。心が波立った。私が敢えてここを先に訪れた理由は、126年前に斬首されたある革命家の息吹を感じ、黙祷を捧げたかったからである。ここからあまり遠くない場所に「東学革命謀議塔」が見えた。沙鉢通文の署名者たちの子孫が建立したものである。すぐ近くには「東学農民軍慰霊塔」もある。命を落とした数十万人の名もなき勇士達を称えるための塔である。古阜での1次蜂起(反政府闘争)は成功を収めたが、公州における牛禁峙の2次蜂起(抗日独立闘争)は惨敗に終わった。朝鮮軍と日本軍の銃に農民軍は全滅した。竹槍などが銃に敵うはずがなっかったのだ。

慰霊塔の前に白いご飯一膳が置かれている。このご飯のために飢えた農民たちがつるはしと鎌を高く掲げたのだ。マスクを分かち合うように、ご飯も分かち合わなければならない。広大な野原を眺めると、ソウルへ進軍する東学農民軍とローマに向かって進軍する指導者スパルタクスの率いる戦士達の姿が重なって見える。二つの革命はいずれも斬首された。「手ぶらでも握れば拳になる」と叫びながら戦ったスパルタクスの奴隷たち。あれ程切望していた奴隷解放を成し遂げ、自由を得たにもかかわらず、彼らが自嘲的に吐き出すあの絶叫が私の胸を引き裂いた。「金がなければ自由もない」。まさにそうである。腹を満たす飯のない自由など死にほかならないのだ。食事にも事欠く自由しか持っていない弱者なんて、ただの奴隷に過ぎない。数千年が経った今も、状況は当時とさほど変わっていない。ただ、現代版の奴隷は足についていた「足かせ」が心の足かせに変わっているだけである。

毎年3月下旬になると、国内最大の椿の群落地である禪雲寺周辺の椿のつぼみが開き始める。深紅の花びらと光沢ある緑の葉が千年の古刹を背景に、一幅の絵のような美しい景色を作り出す。

禪雲寺の大雄殿の向かい側に開放型様式で造られている萬歳楼は、説法のための講堂として建てられた。この寺の記録によると、1620年に建てられた当時は大陽楼と呼ばれたが、火災で焼失し1752年に再建されて以来、萬歳楼と呼ばれるようになった。天井の大梁や垂木、柱を保存してそのまま使っているのが特徴である。

海からの贈り物
そんなことを考えていると、胸が苦しくなってきた。トンネルの中に閉じ込められたように息苦しかった。高敞の支石墓遺跡に向かう途中で、あの重い石に私の胸を押さえつけられそうな気がして、禪雲寺の方へと方向を変えた。森閑とした寺へ行って、気持ちを落ち着かせて心の中の埃も洗い流したかった。しかし、いざ到着すると、お寺は椿を見に来た人々で溢れていた。椿の花は、兜率庵(トソルアム)の岩の絶壁に刻まれた磨崖仏と並んで禪雲寺を代表する象徴のひとつである。

禪雲寺(ソンウンサ)は、577年、百済の黔丹僧侶と新羅の義雲僧侶が創建した寺院である。当時、両国は戦争中で多くの避難民が発生した。敵国の国民ではあったものの、二人の僧侶は避難民たちを救済するために力を合わせて寺を建て、そこに生活共同体を築いた。飢えている人たちの生計を助け、孤児たちの養育と教育にも努めた。この寺はもともと難民救済所だったのである。それから約1300年後、農民軍が兜率庵の磨崖仏の前で革命の成功を祈ったのもそのような背景があったからだった。このような思いに耽ながら、大雄殿の裏手にある鬱蒼とした赤い椿林の間を行き交う僧侶たちをじっと眺めた。

寺を出て海辺に走った。扶安(プアン)の邊山半島にある格浦港と向かい合っているドンホ海水浴場とクシポ海水浴場が位置する明沙十里である。一直線に1km以上も続く美しい砂浜に沿って、樹齢数百年の松の木が鬱蒼と茂っている。若芽のような春風が吹くたびに、松の香りに耳を洗う。松林の風の音は茶の沸く音に似ている。

白い砂浜の向こうに干潟が果てしなく広がっている。韓国の西海は、世界でも干満差が大きいことでよく知られている。海が陸地になり陸地が海になるここでは、日々それが繰り返される。今私が立っている地はやがて海になる。広々と広がる干潟を見ていると、海をひときれ取って塩田を作ったという人物が思い浮かんだ。文禄・慶長の役(1592~1598) 当時、李舜臣(イ・スンシン、1545~1598)将軍は軍需品が底をつくと、海辺の一部に大きな釜を作って海水を注ぎ、それを蒸発させた。こうして大量生産された塩を売って数千トンの兵糧を手に入れたのだ。彼は優秀な戦闘指揮官であり、明敏な経営者でもあった。

