「道とはここからあそこに至る行路である」(道者自此之被之路也)。丁若鏞(チョン・ヤギョン、1762~1836)が『中庸自箴』(チュンヨンザザム)で下した定義である。朝鮮王朝後期を代表する儒学者の思惟から、このように平凡な定義がつけられた理由が気になるならば、あなたは当時の事情を垣間見ることのできる位置にかなり接近したようだ。あと一歩さらに踏み出せば、彼の焦りと苦しみの嘆きが聞けるかも知れない。
京畿道坡州市広灘面龍尾里(キョンギド・パジュシ・クァンタンミョン・ヨンミリ)には、17.4mにも達する素朴な磨崖二佛立像が山腹から町を見下ろしている。11世紀高麗時代に作られたものとされる石仏立像は、宝物第39号であり、遠くからでも目立つので、義州路(ウィジュロ)を行き来する昔の旅人たちにとって道しるべになった。
儒教の経典に書いてある道とは、人間の本性に従うこと(率性之謂道、『中庸』)と、暮らしに内在した理を見極めること(大学之道、在明明德、『大学』)の、二通りの意味にとれる。朱子(1130~1200)は、道を「人として行うべき正しい道」(当行之理)と定義した。朱子学が究極的に明らかにしようとしたのは、人間と事物に内在する絶対的かつ先験的な原理である。
ソウル西大門区峴底洞(ソデムング・ヒョンジョドン)の大通りにある独立門(トンニムンムン)は、1897年外国の攻撃から国を守ろうとする国民からの募金によって建立された。本来この場には、朝鮮時代に中国の使節を迎えていた迎恩門(ヨンウンムン)があったが、事大主義の象徴であるという理由で独立教会によって取り払われ、代わりに独立門が建てられた。
「道」と「道路」
これを統治哲学として掲げて建てた国が朝鮮王朝(1392~1910)だ。だが朝鮮の儒家たちは覇道政治に歯止めをかけることができず、厳しい身分制度は社会の不均衡と不平等の高まりにつながった。2度にわたる外国勢力の侵攻に簡単に屈してしまった。18~19世紀を生きた丁若鏞(チョン・ヤギョン)は、形而上学原論に偏っていた「道」を実践の範囲、つまり生まれてから死ぬまでの暮らしを営む過程、または社会的な発展の過程として解釈することによって、支配層の反省と現実改革の意志を表明した。
自己修養という、型にはまった儒学から脱し、国の根幹をなす農民たちの生活の安定と土地改革を唱え、商業と流通を新たな活路として提示した丁若鏞らは、17世紀後半から登場しはじめた実学者である。彼らの主張は、英祖(ヨンジョ:李氏朝鮮の21代国王)・正祖(チョンジョ:22代国王)という卓越した君主によって積極的に受け入れられ、朝鮮に大きな変化をもたらした。このような流れに呼応して、さまざまな著書や多くの政策提案書が相次いで出された。なかでも、あまり知られてはいないが、シン・ギョンジュン(申景濬、1712~1781)の『道路考』(1770年発行)はユニークな人文地理書である。
この本は、朝鮮の陸路・海路はもちろん、国境と王の行幸通りに至るまで、あらゆる交通情報を盛り込んでいる上、当時国境貿易が行われていた「開市(ケシ)」という公設市場の情報まで収めた付録付きだ。著者は序文で市場が大いに繁盛し、道路の利用者が増え、利用者層も商人と庶民に拡大すると、彼らのための道路網を体系的に管理することこそ、国の役割であることを強調した。さらに、彼は「道とは、そもそも主人がなく、道の上にいるすべての人が道の主人」(路者無主而惟在上之人主之)という意味深い言葉を残した。シン・ギョンジュンは道路を、自主的・民本的な儒学の理想を実現する現実的な手段であり、究極の目標として位置付けた。おそらく資本の収奪を防ぎ、流通を活性化させることこそ、真の「道路」あるいは「道理」だと考えたのではないだろうか。
燕行の道
惠蔭院 (イムンウォン )は高麗時代以降、開城(ケソン)とソウルを結ぶ重要な交通路であった惠陰嶺を通る官僚の便宜をはかるため建てられた国立宿泊施設だ。1999年、坡州広灘面で「惠蔭院」という文字が刻まれた軒瓦の発見により、その正確な位置が確認された。現在でも多くの遺跡と遺物が発掘されている。
