韓国の仏教が善を重視するという意味で、「曹渓山は」歴史的に大きな意義を持つ。朝鮮半島南西の端、全羅南道順天にあるこの山の東と西に位置する松廣寺(ソングァンサ)と仙巖寺(ソンアムサ)は、比丘僧(男性の出家修行者)と火宅僧(妻帯僧)それぞれの教団を代表する叢林(禅宗寺院)である。この二つの寺院をつなぐ山道には、信者と登山客の足が絶えない。
曹渓山の東側の山裾にある仙巖寺と西の麓に位置する松廣寺をつなぐクルモクジェという峠は、約6.5キロに及ぶ山道で、かつて、二つの寺院の僧侶たちが往来しながら自然に作られたものである。最近は、毎年数十万人の観光客がこの道を訪れている。
クルモクジェの峠道に立っている将軍標。村の守護神としての役割を果たす将軍標は、ほとんどの場合、町の入口に建てられるが、たまに道端に建てられ道しるべの役割をすることもある。
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慰安
曹渓山の頂上から南の方角を見下ろすと、順天市が誇る順天湾湿地が広がっている。曹渓山が多様な樹種で構成された広葉樹林に覆われるようになったのは、この南海の海辺から吹いてくる高温多湿な風の影響が大きい。この鬱そうとした山中にある二つの寺を東西に結んでいる約6.5㎞に及ぶこの山道が、われわれの今回の目的地である。
大きな山を間に挟んで両側の山裾にほぼ同じ大きさの寺が建てられるのは珍しいことではないが、二つの木造の寺が歴史の波風を耐え抜き、完璧に保存されているケースはかなり珍しい。地図では、東の斜面にある仙巖寺の方が曹渓山の頂上から近く、二つの寺は山腹の道を共有しているように見える。だが実は、この山道を切実に必要としていたのは松廣寺の方だった。南東側の順天市内に行政や交通、市場などの生活圏が形成されている松廣寺入口に住んでいる外松村の住民にとっては、仙巖寺の前を通過するこの山道が順天への近道だからである。もちろん、松廣寺から曹渓山を迂回して順天を往復するバスの便が乏しかった頃の話である。今では、順天駅前と松廣寺をつなぐ111番の市内バスが30分おきに運行している。
曹渓山は、1980年代に道立公園に指定されて以来、せいぜい薬草を採る人か火田民(焼畑農業を行う農民)、あるいは先を急ぐ近隣の山里人が往来していたこの山道が、日帰り登山コースとして口コミで広まり、年に40万人もの人々が訪れるようになった。仙巖寺と松廣寺は、山中でよく見かけるような普通のお寺ではない。いずれも千年に及ぶ長い歴史を有する古刹であるだけでなく、講院と禅院をすべて備えている名の知れた有数の叢林である。松廣寺は韓国を代表する三宝寺院のうち最も高僧を多く輩出した僧宝寺刹で知られている。一方の仙巖寺は韓国の仏教文化を継承して保存してきた文化的価値が認められ、2018年にユネスコ世界文化遺産として登録されている。
それ故か。高僧大徳でなくとも、世俗での縁と煩悩みを振り払い、新たな悟りを求めてこの山道を行き来したであろう修行者たちの足跡を辿る――と考えただけでも登山客のテンションは高まる。いつもながら、足取りが遅くなる登り坂で、影さえ脱ぎ捨てたい衝動に駆られ荒い息をたてる病弱な旅人であれ、道をたずねる人に知ったかぶりをしながら、まるで用事を果たすかのように急ぎ足で進む熟練の山岳会メンバーであれ、山道でしばし道連れになった彼らはそれぞれの事情はさておいて、申し合わせたかのようにこの林道が与える慰安と癒し、そして興奮を伝えあう。道の上に転がる小石一つ、名も知らぬ野の花一輪も、彼らにとっては軽んじることができないものばかりである。しかし、慰安はいつも暫定的だ。