ここの海水は塩度が高く、皮膚病や神経痛患者が利用する海水浴や砂風呂としても有名だ。周辺に大規模な塩田が多いのもそのためである。松林の上の丘から海を眺めていると、思わず裸足で長い砂浜を歩きたい衝動に駆られた。靴と靴下を脱いで砂浜を歩いた。裸足が冷たい砂に触れるたびに新しい感覚器官が作られるような驚きを感じた。白い砂浜を散歩しているうちに日が暮れ始めた。夕焼けが椿の花が落ちる直前のように官能的で荘厳だった。

高敞を訪れた以上、夕食のメニューは定番の風川長魚(うなぎ)焼きと覆盆子(ボクブンジャ、ブラック・ラズベリー)の酒 。この地域の名物である「風川長魚」は海と淡水が混じりあう場所で獲れる。健康食としてよく知られている。「馴染みの客だけが訪れる」といわれる、繁華街から外れた野原の片隅にある食堂へ向かった。庭も室内も広々としている「兄弟水産 風川長魚」という名前の食堂である。主人が直接焼いてくれる堅炭焼きうなぎのタレが一味違う。タレには、漢方薬草、穀物酵素、薬草酒などおよそ200種類以上の材料が入っているという。旬のおかずも食材も、すべて有機栽培だという。自家製の覆盆子酒も実に素晴らしかった。うなぎと酒が調和を成し、すでに停止した成長細胞が再開するかような味だった。

芽高敞郡の孔音面にある鶴園農場一帯の青麦畑は、毎年春になると50万人が訪れる観光名所である。ここで開催される青麦畑祭りは地域最大のイベントだが、昨年から新型コロナで行事開催が暫定的保留となっている。

青麦畑一帯の位置を示す小さな将軍標(魔除けのための境界標)。案内板を兼ねた様々な将軍標が、約30万坪規模の広い青麦畑周辺のあちこちに立っている。

花は咲いてこそ実を結ぶように、美しさを捨ててこそ、新しい生命が誕生する。今さらながら、春の雨に濡れゆく野原の新芽に驚かされる。今回の紀行は、新しい風景を見つけるのではなく「新しい目」をもつ旅だった。

高敞郡には約1,600基の先史時代の支石墓(ドルメン)が分布し、韓国最大の支石墓群を形成している。 高敞の支石墓遺跡は和順、江華遺跡と共に2000 年にユネスコに世界遺産として登録された。

毎年春から秋にかけて週末には、高敞邑城前の庭で高敞農楽公演が繰り広げられてきた。 邑城の前には、朝鮮後期のパンソリの大家、申在孝(1812~1884)の生家があり、ここでも伝統音楽の公演が開催されたが、新型コロナのため昨年からすべての公演と行事が中止されている。

支石墓群
翌朝早く、町内の支石墓展示場を見て回って大山面(テサンミョン)へ向かった。天然の歴史が息づく原型そのままの支石墓と対面したかった。村の入口から大山の中腹へ向かう細道は支石墓(ドルメン、新石器時代-初期金属器時代の巨石墓)だらけだった。大きな山がまるで屋外の先史博物館そのもののようだった。支石墓にはそれぞれ番号が付けられていて、上の方に向かうにつれて数字が低くなっている。山の頂上にある1号を直接見たかったが、疲れすぎて仕方なく諦めた。

朝鮮半島は世界の支石墓の6割を占めるといわれ、中でも高敞遺跡は1600基余りで世界最大の支石墓群を成している。その形式も独特かつ様々で、支石墓の築造過程の変遷を明かす重要な資料として2000年、ユネスコに世界遺産として登録された。高敞は群全体が文化遺産だと言っても過言ではない。2013年には美しい自然環境と生物資源の多様性が認められ、郡全体が「ユネスコ指定生物圏保全地域」にも指定されている。

午後には疲れた足を引きずって鶴園農場の青麦畑を訪れた。時期的にはまだ少し早いが、毎年4月になると周辺の菜の花も咲き乱れ、年間数十万人が訪れる観光名所である。青青と若芽が出る畑の堤の間を歩きながら、もう高敞旅行はここまでにしようと考えていると、急に雨が降り出した。花は咲いてこそ実を結ぶように、美しさを捨ててこそ、新しい生命が誕生する。今さらながら、春の雨に濡れゆく野原の新芽に驚かされる。今回の紀行は、新しい風景を見つけるのではなく「新しい目」をもつ旅だった。

高田里塩田村

雲谷ラムサール湿地

高敞支石墓博物館

高敞パンソリ博物館

イ・サンハ 李山河、詩人
アン・ホンボム 安洪範、写真

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