シン・ギョンジュンは、この本で朝鮮の道路の根幹を6大路に分けたが、そのうち第一路が義州路(ウィジュロ)である。漢陽(ハニャン、朝鮮王朝の都)から出発し、北の方に開城(ケソン―黄州(ファンジュ)―平壤(ピョンヤン)―安州(アンジュ)―定州(チョンジュ)を経て、鴨緑江(アプロクガン)沿いの義州につながる、この道を第一路にした理由は、漢陽と平安道の監営(カミョン、道の役所)をつなぐ管路としての機能と役割に加え、中国と交流していた道路だということに着目したようだ。大国に仕え、隣国とは平和な関係を築くという朝鮮の政策による中国との朝貢と冊封体制は、開国初めから1894年までの約500年間続いた。義州路はその交流が行われていた唯一の陸路だった。
この道は、辛うじて近代化に向けての第一歩を踏み出した大韓帝国末期から日本植民地時代を経て新道に代替されたが、南北分断が固着化して義州路につながる大部分の都市は北朝鮮地域となった。漢陽から義州までの総距離は1,080里、すなわち約424㎞に当たる。ところが現在、ソウルから非武装地帯(DMZ)の南方限界線まで旅行者が自由に行ける所をインターネットで検索すると、最短距離45kmのタクシー料金は4万ウォン程度だ。もちろん、これも昔の道路のままではない。
45kmは、朝鮮時代の燕行使(朝鮮が清の北京に派遣した国家使節)たちの足では3日かかる距離だ。16世紀末の壬辰倭乱(文禄の役)の際に、日本軍が中部内陸地域の忠州(チュンジュ)城を超えたという報告を聞き、慌てふためいて漢陽を捨てて逃げ出していた宣祖(ソンジョ、14代王)の足では、1日あれば足りる。
臨津江(イムジンガン)沿いの崖の上に位置した花石亭(ファソクジョン)は、朝鮮時代の大学者であった栗谷李珥(ユルコク・イ・イ)の5代祖父イミョンシン(李明晨)が1443年初めて建て、李珥は官職から退いた後、ここで弟子たちと学問を論じて余生を送った。花石亭の下にある臨津船着場は、南北分断後に鉄条網に遮られたが、過去には北に行く主要な道であった。
初日、敦義門から碧蹄館まで
「朝食をとってから家君を伴って弘済院(ホンジェウォン)に到着すると、身分の高い者から低い者まで送別する数十人が目に入った。王様が自ら送別会のためのおもてなしをされた。日が暮れて家君と別れ、高陽(コヤン)へ向かった。夜遅く高陽に着いて寝た」- ホン・デヨン(洪大容)『燕記』
義州路は敦義門(トニムン)から始まる。西大門(ソデムン)と呼ばれていたこの門は、1915年日本帝国によって撤去され、今では痕跡すらないが、ソウルの旧都心の西側の慶熙宮(キョンヒグン)から独立門(トンニンムン)方面へ進む坂道のあたりだと推測される。キョムジェ・チョンソン(謙斎 鄭敾、1676~1759)が、1731年に描いた『西郊餞依図』(ソギョジョンウィド)には、敦義門の外の慕華館(モファグァン)で餞別宴(別れの宴)を終えた中国使臣の行列が、迎恩門(ヨンウンムン)を通り過ぎる姿が描写されている。開化運動を主導していたソ・ジェピル(徐載弼)は日清戦争直後、清との関係を断ち、西欧文物を積極的に受け入れるべきだと主張し、募金運動を展開した。また、1897年11月中国の使臣を迎え入れた迎恩門を壊し、その跡に独立門を建てた。
ホン・デヨン(1731~1783)が1766年に書いた清旅行記『燕記』から感じられる感情は、豪気と恥である。当時中国は乾隆帝時代で、いわゆる康乾盛世の最後の治世を享受していた時期だった。朝鮮が清に屈して100年を遥かに超えたが、朝鮮では開放を通じて世界的な帝国として台頭した清に背を向けたまま、依然反清、華夷思想にこだわっていた。北学派(実学者)と呼ばれるホン・デヨンをはじめ、有識者たちはこの思想に疑問を呈し、直接その実状を把握する機会が来ることを待ちわびていた。北京のカトリック教会堂で初めてパイプオルガンに接し、その場ですぐ自分のコムンゴ(朝鮮の伝統弦楽器)曲をパイプオルガンで演奏するほど豪気な姿勢を見せたが、彼は旅行の間ずっと何が真の恥なのか、また何を恥じるべきかを自問自答していた。