花崗岩で造られた半円形の橋「昇仙橋」を渡ると仙巖寺の境内である。橋の下から見上げると、精巧につながっている丸い天井の真ん中に刻まれた龍頭のレリーフが目を引く。仙巖寺は「韓国の山寺」7カ所のうちの1つで、2018年にユネスコ世界文化遺産として登録されている。
松廣寺にある三淸橋は、仙巖寺の昇仙橋より規模は小さいが、それなりに美しい趣のある橋である。その上に建てられた羽化閣を通り過ぎると寺の中庭に出る。
仙巖寺と松廣寺 は、山中でよく見かけるような普通の山寺ではない。いずれも千年にも及ぶ長い歴史を有する古刹であり、講院(経典教育機関)と禅院(禅修行の専門道場)がすべて備わっている名の知れた有数の叢林である。
仙巖寺の大雄殿の前庭には統一新羅時代に建てられた石塔2基が左右に配置されている。2段重ねの基壇の上に3重の塔身を積み上げた石塔は宝物第395号に指定されている。
松廣寺は、海印寺や通度寺とともに韓国の三寶寺刹の一つであり、16国師を輩出した僧宝寺刹で知られている。
羽化閣の左側に連なる臨景堂は、松廣寺内でも優れた景観を誇る場所の一つで、大きな窓があるため室内でも外の景色が楽しむことができる。
平和
順天駅を起点に、松廣寺を出発して仙巖寺の方に下りていくと帰り道が短縮し、逆に仙巖寺から松廣寺の方へと下りていくと、行きが短縮する代わりに帰り道が遠くなる。効率性だけでは簡単にコースが決められないあなたに、耳寄りな情報を贈ろう。
前日、例えあなたにどんなことがあったにせよ、仙巖寺の方の道を選ぶと、勢いよく流れる渓谷の流れに逆らってまっすぐ伸びた道と、その両側に力強くそびえ立つ檜の森が放つ新鮮な雰囲気に圧倒されるだろう。そしてその後、渓谷を横切る虹模様の石橋「昇仙橋」に目が止まった瞬間、あなたはすでに浄土に立ち入っているのである。春なら、大雄殿の裏の石垣に沿って咲き乱れている色鮮やかな梅の花を見ることもできる。そのほとんどが樹齢400年を超える在来種の梅の木で「仙巖寺古梅」と呼ばれている。季節的に少し手後れだとしても躊躇せずそこへ向かってみよう。梅の代わりに華やかな桜があなたを歓迎してくれるだろう。
寺の一柱門で私たちを迎えてくれたのは、千里まで届くといわれる銀木犀(ギンモクセイ)の花のかぐわしい香りだった。餅をつくうさぎと共に月に住むという、あの伝説に出てくる月の桂がこの木である。庭は小さな白い花びらでいっぱいだった。仙巖寺の秋の挨拶である。私にはやや高くみえる門と池、そして大きくも小さくもない建物が花の木々を避けてびっしり立ち並んでいるのが仙巖寺である 。
松廣寺の三淸橋は、仙巖寺の昇仙橋と肩を並べると知られているが、それでは何か物足りないとでも思ったのか、橋の上に羽化閣という家を建てた。松廣寺の渓谷でしか見られない独特な見どころであると同時に憩いの場でもある。誰一人見てくれる人もいない深い山奥で孤独に育ち、バラバラになって渓谷に沿って流れてきた色とりどりの落ち葉が、羽化閣の下に重なって沈んでいる。水の色が冷たい。松廣寺の中心となるのは大雄殿の前に広がる広い庭である。仙巖寺を出発し夕焼け時に松廣寺に着いたなら、できるだけ高いところに登って松廣寺を見下ろしてみよう。山裾の間でかすかな残光が薄暗い寺の屋根瓦を照らす時のその静けさは、長く心に残るだろう。松廣寺のこの節度ある構成は、朝鮮戦争で廃墟と化した後に復元された風景である。いずれの寺を出発点とするにせよ、少しでも長く留まってほしい。平和とは常に暫定的なものだ。
クルモクジェを越えて下り坂に差し掛かると、開業40年の老舗である麦飯屋が現れる。いろんな種類のナムルにコチュジャンとごま油を入れてごしごしと混ぜて食べる麦ご飯は、この道を訪れる人々に大きな楽しみを与えてくれる。
松廣寺の裏山には「仏日庵」と呼ばれる小さな庵がある。仏日庵は、実直な修行者として崇められた法頂和尚(1932~2010)が1970年代半ばから1990年代初めまで過ごした場所である。ここで彼の代表的な随筆集である「無所有」が執筆された。
クルモク峠の麦飯屋
仙巖寺を出発してヒノキの森を通過し、虎が岩の上で頬杖をついてそこを通る人たちを善人か悪人か見張っていたと伝わる岩を過ぎると、最初に見える峠が「クルモクジェ」である。曹渓山の頂上が北に見えるこの区間はかなり急な傾斜面となっているが、この峠道を越えるとすぐ緩やかな道が広がる。逆に、松廣寺の方から出発すると、しばらく渓谷に沿って登り、途中で丈夫な木の橋をまるで石橋を叩くかのように渡り、――道を塞ごうと転がり落ちる岩を、ある僧侶が道力で止めた――といわれる伝説の岩を通り過ぎると、クルモクジェと記された表示石に出くわす。仙巖寺の方から登る峠は「大きなクルモクジェ」、松廣寺の方から登る峠は「小さなクルモクジェ」と呼ばれているが、この峠が湖南正脈の曹渓山噴水嶺である。東の斜面に流れる水は順天湾へ、西の斜面に流れる水は筏橋の沖合へとつながる。
この峠を過ぎて下り坂に入ると、思いも寄らない麦飯屋が出現する。欧州の黒いライ麦パンと韓国の麦飯は、同じ社会的カテゴリーに該当する。白い小麦のパンと米飯が少数の「ある程度経済的に余裕のある」人たちの食糧だったとすれば、ライ麦パンと麦飯は長い間、多くの貧しい人々が飢えをしのぐための食糧だった。もちろん、今では郷愁を誘う味、健康のためのウェルネスフードとして楽しむ人も多くなっている。
かつてここは、渓谷の下方にある壯安村の火田民の住居址を補修し、避難所としての機能を兼ねていた場所だったが、今では曹渓山登山コースのお食事付きパッケージのように思われるほど、麦飯屋をそのまま通り過ぎる人はほとんどいないという。釜で炊いた麦ご飯に、その辺りの山で採れた山菜、家庭菜園で育てた青菜のおかず、干した菜っ葉の味噌汁など素朴な飯ではあるが、海抜600mの峠道を2、3時間も歩いてきた人たちには最高の料理である。壯安村の方から登ってきて、麦飯を食べて、再び三々五々に山道を歩いて帰っていく人たちもたまに目につく。壯安村の頂上まで路地をくねくねと車で上り、その後20分ほど山道を歩いて登る道がクルモクジェの麦ご飯が味わえる最短距離である。
取り立てて言うほどの味ではないが、誰だってあっという間に料理を平らげてしまうという点で「一番おいしい麦飯屋」という賞賛も受けている。昔も今も、麦ご飯の満腹感はあまり愉快なものではない。普段よりたくさんの量を食べたり、すぐに消化されて腹持ちがよくないからではなく、飢えという自然の本性からやっと抜け出すためのこの行為に、何となく慣らされているのではないかという自己反省をしてしまうためである。
楽安邑城
ドラマ撮影ロケ地
順天湾国家庭園
順天湾湿地
歴史
すべての道は暫定的だ。慰安と平和、満腹感のようなものだと考えてもいい。通り過ぎる人々を見張りながら座っていたという虎の岩の話や、道を塞ごうとする岩を僧侶の道力で止めたという伝説は、単なる物語ではない。その話の中には、千年以上の歳月の間に何度も途絶えたり再現したであろうこのクルモクジェを越える道の歴史が込められているのである。
韓国現代史において「パルチザン」という用語は、主に韓国で自生的に組織され活動していた社会主義武装遊撃隊を意味するのだが、曹渓山は彼らの根拠地の一つである智異山とつながる主要通路であり、活動拠点でもあった。松廣寺からあまり遠くないところにある「ホンゴル」という渓谷は、朝鮮戦争当時、パルチザンの隠れ家として、彼らが最後まで猛烈に掃討作戦を繰り広げた場所である。この作戦で、当時松廣寺で暮らしていた高齢者が多数殺害される事件も発生した。その時代を生きた人たちが、各自の信念と生存のために必死に追いかけ、追われた道が、今ここで紹介した道の一部なのだろう。