義州大路の一番目の院(旅行者向け国立旅館)である弘済院に行くためには、虎が頻繁に出没する険しい毋岳(ムアク)峠を越えなければならなかった。今でこそ、山を削って平たく広げ、緩やかな傾斜をもつ大路になったが、朝鮮時代には馬一頭が辛うじて通れる程の狭い道だったという。戦略的な判断もあっただろうが、主要都市が江と海につながるほど、十分に発達した水路を挟んでいた地形によるところも大きい。
弘済院一帯は、鬱蒼とした松の木や弘済川の渓谷が美しい景観となり、使節団のための餞別宴を開くには、もってこいの場所だった。公式の使節団は30人前後で、馬子と下男、貢物を運ぶ人夫たちを加えると、総員は少ないときで300人余り、多いときは500人余りを超えた。さらに、餞別宴に集まった数十人の家族と身内、見物人まで合わせると、当時としては大変な人込みだったはずである。今の仁王(インワン)市場は、当時餅を売っていた餅廛巨里(ピョンジョンゴリ)が進化した結果とみられる。
王が下賜した食べ物とお酒で盛り上がると、扇子や筆、燭台やカルモ(雨具)などを餞別として贈った。日が暮れる前に最初の宿である碧蹄館(ピョクジェグァン)まで出かけるには、宴会はほどほどに席を立たなければならない。
漢陽(ハニャン)から義州(ウィジュ)までの総距離は1,080里、
すなわち約424㎞である。しかし現在では、ソウルから非武装地帯(DMZ)の南方限界線まで旅行者が自由に行ける所をインターネットで検索すると、最短距離45㎞のタクシー料金は4万ウォン程度だ。もちろんこれも昔の道路のままではない。
二日目、碧蹄館から坡州官衙まで
臨津江上流の斗只ナル(斗只船着場)では、黃布(ファンポ)帆船が遊覧客を載せて高浪浦の浅瀬付近まで往復6㎞を往来する。朝鮮時代の黃布(ファンポ)帆船の原型を生かし、2004年3月から運航を始めた。これによって朝鮮戦争休戦後50年間も出入りが統制されていた臨津江に観光客が入れるようになった。
「随行員二人とともに恵蔭峴(ヘウムヒョン)を通り過ぎて、12時頃坡州(パジュ)に着いた。ウゲ・ソンホン(牛溪・成渾)先生が、先に手紙を送って返事を待っているが、わざわざここまで来ることはないと勧められた。私は直ちに家来を送って、感謝の手紙を差し上げて教えを仰いだ」- チョ・ホン(趙憲)『朝天日記』
碧蹄館から出発し、今の78番国道に沿って行けば、くねりながら急な峠を越えなければならないが、ここが高陽から坡州につながる恵蔭嶺である。高麗時代からソウルと開城(ケソン)をつなぐ近道として利用されていた恵蔭嶺は、道が険しいため恵蔭院という宿泊施設と寺院を設けて管理した。恵蔭院の跡地から坡州方面に2㎞ほど離れたところに、巨大な自然岩壁に彫刻して作った、二つの石仏立像が見える。この石仏の前には、力のない百姓たちが盗賊から身を守るため、群れを成して行き来していた道があったのだろう。使節の旅に発つ者は、この石仏の前で無事帰還を祈っただろうし、帰ってくる者は遠くからこの石仏を見てほっとしただろう。
素朴な石仏の視線が、今は向かい側の山すその共同墓地に止まっている。その左側からソウルの北漢山(プッカンサン)のふもとがかすかに見える
チョ・ホン(1544~1592)は、明の皇帝・萬暦帝の誕生日のお祝い使節団の一員だった。旅立つ前に墓参りをしたり、名高い学者のもとを訪れて教えを仰ぐことは珍しいことではなかった。坡州には著名な儒学者ソン・ホン(1535~1598)とイ・イ(李珥、1536~1584)が牛渓(ソヨウル)と栗谷(パムゴル)に住んで親しくしていたが、近所の金浦(キムポ)で生まれ育ったチョ・ホンは、この二人の指導を仰ぐ文人だった。後日、チョ・ホンはイ・イの学問を受け継いでおり、朝廷入りしてからは一生を直言に徹した。壬辰倭乱の1592年 (文禄の役が始まった年)に義兵700人を率いて、日本軍と戦って錦山(クムサン)で戦死した。
石仏の立像を通り過ぎると、ソン・ホンの墓と彼の功績をたたえる記念館がある。昔、坡州官衙があった場所に坡州小学校が建てられており、昨年は恵蔭嶺を貫通するトンネルが完工した。
三日目、坡州官衙から開城まで