さらに根本的・持続的な葛藤を巻き起こす事件は、その後発生した。朝鮮戦争直後の1954年、当時の大統領・李承晩(イ・スンマン)は、何故か「火宅僧は日本帝国の残滓であり、退出しなければならない」と主張した。韓国仏教には、妻のいる僧侶である火宅僧を容認する伝統がなかったが、朝鮮時代後期、抑仏政策のもとで経済的に厳しくなった寺院を管理する者を僧侶として扱う風習があった。そして日帝強占期には、明治維新以来キリスト教牧師のケースに倣って火宅僧を認許するようになった日本仏教の影響を受け、解放される頃には既婚の僧侶の数が比丘僧の数をはるかに上回っていた。
僧侶の身分であり詩人でもある韓龍雲(ハン・ヨンウン、1879~1944)は、『朝鮮仏教維新論』(1913)で「肉体を持って生まれながら、食欲や色欲がないというのは虚言にすぎない」と記し、僧侶自ら欲望を計り、結婚について自由に決定するべきだと主張した。仏教界で自主的に解決すべきだったことに国家の権力が乗り出して干渉したのは、朝鮮戦争による寺院の物的被害よりさらに大きな不運となった。結局、この紛糾は1969年、大法院(日本の最高裁)がすべての宗権は比丘僧にあると判決することで終わり、これに反発した僧侶たちは新たに韓国仏教太古宗を創宗した。仙巖寺がこの太古宗の総本山であり太古叢林と呼ばれ、一方の松廣寺は、比丘僧で構成されている曹渓宗の叢林なのである。これにより、松廣寺と仙巖寺の僧侶たちが互いに師匠と道伴(信仰の友)を訪ねて行き来しながら、教えを授け受けし交流した時代は、幕を閉じた。寺院をめぐる財産権紛争は今も進行中である。
縁
松廣寺の早朝の礼仏は敬虔で荘厳である。その音の荘厳さと音楽性を瞑想音楽に発展させたのは、国楽芸術家の金永東(キム・ヨンドン、1951~)氏である。彼は松廣寺の四物(法鼓、木魚、雲版、大鐘)と礼仏文、発願文、般若心経に大芩と小芩を調和させ、シンセサイザーを適切に取り入れ『The Buddhist Meditation Music of Korea 禅』(1988)という一編の日常系の音楽を完成させた。グレゴリオ聖歌のような教会音楽を普段楽しんでいる人なら,このアルバムの最後のトラックに収録されている「般若心経」を聴いてみよう。ニューエイジ・ミュージック(癒しの音楽)の影響を受けた一般的な瞑想音楽とはまた違った新鮮な感動を覚えるだろう。2010年レコーディング・エンジニア専門家、ファン・ビョンジュンによって録音されたアルバムは、礼仏の中の水や風の音といった自然の音を完全に排除し、長い歴史的木造建物の中の響きを生かしたという。ファン氏の音楽は、跡形もなく消えていく時間の中に徹底的に私たちを封じ込める。
一方、キム・ヨンドンの作品は、潜んでいる自然の音を引き出すという点で異なり、私たちを新しい空間に留まらせるのがキム・ヨンドン氏の魅力といえる。
キム・ヨンドン氏は、自分がこのアルバムを制作するきっかけになったのは、松廣寺内にある佛日庵に住まわれた法頂和尚(1932~2010)との出会いの縁があったためだと話している。法頂は「無所有」という思想とそれに相応しい生涯を過ごし、宗教を越えて多くの人々から尊敬された。「無所有」という漢語で本質的な意味素(sème)は「有」である。「有」は「手で肉を握っている」形の甲骨文字が進化した文字だ。今年は法頂和尚の入寂から10周忌となる年である。今も佛日庵の前に静かに置かれているクヌギの薪で作ったといわれる椅子には、持ち主だった和尚の代わりに枯れた木蓮の葉が腰を下ろしている。おそらく彼がこれを見たなら葉っぱにこう話しかけたかもしれない。「今までご苦労さん」