「早朝、坡州(パジュ)を発って栗谷(ユルゴク)に至り、イ・スクォン(李叔献)のもとを訪ねた。スクォンは病気で寝込んでいた。長いこと待っていたら、スクォンが部屋から出てきたがひどく疲れている様子だった。彼と向かい合って座り、時事に嘆き、人心と道心、理気一元論など、様々な視点から意見を交わした」- ホ・ボン(許篈)『朝天記』(ジョチョンギ)
ホ・ボン(1551~1588)は、女流詩人ホ・ナンソルホン(許蘭雪軒)の兄であり、『洪吉童(ホン・ギルドン)伝』の著者ホ・ギュン(許筠)の兄でもある。イ・スクォンは、ユルコク・イイ(栗谷・ 李珥)の字(叔献)である。
彼の家を辞去した許篈は、ユルコクが通った花石亭(ファソクジョン)に足を運ぶ。
彼の家は建てて間もないようだが、まだ仕切りを立てておらず、地勢は険しい。ユルコクはこの町で家族全員が一緒に暮すことを願った。彼の気持ちがわかるホ・ボンは、わずか3カ月前に承旨(朝鮮時代の官職)から退いた大儒学者の貧しい暮らしぶりに憐憫の情を抱き、くねくねと流れる臨津江(イムジンガン)の向かいに聳え立つ山を眺める。
しかしその翌年、政治改革のあり方をめぐって士林(サリム:儒教の理念を重んじる地方出身の新進官僚)派が分裂すると、ホ・ボンは尊敬と憐憫の眼差しで仕えてきたイ・イと対立し、結局1583年職務上の過失を理由にイ・イを弾劾する。これを受けて、兵曹判書(ピョンジョパンソ:兵曹の長官)から退けられたイ・イは、持病が悪化して死去する。彼が残した財産は、書斎いっぱいの本といくつかの火打石だけだった。ホ・ボンもこの事件で流刑された後、政界に復帰できずに流浪のあげく38歳で客死した。
花石亭から遠くないところに、ユルコクの位牌を安置した紫雲書院(チャウンソウォン)とユルコク記念館がある。
高句麗の時代に建てられた瓠蘆古壘(ホロコル)は、 玄武岩の大地の上に築かれた三角形の形をした城壁で、現在残っている遺跡の周囲は約400メートルである。瓠蘆古壘があるゴランポー帯の臨津江は、6世紀中ごろから約200年の間、高句麗と新羅の国境の役割をなし、ここで高句麗と新羅、新羅と唐の間に熾烈な戦闘が繰り広げられた。
臨津ナル(イムジン渡船場)は、花石亭の左側の林に隠れた川辺にある。義州路が臨津ナルから川の向かいの東坡(トンパ)まで航路でつながった理由は、ここの川幅が狭くて水深が浅いからである。このため臨津ナルは、首都を防御する要衝地であり、事実上管理や使臣たちが利用していた管路だった。商人や一般の旅行者は、北側にある高浪浦(コランポ)まで上らなければならなかった。高浪浦は、西海岸の海産物と陸地の農産物が交易を行っていた臨津江の北側の最後の浦である。この高浪浦の上流にズボンの裾さえたくし上げれば、いつでも歩いて川を渡ることができる広い浅瀬がある。この浅瀬で、壬辰倭乱(文禄の役)の際には日本軍が川を渡っていき、朝鮮戦争の際には北朝鮮軍の戦車が下ってきた。近くに瓠蘆古壘(ホロコル)という高句麗の要塞があり、新羅の最後の王・敬順(キョンスン)王の墓があることからすると、三国時代にもこの道は重要な要路だったようだ。
この一帯は軍事地域ではあるが、臨津江上流の斗只里(トゥジリ)船着場では、黃布(ファンポ)帆船が遊覧客を載せて高浪浦の浅瀬付近まで行き、臨津ナルは生態系の観察が容認され、探訪路を非定期的に開放している。ここから非武装地帯を越えて開城までは40里、約15㎞弱の距離である。
臨津江(イムジンガン)北側の最後の浦である高浪浦(コランポ)は、船路を通じて農産物を運んでいた時代に、西海岸から入ってくる海産物と交易する舟渡しの役割をした。この浦の上流には歩いて渡れる浅瀬があり、昔から軍事的な要衝地だった。
四日目、未だ夢半ばの道
先人たちの燕行録を読む夜は、いつも夢で道に迷った。車が泥沼にはまってもだえ苦しみ、どこへ行けばよいかわからず一晩中うろたえた。その未明に向き合った文の一節を慰めとして書いてみる。
「完全な社会などない。それぞれ社会は、それが主張する規範と両立できないある不純物をそれ自体の中に、先天的に持っている。この不純物は、具体的にはとてつもない量の残忍、不正、そして混迷として表現される」- クロード・レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』